「王様、シャトルでございます」
「…ご苦労」
 一瞬の空白の後、ギルガメッシュはディルムッドから恭しく差し出された羽根を手に取った。思いを払うようにラケットを振り、ぱあんと打ち上げる。ガラス天井の体育館、見上げる先は青空だ。人理修復の成果そのものの晴天に、白い羽根が鋭く舞った。


 戦いを終えたカルデアは静かだった。たまに謎の時空と繋がったり、亜種特異点が出現したりするイレギュラーのほかは、平穏に日々を過ごしている。もっともそのイレギュラーはかなり頻繁に起こるのだが。
 雪山の頂に作られた施設のこと、その性質もあって下界との交流は無い。娯楽といえばテレビ・ラジオ・インターネットなどの情報ツールだが、体を動かそうと思えば自然、仲間同士でのスポーツとなる。
 今カルデアで熱狂的人気を集めているのはバドミントンだ。ひと月ほど前まではバスケットボールが流行っていたが、派手好きの英霊たちが誰もかれもダンクシュートを決めていたらあっという間にゴールが壊れた。
 もっとも、賢王ギルガメッシュはそのような喧噪にはあまり参加しない。とはいえ厭うわけでもなく、観戦するのが楽しいようだった。仲間たちはみなそれを察しているので、無理に誘うこともない。長いあいだ苦楽を共にしたのだ、互いに心地よい距離感があることを知っている。

 コートのど真ん中に落とされた賢王のサービスを、ゆるやかにジキルが打ち返す。山形に弧を描く軌跡は、勝負ではなく遊びであるということを示していた。少し下がってディルムッドがスマッシュ。遊びとはいえかなりの速度が出ていたが、ベディヴィエールが難なく拾った。
 たまにはご一緒にどうですか、とカルデアの古参三人組がラケットを手に現れたとき、ギルガメッシュは「気を遣われている」と少し眉根を曇らせた。理由など分かり切っている。最近召喚に成功した英霊のせいだ。遠巻きにギルガメッシュの動向を伺ういくつもの視線は煩わしいが、すべては自分を思うがゆえのことと分かっているので彼は無碍にもできなかった。

「エルキドゥのことですが…」
 遂に口火を切ったジキルのシャトルを、賢王はすげなくネット際に落とす。
「会わんぞ」
「なぜ」
 間髪入れぬ動きとともに、ベディヴィエールの言葉も速い。限界まで伸ばされた銀の腕の更に先、ラケットの先端が危うくシャトルを拾って返す。即座に後方ライン際へ打ち返しながら、ギルガメッシュは穏やかに言った。
「我はもはや我ではない」
「はあ」
「エルキドゥは我のものである」
「はい」
「ゆえに我は会わぬ」
 ジキルと一対一の打ち合いになっている横で、蚊帳の外のディルムッドが遠慮しつつも口を挿んだ。

「せめて一度だけでも…」
「なら、ぬ!」
 賢王渾身のスマッシュがラインぎりぎりに突き刺さった。三者三様の賛辞が惜しみなくそそがれる。
「お見事」
「素晴らしい」
「さすが王様」
「ええい接待ミントンなど面白くもないわ! 全力を出せ雑種共! 貴様も我に構わず点を取りに行くがよい! あの辺など狙い目であろうが!」
 怒れる賢王のラケットの先が相手コート、ジキル寄りの後方ライン際を指し示す。
「ああっ王様それを言われては…」
 背を丸めて困り顔のディルムッドをよそに、ジキルとベディヴィエールは、すすすと下がって守りを固めた。

 エルキドゥが召喚されてから、既に一週間以上が経っている。
 その時ギルガメッシュは戦闘に出ていたので、カルデアに顕れた彼が皆とどのような出会いを果たしたのかは知らない。ただ、レイシフトから帰って来た彼を出迎えたのは、誇らしげな笑みを浮かべた馴染みの面々だった。
 ピンときて立ち止まった彼の耳には、遠い歌声が切れ切れに届いていた。最後に聞いたのは何千年も前のような、数十年前にも思えるような、懐かしい旋律。初めましての歌だよ、と大真面目に告げた眼差しさえ蘇るようだった。
 あの者は人と動植物を区別しない。生物と無機物にも境を見出さない。ここへ招かれたかつての友が、この建物とここに住むすべての生命、この異郷の山と空へ来訪の挨拶をしているのだということは、この場の誰よりギルガメッシュが理解していた。
 だからこそ、喜びと祝いの言葉たちへ背を向けて歩き去るのは、彼といえども気が咎めた。


 普段インドア派のジキル博士にとって、体力自慢二人を擁するダブルス戦はこたえたらしい。体育館の床へ転がるさまは賢王の記憶の回路を刺激した。ウリディンムの群れをたった一人で捌き切る青年の背中を思い出し目を細めるギルガメッシュをよそに、騎士たちは和気藹々と整理体操を行っている。平和だ。
 ギルガメッシュはジキルの隣に腰を下ろし、空を仰いだ。足下に雲を従える高山の頂だけあって、降り注ぐ太陽光には剝き出しの強さがある。手庇を掛けようとしたところで、ふと影が差した。
「良い汗をかきました」
 ベディヴィエールが微笑みながら差し出したスポーツドリンクを、ギルガメッシュは素直に受け取る。実は彼も少々疲れていたのだが、顔には出していなかった。喉を潤すほのかな甘みは好ましく、ギルガメッシュは一気にボトルの半分ほどを飲み干した。
 タイミングを計ったようにディルムッドがタオルを手渡す。彼らの挙措には側近、臣下の振る舞いが染みついている。鷹揚に受け取りながらも賢王は、ここが遥かウルクの王宮であるかと錯覚しそうになっていた。

 一息ついたギルガメッシュに、さりげない風を装いながら、ディルムッドが問い掛けた。
「実際、どうなのです。王様はエルキドゥがお嫌いなのですか」
「たわけ」
「でしょう」
 深く頷きながらのベディヴィエールの言葉には、それなら…と続けたい気持ちが滲んでいる。そこから先を言えないのは、彼の優しさと繊細さに包まれた臆病さのせいだ。
 沈黙を破ったのは、転がったままのジキルの溜息だった。視線を投げ掛けたギルガメッシュの前でゆっくりと体を起こすと、きちんと座り直して彼は口を開いた。

「ウルクの偉大な王にあらせられては遺憾なことかと愚考致しますが…いや」
「許す。申せ」
「では…。王様はご自分で思われている以上に皆から慕われ敬われています。ご面倒かとも不愉快かともお察ししますが、叶うならばどうか、お言葉を頂きたい」
「言葉とな」
 わずかに眉根を顰めたギルガメッシュにジキルは大きく頷いた。
「なぜエルキドゥを遠ざけられるのです」
 カルデア最古参によって真正面から叩きつけられた問いは、単純だからこそ即答が難しかった。口をつぐんだままの賢王へ、誠意の籠った声音でディルムッドが言い募る。

「王なればこそ許されぬこともありましょう。しかし王はもはや英霊、ここはウルクではありませぬ。座に召し上げられるほどの王の功績、その褒美としてはむしろささやかではありますまいか?」
 それを聞くとギルガメッシュは浅く息を吐き、三人の顔を見渡した。まるで演説するかのような、朗々とした声が体育館に響く。
「聞くがよい。我は誰の許しも求めてはおらぬ。我が従うは我が法、我が理、我が心のみ。我自身が、そのような不義を我に許さぬと言うておる」

 ベディヴィエールは表情を曇らせた。
「不義、でございますか」
「不義である。賢王たる我は友の亡骸から産まれた男。友の傍らに立つべきは、友と原初の野を駆け神の森を拓いた英雄王に相違あるまい」
「しかし…」
 口ごもる彼へ、ギルガメッシュは逆に問い返す。
「あれはこの場に馴染めぬのか」
「いえ、女の子チームと何やら楽しそうにされていますが」
 本人たちの自称を素直にそのまま口にする彼へ、笑うでもなく賢王は言う。
「そうであろう。あやつの心身は千変万化、置かれた環境によく馴染む」
 ギルガメッシュは立ち上がり、空のボトルとタオルをベディヴィエールへ押し付けた。
「せっかく英霊としてここへ来たのだ、生前死ぬまで眺めた顔などもはや見ずともよかろう。片付けは任せたぞ」
 三人が口を出す暇を与えず、ギルガメッシュはさっさとその場を歩き去った。



 かつてギルガメッシュには友がいた。月日が流れ、友は世を去った。その後に訪れた世界の終わりへ立ち向かうべく、彼は一国の王、否、一文明の長として人の上に立ち戦った。このカルデアからも十数騎のサーヴァントが馳せ参じ、人理の光を守るべく手を携えて神を殺した。
 戦いの終わりにギルガメッシュは死んだ。悔いなど無かった。それは彼が思い描いた中でも最良の結末だった。神代最後の王は、神と共に人の世から消え去るのだ。友を喪ったときから既に、彼の命は余生だった。神の血の混じったこの体を、どう上手く使い切り然るべき時に滅ぼすか。賢王と呼ばれ敬愛された彼の息つく間もない怒涛の日々は、言うなればその一点に至るまでの過程に過ぎなかったのだ。

 最後の夜、終焉に向かう戦いへ身を投じたサーヴァント達、その一人ひとりとギルガメッシュは握手を交わした。彼はもう二度と生きて彼らに会うことは無いと覚悟していたのだ。彼らがウルクの都で過ごした時間はけして長いわけではない。それでもギルガメッシュは誰にとっても心の支えとなる偉大な王だった。
 賢王にとっても、カルデアの旧知は言うなれば、自分を看取ってくれた者たちだ。もちろん付き合いの濃い薄いはそれぞれであるし、そもそも権威に対して反抗的な者が多い一行には、何の因果か彼個人に悪感情を抱く者さえあった。それでも賢王の都を辞するとき、彼らは口々に再会を約した。だからこそ、このカルデアへ彼が召喚された時、懐かしい面々は狂喜した。
 そのはずだが。


「今日は槍の日か。精が出るな」
 通路の先から自分を睨みつける桃色の影へ、ギルガメッシュは軽く声を掛けた。同じような背格好の少女が三人、管制室の出口でたむろしている。うち二人は気安い姿だが、真ん中の少女だけは禍々しい雰囲気の槍をたずさえ、けばけばしいドレス…本人曰く、舞台衣装とのこと…を身に纏っていた。これからレイシフトなのだろう。

「ディルから聞いたわよ」
「ほう」
 挑みかかるような声音を恐れたわけではない。本当にギルガメッシュは、何のことだか分からなかったのだ。相槌を自分勝手に解釈し、エリザベートは攻撃的に言葉を続ける。
「でもアタシ、エルキドゥには言わないわ」
 賢王は素直に聞いた。
「何をだ?」
 大きな瞳が見開かれ、唇から牙が覗き、竜の尾は震えながら高く振り上げられ…
「信じられない! やっぱりアンタは傲慢な男ね! 王様じゃなければボロ雑巾みたいに引き千切ってやるところだわ!」

 竜尾に思い切り打ち据えられた壁にはくっきりと跡が残った。怒りに燃えるエリザべートの瞳の奥には隠しきれない狂気がある。かつてウルクで出会った時と同じだ。
 どこかの平行世界で、自分とこの竜の娘の運命は交わっていたらしいと賢王は冷静に考えた。しかしその淡々とした表情もまた彼女を苛立たせたらしい。彼女はぬいぐるみの乗った大きな帽子を力任せに投げ捨てて、見事な角を振り立て叫んだ。

「こんな奴、エルキドゥから願い下げよ! 行きましょ!」
「エリザ、ちょっと…」
 メアリーが慌てて追い縋り、立ち去り際に視線だけで会釈する。部屋着の彼女にカトラスを振り回す海賊の面影はない。彼女もまた当初はギルガメッシュに批判的な立場だったが、エリザベートとはくらぶべくもなかった。
 賢王は軽く息を吐くと、来た道を戻って歩き出した。体育館から自室へ戻る道の途中ではあったが、多少の遠回りも良いだろうと気を取り直す。騎士たちと共に整理体操をするべきだったろうか、と肩など回していたところで、彼はふいに後ろから名を呼ばれた。

「あの、王様、お話ししてもいいかしら?」
「どうした幼女よ。やけにしおらしいではないか」
 さっきエリザベートたちと一緒に居たはずのイリヤスフィールが、思い詰めたような表情でそこに立っていた。



 カルデアの一行が神代のウルクへ辿り着いたとき、イリヤスフィールはその中でただ一人のキャスターだった。サーヴァントは個々が思う全盛期の姿で召喚される。だから見た目の年齢で英霊を計ることは無意味だが、イリヤスフィールは本当に、本物の、子どもだった。このような童に頼らなければ崩壊してしまうほどに人理は脅かされているのかと、ギルガメッシュは気の遠くなるような思いだった。
 ギルガメッシュが戦闘へ参加したときのイリヤスフィールの喜びようは、後に彼が過労で冥界へ落ちたときの取り乱しようにそのまま繋がっている。王様が死んじゃった、私が甘えたせいだと泣きじゃくり、弓兵に慰められながら地底までやってきた彼女はまったく、どこか別の世界で幸せに暮らしているべき小さな女の子だった。

 カルデアと契約した以上、今は彼もイリヤスフィールも同じキャスターのサーヴァントだ。自然、行動を共にすることが多いし、危険な戦闘では背を預け合う仲となった。今ではキャスターも随分増えたが、イリヤスフィールにとってギルガメッシュは今でも、辛い時に助けてくれた強くて頼れる王様なのだった。
 彼女が自分へこのように遠慮がちに接してくるのは珍しいと、賢王は考えを巡らせる。十中八九エルキドゥのことだろうと思いながらも、彼は視線と身振りで中庭を指し示した。


 中庭の植物は人の手により徹底的に管理されており、古代の風を知る賢王に機械仕掛けの動物を見るような不思議な気持ちを抱かせる。それでも草木の香りと色は五感を休めてくれるようで、ギルガメッシュは時おりここを訪れていた。
「王様とエルキドゥさんは、お友達、なんだよね?」
 吹き抜けの天井に届きそうなほど高く伸びた木はこの中庭のシンボルだ。その根元に腰を下ろし、意を決したようにイリヤスフィールは王へ深紅の目を向ける。目的のためにデザインされ産み出された命を象徴するような、血の色をした視線が二対、中庭で交錯した。その瞳はごく稀に、ほんの一瞬、ギルガメッシュの中に時空を超えた嗜虐の欲を呼び起こしそうになることがある。

「かつて、そうであったな」
 小さな棘のような衝動は、賢王のまばたき一つで掻き消えた。見えすぎる目というのも偶には煩わしいものだ。ギルガメッシュの心中など知らず、イリヤスフィールは真剣に問いかけを続ける。
「もうお友達じゃないの?」
「あれの友はかつての我だ。今の我ではない」
「はい、それはさっきエリちゃんから聞いたんですけど」
 こうやって噂というのは広まっていくのだな、とどこか面白いような気持ちになった賢王と対照的に、少女の声は悲痛だ。

「王様はもう、エルキドゥさんのこと嫌いになったの?」
 またか、と思う。しかし彼は言葉を返す。慕われる者の責任として。
「あれは我が最古にして唯一の友だ」
「…分かんないよ…」
 イリヤスフィールの大きな瞳が水気を含んで潤んだ。頬と鼻の頭に赤みが差し、怒ったように眉が吊り上がる。いや、彼女は実際に怒っているようだった。
「私とお兄ちゃんとお父さんは、住んでる世界が違うけど、でもお兄ちゃんとお父さんだもん。王様とエルキドゥさんは、ウルクの町で一緒に生きてたんでしょう? それなのに、どうしてダメなの?」
 言葉を探してギルガメッシュの目が泳ぐ。イリヤスフィールは更に激しく言い募った。
「王様、エルキドゥさんのこと大好きだったじゃない。私、知ってるもん。ウルクでたくさんのことがあって、見たし、聞いたし。どうしてそんな、自分をいじめるようなことするの?」

「幼女…ああ、イリヤスフィール…」
 あてもなく伸ばされた賢王の手を、小さな掌がばちんと弾き返した。予想外の拒絶にギルガメッシュは目を丸くする。遂に彼女の自制心は涙腺に負けたらしい。大きな瞳からぼろぼろと溢れ落ちる涙の雫は、白い頬を滑り落ちて服の胸元に染みを作った。
「好きな人が来てくれたら嬉しい嬉しいって会いに行ってよ! 走って行ってよ! 私たち、王様の喜ぶ顔が見たかったのに!」
 少女の口から吐き出されたのは、あまりに拙く自分勝手な言葉だった。しかし突き詰めればそれこそが、カルデアの皆の総意だったのかもしれない。



 泣き出した童女を宥めすかすのは、魔獣を相手に戦うよりも骨の折れることだった。ギルガメッシュに子はない。神代最後の王となると自らの命を見定めた時から、孤独の生涯は決まっていたようなものだった。それを寂しいとも悲しいとも彼は一切思わなかったが、こういう場面ではただ不慣れだ。

 宝物庫から手を替え品を替え古今東西の珍品を見せ、菓子を貢ぎ楽器を奏でる頃、ようやくイリヤスフィールは安らかな寝息を立て始めた。幼いとはいえ、腹が満ちて眠るなど赤子でもあるまいし、とギルガメッシュは逆に訝しんだが、見れば奏でていたそれは三つ首の大犬を眠らせる逸話を持つ竪琴だ。自らが思う以上に彼は慌てていたらしい。
 ギルガメッシュはイリヤスフィールを抱え上げ、中庭から建物の中へと戻った。普段の彼女は魔力でわずかに浮いているので、予想に反してずしりと腕に掛かる重みと温みが生々しい。彼の千里眼は数多の平行世界を見通すが、この少女はまったく、人と人との間に生まれた人の子そのものだった。肩に凭れたまるい頬からは、先ほど食べた甘い菓子の残り香がした。


 全く同じ間取りのサーヴァントの私室は、当たり前だが扉の形も全く一緒だ。同じデザインの扉がずらりと並ぶカルデアの通路はどこか西洋の大聖堂を思わせる。建物が円形なこともあり、慣れない職員は気が遠くなるような光景と言うが、しかしサーヴァントたちは大して困らない。表札など気の利いた物がなくとも、部屋の主の魔力は体臭のように染みついている。

「エミヤ、開けよ。我だ」
 言い終わるのを待たずに扉が開かれた。驚きを隠さず出てきた赤い弓兵は、武器の手入れの途中だったらしい。自ら机を拡張してしつらえたらしい作業台には、さまざまな刃物が転がっている。
「イリ…王…?」
 何から聞けば良いのか、と目を白黒させている彼に、ギルガメッシュは無理やり少女を押し付ける。
「我が楽の音に酔うたまでのこと。じきに目覚めるであろうよ」
「待ってくれ」

 ではな、と背を向けかけたギルガメッシュをエミヤは引き留めた。
「手間を取らせて済まなかった。イリヤが何か困らせたのだろう」
「なに、童女の戯れよ。我はそこまで狭量ではない」
 軽く返したギルガメッシュだが、エミヤの視線に何かを感じ、ふいと目を逸らした。エミヤの部屋の右隣がイリヤスフィールの住まいだ。彼女の部屋は両側を同じ名前の英霊に挟まれている。奇妙な縁もあるものだ、と赤い瞳を眇める賢王に、遠慮がちにエミヤは声を掛けた。
「…俺は、この子があなたに言ったであろうことが、おそらく、分かる。が…」

「煮え切らぬな」
 からかいつつもギルガメッシュは内心で安堵していた。若いころに比べ格段に気が長くなった賢王だが、朝から延々とこのやり取りを繰り返していればいささか気も滅入る。エミヤの消極的な物言いからして、この話が発展することは無いだろうと踏んだのだ。しかし彼は予想外の言葉を口にした。
「たぶん今日が最後だ」
「…なに?」
 真剣に、意味が分からず問い返したギルガメッシュへエミヤは言う。

「そこでイリヤとエリザがよく話していたのさ。毎日まいにちあと三日、あと二日、明日で終わり…と指折り数えるように」
 ギルガメッシュは眉を顰めた。何の期限なのかは皆目見当もつかないが、ただ今日になって急に皆からこの話を振られた理由だけは分かった。あのバドミントンもこのためなのだろう。彼らの表情からは共通して、僅かな焦りが感じ取れた。
「俺はあなたの決めたことが最善だろうと思うし、あまり他人がとやかく口出しする問題でもないと思っている。イリヤは叱っておこう。引き留めて悪かったな」
 会釈をして、エミヤは扉を閉めた。ギルガメッシュは暫し扉を見つめて立ちつくし、そして我に返ったように、ようやく自室へ向けて歩き出した。



 懐かしい夢を見た。

 泥と岩の大地に太陽の熱が突き刺さる。風は押し寄せる熱の塊。空には一点の曇りもなく、最後の雨はとうに忘れた。天窓に切り取られた空の鮮烈な青、それと対照的な室内の影。外気とは裏腹に、日差しを受けない場所は肌寒い。それが日干し煉瓦で作られた宮殿内部ともなれば尚更だ。
 寝台の上で王は人形を抱いている。あんなに柔らかかった頬が、今ではまるで陶器のようだ。肌のぬくみも胸の鼓動も、日を追うごとに失われ、友は徐々に動かなくなる。緩慢なまばたきと、僅かに柔らかさを残した唇が、友がかつて自由に野を駆け空を翔けた奇跡のいきものであるということを必死に証明しているようだ。

 王は友の手足から目を背け、ただその美しい顔だけを凝視した。完全なる形を持って生まれた友だからこそ、動かなければそれは精緻に作られた人形でしかない。誰の目にも美を見出させる、暴力的なほどの完璧さ。気を抜いた瞬間に、その口が浅く呼吸を繰り返していることの方に驚いてしまいそうで、王はそれが恐かった。
 王は友の隣に横たわり、金色の瞳を覗き込んだ。そして友と共に駆け抜けた目くるめく冒険の日々を思い出した。…“思い出した”。王は目を見開く。輝かしい日々が今まさに、終わろうとしている。友と過ごした黄金の日々は、過去になろうとしている。王は明確に喪失の恐怖と向き合っていた。

 震えながら引き寄せた友の体は軽い。内部が空洞になった薄焼きの壺を思わせる。硬直した小指の先へ少しでも力を掛けたなら、あっけなくぽきりと折れてしまうだろう。焼き固められた泥の内側に、閉じ込められた死の呪い。虚無が友の魂を食い尽くしていく。友の名を呼ぶ。弱弱しいまばたきが王の声に応える。友の名を呼ぶ。呼び続ける。震える唇がゆっくりと開かれた。覆いかぶさるようにして、王は友の声に耳を澄ます。
「ごめんね」
 友が死の床に伏してより、12回目の日が沈む。



 今までギルガメッシュは努めて考えないようにしてきたが、既にカルデアの空気には友の気配が混じっている。それでなくとも今日は会う者みなに友の話をさせられたのだ、夢見も悪くなるだろう。そう独りごちながら、賢王は真夜中の回廊を渡り、食堂へと足を向けていた。
 イリヤスフィールをエミヤの部屋へ届け、部屋に戻った彼は簡素なベッドに体を横たえた。一休みして疲れを癒すつもりだったが、いつの間にか本格的に眠り込んでいたらしい。悪夢に打ちのめされながら目を開けてみれば、枕元の時計は予想外の時間を指し示していた。

 本来、サーヴァントは安定した魔力の供給さえあれば食事などは不要だ。しかしレイシフトの他には外出もままならない雪山の研究施設にあって、三度の食事は気晴らしでもあり、体内時計の調節にも不可欠だ。すっかり夕食を摂りそこねた賢王だったが、もしや誰かが一食分を取りおいてくれてはいないかと、微かな望みを掛けている。
 夜の廊下は静かな分、昼よりも数多の気配に敏感になる。ふいに流れて来た煙草の匂いに、ギルガメッシュは足を止めた。どうやら目的地には既に、先客が居るらしかった。


「ハイ王様、珍しいね。夜更かし?」
「…どちらかといえば、早起きだ」
 答えながらギルガメッシュは、カウンターの止まり木に腰掛ける。何やら言いたげな雰囲気を察して、ビリーは椅子を降り厨房へ入ると戸棚をあさり始めた。がちゃがちゃとビンや缶がぶつかる音が、夜の食堂に響く。隣に座っている男は口数が多くない。しかし賢王は構わず話しかけた。
「娘子を泣かせてしまった。済まんな」
「聞いたよ。あんたは悪くない。相手の都合を考えない好意の押しつけは迷惑だ。あの子にも良い薬になったろう」
 予想の三倍ほどの言葉が返ってきて、ギルガメッシュは少し驚いた。

 食堂の照明は常夜灯程度のものだ。そこだけ勝手に点けたのだろう、厨房の白い光を頬に受け、アサシンの横顔は意外なほどに若い。ただその雰囲気は老いている。少年と老人の二面性。彼を形作る二つの顔の、その両方が父親という属性を拒絶しているようだった。
 エミヤが、別の世界の養い子と、また別の世界の愛娘が待つこのカルデアに召喚され(てしまっ)た時のことはギルガメッシュも覚えている。あれはまた、いろいろあった。

 お待たせ、の言葉とともにビリーが持ってきたのは日本のビール、しかし常温だ。彼ら三人はこのカルデアでは数少ないビール党だが、ギルガメッシュの時代には冷蔵技術がなく、ビリーが通った西部の酒場は大半が冷蔵設備を備えていなかった。二人の郷愁に付き合う代わりに、銘柄の決定権はエミヤにある。そんな静かでささやかな男たちの酒宴は、これまでにも何度か夜の食堂の片隅で開かれていた。
 ギルガメッシュは二人の前に置かれたままのショットグラスに目をやった。置かれたままのウイスキーのボトルを見るまでもない、さっきまではこれを飲んでいたのだろう。
 気を遣わずともよいのに、と、このところ何度も何度も反芻した言葉を賢王はまた胸の内で呟いた。彼らはギルガメッシュがどんな酒でも楽しんで飲めることを知っている。そのうえで、ビールを最も好んでいることも。

「我のために苦心していたのか。…お前たちも」
「さあね。僕はまだ新入りだから。ビリー?」
「んー、もういっか。そうだね、みんな頑張ってたよ。特に女の子チームがね、王様をエルキドゥさんに会わせてあげるんだって」
 はああ、とギルガメッシュは盛大に溜息をついた。怒りでも呆れでもない。今日、自分へ食い下がってきた面々の顔が走馬灯のように脳裏をよぎる。深い納得が腹にずしんと落ちてきた。しかしビリーはそれを不快と受け取ったらしい。弁解するような言葉が続く。
「許してあげなよ、みんな恋愛ざたが大好きなんだ。しかも王様の恋人なんてさ。野次馬とお節介とあなたへの感謝、きっとぜんぶ本物だ」

「待て」
 難しい顔をして立てられたギルガメッシュの制止の手へ、ビリーは小首を傾げながら煙草のパッケージを握らせた。違うわたわけ、と即座に賢王が指先で弾いたそれは、カウンターの端まで勢いよく滑っていく。けらけらと笑うビリーに勿体ぶってギルガメッシュは告げた。
「我とあれは、友である」
「友という名の恋人でしょ?」
 肩をすくめるビリーへ、ギルガメッシュはまるで教え諭すように言葉を紡いだ。

「よく聞け。我らは互いを友とした。友とは共に立つもの、傍らにあり同じものを眺め、苦楽を共にするものである。なればこそ、友と相愛になることもあろう。同じ臥所で一つ枕に互いの夢を見ることもあろうよ。天地開闢よりこの世が虚無に落ちるまで、我らは唯一無二の友なのだから」

 賢王の声は僅かな余韻を残して夜の食堂に消えた。考え込む様子のビリーをよそに、エミヤはカウンターに置いていた自分の煙草を一本取り出し口にする。ジッポライターの火を擦る音さえ明瞭に聞こえる中、彼は囁くように言った。
「なんでもいいさ。あんたたちで好きにすればいい。それより、おっかないお迎えが来たぜ」
 エミヤの吐き出した紫煙を辿れば、食堂の入り口で背の高い女性ふたりが微笑みながら手を振っている。ギルガメッシュは静かな夜の終わりを悟った。


 カウンターから移動したテーブルには、ビールとウイスキーに加えて日本酒とラムが並べられた。夜中の食堂にいける口が集まったのは必然だったのかもしれない。もっとも彼女らは夕食に顔を出さなかった賢王のため、冷蔵庫から常備菜を出してくる程度の気遣いはあった。
「王様のハンバーグはエリちゃんが食べちゃいましたわよ。メアリーたちも少々ご相伴に預かっていましたが」
「なるほどな」
 アンの言葉は全く悪びれていない。腹いせというには可愛らしい少女たちの八つ当たりと、それを止められなかった周囲の困り顔を考えてギルガメッシュは小さく笑う。グラスの底に残ったビールをぐっと飲み干し視線を下げると、頬杖をついたままでお猪口を舐める武蔵がじっと彼を見ていた。

「王様、優しいわよねえ」
「肉団子ごときで我の慈悲を思い知ったか」
 軽く言いながら視線をテーブルの上へ泳がせる賢王へ、どこからともなく新しいグラスが届けられる。ショットグラスに徳利から冷酒を注ぐギルガメッシュの表情には角も無ければ憂いも無い。
「違いますー。このまえ助太刀に行ったカルデアで、若いころのあなたに会ったの」
 話し出した武蔵へ、ほう、と賢王は楽しげに相槌を打った。煽った酒は口あたりが良く、しかしかなりの度数がありそうだ。

「うちの王様は、このひとに比べてずいぶん優しくて親切だって思った。でも、そうじゃないのかもしれないって思ったの。さっき」
 立ち聞きしちゃってごめんなさいね、と軽く言いながら武蔵は手酌で酒を注ぎ足す。この者は偶然ここを訪れたのではなく、我を探してここへ来たのだと、賢王は察した。
「王様は、誰かに自分の気持ちを分からせるために、言葉や行動を起こしてくれる。当たり前だよね、王様だもの。だからあの時、あなたの国民も私たちも、最後まで諦めずに戦いました。でも、若いころはきっと、そんなことしなかったんじゃない?」

 誰かのグラスで氷が溶けてカランと鳴った。それを合図としたように、武蔵は賢王へ徳利を傾ける。差し出されたグラスを満たしながら、彼女は淡々と言葉を紡いだ。
「あなたの心の有り様や物の考え方は、きっと変わっていない。あなたは今も昔も強くてこわい。ただびととは違う高さから物事を見ているから、すべての人を平等に、まるで一塊の砂のように扱う。真実、あなたにとって価値のあるものは一の命ではなく全の文明、そうでしょう?」

 食堂に静けさが満ちた。ここに集った者たちは皆、良く言えば独立心が強く、他者に多くを望まない。それは時に「薄情」と表現されることもあるが、生前の彼らが経験を積み重ねて培った生きるための知恵だ。この沈黙にしても驚きや失望ではなく、さもありなん、という納得と、自分に口出しする筋合いなどない、という諦念が大きい。
 酒で唇を湿らせながら一同の様子を見渡す賢王は、瞳だけで笑っている。それはかつてウルクの都ではけして見せなかった裁定者としての表情だった。彼の庭で咲いた花が主の姿を認めたことを面白がっている。ことんと小さな音を立てて、アンがグラスをテーブルに置いた。

「でも…年を取ってあなたは覚えたのでしょう。誰かに理解してもらうことの意義を。あなたが言葉にして人々に伝えたことは、きっとあなたの本心そのものではなく、理解されるレヴェルまで程度を下げたり、時には方便のようなものだったかもしれないけれど」
 そう言ってアンはにやりと笑う。組んだ手で口元を隠すようにして、言った。
「誰かと一緒に戦うのは楽しかったでしょう?」
 ギルガメッシュは静かにアンを見つめ返す。アンは続けて問う。
「誰かに分かって貰うのは、嬉しかったでしょう?」

 賢王が唇の端を僅かに上げた。肯定も否定も彼はしなかったが、その微笑みが答えの全てだった。もうこの場の皆が悟っていた。話題は結局、ここに居ない緑のひとに帰結するのだ。
 アンは半ば強引に賢王から空のグラスを奪うと、酒と混じるのも構わずにラムを注ぎ足した。独特の香りに眉を動かすギルガメッシュへ、微笑みながら彼女は言葉を投げ掛ける。
「けして裏切らず、傷つけず、常に真摯に向かい合い、分かち合い、この世の何より優先する…互いにそう思い合える相手と一度巡り合ったなら、もうその喜びは呪いに近い。私は、そう思いますわ」
 私はもうあの子を離してあげられそうにありませんもの、と呟く彼女の顔は穏やかだ。共に戦い共に死んだ相手と、霊基を半分ずつ分け合うようにして座へ昇ったアンの言葉は重い。

 武蔵がラムの瓶を振り、アンが笑ってグラスを差し出す。とくとくと琥珀色の液体を注ぎながら、さらりと武蔵は言った。
「エルキドゥ、あなたの考えてることなら何でも分かるって言ってた」
 ラムの瓶を置き、空になったばかりのギルガメッシュのショットグラスを勝手に取り上げる。なみなみと日本酒で満たしたそれを、ずい、と彼に差し出しながら問い掛けた。
「王様は? エルキドゥが何を考えているか分かるの?」
「おうともさ。あれを我以上に理解できる者はおらぬ。逆もまた然り」
 堂々としたギルガメッシュの言葉だったが、武蔵とアンはそれを聞くなり、顔を見合わせくすくすと笑い合った。何がおかしい、と僅かに眉を顰めた彼に武蔵は告げた。
「名残惜しいけど、この一杯でお開きね。また飲みましょう、王様!」



 少し弱くなったな、とギルガメッシュは自省した。昔のように後先考えず、気のすむまで飲み明かすような真似をしなくなったせいもある。しかし今晩乾した杯は付き合い程度の可愛いものだ。それでもほんの僅か、頬が熱い。あの頃なら飲んだうちにも入らなかったろうに。
 静まり返った回廊に、ひたひたと彼の気配だけが染み入っている。他の者たちはみな、片付けをしてから部屋に戻ると言っていた。エミヤとビリーはいかにも面倒という面持ちだったが、逆らえなかったようだった。何らかの作為を感じたものの、賢王に否やはない。我の居らぬところで話したいこともあるのであろう、と言葉少なに任せて出て来た。

 完全に体内時計が狂ってしまったギルガメッシュは、常夜灯の光の下で明日の予定を考える。昨日が槍の日であったから、と思い返したところで投げかけられた言葉の様々が彼の耳に蘇った。皆はあれと何を話しているのか、と彼は初めて気になった。それは不思議な感覚だった。彼らは互いを世界で唯一の他者として生きて来た。相手に自分以外の交友関係が生まれるなど、想像すらしていなかったのだ。
 夜の静けさに漂うように、ぼんやりと考えを巡らせながら、ギルガメッシュは自室へ戻った。手をかざすだけで音もなく扉は開かれる。部屋の主の魔力に反応するのだ。慣れ親しんだ行動に何の違和感を覚えることもなく、彼は椅子の背に上着を掛けつつ明りをつけようと手を伸ばし、止まった。

 まさに瞬く間、ほんの数秒、賢王は夢から醒めた夢を見ていた。住み慣れたジッグラトの内部、薄暗い王の居室の寝台で、懐かしい友が微笑んでいる。

 ギルガメッシュはゆっくりと目を閉じ、同じほどにゆっくりと瞼を開けた。変わらずそこに居る友は、カルデアの無機質な室内にまるで馴染まず、合成された画像のようだった。あまりに明瞭に見えるその姿に、賢王は友が仄かに発光しているのだと気づいた。絡み合う視線に、緑のひとは微笑みを深くする。無言のうちに彼は様々なことを考えた。
 ――思えば友の前に生体認証などというものは無意味だ。ギルガメッシュそのものとなってこの部屋へ入ればよい。そして我の帰りを待っていた。待ち伏せていた。武蔵とアンはぐるであったか。友が受け身一辺倒だと思い込んでいたのは失策であった。これは受動的ではあるが目的の為に躊躇をしない。友を突き動かす好奇心は誰にも止められぬ。なぜ友の気配に気付けなかったか。知れたこと、我は少し酔っている――

 見れば見るほど友の姿は懐かしく、瑞々しく、まるきりあの黄金の日々のままだ。木陰の花のような静謐な佇まいの奥に、自由奔放なエネルギーが渦巻いている。ふたりで天地を駆け抜けた頃、世界はまだ箱庭のように小さく、彼らはいつも明日の冒険を夢見て眠った。自らに出来ぬことは何もないと、信じた時代が遠かった。ふう、とひとつ息を吐き、ギルガメッシュは覚悟を決めた。


「我は老けたぞ、エルキドゥ」
 E,N,KI,DU、とことさら丁寧に、万感の思いを込めて、賢王ギルガメッシュは友の名を呼んだ。ここへ来てその名を口にするのは初めてだった。
「かつての王子が暴君へ成長したように、我は老いて賢王と慕われたのだ」
 エルキドゥは不思議そうにギルガメッシュを見上げた。変容の力を与えられたものに、経年劣化の概念はない。だから自分の姿を見た友が、少し形が変わった、と感じているのがギルガメッシュには手に取るように分かった。生物ではなく神の武器、言うなれば世界のシステムとして作られたエルキドゥに、もとより死は用意されていないのだ。死の無いものに老いが無いのは当然だった。
 暗い部屋の入口に立ったままで、ギルガメッシュは言った。
「その目で西日を見つめるな。お前は眩い光の中にあれ」
 遠回しな「出て行け」という言葉を受けて、初めてエルキドゥは口を開く。
「中天の太陽も山の端の太陽も、僕にとっては同じ光だよ」
「違う。それは違う」

 ギルガメッシュは僅かに目を見開いた。思わず、という風に彼はベッドへ歩み寄る。
「お前の楔はもう死んだ。我の鎖が砕けたのちに。それは動かしようのない事実なのだ。我らはともに実体の無い影法師。分かるか。我らは生き返ったわけではない。かつての日々は過ぎ去り、二度と戻らない」
 エルキドゥはここへ来て12日目を迎えるのだろうと、ギルガメッシュは悟っていた。かつて生きていた友が呪いを受け、人形へ戻され命を失うまでの時間。エルキドゥが何を思いその日数を契機としたのか、分からないわけではないのだ。彼が自分へ掛けた希望など。
 だからこそギルガメッシュには受け入れることができない。彼はエルキドゥの目前まで歩みを進め、その金の瞳を見詰めて言った。
「エルキドゥ。お前を得て、ギルガメッシュは生の喜びを、愛の楽しみを、死の絶望を知った。感謝するぞエルキドゥ。お前が神の子を人の王にしたのだ」
 賢王は手を差し伸ばし、エルキドゥの頬へそっと沿わせた。温かい。柔らかい。それだけで胸の詰まるような思いだった。彼は万感の思いを吐露する。
「お前に会えてよかった。“我”は幸せだ」

「しあわせ? なぜ? ほんとうに?」
「何がおかしい」
 エルキドゥがその指で、伸べられた手へ触れる。照明をつけないままの部屋の中、淡く光る白い指は地底湖に棲む魚のように神秘的でしなやかだ。
「僕さえいなければ、君はひとりで生きていけたよ。苦しみも渇望も知らずにすんだ」
「お前に出会うまでは、我も同じように考えていた。完全無欠と孤高こそゆるぎない価値であると」
 ギルガメッシュはエルキドゥの指に自分のそれを絡めた。こわれものを扱うような繊細な手付きは、かつての彼が持ち得なかったものだ。
「お前を喪い荒野を彷徨い、我は地の果てまでを旅した。聞け、エルキドゥ。我は空に、地に、花に、星に、お前を見た。分かるか」
 エルキドゥの視線に困惑の色が混じる。ギルガメッシュはもう片方の手で友の耳元へ手を伸ばし、その髪を撫でながら言った。

「我の目は既に我ひとりの目ではなかったのだ。我はお前を喪った。それは確かに我はお前と在った、その裏返しでもあった。我は知っている。雨雲の訪れにお前が何と喜ぶか。路傍の花を愛で、かなたの遠吠えに耳を澄まし、星に明日の暁を占うお前の言葉が、心が、我の中に棲んでいる」
 その髪はザクロスの深い杉の森。山麓の清冽な空気を編んだ艶やかな緑にギルガメッシュは指を遊ばせる。ほの温かくなめらかな肌からは、メソポタミアの豊かな泥の香りがした。黄金の輝きを宿した美しい瞳。英雄王が拓き支配し、賢王が慈しみ守った懐かしい大地が、人の形をとってそこにある。胸に去来する狂おしいほどの愛着を、理性の力で押さえつけながら、ギルガメッシュは言葉を続けた。
「もはや我に孤独はなかった。余人を傍に寄せ付けぬさまを孤独と呼ぶならそれも良い。だが我は満ち足りていた。我が友はこの天地のはざまにただ一人。その価値を守り続けることは、どうも悲壮な覚悟と思われるらしいが、そうではない。我は死ぬまで友と共にあったゆえ」

 最後に親指で目の下をなぞり、ギルガメッシュはエルキドゥから手を離した。さらりとした仕草だったが、生木を裂くような惨たらしい痛みに彼は耐えていた。しかし手放すことのできる自分に満足する気持ちもあった。召喚されたここで、友の得るものが多くあればいいとギルガメッシュは静かに願う。その心中を知ってか知らずかエルキドゥは問い掛けた。
「君は僕を忘れてくれなかったんだね」
「忘れたさ。お前のいじましい勘違いなどはな」
 ギルガメッシュは微笑んでドアを指し示す。
「さあ、もうよかろう。我にお前は過ぎたるものだ」

「いやだ、と言ったら?」

「エルキドゥ…」
 自らの手首をがっしりと掴む友の手を、ギルガメッシュは呆然と見ていた。
「君はいいかもしれなけれど…僕は。…君ばかり…」
 それきり口をつぐんでしまったエルキドゥは、悩んでいるのではない。胸に溢れている感情を言葉にすることができないのだ。思えば自分たちは己の中にあるものを殊更に声に出すことなく最期のときを迎えてしまったとギルガメッシュは振り返る。エルキドゥが感情を表現する語彙に恵まれないのも道理だった。彼の考えを裏付けるように、エルキドゥはようやく言った。

「僕には君しかいなかったから、君しかいない世界に生まれて、そして、壊れてしまったから、僕のぜんぶは君だった」
 ギルガメッシュは、ただ頷く。エルキドゥの独白には、真剣勝負の緊迫感が漂っていた。
「ここに来て、いろんな子に会ったよ。君と同じような背丈の子や、君と歩き方が似てる子や…この子は君とどんな話をするんだろう、とか、この子は君と気が合うんじゃないかな、とか、いろいろ考えて」
 言葉に集中しすぎているのだろう、エルキドゥの手にはどんどん力が加えられていく。ひときわ強くギルガメッシュの手首を握り込むと、か細い声で、緑のひとは呟いた。
「僕は君に、忘れてほしいと願ったけれど、いまここでは、君に覚えていてほしいと、思ってしまった。…すこしだけ」

 ギルガメッシュは唇を噛んだ。エルキドゥが我欲を感じている。誰よりギルガメッシュを理解し、受容し、その在り方すべてを肯定してきたエルキドゥが、ギルガメッシュに望まれない己の望みを得たのだ。
「…時代は変わったから、僕よりもっと優れたものが沢山たくさんあるんだろうけれど。泥の武器にはもう、用は無いのだろうけれど。でも、あの日僕に言ってくれた言葉や、一緒に過ごした時間は、僕だけのものだから。それでいいって思っていたのに」
「エルキドゥ」
 堪え切れずにギルガメッシュは、再び友の手を取った。打って変わってエルキドゥの力は弱い。
「僕はこんなことを考えるモノではなかった。君が魔術師の姿で召喚されたのなら、僕はきっと感情的な部分を多く抽出されたんだろう。“僕”は完全な道具ではないのかもしれない」
 葛藤がエルキドゥの声を僅かに震わせる。

「僕は泥の人形だから、ヒトみたいに形を変えていくことができない。でも、君に出会って手に入れた心と記憶が、もっと沢山のものを欲しがっている。僕たちは生き返ったわけではないけれど、あの時僕は、もっと生きたいと願っていた」
 エルキドゥを取り巻く空気に熱が籠る。全身から発散される無軌道な魔力で、まるで空間が色付いたようだった。ギルガメッシュは友の激情に遠いウルクの熱風を見た。天上に神界、地下に冥界が地続きになった神話の大地。魔力渦巻く太古の地球そのものを人型に凝縮させたかのような、強く儚く愛しい友。
 別れはけして終わりではなかった。友との別れがギルガメッシュを成長させたように、友は己の死とつかの間の目覚めによって、望み、ひいては自我を手に入れたのかもしれない。ギルガメッシュの手を両手で握り、エルキドゥは胸の奥底から強く言葉を吐きだした。
「残された君がいくら幸せだったとしても、僕はとても悲しかった! 僕はもっと、君と一緒にいたかった!」


 少年とも女性とも判じかねるその声は、苦しげな色を含むといっそう悲痛に聞こえる。ギルガメッシュの耳には、叩きつけるような言葉の残響がこだましていた。賢王は唐突に理解した。この夜に受け入れられなければ、友は座へ還るつもりなのだ。つかの間のものとはいえ、自らの手で与えられた命を放棄する、その覚悟でここへ来たのだと。
「もう一度、君に会いたかった。君に会ったらなんて言おうか、そればかり考えていたんだよ」
 ふ、と小さく笑うと、エルキドゥは両手から力を抜いた。急に腕を解放されてもなお、ギルガメッシュは口を開くことができなかった。

 彼とて今の境地に至るには長い時間が掛かったのだ。泣き、わめき、天を呪い、人を捨て、自らの体と心を散々に痛め付けたその果てにようやく得た答えがそれだった。賢王と呼ばれるようになってもなお、人目を避けて天の丘へ登り、友の思い出に浸ったことなど数えきれない。
 ギルガメッシュにとってエルキドゥは、かけがえのないただ一つの価値だった。好きだとか愛しているとか、そのような言葉で表現することもできなくはないのだが、彼はそれをしなかった。例えばそれは重力や引力、惑星が宇宙で描く軌跡のような、世界を運行するための基盤のようなもの。
 原初の混沌そのものだったギルガメッシュの世界に降り落ちてきたエルキドゥという名の星は、そこに安定と秩序、道徳を生み出した。ギルガメッシュは人ではない。彼が人の上に立つ王となれたのは、エルキドゥを通して世界を愛せたからだった。

「僕は君のものだから、君のことは理解できる。君の心に従うよ。でも、君にもらった心が、ときどき軋んで、苦しいんだ」
 エルキドゥの右手が己の左胸を抑える。簡素な白い服の布地に深い皺が刻まれた。ギルガメッシュは友を悲しませるつもりも苦しませるつもりもなかった。ただ彼は、彼なりに、唯一の友の“人生”を尊重する最善の方法として、不干渉を選んだのだ。自らの感情を度外視するのには慣れている。
 ギルガメッシュの失敗はひとつ。彼は己と友の価値観を同一視するあまり、エルキドゥの感情までをも考えの外に置いていた。
 ギルガメッシュの誤算はふたつ。ひとつは、召喚されたエルキドゥが死の直前、最も豊かな感情を会得していた頃の姿で召喚されたこと。もうひとつは、彼が遠い昔に置いてきたと思い込んでいた、考えなしに体を突き動かす情動は、存外かんたんに蘇るものだということ。

「これが寂しさだね、ギルガメッシュ」
 そう言って自分を見上げたエルキドゥの切なげな表情が、その後どう変わったのかは分からない。力任せに抱き寄せた友の体は、大きさも柔らかさも温かさも全てがしっくりと彼に馴染み、ギルガメッシュは深く深く溜息をついた。長い旅を終えて故郷に帰って来たかのような安堵感が体を満たす。エルキドゥがそっと彼の背中に手を回した。
 彼らはもう、二度と後悔をしないと決めたのだ。



 九回裏・ツーアウト・ランナー無し。ピッチャー、クー・フーリン・オルタの投げた球はバットの芯へ噛み付くように食い込んだ。岩窟王はぐっと歯を食いしばり、渾身の力でバットを振り抜く。キャッチャーのマシュが思わず立ち上がり空を仰ぐ。快音を響かせて夕焼けの空へ突き刺さった白球は、どんどん高度を増していった。

「ああ、下がれ下がれエルキドゥ!」
 目にも止まらぬ速さで駆けだした岩窟王をよそに、ベンチ代わりの木陰からギルガメッシュは友へ向けて大きく手を振る。こういうことに付き合いたがらないオルタまでも引きずり込み、なお人数足らずの野球だ。センター兼レフトのエルキドゥを、同ライトのディルムッドが心配そうに見守る。
 サーヴァントの身体能力は人間などとは比較にならない。その中でもエルキドゥはずば抜けている。緑のひとは野の獣のように颯爽と走り出した。降下してきたボールは、このまま落ちれば天文台の壁に衝突する。建物に当たればホームラン、カルデアルールをエルキドゥが覚えていたかは定かでない。

 エルキドゥはふいに体を沈み込ませると次の瞬間、物凄い勢いでジャンプした。簡素な貫頭衣は体を包み隠しているが、その下で躍動する脚部がおよそ人体の構造をしているとは思えない、そんな跳躍だ。異様に長い滞空時間、ダイヤモンドに残されたサーヴァントたちはエルキドゥの巨大な足裏を…それは野兎の後肢に酷似している…唖然と眺めていた。
 エルキドゥは天文台の壁の凹凸にミットを嵌めた左手を掛けて、素手の右手で捕球した。ぴょんと飛び降りた後で、はたと気付いたようにボールとギルガメッシュを交互に眺める。これをどうすれば良いのだったか、と考えているのは明白だった。賢王は笑いながら声を掛ける。
「馬鹿者、素手で捕球してどうする」
「取ればいいんだよね?」
「痛かろうが!」
 およそ万能な神の鎖といえど、不得手なことがあるらしい。エルキドゥはどうにも球技が苦手だ。間の抜けたやり取りに周囲も思わず笑いながら、だらだらと片付けが始まる。どうして試合が終了したのか、理解できていないのはエルキドゥだけのようだった。

 高山の頂にも短い夏はある。雪が降って地面とベースの見分けが付かなくなるまでの間が野球シーズンだ。開幕戦を勝利で飾った天地獣星チームだが、課題は外野手エルキドゥの育成だろう。そう分析する賢王は敵である人チームなのだが(このカルデアは人属性以外が恐ろしく少ない)、お遊びの野球にそこまで目くじらを立てる者もいなかった。
 差し当たってはスポーツにおける変容スキルの扱いについて協議せねばなるまい。そう胸中で結論付けて、ギルガメッシュはカルデアへ歩き出す。当たり前に、エルキドゥが傍らを歩く。既に日は落ち残照だけがふたりを包んでいた。空の彼方は深い夜。人理を修復した成果そのものの澄んだ群青色は、やがてまばゆい星々を運んでくるだろう。
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