その場面を人が目にしたならば、大気圏に突入し燃え尽きる流れ星を連想したかもしれない。けれど彼女は空を見たことが無かったので、ただ愚かな行いとしか思われなかった。冥界の防御機構に阻まれながらも身一つで歩を進める人影は、摩擦熱で真っ白に燃えて、目を刺すように眩しかった。

 彼女は深く溜息を吐くと、巨大なガルラ霊の姿で自らを覆い隠した。そのまま冥界の虚空に浮き上がり、侵入者と対峙する。金の鎧が燃え落ちようという熱に苛まれているのに、彼の瞳はしっかりと女主人の姿を捉える。激情渦巻く赤い瞳に向かって彼女は問うた。
『何用か』
 低くしゃがれた死霊の声が冥界に響き渡る。身を焼かれながらも平然と彼は答えた。
「預かりものを頼みに来た」
 ふざけたことを、と彼女が口にするより早く、彼は胸に抱いていたものを高く掲げた。


 それは布に包まれた美しい人形だった。少年とも女性ともつかぬ無垢な顔立ちは、まるで午睡のまどろみの中にあるようだ。長い緑の髪の毛が炎の熱を受けて冥界の空を舞い遊ぶ。白糸と金糸を織り交ぜ仕立てられた薄く柔らかな布が、彼女に神々の婚姻の場面を想起させた。金糸で施された精緻な刺繍は、シュメルの神々が肉体に持つ紋様を模しているのだろう。
 人形の頬には炎の赤みが差していて、今にも目覚め動き出しそうだ。しかし冥界の女神である彼女の目には、焼き固められた泥の器の内部に満ちる、死の呪いが見えている。静止と固定、それこそが、かつて自由自在に変容する泥――うつくしいみどりのひと、と称賛された神の造りし奇跡の存在にとっての死なのだろう。

「神の手により死を賜った我が友は、天上からは見放され、さりとて地上にあってはならぬモノ。冥界の女主人へ告げる。我が願いを聞き入れよ」
 禁足地へ押し入っておきながら頭が高い、と一息に地上まで跳ね返すことも彼女にはできた。しかし彼女はその言葉の先に耳を傾けた。地の底から出たことの無い彼女は、死者としか触れ合ったことがない。万物は死して初めて彼女の目に映ることを許される。しかし彼女はその人形が、かつて歩き、喋り、笑う姿を知っていた。
「この死は我が友が生涯で唯一、己の力のみで手に入れたもの。旅を終えた友へ安寧の地を贈るなら、死の女神の治める庭以外にあるまい」

 彼らの冒険の顛末は、彼女も伝え聞いていた。神の差配で出会い、神の意向に逆らい、神の怒りに触れ、罰を受けたのだと。自分にはとても考えられない、と彼女は思う。「そう生まれついた」「そう命じられた」その一念でこの世の終わりまで空を目にすることはない自分…そのことに、寂しさこそあれ疑問は感じない自分には。
 王と女神の間に生まれた半神が、身を焼かれながら彼女の答えを待っている。彼が放つ白熱よりも、彼を突き動かす情熱、激情こそが、彼女の唇を開かせた。そういうものを彼女は知らない。未知なるものへの憧れは、嫉妬にも似て強く心を動かす。

『対価の用意は』
 それは半ば、了承の意味とも取れるだろう。彼女には、満身創痍の英雄王の瞳に、ほんの僅かな安堵が過ったように見えた。炎の息を吐きながら、しかし彼は堂々と告げる。
「我が父はウルク王ルガルバンダ。母は女神ニンスン。最高神アヌ、主神エンリル、水神エアの祝福に与り、太陽神シャマシュから美を、雷神アダドから力を得、女神ベレトイリにより完璧に形作られたこの身体。エレシュキガルが願いを聞き届けるならば、いずれ来る生の終わりに冥界の柱へ捧げよう」

『…なんと』
 絶句する彼女へ畳み掛けるように、滔々と彼は言葉を続ける。
「我は死を得た亡者の眠りを守り、水底の王として無明の世界を治めると誓う。我が死をもって神話の時代は幕を閉じ、地上に人の歴史が始まる。滅びた神代を引き連れて、我は冥界神の一柱となり、とこしえに地を支えよう」
 燃える英雄王の腕に支えられ、泥人形は永遠の静寂のなかにある。既に魂を喪っているから冥界に拒まれないのか…いいや違う、と彼女は思う。もとより人形は生者と見なされないのだ。だからこそ自分にまみえることができたのだ。

 英雄王の手が震えている。半神とはいえ生きながら焼かれる苦痛は生半なものではないだろう。それでも彼は耐えている。耐えて彼女の沙汰を待っている。そして願いが叶うのならば、死後の全てを捧げると。生死の概念さえ与えられぬ、ただの壊れた道具のために。ガルラ霊の幻影のなか、彼女は思わず顔を覆った。
『何に誓う』
「我が唯一にして永遠の友、天の鎖エルキドゥの名において」
 分かり切っていた言葉だが、それは何にも代えがたい輝きを持って、女神の心を震わせた。


 用意した寝台に人形をそっと横たえると、コトンという無機質な音が冥界の闇に響いた。ギルガメッシュの手からそれを受け取ったとき、あまりの軽さによる動揺を悟られまいとエレシュキガルは唇を噛んでいた。枯れ木のような…いや、上質な陶器のような。中身がからっぽの薄焼きの壺を持ち上げたような感覚に、思わず背筋が震えた。

「また会えたわね、エルキドゥ」
 ガルラ霊の姿を脱ぎ捨てて、エレシュキガルは手ずから緑の髪にそっと触れた。生者ならばけして出せない勇気だが、相手が死者である限りそれはエレシュキガルの所有物だ。さらり、さらりと指をくぐらせても、壊れた人形は何も言わない。だからエレシュキガルは一方的に語り掛ける。
「やっぱり魂が砕かれてしまったのね。…良かったのかもしれない。あなたに檻は似合わないもの」

 エルキドゥに魂があったなら、冥界の寒さで凍えぬように檻で保護しなければならない。けれど英雄王に託されたのは、がらんどうの体だけだった。意志も心も失った抜け殻を、エレシュキガルは慈しむように撫でる。
「ごめんなさい、ここにはあなたの大好きな草木がなくて」
 ひやりとした頬の温度は、陶器というより鉱物に近い。エレシュキガルは明るい声で言った。
「この寝台、水晶と瑪瑙で作らせたわ。冥界にも綺麗なものはあるんだから」

 無数の死者の魂が放つ青白い光が、貴石の寝台をうすぼんやりと照らしている。まるで石の一部になってしまったかのように、エルキドゥの姿はただ静謐だ。じっと見下ろしているうちに、エレシュキガルは簡素な貫頭衣の袖へ目を留めた。不自然な膨らみに触れたあと、袖の中に手を入れる。出て来たのは石でできた幾つかの器だ。布と紐で閉じられた口を、エレシュキガルは一つ開けてみる。

「蜂蜜…」
 もう一つ手に取り開けると、そちらからはバターが出て来た。冥界の空気で朽ちてしまわないよう、急いで手近な檻に入れながら、エレシュキガルは形容しがたい気持ちだった。あの傍若無人、傲岸不遜なギルガメッシュが、これを持たせたのだろうか。蜂蜜とバターに儀式的な役割はないだろう。あるとすればただ…たぶん、エルキドゥの好物なのだ。

 エレシュキガルはささやかな副葬品を仕舞った檻を、寝台の近くへ引き寄せた。すぐに物入れのための小さな檻を作ろうと心に決めながら、エルキドゥの枕元に座り込む。その耳元に肘を付き、冷えた横顔をしみじみと眺めた。
「なぜかしら。あなたは確かに死んだのに、私の物じゃないみたい」
 小さな呟きに言葉が返ることはない。エレシュキガルは頬杖をつき、二度と開かれることの無い瞼に目を留めた。薄い皮膚に触れようとして、やめる。もう分かり切っていることだ。ただ彼女は問い掛けた。

「空を見ているの? エルキドゥ」
 人形の瞳は動かない。それでもエレシュキガルにはそう感じられたのだ。魂を砕かれ地の底に葬られてもなお、みどりのひとの目には全ての障害を見通して、果てなく高い空が映っているのだと。エレシュキガルは、病の母に寄り添う子どものように、自らの頭をエルキドゥの枕元へ預けた。耳に水晶の冷たさが沁みる。エルキドゥの髪からは、香油の匂いに交じって、彼女の知らない不思議な香りがした。

 ギルガメッシュとエルキドゥの冒険、そのあらましは、巫女や神々から伝え聞いている。けれど彼らが旅した山を、川を、森を、エレシュキガルは何も知らない。星々の輝き、吹き渡る風、頭上を覆うものの無い世界…それらの全てを知らないままで、自分はここで朽ち果てるのだ。そう生み出され、そう命じられたから。

 エレシュキガルは立ち上がり、一緒に渡された薄織物を手に取った。きっとギルガメッシュはこうしたかったのだろう、そう考えながらエルキドゥの体の上にそっと被せる。半ば透き通った布は、その美しい容貌を神秘的に覆い隠した。聖婚の儀式を待つ乙女のような無垢な姿が、水晶の輝きに彩られている。神の手で造られ、神の手で壊された泥人形は、短い命であっても運命に出会い、愛されて生きたのだ。

「こんなことを言ってはいけないのかもしれないけれど」
 冥界の暗がりがまた深くなる。新たな死者が落ちたのだろう。
「私はあなたが羨ましいのだわ」
 エレシュキガルの言葉は、ただ地底の闇に呑み込まれ消えていった。



 おぼろげな意識のなかで、いつかどこかで嗅いだ香りだ、とエレシュキガルは感じていた。覚醒とともに、徐々に世界の輪郭がはっきりしてくる。空気が暖かく、体の下には柔らかなものがあり、そして不思議な香りが…

「深い杉の森の匂いだってギルは言うよ。僕にはよく分からないけれど」
 カッ、と音が付くほどの勢いでエレシュキガルは目を見開いた。視界の半分ほどの光が、透き通るような緑色で遮られている。その流れを遡り、エレシュキガルは絶句した。思わず顔を覆った彼女に、エルキドゥは語り掛けた。
「久しぶり。また会えたね、エレシュキガル」

 黄金のような、蜂蜜のような、神代の瞳が彼女を見ていた。懐かしさと驚きが女神の口をこわばらせる。あの日開かれなかった瞼の下にはこんな綺麗なものが隠されていたのだという衝撃と、それを見ることの叶った奇跡に思いを馳せるエレシュキガルは、現状の把握が追い付かない。
「召喚が嬉しすぎて卒倒とは、駄女神もここに極まったな」
「ダ…アイツと一緒にしないで欲しいのだわ! 私は…」

 反射的に言い返した瞬間、一気に彼女の視界が広がる。柔らかな寝台に横たわる自分、それを覗き込むエルキドゥ、椅子に座って自分たちを眺めるギルガメッシュ、部屋の入口にはもう一人立っていて、そして。思わず半身を起こした彼女にギルガメッシュは軽く告げる。
「お前の部屋だ。エルキドゥがしつらえた」
「私もね!」
「お花の人!」

 なんだかお花屋さんみたいだなあ、というマーリンの呟きは全く彼女の耳に入らなかった。そう広いとは言えない空間の床は柔らかな下草に覆われ、家具や調度には蔓が絡まり、とりどりの実を付け花を咲かせている。言葉が出ないエレシュキガルに、エルキドゥは靴を脱ぐよう促した。彼女の華奢な素足が草の絨毯に触れる。
「ここはとても高い山の上だから、外に草木はあまり無いんだよ。でも空は澄んでいて、星が近い。いつでも見に行ける」
「わたし、私は、飛べないのだわ」

 ぺったりと草の上に足を延ばして両手を付けて、感極まったエレシュキガルはつっかえながらもどうにか答えた。恐らく一人だったなら思い切り転がっていたに違いない。ギルガメッシュは冥界の女神のささやかな、しかし大きな感動を見遣る。ふん、と笑い混じりの息を吐いて彼は言った。
「飛ばずとも、空は見える。地上の世界に天井は無いのだからな」
 あっ、と小さく声を漏らしたエレシュキガルへエルキドゥは言葉を続けた。

「空を飛びたいのかい? 僕が乗せてもいいし、ケツァル・コアトルの翼竜を借りてもいいし、ギルも何か飛ぶ道具を持っていたね」
「たわけ、あれは速過ぎて星見には適さぬ」
「まあとにかく、方法は幾らでもある。簡単だよ」
 雑に締め括ったエルキドゥをよそに、エレシュキガルは簡単…と小さく呟いていた。彼女のキャパシティの限界を察し、ギルガメッシュは椅子を立つ。目配せを受けてエルキドゥも彼のもとへ歩み寄った。

「聖杯から知識は得ておるな? 19時より夕餉が始まる。お前の歓迎会を予定しているが、出られるか?」
「も、もちろん! さっきは少し驚いただけです。冥界の女主人として、皆さんに恥ずかしくないご挨拶をしなければ!」
 急に風格を出しても、草原に足を放り出し座っている時点で意味は無い。だがギルガメッシュは殊更にそれを指摘することはせず、同じように威厳のある態度で答える。
「それは重畳。身支度もあろう、刻限までくつろぐがよい。頃合いになれば迎えに来るゆえ」

「…ギルガメッシュ…?」
 ここまでにも多少の違和感はあったのだが、あまりに行き届いた言葉で遂に、エレシュキガルは怪訝そうな声を出した。彼女の記憶の中にある英雄王とのギャップが大きくなったのだろう。思い至ったギルガメッシュは、霊基を賢王の姿へと戻す。ああ、と声を上げるエレシュキガルへ、彼は事もなげに言った。
「受けた恩は返すまでのこと。エルキドゥが世話になったな」
 あの時は助かった、有難う、と言わないところが結局はギルガメッシュなのだが、そんなことはどうでもよかった。部屋を出ようとする三人を、エレシュキガルはすんでのところで呼び止める。

「あの! あの…」
 振り返った彼らに向けて、エレシュキガルは俯きながら、それでも何とか口にした。
「会えて嬉しいのだわ、とても」
 彼女の必死の言葉に返事は無かった。ギルガメッシュは軽く手を振り、エルキドゥは微笑みかけ、マーリンはサービスで部屋に草花を追加する。そのうちの幾つかはエレシュキガルに…具体的に言えば、彼女の髪と冠を飾るように咲いたのだが、彼女がそれに気付くのは食堂でサーヴァントたちに称賛されてからのことだった。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。