エンポリオと名乗った少年は初め付いて来るような素振りを見せていたが、結局は無口な青年と一緒に車を降りた。姉と一緒にレストランを営んでいるという陽気な女がしきりに自分と来るよう勧めていたが、何故か青年とウマが合ったらしい。
もっとも、雨に降られて乗り合わせた四人の男女は、初対面だというのにまるで旧知の友人であったかのように互いに親しみ合った。散々喋った後にようやく自己紹介を始める彼らの様子を、エンポリオは喜びとも悲しみとも付かない、何か眩しいものを仰ぐような表情で見詰めていた。
通り雨が去った後、彼らは連絡先を交換してそれぞれの生活の場へと散って行った。見送りのために車を降りていた青年は、立ったままぐっと伸びをする。それを見計らったように差し出された缶コーヒーに、彼は破顔した。
「ありがとう、アイリン」
「あたしのおごりよ。運転お疲れ様」
ぱちんとウインクして、アイリンは自分のジュースのプルタブを開けるとごくごくと飲み干した。三時間ほどのドライブのつもりが、思いがけない出会いによって寄り道と回り道をすることになり、予定よりも幾分遅れている。
「連絡しとかなきゃ、心配するかな」
「昼過ぎに着くって言ったんだろ?まだ大丈夫じゃないのか」
恋人はそう言って笑ったが、アイリンは曖昧に微笑み返して携帯電話を手に取った。ほんの僅かの操作だけでそれを耳に当てた彼女は、少しの間の後で勢いよく喋り出す。ごめんなさい、色々あってもう少し掛りそうなの。そう、心配しないで。
通話を切ったアイリンに、アナキスは不思議そうに言った。
「随分と過保護な親父さんなんだな」
彼女の家が父子家庭であることはアナキスも先刻承知のことだった。それにしても、このやんちゃなアイリンの父親がそんなにも細やかに娘の心配をするのか、ということが意外だったのだ。しかしその言葉を聞いて、アイリンは何とも複雑そうな表情を浮かべた。
「あのね、アナキス…」
彼女が口を開いたのは、再び車が走り始めてからだった。目指すはマイアミ、海辺の家だ。徐々にリゾート地の様相を呈してくる海岸線の道路、両側には椰子の木が一列に並び揺れていた。昼下がりの潮風に吹かれるアイリンの横顔をアナキスは見詰めた。
「これから行く、あたしの家には父さんが住んでいて…でも、もう一人」
曖昧な場所で言葉を切るアイリンに、アナキスは問い掛けた。
「親父さんの恋人?」
「まあ、そうなるわね」
「煮え切らない言い方だな。君と気が合わないとか?」
「いいえ。あの人はあたしの家族よ。あたしのもう一人の親」
強烈な日差しに目を細め、アイリンはフロントガラスの日除けを下ろす。再びシートに背を預けた彼女の顔には僅かな陰りが出来ていて、しかしそれは日影のせいだけではないようにアナキスは感じた。
「あたしは昔、あの人にとても酷いことをしてしまったの。たとえ彼が許してくれたとしても、自分で自分を許せないような…」
ひとつ、静かに呼吸をしてから、アイリンは言った。
「話を聞いてくれるかしら。とても大切な話よ」
アナキスは、アイリンが今日彼の車に乗ってからずっと、何かを言いだす機会を伺っている様子だったのに気付いていた。
それをあえて指摘しなかったのは、勿論彼女が口を開くのを急かすつもりが無かったということだが、いつもは思ったことを隠そうとしない彼女が言葉にするのを躊躇うほどの話題に、少し怯えていたせいもある。
まさかこの期に及んで別れようなんて言わないだろうな、とまで思い詰めていた彼は、どうやらそれが思い過ごしだったと悟ってむしろ安堵した。しかしアイリンの様子は真剣、むしろ悲壮とも言うべき物で、彼は緩みかけた頬を再び引き締める。
彼女の両親に結婚の許しを得に行くのだと言ったとき、エンポリオ少年の浮かべた表情が、ふとアナキスの脳裏に蘇った。彼は助手席のアイリンへ、普段通りの笑顔を見せながら、何でも言ってくれ、と軽い仕草で促した。
――あたしがまだ小さい頃、ママは家を出て行った。その頃のあたしには大人の事情なんて良く分からなかったけど、家に帰っても大好きなママが居ないっていうのはそれなりにショックだったわ。
でも、良かったとも思ったの。嘘じゃないわ。ママはいつも父さんが居なくて寂しいって泣いてたから。…そんなに簡単な言葉じゃなかったかもしれないけど、あたしはそういうことだと納得してた。だからママがもう夜に泣かなくて済む所に行くっていうなら、しょうがないって思った。
別に今生の別れってわけじゃないわ。今でもママとは時々会うし。幸せそうな彼女を見るたび、両親の選んだ道は間違っていなかったと思う。この形に至るためのステップだったと思えば、両親の結婚だって失敗とは言い切れないわね。
…だから、ママの話はこれでお終い。あたしが言いたいのはね、ママが家から居なくなって、その後あたしと一緒に居てくれた人のこと。その人はノリアキと言って、まるで空気みたいにすんなりとあたしの生活に溶け込んだ。
ノリアキは父さんのハイスクールの頃からの友だちだった。そう、日本人よ。ずっと日本で暮らしていたんだけど、仕事の都合でアメリカに来たんだって。あたしの家のすぐ近くに住んでいて、家に居ないことの多い父さんの代わりにあたしの面倒を見てくれたの。
あたしはノリアキが大好きだった。ママはあたしの目から見ても、壊れ物みたいに繊細な人だったから、子ども心に気を使ってた所があったのね。こんなことを言ったら心配させるかなとか、このことを聞きたいけど悲しませそうだから聞けないとか…。でもノリアキに対してそういうことを考えたことは一度もなかった。
根本的に、あたし達は気が合ったんだと思う。ママにとても愛されて育ったけれど、あたしの中にはどこか寂しさがあって…まあ親父のせいだろうけど…しかもママはそういう、愛されなきゃ生きていけないみたいな雰囲気の人だったから、どうしても背伸びして大人にならなきゃいけない部分があった。そういう微妙に捻くれた部分が合致したのよ、きっと。
あたしはノリアキが大好きだった、本当にね。時を経るごとに父さんが家に居る時間も増えていって、あたしが学校から戻ったら二人がのんびりテレビを見てる、なんてことも良くあった。あたしはあたしが居ない間ノリアキを独り占めした父さんが羨ましくてしょうがなかったわ。そういう時あたしは鞄も下ろさずにノリアキの膝に飛び乗るの。ノリアキは笑って言ってくれたわ。お姫様、何をご所望ですか?ココア、クッキー、それとも…。そしたらあたしは叫ぶの。ノリアキよ! って。
友だちとギクシャクした時も、男の子からラブレターを貰った時も、あたしはノリアキに相談した。父さんが嫌いなわけじゃないけれど、父さんはそういうことに不向きな人だって分かってたもの。ませてたでしょ、あたし。
ノリアキはあたしの気持ちをいつもよく察してくれて、絶対に無理矢理立ち入るようなことをしなかった。それでいて、あたしが傷付いた時には絶対傍に居てくれて、どんな言葉でも受け止めてくれた。子どもの頃にノリアキが一緒に居てくれて本当に良かったと思う。そうじゃなきゃあたし、グレて暴走族にでもなって刑務所にブチ込まれてたわ。
でも、時間は流れる。あたしは成長する。
中学に入ったあたしは、まあちょっとおてんばな子で、男子相手だろうが喧嘩で負けたことがなかった。その日もくだらない因縁を付けて来た奴を黙らせようとしたの。まずは口で、それでも駄目なら拳でね。でもあたしが拳を振り上げる前にその下品な野郎はこう言った…このアバズレ女、ホモの娘って。
「ちょっと、待ってくれ」
遮るアナキスの声が思いがけず大きくて、アイリンは続けようとした言葉を飲み込んだ。
「ノリアキっていうのは男なのか?」
ノリアキ、という単語をアナキスはいかにも苦労して無理矢理口から捻り出した。アメリカ人からすれば発音することはもちろん、意味ある言葉として聞き取ることも難しい、不可解な音だった。昔は自分にとってもそうだったのだろう、と思いながら、アイリンは答えた。
「そうよ、ノリアキは男性。あーごめん、分からないわよね日本人の名前って変だから。もしかしてずっと勘違いして聞いてた?」
「流れとしてそれが当たり前だろ」
拗ねたように言い返すアナキスに、笑いながら謝って、アイリンは問い掛けた。
「…気にする?」
努めてさりげない風を装ったつもりだったが、アイリンの声は僅かに強張った。それを何となく察したアナキスは、ハンドルから右手を離し、優しくアイリンの頭を撫でた。思いがけなく子どものような扱いをされて、嬉しさと気恥しさの入り混じった表情のアイリンに、アナキスは言った。
「俺の仕事仲間にも何人か居る。そう特別なことじゃないだろ。それよりも、親父さんに恋人が居て良かった。君を攫っていく罪悪感が少し薄れる」
大仰にウインクしてみせるアナキスの背中を冗談で叩き、アイリンは少し笑った。彼の優しさが、この先を言おうとするアイリンの口を鈍らせる。孤独な夜に何度も何度も反芻しては、その度に自分を責め続けた結果、彼女はその時のことをかなり客観的に捉えられるようにはなっていた。しかし、誰かに心境を打ち明けるのは、これが初めてのことだった。
「話を続けてもいいかしら、アナキス。あまり言いたくないし…知って欲しくも無いの、本当は。だけど言わなければならないと思うから…あんたにあたしたちのことを、きちんと理解して欲しいから…だから、言うわ。あたし」
アナキスは僅かに首を傾げ、そして先を促すように目を伏せた後、真っ直ぐに目の前の道へ視線を移した。
――その最悪に下品な言葉を聞いて以来、あたしの中で確かに何かが変わった。あんな奴の言うことなんて真に受ける方がバカだって分かってたのよ。だけどあたしだって、もう子どもじゃなかった。見た目が良くてお金もあるのに再婚しない父さんのところに、良い年してずっと独り身の『親友』が毎日のように通ってくる現実を、世間がどういう風に噂してるのか。
あたしは以前ほどノリアキにべたべたしなくなった。でもノリアキはそれを、あたしが成長したからだってあまり気にしてないみたいだった。ノリアキは今までと同じようにあたしと父さんの生活の一部だった。あたし達の暮らしは静かで穏やかで、何の過不足もなく完成されていた。
あたしはこの生活がいつまでも続くように心のどこかで願っていたと思う。口さがない世間の噂なんて全部的外れな妄想なんだ、ノリアキは父さんの親友であたしはノリアキのお姫様、三人でいつまでも仲良く暮らすんだって。だけど…夢の終わりは唐突だった。
その夜、あたしは友だちの家に泊まるって言って家を出た。みんなで集まってテストの勉強をするとかそういう言い訳だったけど、単に遊びたかっただけよ。一旦は友だちの家に着いたんだけど、あたしは忘れものに気付いた。ずっと借りっぱなしのCD、今日こそは返すって約束だったの。いい加減貸してくれた子も怒ってたし、このお泊まり会には次に借りることになってる子も来てた。あたしは心底面倒だったけど、しょうがないから取りに帰った。バカみたいってぶすくれながらね。
夜の住宅街はひっそり静まり返って、まるで息を潜めてるみたいだった。遠くから波の音がまるであたしを追い掛けるみたいに響いてきて…なんだろう、虫の知らせだったのかもしれない。帰っちゃいけない、見ちゃいけないっていうような。
家の前に立ったあたしは、自分でもなぜだか分かっていなかったけど、凄く静かに鍵を開けた。そっと滑り込んだ扉の中は、あたしが知ってる家の雰囲気じゃあなかった。きっとあの時はもう、あたしだって分かってたんだ。ちゃんと言葉にはできてなかったにしても、今この家の中で何か…あたしにとってショッキングな何かが起こってるんだって。
ふわふわと、地に足も着かないような気分で廊下を渡ったあたしは、震える手でダイニングに続く扉を押し開けた。外から帰って来た時、いつも同じようにする動作よ。この時間ならテレビがニュースかクイズ番組をやっていて、向かいのソファでノリアキがコーヒーを飲んでいる。隣に腰掛けた父さんは新聞か雑誌か本を読んでいて、二人いっぺんにこっちを振り向き「おかえり」って言ってくれる…
幻想の後、あたしの目に映ったのは異様な光景だった。
ソファからにゅっと突き出した白い足に、まずあたしの目は奪われた。白くて細い、だけどしっかりした男性の足。くっきりと出たくるぶしの骨の先に、くしゃくしゃになった靴下が引っ掛かってた。あたしはその靴下に見覚えがあった。
ノリアキだ。
ようやく現実を捉えたあたしの目は次々にそこにあるものを捉え、視界に入った物の意味を脳は冷静に解き明かして行った。ローテーブルの下に落ちたベルト。引き摺られて落ちたソファのカバー。そのカバーを握りしめているのはノリアキの手で、ノリアキの上に覆いかぶさっているのは父さんの背中だ。父さんの下でノリアキの足がふらふらと揺れる。ああ、靴下が落ちる、靴下が…
その時まるで魔法のように、半ばソファに埋もれたノリアキの頭が、ころんとこちらに向けられた。ノリアキの視線とあたしの視線は、まるで二本の氷柱がぶつかるように、かちん、と中空で交差した。
ノリアキの瞳がゆっくりと見開かれ、その顔色が蒼白に褪めていくのを、あたしは自分が停止した時間の中に居るみたいな気持ちで見詰めていた。ノリアキの異常に気付いた父さんが、視線を追ってあたしに行きついた時には、もうあたしの足は一歩後ろに引いていた。獣の檻を前にした時みたいな、猛々しい生命感みたいなものが、平和だったはずのリビングに充満してた。そこで剥き出しになった二人の男の素肌と、見たことの無い情欲に塗れた表情。
「気持ち悪い」
あたしは、はっきりとそう言った。視線はふたりに釘付けのままだったけれど、あたしが嫌悪したのはもっと広い、変貌してしまった平和な日常そのものだった。父さんが低くあたしの名を呼んだけど、もう振り返る勇気は無かった。
あたしは一散に駆け出した。玄関ドアを体当たりで開けて、丁度良く来たバスに行き先も確かめず飛び乗った。座席に座ってからようやく全身に震えが来て、あたしは思わず顔を覆った。もう二度と戻れないんだ、あの穏やかで満ち足りた毎日には。自分は見てしまったし、二人は見られたことを知ってしまった。おしまいだ!
どこをどうして辿りついたのか、夜遅くになって再び友だちの家に現れたあたしは随分憔悴していたらしい。友だちやその家の人たちから何を聞かれても、口を開く気力さえ失っていたあたしは、急に熱が出たということになって、次の日の学校を休んでまる一日ベッドを借りる羽目になった。
アイリンは細く長く溜息を吐くと、ぬるくなったジュースを一気に呷った。春の日差しの下に彼女の白い喉が晒される。開けた窓から飛び込んで来る潮風が、ばたばたと彼女の髪を乱していた。
アナキスは口に出して相槌を打つことも、先を促すこともしなかった。二人は少しの時間を、子どもではなく、しかしけして大人でもなかったその頃の彼女が受けた衝撃を、自分に置き変えて味わうことに費やしていた。
飲み切ったジュースの缶を軽い音と共に凹ませて、アイリンは空き缶を置き膝の上で指を組んだ。太陽は徐々に高度を落とし、海辺の風景には少しずつ夕暮れの色彩が混じり始めていた。
その先を語ろうと口を開くアイリンへ、アナキスが気遣わしげに視線を送る。それに軽く首を振って、彼女は笑った。まだ話は始まったばかりで、彼女の家へと続く道はどんどん短くなっていくのだ。休む暇などなかったし、彼女にとって今このタイミングでこれまでの半生を振り返るのは、非常に意味のあることだった。
――丸一日を友だちの所で過ごしたあたしを迎えに来た父さんは、いつもと全く変わらない顔をしていた。あたしはまだ体調が悪いふりをして、まともに父さんの方を見ず、言葉も交わさないまま車に乗り込んだ。
生涯最悪のドライブだったわ。車の中には触れるだけで切れてしまう細い細い糸が、びっしり張り巡らされてるみたいだった。お互い真っ直ぐ前だけを見て、身じろぎすらしなかった。
一日ぶりに見たあたしの家は、遠目からも何かが違ってた。別に色も形も変わって無かったけどね。その違和感の正体は、家に入ったら分かった。…家の中から、ノリアキのものが全て消えていたの。
ノリアキの私物や、ノリアキが買い揃えて置いたもの、ノリアキの手が入ったもの、全てがすっかり、まるで最初から存在しなかったみたいだった。二人が重なり合っていたソファも消え失せて、そこには真新しいダイニングテーブルが我が物顔で陣取っていた。
驚くあたしを尻目に、父さんは何事も無かったように椅子に腰かけ、テレビを付けて新聞を広げた。あたしの予感は確信に変わった――もう、ノリアキには会えないんだって。
胸の中で渦巻くいくつもの質問を、あたしは口にすることができなかった。それらを言うことはつまり、あの夜にあたしが見たものを、現実のものとして受け止めることと同じだった。父さんはノリアキとセックスしてた、あたしはそれを知っている。そういうことを前提条件にしないと話し合えないことだった。
それはあまりにヘヴィな問題だったわ、特に当時のあたしにとっては。父さんとノリアキがどういうつもりでこの生活を送っていたのか…つまり、父さんはノリアキともともと恋人同士だったのか、それならママは何だったのか。それとも最初はただの友達だったのが、親しく暮らすうちにこういうことになったのか。ノリアキはどういうつもりで家に居て、どういうつもりであたしに良くしてくれたのか。そして今ノリアキはどこに居るのか、どうして居なくなったのか、もう二度と会えないのか、父さんはそれでいいのか…。大人同士の事情とか感情とかそういうのはまだあたしには難し過ぎた。
父さんが空白の一日の間にやったことは、あたしの世界からノリアキを全て取り除くことだった。それはあまりにも完璧で徹底されていた。つまりあたしは、口を噤むだけで良かった。何も無かったように、この世界を受け容れるだけ。それだけであたしの暮らしは問題無く流れていく。
だからノリアキはどこへ行ったの、と聞けないままに十年近い月日が過ぎたのは、全部あたしの弱さが悪い。
時間が経つうちにあたしは、ノリアキに全て押しつけることで、自分の身に起こった全てのことを正当化するようになったの。ママが居なくなったのはノリアキのせい、変な噂でいじめられたのもノリアキのせい。あんな奴がいなくなってせいせいしたわってね。
あたしはハイスクールを出て大学に進んだ。進学を機に家を出ることになったけれど、特に感慨も無かったわ。ノリアキが消えて以来、あたしは何故か父さんとも疎遠になっていたから。同じ家に住んでいて疎遠というのもおかしいけど、あまりお互い干渉しない生活になってたの。
ノリアキが居たという現実は、見た目の上では全く無かったことになっていた。でもあたしも父さんも、お互いの後ろに昔居た…今も居るはずだった人の幻を見続けている。だから目を背ける。凄く不健康な感じだった。
自分に嘘を吐き続けるにも限界があるってことだわ。どれだけノリアキに嫌なことをおっかぶせたつもりになっても、心のどこかでそうじゃないって分かってる。自分の嘘を自分が信じられなくなっていた。良心は小さな女の子の形をしてるのよ。その子が泣き叫ぶの。ノリアキはどこ、ノリアキに会いたいって…。
「結局、親父さんはゲイだったわけか」
「そう聞かれるとちょっとあたしも自信が無いんだけど…とにかく人間に興味のない人だから。そもそもママと結婚したのも不思議といえば不思議だし」
窓の外を眺めながら淡々と言うアイリンに、アナキスは問い掛けた。
「愛してなかったのか? 君のママを」
アイリンは少し考えてから、答えた。
「…それは無かったと思うわ。好きでもない人と同居するなんて父さんは絶対できないもの。父さんの人生に、ある時期ママが必要だった、それは間違いないと思う」
「でも二人は決別した」
「決別というか…ママが、付いていけなくなってしまったのね。父さんの生き方に」
「親父さん、学者だっけ? あまり家に居なくて寂しさに耐えかねて…」
「まあそれが大きいと思うけど、それが全てじゃあない。父さんが不在がちな人だってことは結婚前から分かってたわけだし」
アイリンはシートに深く体を預けた。フロントガラスに沈んで行く夕陽に目を細め、手を伸ばし僅かに廂を上げる。顔一杯に残照を受けて、彼女は呟いた。
「ママはとにかく、証拠がほしかったのよ」
「証拠?」
「自分が愛されてるって証拠。自分が空条承太郎の妻として、ここに居てもいいんだって証拠よ」
アナキスが横顔だけで不可解の意思を示したので、アイリンは急いで言葉を付け足した。
「父さんはとにかく口数が少ないし、あまり人の感情の機微に敏感な人でもなかった。落ち込んでるママを慰めるとか、ご機嫌をとるとか、そういうスキルが皆無だったのね」
「言っちゃ悪いがそりゃあ…」
「良い夫ではなかったと胸を張って言えるわ」
アナキスは吹き出した。釣られて笑ったアイリンは、できるだけさっぱりした声に聞こえるよう口を開いた。
「父さんは父さんなりにママのことを愛していたのよ。でもそれはママには伝わりにくかった。ママはずっと悲しんでたわ。だってママは、父さんのことが大好きだったから」
だが、アナキスは少し考えるような仕草を見せて、言った。
「別の考え方はできないか?」
「どういうこと?」
「親父さんはずっとノリアキのことが好きだったのさ。でもいろんなしがらみのせいで結婚はしなきゃいけない。だから自分にぞっこん惚れてる金持ちの娘ととりあえず結婚、裏ではずっとノリアキと繋がってた。離婚してからノリアキが越してくるまで、間が無かったんだろ?」
言い終って彼は、すぐさま顔を顰めた。
「…悪い、不躾なことを言った」
「いいの。あたしだって何回も考えたことなんだから」
アイリンは軽く手を振って彼の謝罪を遮った。そしてきっぱりと言った。
「でも…それはない。何度も言ったけど、父さんは好きでもない相手と同居とか、あまつさえセックスなんて絶対できない人だから。それにね、あたし聞いたのよ」
「何を?」
「父さんとノリアキのこと。…ノリアキが、ずっと父さんに片思いしてたんだって」
――ねえアナキス、あんた運命って信じる?
あたしは信じる。人間は、もしかしたら最初から定められた運命を生きているのかもしれない、何かのアクシデントでそのレールを外れることがあっても、結局は何か大きな力によって元の進路へ戻されるのかもしれないって。
運命を定めるのは神様かもしれないし、そうじゃないかもしれない。あたし、時々思うの。あたし達が生きてるこの世界の他にももっと沢山の世界があって、その沢山の世界には沢山のあたしたちが生活してる。
それで、どこかの世界のあたしたちが、悲しい別れ方をしたり、何か心残りを残して倒れたりした時、その後悔が他の世界の自分たちを動かすの…手を離しちゃだめだよ、その人は君の大事な人だよ、って。
あたしちょっとヤバいかな?なんかね、あんたとこうしてドライブしたのが、初めてじゃないような気がするんだ。既視感とか言うんでしょ。そういうことってよくあるらしいけどさ。
まあ、とにかくあたしが運命って奴を意識した切掛けよ。趣味でボランティアやってる友達がね、慰問先の病院であたしを見たって言うの。病院なんて行ってないって言ったら、あんたの写真よって。あたしにそっくりな女の子の写真を、長期入院の患者さんがベッドサイドに飾ってたって。
ぞくっとしたわ。だって、その患者さん、アジア系だって言うんだもの。ただの勘違いで済ませるにはお膳立てが出来過ぎてた。ノリアキは体があまり丈夫じゃなかった。時々体調を崩しては、父さんが病院まで送ってたの。長期入院…そういうことも、あるかもしれないって思った。
父さんと懐かしい家から離れたことで、逆にあたしの頭は冷静になったみたいだった。もしもあの家に住んでたままだったら、やっぱり現実から目を背けたままだったかもしれない。父さんと一緒に、不健康な平和に浸かっていたかもしれない。でも、もうあたしは独立した自由な大人だった。立ち向かうべき時だと思ったわ。
もっとも、雨に降られて乗り合わせた四人の男女は、初対面だというのにまるで旧知の友人であったかのように互いに親しみ合った。散々喋った後にようやく自己紹介を始める彼らの様子を、エンポリオは喜びとも悲しみとも付かない、何か眩しいものを仰ぐような表情で見詰めていた。
通り雨が去った後、彼らは連絡先を交換してそれぞれの生活の場へと散って行った。見送りのために車を降りていた青年は、立ったままぐっと伸びをする。それを見計らったように差し出された缶コーヒーに、彼は破顔した。
「ありがとう、アイリン」
「あたしのおごりよ。運転お疲れ様」
ぱちんとウインクして、アイリンは自分のジュースのプルタブを開けるとごくごくと飲み干した。三時間ほどのドライブのつもりが、思いがけない出会いによって寄り道と回り道をすることになり、予定よりも幾分遅れている。
「連絡しとかなきゃ、心配するかな」
「昼過ぎに着くって言ったんだろ?まだ大丈夫じゃないのか」
恋人はそう言って笑ったが、アイリンは曖昧に微笑み返して携帯電話を手に取った。ほんの僅かの操作だけでそれを耳に当てた彼女は、少しの間の後で勢いよく喋り出す。ごめんなさい、色々あってもう少し掛りそうなの。そう、心配しないで。
通話を切ったアイリンに、アナキスは不思議そうに言った。
「随分と過保護な親父さんなんだな」
彼女の家が父子家庭であることはアナキスも先刻承知のことだった。それにしても、このやんちゃなアイリンの父親がそんなにも細やかに娘の心配をするのか、ということが意外だったのだ。しかしその言葉を聞いて、アイリンは何とも複雑そうな表情を浮かべた。
「あのね、アナキス…」
彼女が口を開いたのは、再び車が走り始めてからだった。目指すはマイアミ、海辺の家だ。徐々にリゾート地の様相を呈してくる海岸線の道路、両側には椰子の木が一列に並び揺れていた。昼下がりの潮風に吹かれるアイリンの横顔をアナキスは見詰めた。
「これから行く、あたしの家には父さんが住んでいて…でも、もう一人」
曖昧な場所で言葉を切るアイリンに、アナキスは問い掛けた。
「親父さんの恋人?」
「まあ、そうなるわね」
「煮え切らない言い方だな。君と気が合わないとか?」
「いいえ。あの人はあたしの家族よ。あたしのもう一人の親」
強烈な日差しに目を細め、アイリンはフロントガラスの日除けを下ろす。再びシートに背を預けた彼女の顔には僅かな陰りが出来ていて、しかしそれは日影のせいだけではないようにアナキスは感じた。
「あたしは昔、あの人にとても酷いことをしてしまったの。たとえ彼が許してくれたとしても、自分で自分を許せないような…」
ひとつ、静かに呼吸をしてから、アイリンは言った。
「話を聞いてくれるかしら。とても大切な話よ」
アナキスは、アイリンが今日彼の車に乗ってからずっと、何かを言いだす機会を伺っている様子だったのに気付いていた。
それをあえて指摘しなかったのは、勿論彼女が口を開くのを急かすつもりが無かったということだが、いつもは思ったことを隠そうとしない彼女が言葉にするのを躊躇うほどの話題に、少し怯えていたせいもある。
まさかこの期に及んで別れようなんて言わないだろうな、とまで思い詰めていた彼は、どうやらそれが思い過ごしだったと悟ってむしろ安堵した。しかしアイリンの様子は真剣、むしろ悲壮とも言うべき物で、彼は緩みかけた頬を再び引き締める。
彼女の両親に結婚の許しを得に行くのだと言ったとき、エンポリオ少年の浮かべた表情が、ふとアナキスの脳裏に蘇った。彼は助手席のアイリンへ、普段通りの笑顔を見せながら、何でも言ってくれ、と軽い仕草で促した。
――あたしがまだ小さい頃、ママは家を出て行った。その頃のあたしには大人の事情なんて良く分からなかったけど、家に帰っても大好きなママが居ないっていうのはそれなりにショックだったわ。
でも、良かったとも思ったの。嘘じゃないわ。ママはいつも父さんが居なくて寂しいって泣いてたから。…そんなに簡単な言葉じゃなかったかもしれないけど、あたしはそういうことだと納得してた。だからママがもう夜に泣かなくて済む所に行くっていうなら、しょうがないって思った。
別に今生の別れってわけじゃないわ。今でもママとは時々会うし。幸せそうな彼女を見るたび、両親の選んだ道は間違っていなかったと思う。この形に至るためのステップだったと思えば、両親の結婚だって失敗とは言い切れないわね。
…だから、ママの話はこれでお終い。あたしが言いたいのはね、ママが家から居なくなって、その後あたしと一緒に居てくれた人のこと。その人はノリアキと言って、まるで空気みたいにすんなりとあたしの生活に溶け込んだ。
ノリアキは父さんのハイスクールの頃からの友だちだった。そう、日本人よ。ずっと日本で暮らしていたんだけど、仕事の都合でアメリカに来たんだって。あたしの家のすぐ近くに住んでいて、家に居ないことの多い父さんの代わりにあたしの面倒を見てくれたの。
あたしはノリアキが大好きだった。ママはあたしの目から見ても、壊れ物みたいに繊細な人だったから、子ども心に気を使ってた所があったのね。こんなことを言ったら心配させるかなとか、このことを聞きたいけど悲しませそうだから聞けないとか…。でもノリアキに対してそういうことを考えたことは一度もなかった。
根本的に、あたし達は気が合ったんだと思う。ママにとても愛されて育ったけれど、あたしの中にはどこか寂しさがあって…まあ親父のせいだろうけど…しかもママはそういう、愛されなきゃ生きていけないみたいな雰囲気の人だったから、どうしても背伸びして大人にならなきゃいけない部分があった。そういう微妙に捻くれた部分が合致したのよ、きっと。
あたしはノリアキが大好きだった、本当にね。時を経るごとに父さんが家に居る時間も増えていって、あたしが学校から戻ったら二人がのんびりテレビを見てる、なんてことも良くあった。あたしはあたしが居ない間ノリアキを独り占めした父さんが羨ましくてしょうがなかったわ。そういう時あたしは鞄も下ろさずにノリアキの膝に飛び乗るの。ノリアキは笑って言ってくれたわ。お姫様、何をご所望ですか?ココア、クッキー、それとも…。そしたらあたしは叫ぶの。ノリアキよ! って。
友だちとギクシャクした時も、男の子からラブレターを貰った時も、あたしはノリアキに相談した。父さんが嫌いなわけじゃないけれど、父さんはそういうことに不向きな人だって分かってたもの。ませてたでしょ、あたし。
ノリアキはあたしの気持ちをいつもよく察してくれて、絶対に無理矢理立ち入るようなことをしなかった。それでいて、あたしが傷付いた時には絶対傍に居てくれて、どんな言葉でも受け止めてくれた。子どもの頃にノリアキが一緒に居てくれて本当に良かったと思う。そうじゃなきゃあたし、グレて暴走族にでもなって刑務所にブチ込まれてたわ。
でも、時間は流れる。あたしは成長する。
中学に入ったあたしは、まあちょっとおてんばな子で、男子相手だろうが喧嘩で負けたことがなかった。その日もくだらない因縁を付けて来た奴を黙らせようとしたの。まずは口で、それでも駄目なら拳でね。でもあたしが拳を振り上げる前にその下品な野郎はこう言った…このアバズレ女、ホモの娘って。
「ちょっと、待ってくれ」
遮るアナキスの声が思いがけず大きくて、アイリンは続けようとした言葉を飲み込んだ。
「ノリアキっていうのは男なのか?」
ノリアキ、という単語をアナキスはいかにも苦労して無理矢理口から捻り出した。アメリカ人からすれば発音することはもちろん、意味ある言葉として聞き取ることも難しい、不可解な音だった。昔は自分にとってもそうだったのだろう、と思いながら、アイリンは答えた。
「そうよ、ノリアキは男性。あーごめん、分からないわよね日本人の名前って変だから。もしかしてずっと勘違いして聞いてた?」
「流れとしてそれが当たり前だろ」
拗ねたように言い返すアナキスに、笑いながら謝って、アイリンは問い掛けた。
「…気にする?」
努めてさりげない風を装ったつもりだったが、アイリンの声は僅かに強張った。それを何となく察したアナキスは、ハンドルから右手を離し、優しくアイリンの頭を撫でた。思いがけなく子どものような扱いをされて、嬉しさと気恥しさの入り混じった表情のアイリンに、アナキスは言った。
「俺の仕事仲間にも何人か居る。そう特別なことじゃないだろ。それよりも、親父さんに恋人が居て良かった。君を攫っていく罪悪感が少し薄れる」
大仰にウインクしてみせるアナキスの背中を冗談で叩き、アイリンは少し笑った。彼の優しさが、この先を言おうとするアイリンの口を鈍らせる。孤独な夜に何度も何度も反芻しては、その度に自分を責め続けた結果、彼女はその時のことをかなり客観的に捉えられるようにはなっていた。しかし、誰かに心境を打ち明けるのは、これが初めてのことだった。
「話を続けてもいいかしら、アナキス。あまり言いたくないし…知って欲しくも無いの、本当は。だけど言わなければならないと思うから…あんたにあたしたちのことを、きちんと理解して欲しいから…だから、言うわ。あたし」
アナキスは僅かに首を傾げ、そして先を促すように目を伏せた後、真っ直ぐに目の前の道へ視線を移した。
――その最悪に下品な言葉を聞いて以来、あたしの中で確かに何かが変わった。あんな奴の言うことなんて真に受ける方がバカだって分かってたのよ。だけどあたしだって、もう子どもじゃなかった。見た目が良くてお金もあるのに再婚しない父さんのところに、良い年してずっと独り身の『親友』が毎日のように通ってくる現実を、世間がどういう風に噂してるのか。
あたしは以前ほどノリアキにべたべたしなくなった。でもノリアキはそれを、あたしが成長したからだってあまり気にしてないみたいだった。ノリアキは今までと同じようにあたしと父さんの生活の一部だった。あたし達の暮らしは静かで穏やかで、何の過不足もなく完成されていた。
あたしはこの生活がいつまでも続くように心のどこかで願っていたと思う。口さがない世間の噂なんて全部的外れな妄想なんだ、ノリアキは父さんの親友であたしはノリアキのお姫様、三人でいつまでも仲良く暮らすんだって。だけど…夢の終わりは唐突だった。
その夜、あたしは友だちの家に泊まるって言って家を出た。みんなで集まってテストの勉強をするとかそういう言い訳だったけど、単に遊びたかっただけよ。一旦は友だちの家に着いたんだけど、あたしは忘れものに気付いた。ずっと借りっぱなしのCD、今日こそは返すって約束だったの。いい加減貸してくれた子も怒ってたし、このお泊まり会には次に借りることになってる子も来てた。あたしは心底面倒だったけど、しょうがないから取りに帰った。バカみたいってぶすくれながらね。
夜の住宅街はひっそり静まり返って、まるで息を潜めてるみたいだった。遠くから波の音がまるであたしを追い掛けるみたいに響いてきて…なんだろう、虫の知らせだったのかもしれない。帰っちゃいけない、見ちゃいけないっていうような。
家の前に立ったあたしは、自分でもなぜだか分かっていなかったけど、凄く静かに鍵を開けた。そっと滑り込んだ扉の中は、あたしが知ってる家の雰囲気じゃあなかった。きっとあの時はもう、あたしだって分かってたんだ。ちゃんと言葉にはできてなかったにしても、今この家の中で何か…あたしにとってショッキングな何かが起こってるんだって。
ふわふわと、地に足も着かないような気分で廊下を渡ったあたしは、震える手でダイニングに続く扉を押し開けた。外から帰って来た時、いつも同じようにする動作よ。この時間ならテレビがニュースかクイズ番組をやっていて、向かいのソファでノリアキがコーヒーを飲んでいる。隣に腰掛けた父さんは新聞か雑誌か本を読んでいて、二人いっぺんにこっちを振り向き「おかえり」って言ってくれる…
幻想の後、あたしの目に映ったのは異様な光景だった。
ソファからにゅっと突き出した白い足に、まずあたしの目は奪われた。白くて細い、だけどしっかりした男性の足。くっきりと出たくるぶしの骨の先に、くしゃくしゃになった靴下が引っ掛かってた。あたしはその靴下に見覚えがあった。
ノリアキだ。
ようやく現実を捉えたあたしの目は次々にそこにあるものを捉え、視界に入った物の意味を脳は冷静に解き明かして行った。ローテーブルの下に落ちたベルト。引き摺られて落ちたソファのカバー。そのカバーを握りしめているのはノリアキの手で、ノリアキの上に覆いかぶさっているのは父さんの背中だ。父さんの下でノリアキの足がふらふらと揺れる。ああ、靴下が落ちる、靴下が…
その時まるで魔法のように、半ばソファに埋もれたノリアキの頭が、ころんとこちらに向けられた。ノリアキの視線とあたしの視線は、まるで二本の氷柱がぶつかるように、かちん、と中空で交差した。
ノリアキの瞳がゆっくりと見開かれ、その顔色が蒼白に褪めていくのを、あたしは自分が停止した時間の中に居るみたいな気持ちで見詰めていた。ノリアキの異常に気付いた父さんが、視線を追ってあたしに行きついた時には、もうあたしの足は一歩後ろに引いていた。獣の檻を前にした時みたいな、猛々しい生命感みたいなものが、平和だったはずのリビングに充満してた。そこで剥き出しになった二人の男の素肌と、見たことの無い情欲に塗れた表情。
「気持ち悪い」
あたしは、はっきりとそう言った。視線はふたりに釘付けのままだったけれど、あたしが嫌悪したのはもっと広い、変貌してしまった平和な日常そのものだった。父さんが低くあたしの名を呼んだけど、もう振り返る勇気は無かった。
あたしは一散に駆け出した。玄関ドアを体当たりで開けて、丁度良く来たバスに行き先も確かめず飛び乗った。座席に座ってからようやく全身に震えが来て、あたしは思わず顔を覆った。もう二度と戻れないんだ、あの穏やかで満ち足りた毎日には。自分は見てしまったし、二人は見られたことを知ってしまった。おしまいだ!
どこをどうして辿りついたのか、夜遅くになって再び友だちの家に現れたあたしは随分憔悴していたらしい。友だちやその家の人たちから何を聞かれても、口を開く気力さえ失っていたあたしは、急に熱が出たということになって、次の日の学校を休んでまる一日ベッドを借りる羽目になった。
アイリンは細く長く溜息を吐くと、ぬるくなったジュースを一気に呷った。春の日差しの下に彼女の白い喉が晒される。開けた窓から飛び込んで来る潮風が、ばたばたと彼女の髪を乱していた。
アナキスは口に出して相槌を打つことも、先を促すこともしなかった。二人は少しの時間を、子どもではなく、しかしけして大人でもなかったその頃の彼女が受けた衝撃を、自分に置き変えて味わうことに費やしていた。
飲み切ったジュースの缶を軽い音と共に凹ませて、アイリンは空き缶を置き膝の上で指を組んだ。太陽は徐々に高度を落とし、海辺の風景には少しずつ夕暮れの色彩が混じり始めていた。
その先を語ろうと口を開くアイリンへ、アナキスが気遣わしげに視線を送る。それに軽く首を振って、彼女は笑った。まだ話は始まったばかりで、彼女の家へと続く道はどんどん短くなっていくのだ。休む暇などなかったし、彼女にとって今このタイミングでこれまでの半生を振り返るのは、非常に意味のあることだった。
――丸一日を友だちの所で過ごしたあたしを迎えに来た父さんは、いつもと全く変わらない顔をしていた。あたしはまだ体調が悪いふりをして、まともに父さんの方を見ず、言葉も交わさないまま車に乗り込んだ。
生涯最悪のドライブだったわ。車の中には触れるだけで切れてしまう細い細い糸が、びっしり張り巡らされてるみたいだった。お互い真っ直ぐ前だけを見て、身じろぎすらしなかった。
一日ぶりに見たあたしの家は、遠目からも何かが違ってた。別に色も形も変わって無かったけどね。その違和感の正体は、家に入ったら分かった。…家の中から、ノリアキのものが全て消えていたの。
ノリアキの私物や、ノリアキが買い揃えて置いたもの、ノリアキの手が入ったもの、全てがすっかり、まるで最初から存在しなかったみたいだった。二人が重なり合っていたソファも消え失せて、そこには真新しいダイニングテーブルが我が物顔で陣取っていた。
驚くあたしを尻目に、父さんは何事も無かったように椅子に腰かけ、テレビを付けて新聞を広げた。あたしの予感は確信に変わった――もう、ノリアキには会えないんだって。
胸の中で渦巻くいくつもの質問を、あたしは口にすることができなかった。それらを言うことはつまり、あの夜にあたしが見たものを、現実のものとして受け止めることと同じだった。父さんはノリアキとセックスしてた、あたしはそれを知っている。そういうことを前提条件にしないと話し合えないことだった。
それはあまりにヘヴィな問題だったわ、特に当時のあたしにとっては。父さんとノリアキがどういうつもりでこの生活を送っていたのか…つまり、父さんはノリアキともともと恋人同士だったのか、それならママは何だったのか。それとも最初はただの友達だったのが、親しく暮らすうちにこういうことになったのか。ノリアキはどういうつもりで家に居て、どういうつもりであたしに良くしてくれたのか。そして今ノリアキはどこに居るのか、どうして居なくなったのか、もう二度と会えないのか、父さんはそれでいいのか…。大人同士の事情とか感情とかそういうのはまだあたしには難し過ぎた。
父さんが空白の一日の間にやったことは、あたしの世界からノリアキを全て取り除くことだった。それはあまりにも完璧で徹底されていた。つまりあたしは、口を噤むだけで良かった。何も無かったように、この世界を受け容れるだけ。それだけであたしの暮らしは問題無く流れていく。
だからノリアキはどこへ行ったの、と聞けないままに十年近い月日が過ぎたのは、全部あたしの弱さが悪い。
時間が経つうちにあたしは、ノリアキに全て押しつけることで、自分の身に起こった全てのことを正当化するようになったの。ママが居なくなったのはノリアキのせい、変な噂でいじめられたのもノリアキのせい。あんな奴がいなくなってせいせいしたわってね。
あたしはハイスクールを出て大学に進んだ。進学を機に家を出ることになったけれど、特に感慨も無かったわ。ノリアキが消えて以来、あたしは何故か父さんとも疎遠になっていたから。同じ家に住んでいて疎遠というのもおかしいけど、あまりお互い干渉しない生活になってたの。
ノリアキが居たという現実は、見た目の上では全く無かったことになっていた。でもあたしも父さんも、お互いの後ろに昔居た…今も居るはずだった人の幻を見続けている。だから目を背ける。凄く不健康な感じだった。
自分に嘘を吐き続けるにも限界があるってことだわ。どれだけノリアキに嫌なことをおっかぶせたつもりになっても、心のどこかでそうじゃないって分かってる。自分の嘘を自分が信じられなくなっていた。良心は小さな女の子の形をしてるのよ。その子が泣き叫ぶの。ノリアキはどこ、ノリアキに会いたいって…。
「結局、親父さんはゲイだったわけか」
「そう聞かれるとちょっとあたしも自信が無いんだけど…とにかく人間に興味のない人だから。そもそもママと結婚したのも不思議といえば不思議だし」
窓の外を眺めながら淡々と言うアイリンに、アナキスは問い掛けた。
「愛してなかったのか? 君のママを」
アイリンは少し考えてから、答えた。
「…それは無かったと思うわ。好きでもない人と同居するなんて父さんは絶対できないもの。父さんの人生に、ある時期ママが必要だった、それは間違いないと思う」
「でも二人は決別した」
「決別というか…ママが、付いていけなくなってしまったのね。父さんの生き方に」
「親父さん、学者だっけ? あまり家に居なくて寂しさに耐えかねて…」
「まあそれが大きいと思うけど、それが全てじゃあない。父さんが不在がちな人だってことは結婚前から分かってたわけだし」
アイリンはシートに深く体を預けた。フロントガラスに沈んで行く夕陽に目を細め、手を伸ばし僅かに廂を上げる。顔一杯に残照を受けて、彼女は呟いた。
「ママはとにかく、証拠がほしかったのよ」
「証拠?」
「自分が愛されてるって証拠。自分が空条承太郎の妻として、ここに居てもいいんだって証拠よ」
アナキスが横顔だけで不可解の意思を示したので、アイリンは急いで言葉を付け足した。
「父さんはとにかく口数が少ないし、あまり人の感情の機微に敏感な人でもなかった。落ち込んでるママを慰めるとか、ご機嫌をとるとか、そういうスキルが皆無だったのね」
「言っちゃ悪いがそりゃあ…」
「良い夫ではなかったと胸を張って言えるわ」
アナキスは吹き出した。釣られて笑ったアイリンは、できるだけさっぱりした声に聞こえるよう口を開いた。
「父さんは父さんなりにママのことを愛していたのよ。でもそれはママには伝わりにくかった。ママはずっと悲しんでたわ。だってママは、父さんのことが大好きだったから」
だが、アナキスは少し考えるような仕草を見せて、言った。
「別の考え方はできないか?」
「どういうこと?」
「親父さんはずっとノリアキのことが好きだったのさ。でもいろんなしがらみのせいで結婚はしなきゃいけない。だから自分にぞっこん惚れてる金持ちの娘ととりあえず結婚、裏ではずっとノリアキと繋がってた。離婚してからノリアキが越してくるまで、間が無かったんだろ?」
言い終って彼は、すぐさま顔を顰めた。
「…悪い、不躾なことを言った」
「いいの。あたしだって何回も考えたことなんだから」
アイリンは軽く手を振って彼の謝罪を遮った。そしてきっぱりと言った。
「でも…それはない。何度も言ったけど、父さんは好きでもない相手と同居とか、あまつさえセックスなんて絶対できない人だから。それにね、あたし聞いたのよ」
「何を?」
「父さんとノリアキのこと。…ノリアキが、ずっと父さんに片思いしてたんだって」
――ねえアナキス、あんた運命って信じる?
あたしは信じる。人間は、もしかしたら最初から定められた運命を生きているのかもしれない、何かのアクシデントでそのレールを外れることがあっても、結局は何か大きな力によって元の進路へ戻されるのかもしれないって。
運命を定めるのは神様かもしれないし、そうじゃないかもしれない。あたし、時々思うの。あたし達が生きてるこの世界の他にももっと沢山の世界があって、その沢山の世界には沢山のあたしたちが生活してる。
それで、どこかの世界のあたしたちが、悲しい別れ方をしたり、何か心残りを残して倒れたりした時、その後悔が他の世界の自分たちを動かすの…手を離しちゃだめだよ、その人は君の大事な人だよ、って。
あたしちょっとヤバいかな?なんかね、あんたとこうしてドライブしたのが、初めてじゃないような気がするんだ。既視感とか言うんでしょ。そういうことってよくあるらしいけどさ。
まあ、とにかくあたしが運命って奴を意識した切掛けよ。趣味でボランティアやってる友達がね、慰問先の病院であたしを見たって言うの。病院なんて行ってないって言ったら、あんたの写真よって。あたしにそっくりな女の子の写真を、長期入院の患者さんがベッドサイドに飾ってたって。
ぞくっとしたわ。だって、その患者さん、アジア系だって言うんだもの。ただの勘違いで済ませるにはお膳立てが出来過ぎてた。ノリアキは体があまり丈夫じゃなかった。時々体調を崩しては、父さんが病院まで送ってたの。長期入院…そういうことも、あるかもしれないって思った。
父さんと懐かしい家から離れたことで、逆にあたしの頭は冷静になったみたいだった。もしもあの家に住んでたままだったら、やっぱり現実から目を背けたままだったかもしれない。父さんと一緒に、不健康な平和に浸かっていたかもしれない。でも、もうあたしは独立した自由な大人だった。立ち向かうべき時だと思ったわ。
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