2-

 あたしは久しぶりに実家に帰った。大学に入って初めてね。可愛げの無い娘だって自分でも思うけど、出迎えた父さんだって素っ気無いもんだったわ。まあ、別に話すことも無いし。テーブルを挟んで腰掛けて、必要最低限の言葉で近況報告をしたら、もうそれで終わり。
 気まずいとは言わないけど居心地の悪い沈黙の中で、あたしはぼんやりコーヒーを掻き混ぜ続けていた。こっくりとした茶色の液体が微かに渦を作りながらくるくると回る…。
 なぜか最初の一言は、驚くほどすんなりとあたしの口から飛び出した。

「父さん、聞きたいことがあるの」
「なんだ改まって」
 本を読んでいた父さんは、そのままの姿勢で視線だけをあたしに寄越した。あたしはその視線から目を逸らしそうになったけれど、ぐっと踏みとどまった。そして、ようやくその名前を口にした。
「…ノリアキの、こと」
 きっちり三度呼吸して、父さんは低い声で答えた。
「…その話は、二度としないと決めている」
「どうして」
 すぐさま問い返したあたしに、父さんは言った。
「ずっとお前を騙していたからだ。俺の不注意で…いや、思い上がりでアイリン、本当にお前には済まないことをした。もう二度と思い出す必要は無い」

「どうして!」
 父さんは驚いたようにあたしを見た。あたしは震える声で訴えた。
「あたしが、酷いことを言ったから?」
 半ばあたしを遮るようにして、父さんはすぐさま答えた。
「俺が酷いことをしてたんだ。お前に対する裏切りだ」
「違うの父さん。あたしは…あたしは、そんなつもりじゃなかった。あの頃あたしはまだ子供で、考えも浅くて狭くて幼くて、何かをよく考えて口にするってこともしなかった。咄嗟に、反射的に口が動いちゃっただけなのよ」
 なんとか言葉を尽くそうとしたあたしには、父さんの言葉が無慈悲にすら思えた。
「つまりそれがお前の本心だったということだろう。何も変わりはない」
 思わず頭に血が上ったまま、あたしは言った。

「大ありだわ。最初あたしはノリアキのことを忘れようと思った。あんな奴居なくなってせいせいしたって、これで父さんに妙な噂が立つこともなくなるし、もしかしたらママが家に帰ってくるかもしれない、なんて。でもそれは本心じゃないの。あたし、ずっと自分の気持ちを見ないふりしてきたの。そうじゃないと、自己嫌悪で死にたくなるから」
「アイリン…」
 中途半端に差し出されて空中で留まる父さんの手が、まさに彼の今の気持ちを代弁しているようだった。

「あのね父さん。あたし、ノリアキが大好きだったの。父さんと同じくらい、大好きだったのよ」
 言葉に詰まる父さんもお構いなしに、あたしは思いのたけをぶちまけた。
「確かにあの夜はびっくりしたわよ。でも、時間が経って自分が大人になるにつれて、色んなことを考えるようになって…そのたびに苦しくて…あたしはノリアキを傷つけてしまった。あんなに大好きだったノリアキを、あたしは最悪の形で突き飛ばしてしまった!」
 ぼろぼろに泣きながら声を荒げるあたしを、父さんは信じられない物でも見るかのように眺めていた。遂に喉が詰まってしまって黙りこくり、ただしゃくりあげるばかりのあたしは、それでも葛藤し思い悩む父さんの重苦しい気配を感じていた。
「…ノリアキは、今どこに居るか、知ってる?」

 掠れた声でやっとそれだけ問い掛けたあたしに、父さんは低すぎてもう唸り声みたいになった声で答えた。
「知らん」
「父さん」
「本当だ。俺たちはあれから一度も連絡を取り合っていない。…もう生きていないかもしれん」
「なんですって!?」
 驚きで声が引っくり返ったあたしに、父さんは淡々と言った。

「あいつは昔、事故で大怪我をしてな。腹にでかい穴をあけて、どうにか一命を取り留めたんだ。臓器も骨も無理矢理に繋げて塞いでなんとか生きてるが、長く生きられんのは分かり切ったことだった」
「そんな…それじゃあ…」
 あたしは半ば椅子から浮いていた腰を、もう一度沈み込むように落ち付けた。幼い頃の記憶が次々に蘇った。雨の前には、いつも体調を崩していたノリアキ。心配してベッドの周りをうろちょろするあたしに、彼はいつも大丈夫だよって笑ってくれたけど、その顔は真っ青だった。ちょっとした風邪でもすぐにノリアキを病院へ連れて行く父さんの、真剣そのものな表情まで一緒に蘇ってきて、あたしは思わず息を飲んだ。

「ノリアキをアメリカに呼んだのは、父さん?」
「そうだ」
「…少しでも長く、一緒に居たかったから?」
「…そうだ」
 ああ、と声を洩らしてあたしは顔を覆った。自分のしたことの重大さが、今更になってぎりぎりと首を締め上げられるように骨身にしみて感じられた。どうすれば一番良かったのか、なんて分からないし考えてももう仕様の無いことだけれど、それにしてもすぐに…ノリアキの行方を、父さんの真意を訊ねていたならば!
 あれほどまでに自分の弱さを憎んだことはなかった。顔を上げることができないあたしを、壁掛け時計の秒針が追い詰める。かち、かち、かち、音を立てて時間は流れ、そして二度と戻らないのだ。

 打ちひしがれたあたしの姿に、父さんも思うところがあったようだった。彼はゆっくり息を吐きだすと、読みかけの本に栞を挟みテーブルの上に静かに置いた。そのまま肘を付き、口元を隠すように手を組んで、深く考え込むような仕草を見せる。アンニュイな目付きは、一瞬だけ彼を父ではなく一人の男として、あたしから切り離して見せた。
「…前にも一度、あいつと連絡が取れなくなったことがある。今みたいに…互いに示し合わせてのことじゃあなく、一方的に、あいつが俺との関わりを断った」
「喧嘩をしたの?」
 言った後であたしはその言葉のあまりのチープさにげんなりした。でもあたしの微かな心の動きなど意にも介さず、父さんは軽く首を振って言った。
「俺が結婚したからだ。あいつは俺に惚れていた」

 あたしは唇を僅かに開けたまま、言葉に詰まって父さんの顔を凝視した。そのシンプルな言葉は、その言葉から容易に考えられる膨大な、そして複雑な感情のうねりに対して余りにも端的過ぎた。
「そのことを俺が知ったのは、結婚して、離婚して、その後なんだがな。つくづく鈍い野郎だとてめえのことながら呆れる。ぱったり連絡を寄越さなくなったあいつのことは勿論気にかかってはいたが、なんせアメリカと日本だ。気軽に会いに行くこともできねえし、俺自身が連絡の取りにくい身上だったこともある。そうこうしてる間にお前の母親とこういうことになって…ようやく俺は日本に、あいつを探しに行ったんだ」
 父さんの言葉の先が読めず、あたしは組まれた大きな手をただ見つめていた。
「拍子抜けしたぜ、あいつはずっと同じ家に住んでた。大学時代、俺たちが一緒に住んでた家に、一人でな。あれには参った。俺が置いてったがらくたも、全部場所すら変えずにそのままだったから」
 ふ、と父さんは瞳を閉じた。それは少し長い瞬きだったのかもしれないけれど、あたしに彼らの歩んだ道のりの長さを思わせるには十分な余韻だった。

 あたしはノリアキの辛い恋心と、その恋が破れる前に朽ち果てる様を想像した。そして、朽ち果てた恋と共に日々を過ごすノリアキを見つけた、その時の父さんの受けた衝撃を。想像の中のノリアキの表情に、あの夜あたしを見詰め返した蒼褪めた顔が重なって、あたしはぽつりと呟いた。
「ノリアキ、驚いてたでしょう」
「ああ。とっさにドアを閉めようとしやがったな」
 少し落ち付いたようで、父さんはすっかり冷めきったはずのコーヒーカップを手に取った。釣られてあたしも一口飲み込む。インスタントの薄い味だ。昔この家にあったコーヒーメーカーは、ノリアキが選んだものだった。
「それで?」
「ん…」
 先を促すあたしに、父さんは僅かに言葉を濁した。でもここまで来て引き下がる気つもりはなかった。
「それで、どうしたの?」
 問い掛けたあたしの顔を見返すと、父さんはカップに残ったコーヒーを一気に呷って、低く確かな声で言った。

「ひと晩かけて、口説き落とした」
 目を見開いたあたしに、父さんは朗々と続けた。
「こいつしかいねえと思った。俺が惚れられてることも痛いほど分かった。そう考えたら、今までの色んなことに一気に辻褄が合ったからな。そうと決まれば後は押しまくるだけだ。すぐにイエスと言わせたぜ」
「強引…」
 思わずあたしは、ちょっと笑ってしまった。少し解けた雰囲気に、父さんも唇の端を上げた。
「何とでも言え。俺の初恋だ」
「…マジ?」
「大マジ」
 身を乗り出したあたしに、父さんは粛然と頷いた。咄嗟に「ママは」と聞こうとして、やめた。父さんがママを大切に思っていたことも、今のあたしには分かり切っている。愛情や恋心に細かな名前を付けて区別させることに、意味があるとは思えなかった。だからあたしは言った。

「どうしてそんなに大切なものを、切り捨ててしまえたの?」
 父さんは、躊躇なく答えた。
「お前が大切だったからだ、アイリン。お前は俺の娘だ」
 父さんの目は射抜くような強さであたしに向けられていた。
「花京院も俺と同じ意見だった。あいつはお前を傷つけてしまったことを、別れ際まで悔やみ続けていた」
 別れ際。父さんとノリアキの、別れ。息苦しくなるほどの胸の痛みに俯いたあたしに、父さんの淡々とした声が降って来る。
「あいつとお前と三人での暮らしが、俺には心地よくて仕様がなかった。だからつい、甘えてしまった。そのことでお前がどんな思いをすることになるか、少し考えれば分かることだったのに。片親の子、そのうえ親父はゲイだなんてことになれば、辛い目に合うのはお前だと」
 自らを罰するような父さんの言葉はまだ続きそうだったが、あたしは言葉を被せるように言った。
「あたし、辛いことなんて何も無かったわ」

 嘘でもなんでもなかった。あたしは本当に、心の底から、そう思った。世間から押し付けられた少々の不都合と不自由も、あの夜を境に自分で作りあげた怒りと憎しみも、全てを「許す」と思えた。飛行機の上から地上の夜景を眺め下ろした時、目に映る光の一粒一筋に人々の営みと喜怒哀楽、それぞれの物語が秘められていることを感じ、口元が緩む、そんな感覚。
 あたしたちはこんなにも小さく、無力だ。ちっぽけな自分の心ひとつ守り切れず、時間に削られ世界に擦り切れ…そうして最後は消えていく。誰ひとりの例外も無く。
「…ありがとう、アイリン」
 零れ落ちた父さんの声に、あたしは小さく首を振った。

「父さん、もしも…」
「何だ?」
 言い掛けて口を噤んだあたしに、父さんは少し首を傾げる。あたしは言葉を飲み込み、笑って言った。
「…何でもない。あたし、明日早いからもう寝るね」
「出かけるのか?」
「うん。おやすみ、父さん」
 後ろ手でリビングの扉を閉める瞬間、背後の部屋の空気が緩んだのが分かった。ノリアキのことを告白するのは、父さんにとっても緊張することだったんだ。あたしは嬉しいような、気恥しいような、妙な気分になった。



「…その夜の眠りは、特別深いものだった。夢の中で懐かしい声を聞いた気がしたけど、あれは誰の声だったんだろう。ノリアキ? ママ? そうかもしれないし、違うかもしれない。もしかしたらアナキス、あんたの声だったかもしれないわね」
「別の世界で別れた俺たちが…って奴か」
 僅かに微笑みながら、アナキスはハンドルを切る。やっぱあたし頭がオカシイかな? などと茶化そうとしたアイリンへ彼は言った。
「何となく分かる気がする、その感覚。たまに、初めて会ったとは思えない奴が居るよな。さっき、通り雨で拾った奴らとか…」
「そう! そうでしょ!」
 我が意を得たりとばかりにアイリンはシートから半身を跳ね起こした。
「たぶん、長い付き合いになるわ」

 根拠の無い断定だったが、アナキスも無言で頷いた。それは予感というよりは、むしろ確信に近かった。本当に昔どこかで出会っていたのではないかとアナキスは一瞬考えたが、すぐに苦笑する。彼も、勿論アイリンも、遠い昔の記憶を掘り起こせるほどには、まだ長く生きていなかった。
「親父さんたちは、ハイスクールで出会ったんなら…」
「にじゅう…ごねん? じゃないかしら」
 アナキスの言葉足らずな問い掛けに、アイリンは的確に答えた。彼女もまた、彼と同じことを考えていたのかもしれない。
「…長いな」
「…うん」
 言葉を選びあぐねた結果、ありきたりな感想しか出せなかったアナキスに、アイリンは相槌を打つに留めた。そうして一度溜息をつき、ゆっくりと口を開く。
「…話の続きはね、つまり、そういうことなの」
 カーブを曲がる車の振動に身を委ねたまま、軽く目を閉じてアイリンは喋り始めた。過去の記憶に没頭しているその姿は、まるで託宣を享ける巫女のようにアナキスの目に映った。


 ――友達から病院の名前と場所を教えて貰って、あたしは次の日に独りで出掛けた。地方都市の総合病院は思ったよりも大きくて、この建物のどこかにノリアキが居るんだってことに全然現実味を感じられなかった。
 受付でノリアキの名前を出して、教えられた部屋へ向かうまでの間、あたしは何を考えてたんだろう。最初に何て言うかとか…何て謝るかとか。きっとそういうことだったと思う。彼の病室に向かう廊下はとても長く感じた。

 夕暮れの病室の隅で、ノリアキは小さく眠っていた。四人部屋だったけれど、今この部屋に暮らしているのはノリアキだけみたいだった。本当にノリアキが小さく見えて、あたしは何度も瞬きしたわ。彼の身長はけして低くはなかったはずなのに、真っ白な病室の真っ白なベッドの上で、彼の存在は掻き消えてしまいそうだった。
 オレンジ色の夕日を受けて、写真立てのガラスがきらりと光った。三人でディズニーワールドに行った時の写真だ。ミッキーの耳を付けてはしゃぐあたしの手を、両側からノリアキと父さんが握っている。本当に幸せな写真だった。

 あたしは後ろ手で扉を閉めた。音はしなかったけれど、気配を感じたようにうっすらノリアキが瞳を開けた。あたしは一歩踏み出した。一歩、また一歩。ノリアキの表情が変わり、大きな驚きの中に嬉しいのか悲しいのか、複雑な感情を混ぜ込んであたしを見上げていた。一歩、また一歩。遂にベッドサイドに辿りついたあたしは、ノリアキを真上から見詰めた。あたしたちが離れていた間も、時間は絶え間なく流れていて、それはノリアキの体の上にしんしんと降り積もっていた…細かな雪が確かに重みを持つように。
 あたしはゆっくり膝立ちになると、そっとノリアキの手に指を伸ばした。ノリアキの腕は一瞬強張ったけれど、あたしを拒むことはなかった。記憶よりもその腕は、細く冷えているみたいだった。

「ノリアキ、大好きよ」
 やっとそれだけ言ったあたしに、ノリアキはただ静かに泣いた。仰向けに横たわった目尻から、光の粒がすうっと流れた。あたしはノリアキの掌に自分の指を絡ませた。昔よくそうしたように。ノリアキはゆるやかにあたしの手を握り…そして、にっこり笑って言った。
「知ってるよ、アイリン」
 あたしはもう何も言えなくなってしまって、横たわるノリアキに抱きついた。ノリアキは懐かしい手で何度もあたしの背中を撫でた。涙も嗚咽もノリアキのパジャマとシーツにどんどん吸い込まれていった。いつの間にか上体を起こしたノリアキは、あたしを小さな女の子みたいに腕の中であやしてた。
 消毒薬の匂いに紛れた微かなノリアキの匂いと温もりはどこまでも優しくあたしを慈しみ、そのことがあたしを責め立てた。あたしのために喪われた彼の時間はもう二度と還らないのだ。

「あたし、あなたに謝りに来たわ」
「アイリン? それは…」
 戸惑うように零れたノリアキの言葉を遮って、あたしは言った。
「ごめんなさい、ノリアキ。謝ったってもうどうしようもないことだって分かってる。けど、」
「君が何を謝るっていうんだい」
「あたし、あなたを傷つけたわ。あなたに、そして父さんにもとても酷いことを言って、あなたを家から追い出したわ」

 はっきりと言い切ったあたしに、ノリアキは一瞬たじろいだようだった。
「…アイリン、招かれざる客は僕だった。君の生活をかき乱した」
 低く吐き出すようなノリアキの言葉に、あたしは猛然と反論した。
「ノリアキをアメリカに呼んだのは父さんだって聞いたわ。一生懸命お願いして、承諾して貰ったんだって」
「承太郎…」
 ノリアキは天を仰ぐような仕草をした。それがノリアキにとって、あまり言って欲しくない話題だったことはその雰囲気で察することができた。
 天井の隅を睨みつけるようにして暫く黙っていたノリアキは、頭の中で整理した言葉を順序良く並べるようにして、慎重に唇を開いた。

「確かに…僕がこの国に移住したのは、承太郎に呼ばれたからだ。けれど、こんなことになってしまったそもそもの原因は僕にある」
「原因?」
 投げ掛けられた素朴な疑問符に、言葉を選ぶように躊躇うノリアキへ、あたしは何でもないことのように言ってみせた。
「あなたが父さんに片想いしてたってこと?」
 驚いたように目を見開いたノリアキの表情は、ゆるやかに諦めのような、苦笑のような柔らかなものに変わって行った。


『――僕は転校生だった。高校二年の時、親の仕事の都合で承太郎の居る高校へ転入したんだ。
 自分で言うのもなんだけど、僕は優等生だった。一学年上の承太郎はそのころ校内でも札付きの不良で、遅刻早退を繰り返し誰彼かまわず喧嘩をしては警察のお世話になったことだってあるって話だった。後で本人に聞いたら「売られた喧嘩を買っただけ」らしいけど、どうだかね。
 そんなわけで、二年のよい子と三年の不良じゃあ住む世界からして違うわけなんだが…ここに教師たちの誤算があった。僕はね、大人の前ではよい子だったけれど、実際はそうでもなかったってこと。

 僕は小さな頃から大人に気に入られるのが得意だった。にっこり笑って愛想よく丁寧に話を聞いてるだけで、だいたいの大人は僕の味方になった。そのころ日本では長ランて言って、学制服の裾を長く改造するのが流行っていたんだけど、僕だってそんな格好をしていたんだ。でも大人たちはそれを黙認していた。ピアスを開けて長ランを着ても、成績が良くて教師受けがよければ大したお咎めは無い。そんなもんなんだなって割り切ってた僕は、何とも斜に構えたクソガキだったと思う。
 親に対してだってそうだ。一通りのお叱りは受けたけど、クラスではみんなこういう格好をしてるから、僕だけ違うと仲間外れにされるって言ってやったら黙り込んだよ。僕は昔から友達が居なかったからね。後は転校前から変わらない美しい成績表を見せてやれば良い。

 かくして僕はかなりの自由を手に入れた。教師に取り入って好き勝手してる奴だって陰口を叩かれたりもしたけれど、そんなの痛くも痒くもない。悔しかったらお前も真似してみろっていうんだ。そんなわけで相変わらず友達は居なかったけど、僕は快適に暮らしていた。
 なぜ友達が居なかったのかって…うーん、作らなかったから、としか言えないなあ。そう、僕にとって友達は、できるものじゃなくて作るものだったんだ。僕は一人っ子で、親は共働きで、子供の頃から一人遊びの楽しさを知っていた。
 そりゃあ友達とつるんで遊ぶ奴らを羨ましく思ったことが全くないとは言わないよ。でも性格が内向的だったこともあって、僕は未知のものと触れ合うリスクより、自分の世界で気ままに過ごす安定を選び続けてその年まで来たっていう、それだけだった。

 友達が居ないことに不便さがあるとすれば、物の貸し借りができないことに尽きると思う。僕は前日、風邪で学校を休んでいた。大体の科目は自力でどうにか出来るんだが、僕は英語が少し苦手だった。よりによって期末前最後の授業で新しい文型がでてくるなんて、と僕は天を呪った。
 英語教師に聞きに行けば済む話だけど、どうにも僕は人に頼るのが苦手でね。あとは、秀才の花京院君っていうイメージを崩したくなかったのかも。バカらしい話かもしれないけど、この子は大丈夫っていう教師からの絶対的信頼感ってなかなか気持ちいいものなんだよ。

 僕は昼休みに屋上へ出た。真夏の屋上なんて焼き殺されそうに暑いから誰も居ないだろうと思ったんだ。予想通り、給水塔が作った僅かな陰はひんやりしていた。僕は建物に背中を預け、持ってきた教科書と参考書を開いて足を投げ出した。その時だった。
 尻の下で何か突っ張るような感覚がしたと思ったら、横で何かがもぞもぞ動いた。僕は心底驚いて飛び上がった。よく見れば、給水塔の影と一体化するようにして、黒い学ランの青年が寝っ転がっていた。僕は彼の服の裾に座ってたんだな。
 彼は熟睡していたようで、何度か気だるく瞬きを繰り返していたが、ようやくのっそり体を起こして僕に向けて目を開いた。僕は、あっと小さく声を漏らした。彼の瞳はまるでエメラルドのようだったんだ。

 それが、僕と承太郎の出会い。
 僕は起こしてしまったことを謝りながら、彼の身なりを眺め回した。改造に改造を重ねたらしい制服と学帽、派手な装飾品。実に分かりやすい不良スタイルに加えて、座ったままでも彼がかなりの長身であることは明白だった。もしかして、と僕は思った。噂に名高い3年の空条承太郎は、確かハーフって話だったから。
 最悪の結末を予期して僕はどうやって逃げ出すかばかりを考えていたが、承太郎の視線は置かれたままの教科書に向けられていた。お前のか、と問われた声は、寝起きなのも相俟って地獄の底のように低かった。僕は声もなく、こっくりと頷いた。2年か、と問われ、またこっくり。空白の数秒間の後、固唾を飲んで立ち尽くす僕に向かって、彼は言った。
 教えてやろうか。
 僕が一人で苦戦したマーカーと書き込みの痕跡を指さして、彼はそう言ったんだ。

 このクソ暑い中、わざわざ屋上で勉強しようとするなんて、変な奴だと思ったんだと彼は後で話していた。そのクソ暑い屋上でわざわざ昼寝してた君は、と笑いながら言い返したら、彼も身の置き場に困って屋上に逃げたのだという。外に出れば他校に絡まれ、校内に居れば教師に叱られ女の子に囲まれ、モテる不良暮らしというのは結構大変なものらしい。
 彼の服の裾を踏んづけた時は正直死を覚悟したんだが、少し喋っただけで彼の頭の良さとか意外なほどに「普通な」性格とかは明らかになった。僕の疑問点を鮮やかに解説した彼に、流石ハーフですねとおべっかを使ったら、彼は苦虫を噛み潰したみたいな顔をした。
 親がガイジンだからって英文法が出来るわけじゃねえ、そこは俺もつまずいて余計に勉強したから覚えてたんだと少し早口の小声で言った彼に、僕は…なんというか…ぐっと来た。ハマった、と言ってもいいかもしれない。もっともっと承太郎のことが知りたくなった。

 承太郎の情報として校内に氾濫している有象無象、そのどれもが彼のこんな横顔について触れてはいない。何人病院送りにしたとか、何回警察の世話になったとか、そんなことは彼を語る上で何の意味もないことなんだと、そしてそれを知っている、恐らく数少ない人間が僕なのだと思うと、踊り出しそうなほど嬉しかった。
 始業を告げる鐘の音が遠くに聞こえて来ても、彼は立ち上がろうとしなかった。僕は行かなきゃいけない、でも彼とこれきりになるのだけは絶対に嫌だった。
 2年B組、花京院典明です、と僕は言った。それで大慌てで荷物をまとめて、付け足した。また来ます! って。それがどうした、で切り捨てることもできるような僕の意味不明な言葉に、けれど承太郎はちょっと笑って手を上げてくれた。僕は顔を真っ赤にしたまま、一目散に非常階段を駆け降りた。

 どうにか期末の英語は承太郎のお陰で無事に済んだ。そして僕らの交流もまた、お陰様で続くことになった。別に待ち合わせなんてしないから、たまには会えないことだってある。それでも僕にとって、昼休みに給水塔の裏を覗くのは密かな楽しみになった。
 承太郎は基本的に無口だ。でも僕はそれがちっとも嫌じゃあなかった。僕はパンを食べながら思いついたことをつらつらと話し、承太郎は短く相づちを打つ。彼の方がたくさん喋ることもある。彼の食いつく話題は多岐にわたり、僕はまるで宝探しをしているかのような気分になった。もちろん間違いの無い話題もあるよ、音楽、ファッション、海と宇宙。要するに彼は普通の男の子だった。
 お勧めのアーティストのLPを交換するようになってから程なく、僕は彼の家に招かれた。綺麗なお母さんの熱烈な歓迎を受けながら彼の部屋へ上がり、聞かせて貰ったいろんな洋楽。本当に楽しかった。僕が柄にもなくはしゃいでいるのを、彼は北米で発売されたばかりのマイケルのアルバムのせいだと思ったみたいだけど、それだけじゃない。初めての「放課後、友達の家に遊びに行く」っていうシチュエーションに興奮していたせいでもある。

 帰り際、玄関で靴を履く僕に承太郎はあるチケットを差し出した。年末に行われる、有名なアーティストの来日公演だ。しかも関係者席。ぽかんとする僕に、彼は言った。親父から寄越されたもんだが、アメリカのじいさんちで年越しすることになっちまって行けねえ。勿体ないからてめえにやる。
 僕はもう、何度も何度もお礼を言った。本当に嬉しかった。コンサートのチケットも、彼が僕に物をくれたということも。でもこんな凄いものを貰ってしまって、どうやってお礼をすればと慌てる僕に承太郎は言った。来年ツェッペリンが来るって聞いたからな。今度は付き合って貰うぜ。それでチャラだ。
 僕はもう、天にも昇る気持ちで家に帰った。机の前のコルクボードにチケットを貼って、それを見るたびにやにやした。承太郎と行けなくて残念だったけど、次の約束が出来たも同然だ。嬉しい、という言葉以上にあの感情を言い表す言葉が無いのが悔しいよ。だって承太郎も僕と一緒に居たいと思ってくれたんだ。

 でも僕は、コンサートを聴くことができなかった。事故でね。会場の真ん前の大通りだった。飲酒運転のトラックが突っ込んできて。轢かれて、引きずられて、挟まれた。歩道を歩いていた人たちも巻き込まれる大事故だったらしい。
 目が覚めたら正月も過ぎていた。泣いて喜ぶ両親を横目に、頭が現実に追いついていない僕は、コンサート観損ねたってそればかり考えていた。数日後、帰国してから事の次第を知った承太郎が血相を変えて病室に飛び込んで来たけれど、その時にはもう僕の頭も落ち着きを取り戻していた。
 承太郎は驚いたことに、自分のせいだと思っているらしかった。わけがわからない僕に彼は言った。本当なら俺が行ったはずなんだ、と。轢かれたのは俺のはずなんだ、と。ばかばかしいと僕は笑ってみせたけれど、腹に力が入れられずそれは咳込んでいるように聞こえただろう。

 以来、承太郎は毎日僕の病室へ通ってくるようになった。最初は承太郎の不良然とした格好に眉を潜めていた母も、彼が僕に勉強を教えてくれているんだと知ってからは何も言わなくなった。
 三学期は一日も登校しなかったけれど、学校はレポートと試験で進級させてくれた。もともと出席日数は足りていたし、承太郎のおかげで試験の点数も申し分なかったからね。
 反対に、承太郎は留年してもう一度三年生をやり直すことになった。学校というのはよっぽどのことが無い限り、無理矢理にでも生徒を進級させるシステムだ。承太郎の出席が足りないのは明らかだが、追試なり何なり救済措置さえあれば彼の学力なら問題ないはずだ。
 唖然とする僕に、承太郎は言った。これでもう一年、てめえと給水塔で昼飯が喰えるな。
 承太郎なりの落とし前の付け方だったんだろう。僕が何と言ったところで、彼の中の罪悪感は消えやしない。承太郎は目に見える形で罰を受け、清算することで僕らの間にしこりを残さないようにしたかったのだと思っている。承太郎は僕に謝らなかった。それが僕は本当に有り難かったから、彼の留年に対しても言葉は控えた。

 三年生の始業式、クラス割を見た僕は驚いて笑った。出席番号順で僕の直後に彼の名前があったから。その頃には僕と承太郎の奇妙な交流は周知のことになっていたから、教師たちが僕に彼を「おっつけた」んだってことは予想が付いた。
 しかしそれは完全な取り越し苦労だっただろう。退院はしたものの、僕は通院で遅刻と早退を繰り返した。授業の途中で保健室へ行くことも多かった。その度に僕の荷物を纏めたり、家まで届けてくれるのは承太郎だった。
 前の年までの承太郎の行状を知っている人間は、教師も含めて皆その変わりように驚いていたけれど、彼は周囲の目なんて何も気にしちゃいなかった。
 毎朝僕を迎えに来る承太郎は、必然的に無遅刻無欠席だ。僕が欠席した授業のノートは必ず貸してくれたから、僕の見ていない時にサボっているということも無かっただろう。もともと頭の良かった彼が、定期試験の成績優秀者に名を連ねることになるのは当たり前の話だった。

 夏が来る頃には、承太郎にも僕にも友達が増えていた。一人だったからこそ厚かった近寄りがたさの壁が、お互いを突破口にして薄らいでいったのだということは、クラスメイト達の雰囲気から見て取れた。
 この腹の傷と、その後遺症とは一生付き合っていかなければいけないと医者に言われていた。そのことについて思い悩んだ時期もある。運が悪かったと、ただそれだけの言葉で片付けるには重すぎる荷物だった。けれど…承太郎と肩を並べて登校し、教室で沢山の友人たちから朝の挨拶をされるこの日々が、この傷無くして手に入らないものなのだとしたら…受け容れよう、そう思うようにしたんだ。

 アイリン、運命って信じるかい?
 僕は…信じているし、信じていない。訳が分からないだろう。つまりね、こういうことなんだ。
 たぶん僕は、あの事故で一度死んだんだと思う。いや、死んだことがあった、というべきかな。目が覚めた時「まだ時間がある」ことが僕には不思議で仕様が無かった。なんで死ななかったんだろう? と。いや…なんで生きてるんだろう、の方が近いかもしれない。

 確かに命を取り留めたのは奇跡だと医者にも言われたけれど、僕の驚きはそういう意味じゃあない。要するに…僕には、自分が死ぬはずだったのだと、はっきり分かっていた。
 目が覚めるまでの間、僕は夢を見ていたような気がするんだ。明け方に夢を見たけれど、起きた後で内容を思い出そうとしてもどんどん曖昧になってしまって、最後に残るのは感情だけ…そんなこと、君もあるかな。
 それは本当に寂しい夢だったんだよ、アイリン。寂しくて、切なくて、厳しくて…遠い星の光を目指して、ひとり砂漠を行く旅人を、空の高みから見下ろす月。そんな風な感情。

 この宇宙のどこかには、僕が消えた世界もあったのかもしれない。僕が抜けた穴を抱えたまま、独り旅する承太郎が居たのかもしれない。あれは世界から消滅する僕の、今わの際の心象風景だったのかもしれないと、意味も根拠も無いままに僕はそれを信じた。そして、僕は彼のために生きよう、生きなければならない、と思った。なぜって、僕らの時間はまだ続いて行くのだから。
 運命が変えられないものだとしても、僕の運命はあの時、あそこまでしか…腹に大穴を開けて昏倒するところまでしか用意されていなかったのだろうと思う。この先に拓けた不確定の未来が、僕にはきらきら眩く輝いて見えた。
 そして僕の病室に来るなり僕に覆いかぶさって泣く承太郎の、体の重みと温みを全身で受け止めた時、僕は、彼を本当に愛してしまったのだと悟ったんだ』
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