青江さん、宜しいですか、と遥か高みから声が掛ったのは、夜戦特化の第四部隊が本丸に帰還した直後のことだった。青江は俄かに慌てた。彼が僕に用があるなど、切り出されるのは石切丸の話以外にないだろう。しかし既に青江の周りでは、乱や厚が興味津津といった体で不思議な取り合わせの会話の行方を見上げている。
「青江、先に上がりな。主には僕が言っておくから」
気を回した歌仙がさらりと言ってくれたので、青江は感謝のあまり心の中で彼に合掌した。しかし表向きは軽く、ありがとう、とだけ言ってその場を後にすると、後ろから子ども達のがっかりしたような声が聞こえてくる。歌仙が助けてくれなければ、このひとはあの場で話を始めるつもりだったのだろうかと青江は少し怖くなった。三条といい大太刀といい、現実離れしたものは何かしら浮いてしまうものらしい。
俯いて二人連れ立って歩くと、青江は彼の草履を履いた足の大きさにばかり目が行ってしまう。この足の大きさで均整の取れた体つきになるのだから凄い。気安い相手ならばいつもの冗談を言うところだが、流石に青江も神宮の大太刀相手にそれを振る気にはなれなかった。それにしても彼はいつまで歩くのだろう。
不安になった青江が顔を上げるのと、太郎太刀が視線を下げるのは全く同時のことだった。ふいに視線がぶつかりあって二人の歩調は千路に乱れる。もうこの辺でいいでしょうか、どこでもいいんじゃないですか、緊張感の崩れ去った中でそんな風に言い合いながら庭の松の根方に寄ると、仕切り直しとでも言うように太郎は声を改めた。
「先日は、大変な無礼を申しあげました。…許して下さいとはとても言えません」
「やめてください、そんな…石切丸から何を聞いたのかは知りませんが…」
本来ならば深刻極まりない話し合いになるはずだったのだろうが、先ほどのぼんやりした太郎太刀の姿が脳裏をよぎり、思わず青江は苦笑してしまう。ああ、次郎太刀も兄貴は真面目だと言っていたなあと青江は今更思い返した。そんな青江の雰囲気を察したのか、太郎は微妙に口元を緩ませると近くにあった切り株に腰を下ろした。
「お疲れですか?」
「…ひとを見下ろすのが好きではないのです」
ぼそりと呟かれた言葉に、青江の親近感はいや増す。その名も高い神の大太刀にも劣等感という概念があったのだ。じりじりと距離を詰めていく青江の動きを知ってか知らずか、太郎太刀は低く言った。
「私には、恋というものが分かりません」
いきなり核心を抉り込んで来る発言に、青江の足は止まった。
「神籬に坐して幾百年…人の営みから離れておりましたから、それも道理かと思います。ですから正直に言って、彼の考えに賛同はできません」
「そうでしょうね」
青江は心から同意した。恐らくそれが真っ当な、普通の感性だろうと思う。太郎は思わぬ共感に少し驚いたようだったが、話し続けた。
「私たちの身も、心も、とうの昔に神のものです。私たちは自我など持たずとも良いものだった。そうでしょう。石切丸もそう考えていた…はずだった」
月光を受けて輝くような、太郎太刀の金の瞳が下からまともに青江の視線を捉える。整い過ぎて怖い、という感覚を初めて青江は体感した。白い肌、漆黒の髪、金の瞳、目尻に朱。古来よりこの国の人々が培ってきた美意識をそのままその身に宿したような有り様は、誰もが無条件に平伏すような力強さを持っている。
だが太郎太刀は、その容貌を哀しみの形に歪めながら言った。
「私は少し、恐ろしい。人の身の情とは、己の存在を危うくすることまでも、是としてしまうものなのですか」
彼の言葉には一片の嘘も異心も無いと、青江には真っ直ぐ信じられた。だから自分に持ち得る出来る限りの言葉を以て応えなければならないと、懸命に自分の語彙を探る姿が葛藤に見えたのだろう。太郎太刀は表情を変えると急いで言った。
「失礼。あなたを責めているわけではないのです。本当に」
「分かっています」
青江が笑って答えたので、太郎太刀も僅かに眉尻を下げる。切り株をよじ登ってきた甲虫を手に取り、夜空へ高く放しながら、彼は寂しげな声音で言った。
「…あなたが彼を害しようとしているのなら、いかようにもやり方はあったのに」
それは青江の返事を待つ言葉ではなく、思わず出てしまった独りごとでも無いようだった。青江にはそれが、もう私はそちらに関わりません、というような諦めの表明に聞こえてならなかった。
青江は一歩踏み出して、切り株の傍らへ寄り添った。
「太郎太刀様がこんなに優しい方だとは、知りませんでした」
「私は次郎から叱られましたよ。兄貴は人の気持ちに鈍すぎる、と」
ふふ、と声を殺した笑いが互いの口から漏れる。青江の笑顔を見上げたまま、太郎太刀は思い出したように言った。
「私とあなたは遠縁やもしれぬそうです。ご存じでしたか」
突然の言葉に、青江は大きく首を振る。そうでしたか、と一声置いて、太郎は淡々と言った。
「私はもう忘れてしまいましたが…その昔、私を打った刀工は、あなたの産みの親と流儀を同じくする者だったとか。最早、確かめる術はありませんが」
これも不思議なご縁ですね、と言う太郎太刀に、青江はぼんやり頷いた。真偽の程は藪の中でも、自分と繋がりがあるかもしれない者がこの場に居るということだけで、心が温もるようだった。青江は自分の左目を指し示すと、はにかみながら言う。
「お揃い」
あどけない仕草を見て、太郎太刀は晴れやかに笑った。この刀はこんな表情もできるのだと驚く青江をよそに彼は、ええそうですね、本当ですねと青江の顔を覗きこむ。
「そうだったら、僕はとても嬉しい」
「私はよく分かりませんが…そう言われると、嬉しいものですね」
十六夜の月が煌々と地を照らしている。先ほどまであんなに明るいことに気付かなかった青江には、太郎太刀の笑いが空を晴らしたのかもしれないという思い付きを、否定することが出来なかった。
夜更けに忍んで来た石切丸は、柿渋色の浴衣を着ていた。もう少し明るい色でも似合うのに、と青江は言おうとしたが、もしや彼なりに精いっぱいの隠蔽工作なのかもしれないと察して黙り込む。青江の部屋の周囲は他の刀たちの部屋も密集しており、大柄な彼がかくれんぼをするには随分と分が悪いように思えてならなかった。
「太郎太刀様とお話したよ」
ぽつんと言った青江の言葉に、石切丸は振り向いた。紺地に白で夕顔柄を抜いた寝巻の背を、艶やかな髪が滑っている。今宵の青江は最初から髪を下ろして待っていた。しかし石切丸がそれに触れたいと思う間もなく、彼の言葉が続いて行く。
「とても、君のことを心配していたよ。それなのに、僕にとても優しくしてくれた」
青江は立ったままの石切丸を見上げて、溜息のように呟いた。
「みんなとても優しいのにね」
足りない言葉だらけではあったが、石切丸には彼の本意がするりと伝わった。彼は青江の向かいに用意されていた座布団に座ると、少し言葉を組みたててから、ゆっくり喋り出す。
「肺を病んだ病人が居るとして。彼は病の原因が煙草であることなど百も承知だ。彼の友人たちは煙草をやめて一日でも長生きするよう勧める。しかし彼の家族はいずれ朽ちる命ならば好きなように生きて死ねと言う。…彼らの優しさの違いは、おそらくそういうものなんだろう」
僕は煙草かあ、と青江は苦笑した。喩えがまずかったかな、と石切丸は後悔したがもう遅い。青江の肩に宥めるように手をやって、石切丸は言った。
「お前に酷なことを言っていることは分かっている。けれどもう、私は決めてしまったから、何もかも包み隠すのはやめにしようと思ったんだ」
「僕に隠しごとがあるのかい?」
「ある」
茶化すような青江の言葉は、簡潔極まりない石切丸の答えで弾き返された。なに、と言葉少なに問い掛ける青江の声は、小さく低く発せられる。石切丸は足を組み変え、大きく溜息を吐いて口を開いた。
「私はお前に呪いをかけた」
青江の肩がびくりと跳ねる。風も無いのに揺らいだ明かりは、じじ、と音を立てて何かを焦がしたようだった。
「その呪いを解いても良いだろうか。お前は怒るかもしれない。私のことを憎むかもしれない。それでも、私は言いたい」
「…そこまで言われて、僕に駄目だって言えると思ってるのかい?」
万感の籠った青江の言葉に、石切丸はごめんねと呟いた。そして両手で青江の肩を支えると、その冷えた肌を服の上から何度も撫でて、許しを乞うような声音で言った。
「お前が神剣になれないのはね、お前が自分自身を神剣に相応しくないと思っているからだよ、青江」
ぽかんとした表情が、石切丸には痛々しく見えて仕様が無かった。
「私はお前が言ってほしい言葉を口にした、それだけだ。お前はあのとき、私に答えを求めていたわけじゃない。私に…違うな、神の名のもとに断罪してほしかったんだろう」
青江の頭が小刻みに震える。他者から心の内を暴かれるのは、誰だって苦しいものだ。しかし石切丸は彼自身のため、それ以上に青江のためにも喋ることをやめられなかった。
「戦乱の時代に物心付いたお前は、武家の物の考え方を…いわゆる武士道と呼ばれる物と同じかは分からないけれど、そういう考え方に馴染んでいるのではないかな」
古代紫の双眸が、青江の視線を絡め取る。
「そのうえ鋼の魂であるお前には、自らの存在と霊魂との間に明確な違いなど見出せなかったのかもしれない。たとえばそれは、お前を使役する人間よりも、近しい存在であったはずだ」
青江は微かな恐怖を感じながらも、石切丸から目を逸らすことができなかった。それは彼に対するものではなく、自分自身でも気付かない、己の内なるものに対する恐怖だった。石切丸は青江の背を撫でながら、一言ずつ区切るように、はっきりと口にした。
「戦場の外で、仇でもなく故もない、か弱い女子供を切り捨てた」
薄い歯で噛んだのか、青江の唇から血が流れる。石切丸は親指の腹でそれを拭うと、まるで癒そうとでもするかのように優しく唇へと触れる。
「気に病んでいたんだろう?長い間、今までずっと。死装束を纏って顕現するほどに」
「…うん」
石切丸から目を逸らさぬまま、青江の瞳からほろりと涙が零れ落ちた。しかし彼の表情は動かず、まるで自分が泣いていることに気付いていないかのようだった。
「優しい子だね、青江は」
囁くと、青江はいやいやをするように何度も首を振る。その度に彼の長い髪が浴衣と擦れてぱさぱさと鳴った。
神剣などという格付けはあくまでも人間の都合でしかないけれど、求めるものが手に入らないのは人だろうと神だろうと不幸ではあるだろう。人から手放されない刀であることが外面の因子であるならば、彼という付喪神が生まれながらに持っている葛藤こそが、内面の因子であると石切丸には思われた。
「白装束は怨霊なんかじゃない。お前の後悔が形を為したものだ。赤い瞳も呪われてなどいないよ。お前の退魔の力の表出だ。青江、お前はね、お前が思っている以上に、貴く稀な刀なんだ」
遂に青江はわっと泣き出して石切丸の胸に顔を埋めた。いつもなら幾重にも重なった布の下に隔てられている体温が、寝巻姿の今ではほんの布一枚の距離にある。青江はその熱さに驚いたが、もはや引く気にはなれなかった。石切丸の太い腕が肩と腰に回される。身じろぎもできぬ息苦しさは、返って彼の喜びになった。
「私にあんなことを言われて、悩んだろう。辛い目に遭わせて済まなかった」
青江は小さく首を振ったが、石切丸は重ねて言う。
「どうしてそんなことを言ったんだ、と聞かないのかい」
青江の動きが止まった。触れ合ったままの肌からじわりと熱が広がる。とくとくと脈打つ速さが段々小刻みになって行き、それは石切丸に先を促すようだった。石切丸は大きく大きく息を吸い、ゆっくりと時間を掛けて吐き出した。その仕草に並々ならぬ決意を感じ、青江の体もわずかにこわばる。
そのままでいいから聞いてくれ、という声が低く青江の耳に染みた。ごく微かな頷きも腕の中では如実に伝わる。石切丸は、ありがとうと呟いて、彼の秘密を口にした。
「お前を神剣にしたくなかったんだ」
石切丸の腕の中で、青江はまさしく凍りついた。
「そればかりか、百年千年の先までも、お前を私に縛ろうとした。これが私の呪いだ」
毒を吐くように言い切ると、石切丸は青江を抱いていた腕をだらりと畳に放り出す。逃げていいよ、何なら斬ってくれても構わない、と石切丸の考えが手に取るように伝わってきて、青江は震える声で問い掛ける。
「なぜ?」
くっ、と聞こえてきた音が、まるで泣き声のように聞こえて、青江は思わず顔を上げた。だがそこにあったのは、笑いとも悲しみとも付かぬ半端な表情を浮かべたまま、片手で顔を覆う石切丸の姿だった。
「なぜって、ねえ、私はお前が欲しかった。神のもとになど遣りたくなかった」
やはり石切丸は泣こうとしていたのだと、ただ泣き方が分からなかったのだと青江は気付いた。苦しげに息を詰める彼の喉仏がごくりごくりと上下する。神籬の内の年月は、付喪神から涙までをも奪うのかと、青江には哀れに思えてならなかった。
手を伸ばして頬に触れ、瞼を撫でて髪を梳く。どれも石切丸にされたことのある触れ合いだったが、青江から仕掛けられたそれに彼は気付いたかどうか分からない。
「私は穢れているだろう?」
済まない、と謝る石切丸の頭を、膝立ちの青江がゆるく抱き締める。予想外の行動だったのか、石切丸は少し戸惑ったが、最後には青江の胸に額を預けるように力を抜いた。
「青江、私のものになる気はあるかい。その身を私に捧げて、私とひとつになる気はあるかい」
青江に凭れかかったまま、ごく小さな声で石切丸は問いかけた。
「また明日、来るよ。…いや、恐らくお前も、意味は分かっていると思うが」
そう言うと石切丸は、ゆるやかな力で青江の腕から抜け出した。改めて見合えば互いに酷い顔だったが、どちらもそこへ言及はしなかった。ただ、相手の表情で今の自分の有り様を予想し苦笑する。少し柔らかくなった雰囲気の中で、石切丸は言葉を重ねた。
「私はお前を攫いに来る。嫌ならば部屋を空けておいで」
そう言って子どもにするように頭を撫でてやれば、不満げな青江はその手を振り払った。石切丸は笑いながら立ち上がり、裾を捌いて歩き出す。障子を開けた空の様子は、まだ夜明けまで遠そうだ。
「私は、ずるいね」
その言葉を最後に障子は閉まり、ごく静かな足音が廊下の果てへ渡って行くのを、青江はそっぽを向いたまま聞いていた。
「全くだよ…」
すっかり気配が消えてから呟いてごろりと横になる。この部屋には石切丸の気配と匂いが染み付いて、もう眠れる気がしなかった。
「全く、人騒がせな」
「ごめん」
「思わず青江を呼んでしまった」
「来たよ、僕」
「…もういい」
言うなり歌仙は布団を隅に寄せようとしたので、僕は畳に座ればいいからと青江はそれを押し留める。真夜中の闖入者にまで座布団を出そうとする歌仙の拘りは一体何なのだろう。
結局あの後、青江は歌仙の部屋へ向かった。廊下から小さな声で呼び掛けてみたが、案の定歌仙の返事は無い。しかし諦めきれない青江は、そっと障子を開けてするりと室内へ忍び込み、歌仙の枕元に立ってもう一度声を掛けたのだ。
次の瞬間、衿を取られ布団に引き倒された青江は首に歌仙の刃を突き付けられる羽目になった。本気で殺されるかと思ったが、馬乗りになった歌仙が自分の部屋の方へ向けて青江、青江と呼び出したのを見てほっと胸を撫で下ろす。歌仙は寝起きが良くないらしい。刀を払って起き上がり、ご近所のために口を塞いでもなお暫くは、幽霊のくせに腕が立つなどともごもご言っていた。
「で?まさか遊びに来たってわけじゃないんだろう」
「うん…」
柔道ごっこの余韻が残る部屋で、何と切り出したものかと思案する青江に、歌仙は助け舟を出す。
「太郎太刀から、何か言われたとか」
「あっそうだ、歌仙ありがとう助かったよ」
すっかり忘れていたのを思い出して礼を言う青江の額に、歌仙の爪弾きが決まる。膝を抱えて座っていた青江は、そのまま自分の膝に突っ伏した。
「太郎様にはとても優しくしてもらった。この前のこと、謝られたよ」
「そりゃ良かった。でも、和解なんてできる話かい?」
頭を抱えたままの青江の言葉に、歌仙は疑問を投げかける。それはもっともな考えだったので、青江はまた言い回しに苦労した。
「たぶん、太郎様たちは、もう僕らのことに関して何も仰らないと思う」
「…どういうことだい?」
歌仙の目が、細く青江を注視する。青江は観念して呟いた。
「歌仙、あのね、明日が三日目なんだ」
「何のことだい」
「明日の夜で」
それ以上を言えない青江の瞳から、歌仙は事の次第を理解した。
「青江…」
言いながら歌仙は強く青江の腕を引く。喰い込むほどの指の強さがそのまま歌仙の気持ちの強さを表すようで、ツンとせり上がる衝動を堪えながら、思わず青江は笑顔を浮かべた。
「ごめんね、歌仙。僕、行くよ」
歌仙は力任せに青江を引き寄せ、苦しいほどに締め付ける。互いの肩に載せられた顎の尖った感触に、石切丸との違いを感じて青江は切なく、苦しくなった。青江がゆっくり歌仙の腰に手を回すと、青江の肩に乗り上げた彼の腕に、一際強く力が籠る。
「ばかなやつだ」
「ごめんねえ…」
震える声は、互いの耳のすぐ傍から聞こえた。青江は歌仙の肩口に鼻を擦りつける。服から香る歌仙の部屋の箪笥の匂いは、青江にとってどこか懐かしい。散々泣いたと思ったのに、また新たな涙があふれて来て、青江はいつの間に自分がこんなに弱くなったのかと、少し戸惑うほどだった。
「震えているじゃないか。怖いんだろう」
歌仙が青江の髪を撫でて言う。
「逃げよう」
「歌仙?」
思いがけない言葉に青江は驚くが、歌仙は真面目に言い募った。
「とりあえず主に頼んで長期の遠征に出して貰って、それで…」
「歌仙、僕は助けを求めて来たわけじゃあない」
青江の言葉に歌仙は少なからず驚いたようだった。
「それじゃあ」
「ただ、君に、お別れを言いに来たんだ」
歌仙はゆっくりと腕を解くと、正面から青江の顔を見た。青江は泣いていたけれど、それでも確かに笑っていた。歌仙の眉が苦しげにぐっと寄せられる。
「彼を…受け容れて、僕がどんな風に変わってしまうのか分からない。もしかしたら、彼の供物となって折れてしまうかもしれない。そもそも彼のものになるって、そういう意味なんじゃないかと思う。だから」
青江の言葉を聞いて揺らぐ歌仙の瞳は大きく本当に美しかった。こんなに綺麗な彼を置いて、それでも行かねばならないことが青江にはとても寂しかった。孔雀緑を潤ませて、歌仙は青江に問い掛ける。
「本当に、行くのか」
青江が僅かに視線を下ろす。
「君が積み重ねた年月も、掛けられてきた思いも、全てが無に帰すかもしれないのに」
それでも、と青江は呟いた。
「それでも好きになっちゃったんだ」
静かな青江の笑顔には、これ以上誰が何を言っても心を騒がせないという、覚悟のが見え隠れしている。歌仙は遂に言葉を飲み込むと、細く長く溜息を吐いた。青江の髪を掻きあげて、露わになった頬の輪郭を手で包み込むようにしてなぞる。
「また、眠れなかったんだね」
問い掛けのような柔らかな非難が青江にとっては心地よい。
「暗夜の出陣で野宿をしても、三日三晩の強行軍でも、平気な顔で寝起きする君が。これしきの…済まないね、でも…これしきのことで」
歌仙は何かどこへもぶつけようのない悔しさを堪えるように奥歯を噛む。歌仙にそんな顔をさせている自分を青江は悔しく思ったが、自分が歌仙にしてあげられることが何も無いことも知っていた。青江は幼子を寝かしつけるように、歌仙の背中を撫でさする。その優しげな手付きに触れて、どうして君が、どうして僕が、とそれだけしか聞こえない恨みごとを、歌仙はあてもなく繰り返すしかなかった。
夜明けの気配が障子の外まで忍び寄っている。「今日はここで眠っておいで」と嗄れ果てた声で言った歌仙に、青江は思わず振り向いた。
「ここって…どこで」
「僕と共寝は不満かい」
青江に否やのあるわけがなかった。夏用の薄い掛け布団の隅を捲り、するりと入り込んでみると、足の指先が歌仙の脛のあたりに触る。
「狭くない?」
「全然」
ぶっきらぼうな答えに青江は口元だけで笑った。頭をころりと転がすと、予想より遥かに近くに歌仙の耳がある。青江は体ごと歌仙の方へ寝がえりをうち、小さな声で問い掛けた。
「ねえ歌仙、君、好きなひとは居ないのかい」
一言で切り捨てられるかと思ったが、歌仙は少し考えて返事を口にする。
「それはやっぱり忠興だなあ。彼の刀であったとき僕は生まれたし、彼の刀であったから僕はこういうものになった」
「好きな刀は?」
「どうだかね」
さらりとかわした歌仙が憎たらしくて、青江はぐいぐいと彼の体を肩で押した。
「こら、青江、落ちる落ちる」
聞き分けの無い子どもの遊びに付き合うように、歌仙の声は笑いを含んでいた。しかしすぐに二人の上へ沈黙が流れ込む。もう二度と会えないなどとはまさか二人も思ってはいない。しかしこれを機に何か決定的なことが変わってしまうのではないかという不安を解消する手立てもまた、無いのだった。
「…君らの他にも、恋仲になった者たちは居るんだろうね」
「…なんとなく、そうかなあって思う子たち、居るよ」
低い歌仙の問い掛けに、青江も静かにそれだけ答えた。ならば安心じゃないかとは言えないだけの事情が青江にも石切丸にもあるだけに、それは虚しいだけの問答だった。歌仙は真っ直ぐ天井を見上げながら、嗄れて掠れた声で呟く。
「どうして…」
「うん?」
「どうして君は、こんなことになってしまったんだろうね」
薄闇の中で青江には、歌仙の耳元へ何か銀色の小さな光が落ちて行くのが見えた。
「君が行くと決めたのなら、僕にできることなどもう何も無いんだ」
すっ、すっと現れて消えるそれは、まるで夜空の流れ星のようだ。ぼんやり見惚れる青江をよそに、歌仙は依然、天井へと言葉を向けている。
「僕はここに居るからね、青江。戻れるとは思えないけれど、帰りたくなったら、逃れたくなったら」
「それは、無いよ。歌仙。大丈夫」
青江はほんの少しだけ手を伸ばし、歌仙の目元を人差し指で拭った。驚いた歌仙が僅かに枕から頭を浮かす。黎明の僅かな明かりを反射した、それは友人の涙だった。
「ばかなのは歌仙だ。僕のために泣くなんてさ」
歌仙の足が布団の中で青江の足を軽く蹴る。意地でも頭を動かす気は無いのだろう、彼の意地に青江は笑って、そして何度目かも知れない言葉を口にした。
「有難う。ありがとう。君は優しいね」
歌仙の肩口に額を押し付け目を閉じると、ふたりの手が触れ合った。
「ねえ、歌仙」
青江の右手が歌仙の左手の輪郭をなぞり、人差し指が彼の小指の先を柔らかにひっかく。もうそこに、言葉は要らない。
「…ん」
どちらのものかも付かない声と共に、ふたりは静かに手を繋ぐ。その後はもう何も言わず、彼らは静かに眠りについた。
「おそよう」
「えっ、明け方?」
「夕方だ、この寝坊助め」
目覚めた青江が最初に見たものは、足袋と袴とそれらに挟まれて僅かな面積の足首だった。ごろんと頭を転がせば、出陣の支度を万端に整え武装した友人であることが分かる。あれ、何か足りない気がする、と青江の頭が回転し始める前に、彼はもっと重大なことを思い出した。
「内番!あっ出陣!でも出陣ならまだ…」
「両方代わって貰ったよ。堀川と浦島に礼を言っておくんだね」
呆れたように歌仙が言った。脇差たちは仲が良い。日々出陣に忙しい青江のことは誰しも知っているところなので、きっと二つ返事で代わってくれたのだろう。
「僕もこれから出る。昼食、食べるならそこに君の分を貰って来たから好きにしな。あと…居たいなら、いつまでここに居てもいい」
歌仙の言葉から推し計られる、昨日の続きはそれだけだった。だから青江も事務的に、余計な感情を入れずに返す。
「ありがとう」
すると歌仙は障子の前で立ち止まり、振り向いて青江にこう言った。
「また明日」
「うん。また、明日」
寝転がったまま少し笑って、青江もそっくりそのまま返した。障子が閉まるのを待って勢いよく起き上がると、随分体が軽く感じられる。やはりここ数日の不調の原因は寝不足だったのだろう。指折り数えてみれば、一日の半分ほどを昏々と眠って過ごした計算になり、青江は思わずひとりで笑った。折よく空腹を感じたので、歌仙が確保してくれていた昼食に手を付ける。
「あれ?」
青江は咄嗟にそれを持って駆け出しそうになったが、思い直してまた座る。恐らくこれは忘れものではないだろう。だとすれば、やはり。青江はそれを持って歌仙の鏡台の前へ行くと、体のあちこちにそれを付けてみる。持ち主ほどには似合っていない気がするが、友人からの気遣いとして有難く受け取ることにした。
夕食時の浴場は、思った通り誰も居なかった。がらんと広い場内では、青江の立てる音だけが高く大きく響く。彼はのろのろとした動作で湯を浴びると、だだっ広い湯船に身を沈めた。今なら泳げるな、とちらりと思うがやめておく。早々に洗い場へ行き体と髪を清めると、さっさと片付け立ち上がった。
その時ふと、青江は目の前の鏡に映し出された自分の姿に目を留めた。どちらかと言えば痩せ型だが、筋肉はそれなりに付いている。他の脇差たちと一緒に風呂に入ると、自分だけ雰囲気が違って見える体つきだった。彼はこんなのが好きだろうか、と青江は詮無いことを考える。体格などはもう仕様が無いけれど、努力くらいはしておくべきかもしれない。
彼は浴場を出ると、脱衣所の棚の隅に置かれた刀たちの私物に目を遣る。この本丸には身嗜みに気を付ける者は割合に多く、そこだけ見るとまるで別世界のように華やいだ空気が流れている。昔ながらの椿油や糠袋から、青江には使用法が皆目見当の付かないものまで沢山だが、どうにか彼は目当てのもの…蜂須賀がいつも使っている整髪料を見付けだした。一度、使ってみるかと差し出されたので覚えていたのだ。その時は、要らないよ、と断ったのだが。
青江は着て来た浴衣に袖を通して洗面台の前に座ると、蜂須賀の手付きを思い出しながら容器の中身を掌に落とした。見た目は蜂蜜のようだったが、粘度は僅かに水っぽい。それを両手に広げて髪に滑らすと、噎せ返るような花と蜜の香りがあたりに漂った。出し過ぎたかな、と思ってみてももう遅い。青江の髪は少し気恥ずかしいほどにつやつやと輝き、しっとりと纏まっている。甘い香りが体に絡みつくようだ。彼は所在なさげに立ち上がると、誰にも会わぬよう注意しながらなんとか部屋へ戻った。
既にすっかり日は落ちている。第二部隊の石切丸は、今日も出陣しているだろう。間もなく戻って来るはずの彼がここへ来るまでの時間をどうやって過ごせばよいのか、青江には見当も付かない。壁に凭れかかったまま、ずるずると畳に座り込むと、物の無い部屋は夕日を浴びてがらんと只管広かった。ここ数日、様々な者たちと触れ合っていたせいで、暫く忘れていた静寂だった。
暗闇に、彼の気配が漂った。青江は目を閉じ、膝に置いた手に僅かな力を籠める。石切丸の大きな体の質量が、音を立てぬよう静かにこちらへ近付いて来るのは、まるで嵐の気配を感じながら晴天を見上げているような、そわそわと落ちつかない心地だった。とん、と障子に手を掛ける僅かな音。思わず息を止める青江をよそに、彼はなかなか入って来ない。青江が焦れて目を開く。その時だった。
紙一枚を隔てた外から、あおえ、と音ではなく、例えるなら空気の震える振動だけが彼の肌へ伝わる。それは声よりなお速く強く聴く者の意識に訴えかけるようだった。自らの魂の芯鉄をぐいと押されたような心地に、思わず青江は詰めていた息を吐き出した。彼の脳裏に閃いたのは言霊という言葉だ。何かの手応えを得たのだろう、掛けられていた手に力が籠り、するすると木の触れ合う音を立てて障子を開いて行く様を、青江は目を閉じたまま感じ取る。
二度目の呼ばいは石切丸の肉声だった。背中でそれを受け止めた青江は、安堵したような低い男の声の中に、確かにそれだけではない静けさを見出していた。息を殺すようにして石切丸が部屋へと一歩踏み込んで来る。明かりの無い部屋の中でも迷うことなく二歩、三歩と足を進め、大きな掌がそっと青江の肩へと置かれた。するとその手が僅かに震え、青江の背中を確かめるように撫で下ろす。薄い純白の彼の衣は、石切丸の手のぬくみを余すところなく青江に伝えた。
「この衣は」
石切丸の言葉は問いかけではなく確認だ。だから青江は一つ頷くだけで良かった。いつも肩から掛けていた白装束に両手を通し、きっちりと身に纏った青江の後ろ姿は、その長く艶やかな洗い髪の印象も相俟ってまるでこの世のものではなかった。
「神様に攫われるなら、きっとこの格好がふさわしいんだろう」
静かな声が暗闇に染みる。それを聞いた石切丸は、まるで供物を捧げ持つ太古の神官のように、うやうやしく青江の肩へ手を回すと、後ろからゆっくりと己の胸へ凭れかからせた。そのまま上から彼の顔を覗きこむと、常にない彩りが石切丸の目を奪う。米神のあたりに飾られた小ぶりな牡丹の花にそっと触れ、石切丸は呟いた。
「君が、差したのかい。自分で」
そう問い掛けると、青江は薄く目を閉じたまま、こくりと頷く。食事の盆に添えてあった友人の私物だ。忘れるということは無いだろうから、きっとこれは自分にくれたのだろうと理解して、青江はそれを髪に飾った。自分では似合っているかなど分からないが、彼は友人の見立てを何より信じていたし、半ばお守りのような感覚だった。
石切丸は堪え切れずに少し荒く息を吐き、吸う。途端に肺腑を満たす濃厚な花と蜜の香り。それは普段の彼からはまずしない、あまりに甘いものだった。あの戦場を駆ける脇差が、あの誇り高い刃が、ただ自分に身を委ねるために慣れないことをしているのだと…そして己の行動に恥じ入りながらも自分の行動を待っているのだと、石切丸が全てを諒解するのに時間は掛らなかった。
胸に抱き込まれた青江は身じろぎもしない。自分よりも遥かに小さく薄い体が浅く呼吸を繰り返す様を見て、石切丸は安心させるようにその白い頬に手を添えた。
「良いんだね」
石切丸の問い掛けはどこまでも穏やかだった。青江は緊張の色を隠せず、それでもなんとか眉尻を下げ、唇の端を僅かに上げた。
「良いよ」
首を捻って斜め上の石切丸と視線を合わせる、それは泣き出す前の表情に似ていた。思わず石切丸は後ろから青江を抱きすくめ、そのまま片手を青江の膝の裏へ滑り込ませると、立ち上がりながらふわりと抱え上げる。
青江は石切丸に比べて小柄だが、けして華奢ではない。だから不安定な体勢に危険を感じ、咄嗟に眼前の逞しい首へ両腕を回した。途端に予期せず間近で顔を見合わせてしまい、彼らは共に気恥しさから目を逸らす。衣服越しの互いの温もりならすっかり知った仲ではあったが、このような直截な触れ合いをするのは初めてだった。
石切丸は青江を抱えたまま、開けっ放しの障子を潜って外へ出た。幾らか欠けた立ち待ちの月は、それでも彼らの行く手を照らし出している。外気に触れた途端、青江は身を小さくして、まるで石切丸の懐へ入り込もうとでもするかのようだ。仔猫のような仕草に目を留めて、人払いはしてあるよ、と耳元で囁けば、青江は観念したかのように胸元に顔を埋める。
ゆっくりゆっくりと歩く石切丸の腕の中は、まるで温かな船のようだ。青江はこれまでどの主からも大切に愛されてきたが、それはあくまでも価値のある武器としての扱いだ。いま自分が受けているのはそういった物ではないと青江にははっきり感じられた。それは例えば美しく脆い蝶を指先に留まらせるような…否、触れるだけで崩れ去る精緻な細工を持ち運ぶような。
自分はそんなものではない、と胸元からせり上がる思いに、青江はしっかり蓋をする。それは言うなれば彼の実戦刀としての本能であり、蓋をしたのは付喪神の自我だ。ああ、自分はよく分からないものになってしまったと青江は強く瞑目する。耳元で花弁がさわさわと鳴った。
石切丸が僅かに背を丸め、それで青江は彼が敷居を跨いだことを察する。辺りにはしっとりと密やかな香華がくゆっていた。ああ、三条の対だ、と青江は理解した。目を閉じ石切丸の胸に顔を伏せたまま、彼の歩みを想像する。着いた、と青江が思うのと、石切丸が彼を夜具へとゆるやかに横たえるのは、ほぼ時を同じくしていた。
不安定だった腕の中から急にしっかりした布団に降ろされて、青江は突然自分の姿が全て露わになっていると気付く。思わず両手の袖で顔を覆ったが、それはすぐに石切丸の手によって取り払われてしまった。いま自分がどうなっているのか分からない不安に負けて、遂に青江は目を開けた。すっかり暗さに慣れた目に飛び込んで来る老松色。石切丸の肩越しに、三条の部屋の調度が見える。
覆いかぶさる男の体を反射的に跳ね飛ばしそうになり、青江はなんとか自制した。顔を覆うため肩より高く上げていた両腕の、脇の下に石切丸が手を付いている。なんて無防備なんだろう、と青江はぞっとした。もしこれで石切丸が自分に敵意を持っていたなら、恐らくろくな抵抗も出来ぬままに折られるだろう。この体勢から出来得る反撃は――と想像し始めて、青江は違和感に気付いた。
現実逃避のようにそんなことを考えている青江をよそに、石切丸は立ち上がった。圧迫感から解放された青江が彼の様子を視線で追う。石切丸は自分の胸ほどの高さの几帳の傍で、羅の羽織りを肩から落とす。続いて細帯に手を掛けた。後ろ手に結び目を解き帯を取ると、袷が開いてだらりと落ちる。
しゅ、しゅ、と音を立てて袖を抜く仕草に、青江は男の色気を感じて仄かに赤面する。中から現れる襦袢の涼やかな流水紋。しなやかな布は、彼の肉体の凹凸を強調するかのようだ。脱いだ全ての衣服と帯を纏めて几帳の上に掛けると、ようやく石切丸は布団の青江へ向き直った。
この段になって青江はようやく、石切丸がよそゆきの服を着込んでいたことを認識した。うすものの羽織りなんて、一体いつから持っていたんだろう。あの夏物の単衣は恐らく絽か紗、どちらにしろ短い季節しか着られない、道楽に類されるような趣味の衣類だ。石切丸はどちらかといえば質素で地味な色柄を好むと青江は既に知っている。ならばそう、答えはひとつ。
「石切丸、随分お洒落して迎えに来てくれたんだねえ」
青江の言葉はからかうように弾んでいた。
「僕、ずっと目を閉じてたんだ。勿体ないことをしてしまった。ねえ君、また着てくれるかい。こんどこそ君の伊達男っぷりを目に焼き付けておくから」
ぺらぺらと青江は喋り続ける。その時にはもう彼自身気付いていたのだ、この慣れない状況での、無音を恐れているのだということに。石切丸が足を捌くたび、襦袢の裾がするりと鳴る。そのことを意識するだけで、青江はたまらなく恥ずかしいのだ。
そんな感情を知ってか知らずか、石切丸は一言も発さないまま布団の際まで歩み寄ると、青江の腰のあたりに座る。全身を上から見下ろされる感覚に耐えかねて、青江は反対側へ寝返りを打った。
「青江、こちらを向いて」
空気を僅かに湿らせるように、石切丸は殆ど息だけでそう言った。
「お前があんまり緊張しているようだったから、のんびり支度させて貰ったけれど。…私は別に、脱ぎ散らかしたって良かったんだよ」
最後の言葉を殊更低く剥き出しの耳へ囁けば、青江はまるで赤子のようにくるりと丸くなってしまった。その様がまた幼くて、石切丸は忍び笑う。青江が寄ったせいで空いた布団の隙間に横になると、彼の背中に緊張が走ったのが見て取れた。そのうちなんだか小動物を虐めているような気分になってしまったので、石切丸は青江の背中を撫でてやる。青江は薄い単衣の下には何も着ていないようだ。
布越しに背骨の数を数えながら触れて行くと、彼はくすぐったそうに身をよじる。頃合いか、と肩に手を掛けてみたら案外簡単に仰向けに転がった。しかし石切丸をまともに見る事はできないようで、視線をあらぬ方向へ飛ばしながら、青江はぼそりと呟いた。
「君と一緒に寝たことなんて何回もあるのに、どうしてこんなに恥ずかしいんだ」
「そりゃあ、お前」
「いい、言わないで」
自分の発言を頭から後悔したのだろう、青江は力任せに石切丸の口を塞ぐ。その隙に石切丸は青江をぐっと引き寄せて、小さな頭の下に腕を差し込んだ。
「捕まえた」
そう笑う石切丸の顔は、齢千年を越えた大太刀とも思えぬ素朴なもので、力任せに逃げようとした青江の気概は、音を立てて萎んで行った。観念したようにぐったりと石切丸の腕を枕にすると、青江はほう、と息を吐く。その姿がまるでしょげているように見えたので、石切丸は問いかけた。
「…嫌なら、今日はこのまま寝てもいいけれど」
「…本当に?」
じっとりと青江が見返すと、石切丸は口ごもった。分かりやすい反応に青江は思わず笑いながら、ころんと仰向けに寝返りを打った。
「僕は刀だったんだ、石切丸」
青江の小さな呟きへ、石切丸は不思議そうに言う。
「今も君は刀だろう」
「違う。今の僕には君が切れない」
きっぱりと言い返し、青江は言葉を継ぎ足した。
「斬れればそれで良かった。それが僕の価値だったし、重宝されると嬉しかった。それが刀だろう、石切丸。僕は幸福な刀だった」
うん、そうだね、と合槌を打つと、青江は静かに語り続ける。
「僕はもう刀に戻れない。けれど君の手を離せない。君とこうなる時のことを考えて、僕は怖かった。君と深く繋がることで、僕と君のどちらかは壊れてしまうんじゃないかと思った。君は神様の持ち物だから。でも、違った」
この部屋へ来て初めて、ようやく、青江は石切丸の目を見て言った。
「とっくに僕は壊れていたね、石切丸」
そう言って笑う青江の笑顔はどこまでも儚く透明で、石切丸は発作的に強く抱きしめたくなる衝動をどうにか堪えた。ここへ連れて来てすぐ、青江の気配が戦場のそれになっていたのは石切丸も察知していた。まさか斬られる心配はしていなかったが、もしやあの時青江は、自分を斬れるかどうかと考えていたのだろうか。そう考えると切なくなって、石切丸は言葉を返す。
「お前の言うことも、分かるよ青江。しかしその言に拠るならば、私はとっくに刀ではなかったということだ。そうだろう」
「石切丸」
「刀としてこの身を受けながら、殆どの生を神域の中で過ごしてきた私は、ただただ神威の器でしかなかった。人に使われる喜びも、人を斬る本能も忘れて…」
驚いたようにこちらへ顔を向ける青江の、髪に差した花が頭の下敷きになる前に、石切丸は掌を差し伸べて咄嗟に守った。この牡丹を青江に渡したのが誰か、石切丸には分かっている。青江がその内面を共有できるような相手を持っていること、そしてその相手からも自分が許されたことが、石切丸には嬉しかった。
「酷い手傷を負ったあの日。意識も戻らぬうちに私は、三人がかりで徹底的に禊祓いをされていたんだよ。お前は知らなかったと思うけど」
私の言いたい事が分かるかな、という石切丸の問い掛けに、青江が考え込んだのはほんの少しの間しか無かった。それって、と呟く青江に石切丸はひとつ頷き、微笑む。
「私に恋を教えてくれて有難う、青江」
本来の姿では情欲などは持てないはずだった神威の器は、いつの間にか穢れではなく魂に在り得べき状態の一つとして情を持ち合わせるようになっていたのだ。青江の頬と唇に、羞恥ではない赤みが差す。
「ここへ来て私は生まれてきた意味を知った。君に出会って己の心を、情と欲に向き合った。審神者にも神にも望まれぬことかもしれないが、それでも私はここに居る」
腕と頭に挟まれて無造作に乱れた青江の髪を、石切丸は自由な右手で梳かしながら畳へ流す。艶々と濡れたように輝く髪は、まるで川の流れのようだ。
「時は流れる。不変のものはこの世に無い。ならば私とお前の有り様が変わって行くのもまた、現世の倣いというものだろう」
言いながら、石切丸は青江の体をごく近くまで引き寄せた。互いに纏った布は余りに薄く、触れるだけで指先の体温を相手の肌へと移してしまう。むしろ素肌ではない分、互いの肌の感触をより生々しく感じるようだった。
石切丸は青江の手を取り目を見詰めながら語り掛ける。
「私は神様ではないから、私たちにこの先何が待つかは分からない。けれど私はお前のために出来ることなら何でもしたいと思っているし、お前の幸福をいつでも祈っている。お前の災厄を我がことのように受け、お前の行く末には共に在りたいと願っているんだ。それを…許してくれるかな」
石切丸の唇が青江の瞼へ交互に触れる。そのまま頬へ、首筋へ、胸元へと降りて行くのを青江は切なげに見守っていた。互いに抑えた呼吸が荒い。石切丸は肘を青江の体の両側に置いて体を支えると、ゆっくり彼の体へ覆いかぶさった。圧倒的に大きく強い獣に上位を取られている状況を、青江の心は喜びと捉える。
襦袢の袷の隙間から石切丸の肉体が青江の眼前に晒された。自分とは全く違う、それは成熟した男の体つきだ。細帯で締められた腰までの筋肉が、青江の体を探るたびにひくひくと動く。まったく人間は、自分たちに何という器を用意してしまったのだろうと青江は叫び出したいほどだった。大きな獣はちらりと青江の顔を伺うと、そのまま口を開いて彼の腰紐の一端を食む。あ、と情けないほど滲んだ声は青江の喉から勝手に漏れた。す、すす、と緩慢に解けていく戒めと、牙を剥き出しにした石切丸の熱っぽい瞳。とても頭の処理が追いつかず、見ていられなくなった青江の目から零れ出したのは、小さな器から溢れ出した感情だったのかもしれない。
あとほんの少し力を加えるだけで解け落ちる帯をそのままに、石切丸は囁いた。
「お前を抱いていいだろうか。私はお前を愛したい」
頬を涙でしとどに濡らしたまま、青江は一度だけ、深く深く頷いた。石切丸は青江の髪に飾られた牡丹の花を恭しいほどの手付きで取ると、枕元にそっと置く。花で隠されていた米神に触れるだけの口付けを落とすと、そのまま青江の息を奪った。
「青江、先に上がりな。主には僕が言っておくから」
気を回した歌仙がさらりと言ってくれたので、青江は感謝のあまり心の中で彼に合掌した。しかし表向きは軽く、ありがとう、とだけ言ってその場を後にすると、後ろから子ども達のがっかりしたような声が聞こえてくる。歌仙が助けてくれなければ、このひとはあの場で話を始めるつもりだったのだろうかと青江は少し怖くなった。三条といい大太刀といい、現実離れしたものは何かしら浮いてしまうものらしい。
俯いて二人連れ立って歩くと、青江は彼の草履を履いた足の大きさにばかり目が行ってしまう。この足の大きさで均整の取れた体つきになるのだから凄い。気安い相手ならばいつもの冗談を言うところだが、流石に青江も神宮の大太刀相手にそれを振る気にはなれなかった。それにしても彼はいつまで歩くのだろう。
不安になった青江が顔を上げるのと、太郎太刀が視線を下げるのは全く同時のことだった。ふいに視線がぶつかりあって二人の歩調は千路に乱れる。もうこの辺でいいでしょうか、どこでもいいんじゃないですか、緊張感の崩れ去った中でそんな風に言い合いながら庭の松の根方に寄ると、仕切り直しとでも言うように太郎は声を改めた。
「先日は、大変な無礼を申しあげました。…許して下さいとはとても言えません」
「やめてください、そんな…石切丸から何を聞いたのかは知りませんが…」
本来ならば深刻極まりない話し合いになるはずだったのだろうが、先ほどのぼんやりした太郎太刀の姿が脳裏をよぎり、思わず青江は苦笑してしまう。ああ、次郎太刀も兄貴は真面目だと言っていたなあと青江は今更思い返した。そんな青江の雰囲気を察したのか、太郎は微妙に口元を緩ませると近くにあった切り株に腰を下ろした。
「お疲れですか?」
「…ひとを見下ろすのが好きではないのです」
ぼそりと呟かれた言葉に、青江の親近感はいや増す。その名も高い神の大太刀にも劣等感という概念があったのだ。じりじりと距離を詰めていく青江の動きを知ってか知らずか、太郎太刀は低く言った。
「私には、恋というものが分かりません」
いきなり核心を抉り込んで来る発言に、青江の足は止まった。
「神籬に坐して幾百年…人の営みから離れておりましたから、それも道理かと思います。ですから正直に言って、彼の考えに賛同はできません」
「そうでしょうね」
青江は心から同意した。恐らくそれが真っ当な、普通の感性だろうと思う。太郎は思わぬ共感に少し驚いたようだったが、話し続けた。
「私たちの身も、心も、とうの昔に神のものです。私たちは自我など持たずとも良いものだった。そうでしょう。石切丸もそう考えていた…はずだった」
月光を受けて輝くような、太郎太刀の金の瞳が下からまともに青江の視線を捉える。整い過ぎて怖い、という感覚を初めて青江は体感した。白い肌、漆黒の髪、金の瞳、目尻に朱。古来よりこの国の人々が培ってきた美意識をそのままその身に宿したような有り様は、誰もが無条件に平伏すような力強さを持っている。
だが太郎太刀は、その容貌を哀しみの形に歪めながら言った。
「私は少し、恐ろしい。人の身の情とは、己の存在を危うくすることまでも、是としてしまうものなのですか」
彼の言葉には一片の嘘も異心も無いと、青江には真っ直ぐ信じられた。だから自分に持ち得る出来る限りの言葉を以て応えなければならないと、懸命に自分の語彙を探る姿が葛藤に見えたのだろう。太郎太刀は表情を変えると急いで言った。
「失礼。あなたを責めているわけではないのです。本当に」
「分かっています」
青江が笑って答えたので、太郎太刀も僅かに眉尻を下げる。切り株をよじ登ってきた甲虫を手に取り、夜空へ高く放しながら、彼は寂しげな声音で言った。
「…あなたが彼を害しようとしているのなら、いかようにもやり方はあったのに」
それは青江の返事を待つ言葉ではなく、思わず出てしまった独りごとでも無いようだった。青江にはそれが、もう私はそちらに関わりません、というような諦めの表明に聞こえてならなかった。
青江は一歩踏み出して、切り株の傍らへ寄り添った。
「太郎太刀様がこんなに優しい方だとは、知りませんでした」
「私は次郎から叱られましたよ。兄貴は人の気持ちに鈍すぎる、と」
ふふ、と声を殺した笑いが互いの口から漏れる。青江の笑顔を見上げたまま、太郎太刀は思い出したように言った。
「私とあなたは遠縁やもしれぬそうです。ご存じでしたか」
突然の言葉に、青江は大きく首を振る。そうでしたか、と一声置いて、太郎は淡々と言った。
「私はもう忘れてしまいましたが…その昔、私を打った刀工は、あなたの産みの親と流儀を同じくする者だったとか。最早、確かめる術はありませんが」
これも不思議なご縁ですね、と言う太郎太刀に、青江はぼんやり頷いた。真偽の程は藪の中でも、自分と繋がりがあるかもしれない者がこの場に居るということだけで、心が温もるようだった。青江は自分の左目を指し示すと、はにかみながら言う。
「お揃い」
あどけない仕草を見て、太郎太刀は晴れやかに笑った。この刀はこんな表情もできるのだと驚く青江をよそに彼は、ええそうですね、本当ですねと青江の顔を覗きこむ。
「そうだったら、僕はとても嬉しい」
「私はよく分かりませんが…そう言われると、嬉しいものですね」
十六夜の月が煌々と地を照らしている。先ほどまであんなに明るいことに気付かなかった青江には、太郎太刀の笑いが空を晴らしたのかもしれないという思い付きを、否定することが出来なかった。
夜更けに忍んで来た石切丸は、柿渋色の浴衣を着ていた。もう少し明るい色でも似合うのに、と青江は言おうとしたが、もしや彼なりに精いっぱいの隠蔽工作なのかもしれないと察して黙り込む。青江の部屋の周囲は他の刀たちの部屋も密集しており、大柄な彼がかくれんぼをするには随分と分が悪いように思えてならなかった。
「太郎太刀様とお話したよ」
ぽつんと言った青江の言葉に、石切丸は振り向いた。紺地に白で夕顔柄を抜いた寝巻の背を、艶やかな髪が滑っている。今宵の青江は最初から髪を下ろして待っていた。しかし石切丸がそれに触れたいと思う間もなく、彼の言葉が続いて行く。
「とても、君のことを心配していたよ。それなのに、僕にとても優しくしてくれた」
青江は立ったままの石切丸を見上げて、溜息のように呟いた。
「みんなとても優しいのにね」
足りない言葉だらけではあったが、石切丸には彼の本意がするりと伝わった。彼は青江の向かいに用意されていた座布団に座ると、少し言葉を組みたててから、ゆっくり喋り出す。
「肺を病んだ病人が居るとして。彼は病の原因が煙草であることなど百も承知だ。彼の友人たちは煙草をやめて一日でも長生きするよう勧める。しかし彼の家族はいずれ朽ちる命ならば好きなように生きて死ねと言う。…彼らの優しさの違いは、おそらくそういうものなんだろう」
僕は煙草かあ、と青江は苦笑した。喩えがまずかったかな、と石切丸は後悔したがもう遅い。青江の肩に宥めるように手をやって、石切丸は言った。
「お前に酷なことを言っていることは分かっている。けれどもう、私は決めてしまったから、何もかも包み隠すのはやめにしようと思ったんだ」
「僕に隠しごとがあるのかい?」
「ある」
茶化すような青江の言葉は、簡潔極まりない石切丸の答えで弾き返された。なに、と言葉少なに問い掛ける青江の声は、小さく低く発せられる。石切丸は足を組み変え、大きく溜息を吐いて口を開いた。
「私はお前に呪いをかけた」
青江の肩がびくりと跳ねる。風も無いのに揺らいだ明かりは、じじ、と音を立てて何かを焦がしたようだった。
「その呪いを解いても良いだろうか。お前は怒るかもしれない。私のことを憎むかもしれない。それでも、私は言いたい」
「…そこまで言われて、僕に駄目だって言えると思ってるのかい?」
万感の籠った青江の言葉に、石切丸はごめんねと呟いた。そして両手で青江の肩を支えると、その冷えた肌を服の上から何度も撫でて、許しを乞うような声音で言った。
「お前が神剣になれないのはね、お前が自分自身を神剣に相応しくないと思っているからだよ、青江」
ぽかんとした表情が、石切丸には痛々しく見えて仕様が無かった。
「私はお前が言ってほしい言葉を口にした、それだけだ。お前はあのとき、私に答えを求めていたわけじゃない。私に…違うな、神の名のもとに断罪してほしかったんだろう」
青江の頭が小刻みに震える。他者から心の内を暴かれるのは、誰だって苦しいものだ。しかし石切丸は彼自身のため、それ以上に青江のためにも喋ることをやめられなかった。
「戦乱の時代に物心付いたお前は、武家の物の考え方を…いわゆる武士道と呼ばれる物と同じかは分からないけれど、そういう考え方に馴染んでいるのではないかな」
古代紫の双眸が、青江の視線を絡め取る。
「そのうえ鋼の魂であるお前には、自らの存在と霊魂との間に明確な違いなど見出せなかったのかもしれない。たとえばそれは、お前を使役する人間よりも、近しい存在であったはずだ」
青江は微かな恐怖を感じながらも、石切丸から目を逸らすことができなかった。それは彼に対するものではなく、自分自身でも気付かない、己の内なるものに対する恐怖だった。石切丸は青江の背を撫でながら、一言ずつ区切るように、はっきりと口にした。
「戦場の外で、仇でもなく故もない、か弱い女子供を切り捨てた」
薄い歯で噛んだのか、青江の唇から血が流れる。石切丸は親指の腹でそれを拭うと、まるで癒そうとでもするかのように優しく唇へと触れる。
「気に病んでいたんだろう?長い間、今までずっと。死装束を纏って顕現するほどに」
「…うん」
石切丸から目を逸らさぬまま、青江の瞳からほろりと涙が零れ落ちた。しかし彼の表情は動かず、まるで自分が泣いていることに気付いていないかのようだった。
「優しい子だね、青江は」
囁くと、青江はいやいやをするように何度も首を振る。その度に彼の長い髪が浴衣と擦れてぱさぱさと鳴った。
神剣などという格付けはあくまでも人間の都合でしかないけれど、求めるものが手に入らないのは人だろうと神だろうと不幸ではあるだろう。人から手放されない刀であることが外面の因子であるならば、彼という付喪神が生まれながらに持っている葛藤こそが、内面の因子であると石切丸には思われた。
「白装束は怨霊なんかじゃない。お前の後悔が形を為したものだ。赤い瞳も呪われてなどいないよ。お前の退魔の力の表出だ。青江、お前はね、お前が思っている以上に、貴く稀な刀なんだ」
遂に青江はわっと泣き出して石切丸の胸に顔を埋めた。いつもなら幾重にも重なった布の下に隔てられている体温が、寝巻姿の今ではほんの布一枚の距離にある。青江はその熱さに驚いたが、もはや引く気にはなれなかった。石切丸の太い腕が肩と腰に回される。身じろぎもできぬ息苦しさは、返って彼の喜びになった。
「私にあんなことを言われて、悩んだろう。辛い目に遭わせて済まなかった」
青江は小さく首を振ったが、石切丸は重ねて言う。
「どうしてそんなことを言ったんだ、と聞かないのかい」
青江の動きが止まった。触れ合ったままの肌からじわりと熱が広がる。とくとくと脈打つ速さが段々小刻みになって行き、それは石切丸に先を促すようだった。石切丸は大きく大きく息を吸い、ゆっくりと時間を掛けて吐き出した。その仕草に並々ならぬ決意を感じ、青江の体もわずかにこわばる。
そのままでいいから聞いてくれ、という声が低く青江の耳に染みた。ごく微かな頷きも腕の中では如実に伝わる。石切丸は、ありがとうと呟いて、彼の秘密を口にした。
「お前を神剣にしたくなかったんだ」
石切丸の腕の中で、青江はまさしく凍りついた。
「そればかりか、百年千年の先までも、お前を私に縛ろうとした。これが私の呪いだ」
毒を吐くように言い切ると、石切丸は青江を抱いていた腕をだらりと畳に放り出す。逃げていいよ、何なら斬ってくれても構わない、と石切丸の考えが手に取るように伝わってきて、青江は震える声で問い掛ける。
「なぜ?」
くっ、と聞こえてきた音が、まるで泣き声のように聞こえて、青江は思わず顔を上げた。だがそこにあったのは、笑いとも悲しみとも付かぬ半端な表情を浮かべたまま、片手で顔を覆う石切丸の姿だった。
「なぜって、ねえ、私はお前が欲しかった。神のもとになど遣りたくなかった」
やはり石切丸は泣こうとしていたのだと、ただ泣き方が分からなかったのだと青江は気付いた。苦しげに息を詰める彼の喉仏がごくりごくりと上下する。神籬の内の年月は、付喪神から涙までをも奪うのかと、青江には哀れに思えてならなかった。
手を伸ばして頬に触れ、瞼を撫でて髪を梳く。どれも石切丸にされたことのある触れ合いだったが、青江から仕掛けられたそれに彼は気付いたかどうか分からない。
「私は穢れているだろう?」
済まない、と謝る石切丸の頭を、膝立ちの青江がゆるく抱き締める。予想外の行動だったのか、石切丸は少し戸惑ったが、最後には青江の胸に額を預けるように力を抜いた。
「青江、私のものになる気はあるかい。その身を私に捧げて、私とひとつになる気はあるかい」
青江に凭れかかったまま、ごく小さな声で石切丸は問いかけた。
「また明日、来るよ。…いや、恐らくお前も、意味は分かっていると思うが」
そう言うと石切丸は、ゆるやかな力で青江の腕から抜け出した。改めて見合えば互いに酷い顔だったが、どちらもそこへ言及はしなかった。ただ、相手の表情で今の自分の有り様を予想し苦笑する。少し柔らかくなった雰囲気の中で、石切丸は言葉を重ねた。
「私はお前を攫いに来る。嫌ならば部屋を空けておいで」
そう言って子どもにするように頭を撫でてやれば、不満げな青江はその手を振り払った。石切丸は笑いながら立ち上がり、裾を捌いて歩き出す。障子を開けた空の様子は、まだ夜明けまで遠そうだ。
「私は、ずるいね」
その言葉を最後に障子は閉まり、ごく静かな足音が廊下の果てへ渡って行くのを、青江はそっぽを向いたまま聞いていた。
「全くだよ…」
すっかり気配が消えてから呟いてごろりと横になる。この部屋には石切丸の気配と匂いが染み付いて、もう眠れる気がしなかった。
「全く、人騒がせな」
「ごめん」
「思わず青江を呼んでしまった」
「来たよ、僕」
「…もういい」
言うなり歌仙は布団を隅に寄せようとしたので、僕は畳に座ればいいからと青江はそれを押し留める。真夜中の闖入者にまで座布団を出そうとする歌仙の拘りは一体何なのだろう。
結局あの後、青江は歌仙の部屋へ向かった。廊下から小さな声で呼び掛けてみたが、案の定歌仙の返事は無い。しかし諦めきれない青江は、そっと障子を開けてするりと室内へ忍び込み、歌仙の枕元に立ってもう一度声を掛けたのだ。
次の瞬間、衿を取られ布団に引き倒された青江は首に歌仙の刃を突き付けられる羽目になった。本気で殺されるかと思ったが、馬乗りになった歌仙が自分の部屋の方へ向けて青江、青江と呼び出したのを見てほっと胸を撫で下ろす。歌仙は寝起きが良くないらしい。刀を払って起き上がり、ご近所のために口を塞いでもなお暫くは、幽霊のくせに腕が立つなどともごもご言っていた。
「で?まさか遊びに来たってわけじゃないんだろう」
「うん…」
柔道ごっこの余韻が残る部屋で、何と切り出したものかと思案する青江に、歌仙は助け舟を出す。
「太郎太刀から、何か言われたとか」
「あっそうだ、歌仙ありがとう助かったよ」
すっかり忘れていたのを思い出して礼を言う青江の額に、歌仙の爪弾きが決まる。膝を抱えて座っていた青江は、そのまま自分の膝に突っ伏した。
「太郎様にはとても優しくしてもらった。この前のこと、謝られたよ」
「そりゃ良かった。でも、和解なんてできる話かい?」
頭を抱えたままの青江の言葉に、歌仙は疑問を投げかける。それはもっともな考えだったので、青江はまた言い回しに苦労した。
「たぶん、太郎様たちは、もう僕らのことに関して何も仰らないと思う」
「…どういうことだい?」
歌仙の目が、細く青江を注視する。青江は観念して呟いた。
「歌仙、あのね、明日が三日目なんだ」
「何のことだい」
「明日の夜で」
それ以上を言えない青江の瞳から、歌仙は事の次第を理解した。
「青江…」
言いながら歌仙は強く青江の腕を引く。喰い込むほどの指の強さがそのまま歌仙の気持ちの強さを表すようで、ツンとせり上がる衝動を堪えながら、思わず青江は笑顔を浮かべた。
「ごめんね、歌仙。僕、行くよ」
歌仙は力任せに青江を引き寄せ、苦しいほどに締め付ける。互いの肩に載せられた顎の尖った感触に、石切丸との違いを感じて青江は切なく、苦しくなった。青江がゆっくり歌仙の腰に手を回すと、青江の肩に乗り上げた彼の腕に、一際強く力が籠る。
「ばかなやつだ」
「ごめんねえ…」
震える声は、互いの耳のすぐ傍から聞こえた。青江は歌仙の肩口に鼻を擦りつける。服から香る歌仙の部屋の箪笥の匂いは、青江にとってどこか懐かしい。散々泣いたと思ったのに、また新たな涙があふれて来て、青江はいつの間に自分がこんなに弱くなったのかと、少し戸惑うほどだった。
「震えているじゃないか。怖いんだろう」
歌仙が青江の髪を撫でて言う。
「逃げよう」
「歌仙?」
思いがけない言葉に青江は驚くが、歌仙は真面目に言い募った。
「とりあえず主に頼んで長期の遠征に出して貰って、それで…」
「歌仙、僕は助けを求めて来たわけじゃあない」
青江の言葉に歌仙は少なからず驚いたようだった。
「それじゃあ」
「ただ、君に、お別れを言いに来たんだ」
歌仙はゆっくりと腕を解くと、正面から青江の顔を見た。青江は泣いていたけれど、それでも確かに笑っていた。歌仙の眉が苦しげにぐっと寄せられる。
「彼を…受け容れて、僕がどんな風に変わってしまうのか分からない。もしかしたら、彼の供物となって折れてしまうかもしれない。そもそも彼のものになるって、そういう意味なんじゃないかと思う。だから」
青江の言葉を聞いて揺らぐ歌仙の瞳は大きく本当に美しかった。こんなに綺麗な彼を置いて、それでも行かねばならないことが青江にはとても寂しかった。孔雀緑を潤ませて、歌仙は青江に問い掛ける。
「本当に、行くのか」
青江が僅かに視線を下ろす。
「君が積み重ねた年月も、掛けられてきた思いも、全てが無に帰すかもしれないのに」
それでも、と青江は呟いた。
「それでも好きになっちゃったんだ」
静かな青江の笑顔には、これ以上誰が何を言っても心を騒がせないという、覚悟のが見え隠れしている。歌仙は遂に言葉を飲み込むと、細く長く溜息を吐いた。青江の髪を掻きあげて、露わになった頬の輪郭を手で包み込むようにしてなぞる。
「また、眠れなかったんだね」
問い掛けのような柔らかな非難が青江にとっては心地よい。
「暗夜の出陣で野宿をしても、三日三晩の強行軍でも、平気な顔で寝起きする君が。これしきの…済まないね、でも…これしきのことで」
歌仙は何かどこへもぶつけようのない悔しさを堪えるように奥歯を噛む。歌仙にそんな顔をさせている自分を青江は悔しく思ったが、自分が歌仙にしてあげられることが何も無いことも知っていた。青江は幼子を寝かしつけるように、歌仙の背中を撫でさする。その優しげな手付きに触れて、どうして君が、どうして僕が、とそれだけしか聞こえない恨みごとを、歌仙はあてもなく繰り返すしかなかった。
夜明けの気配が障子の外まで忍び寄っている。「今日はここで眠っておいで」と嗄れ果てた声で言った歌仙に、青江は思わず振り向いた。
「ここって…どこで」
「僕と共寝は不満かい」
青江に否やのあるわけがなかった。夏用の薄い掛け布団の隅を捲り、するりと入り込んでみると、足の指先が歌仙の脛のあたりに触る。
「狭くない?」
「全然」
ぶっきらぼうな答えに青江は口元だけで笑った。頭をころりと転がすと、予想より遥かに近くに歌仙の耳がある。青江は体ごと歌仙の方へ寝がえりをうち、小さな声で問い掛けた。
「ねえ歌仙、君、好きなひとは居ないのかい」
一言で切り捨てられるかと思ったが、歌仙は少し考えて返事を口にする。
「それはやっぱり忠興だなあ。彼の刀であったとき僕は生まれたし、彼の刀であったから僕はこういうものになった」
「好きな刀は?」
「どうだかね」
さらりとかわした歌仙が憎たらしくて、青江はぐいぐいと彼の体を肩で押した。
「こら、青江、落ちる落ちる」
聞き分けの無い子どもの遊びに付き合うように、歌仙の声は笑いを含んでいた。しかしすぐに二人の上へ沈黙が流れ込む。もう二度と会えないなどとはまさか二人も思ってはいない。しかしこれを機に何か決定的なことが変わってしまうのではないかという不安を解消する手立てもまた、無いのだった。
「…君らの他にも、恋仲になった者たちは居るんだろうね」
「…なんとなく、そうかなあって思う子たち、居るよ」
低い歌仙の問い掛けに、青江も静かにそれだけ答えた。ならば安心じゃないかとは言えないだけの事情が青江にも石切丸にもあるだけに、それは虚しいだけの問答だった。歌仙は真っ直ぐ天井を見上げながら、嗄れて掠れた声で呟く。
「どうして…」
「うん?」
「どうして君は、こんなことになってしまったんだろうね」
薄闇の中で青江には、歌仙の耳元へ何か銀色の小さな光が落ちて行くのが見えた。
「君が行くと決めたのなら、僕にできることなどもう何も無いんだ」
すっ、すっと現れて消えるそれは、まるで夜空の流れ星のようだ。ぼんやり見惚れる青江をよそに、歌仙は依然、天井へと言葉を向けている。
「僕はここに居るからね、青江。戻れるとは思えないけれど、帰りたくなったら、逃れたくなったら」
「それは、無いよ。歌仙。大丈夫」
青江はほんの少しだけ手を伸ばし、歌仙の目元を人差し指で拭った。驚いた歌仙が僅かに枕から頭を浮かす。黎明の僅かな明かりを反射した、それは友人の涙だった。
「ばかなのは歌仙だ。僕のために泣くなんてさ」
歌仙の足が布団の中で青江の足を軽く蹴る。意地でも頭を動かす気は無いのだろう、彼の意地に青江は笑って、そして何度目かも知れない言葉を口にした。
「有難う。ありがとう。君は優しいね」
歌仙の肩口に額を押し付け目を閉じると、ふたりの手が触れ合った。
「ねえ、歌仙」
青江の右手が歌仙の左手の輪郭をなぞり、人差し指が彼の小指の先を柔らかにひっかく。もうそこに、言葉は要らない。
「…ん」
どちらのものかも付かない声と共に、ふたりは静かに手を繋ぐ。その後はもう何も言わず、彼らは静かに眠りについた。
「おそよう」
「えっ、明け方?」
「夕方だ、この寝坊助め」
目覚めた青江が最初に見たものは、足袋と袴とそれらに挟まれて僅かな面積の足首だった。ごろんと頭を転がせば、出陣の支度を万端に整え武装した友人であることが分かる。あれ、何か足りない気がする、と青江の頭が回転し始める前に、彼はもっと重大なことを思い出した。
「内番!あっ出陣!でも出陣ならまだ…」
「両方代わって貰ったよ。堀川と浦島に礼を言っておくんだね」
呆れたように歌仙が言った。脇差たちは仲が良い。日々出陣に忙しい青江のことは誰しも知っているところなので、きっと二つ返事で代わってくれたのだろう。
「僕もこれから出る。昼食、食べるならそこに君の分を貰って来たから好きにしな。あと…居たいなら、いつまでここに居てもいい」
歌仙の言葉から推し計られる、昨日の続きはそれだけだった。だから青江も事務的に、余計な感情を入れずに返す。
「ありがとう」
すると歌仙は障子の前で立ち止まり、振り向いて青江にこう言った。
「また明日」
「うん。また、明日」
寝転がったまま少し笑って、青江もそっくりそのまま返した。障子が閉まるのを待って勢いよく起き上がると、随分体が軽く感じられる。やはりここ数日の不調の原因は寝不足だったのだろう。指折り数えてみれば、一日の半分ほどを昏々と眠って過ごした計算になり、青江は思わずひとりで笑った。折よく空腹を感じたので、歌仙が確保してくれていた昼食に手を付ける。
「あれ?」
青江は咄嗟にそれを持って駆け出しそうになったが、思い直してまた座る。恐らくこれは忘れものではないだろう。だとすれば、やはり。青江はそれを持って歌仙の鏡台の前へ行くと、体のあちこちにそれを付けてみる。持ち主ほどには似合っていない気がするが、友人からの気遣いとして有難く受け取ることにした。
夕食時の浴場は、思った通り誰も居なかった。がらんと広い場内では、青江の立てる音だけが高く大きく響く。彼はのろのろとした動作で湯を浴びると、だだっ広い湯船に身を沈めた。今なら泳げるな、とちらりと思うがやめておく。早々に洗い場へ行き体と髪を清めると、さっさと片付け立ち上がった。
その時ふと、青江は目の前の鏡に映し出された自分の姿に目を留めた。どちらかと言えば痩せ型だが、筋肉はそれなりに付いている。他の脇差たちと一緒に風呂に入ると、自分だけ雰囲気が違って見える体つきだった。彼はこんなのが好きだろうか、と青江は詮無いことを考える。体格などはもう仕様が無いけれど、努力くらいはしておくべきかもしれない。
彼は浴場を出ると、脱衣所の棚の隅に置かれた刀たちの私物に目を遣る。この本丸には身嗜みに気を付ける者は割合に多く、そこだけ見るとまるで別世界のように華やいだ空気が流れている。昔ながらの椿油や糠袋から、青江には使用法が皆目見当の付かないものまで沢山だが、どうにか彼は目当てのもの…蜂須賀がいつも使っている整髪料を見付けだした。一度、使ってみるかと差し出されたので覚えていたのだ。その時は、要らないよ、と断ったのだが。
青江は着て来た浴衣に袖を通して洗面台の前に座ると、蜂須賀の手付きを思い出しながら容器の中身を掌に落とした。見た目は蜂蜜のようだったが、粘度は僅かに水っぽい。それを両手に広げて髪に滑らすと、噎せ返るような花と蜜の香りがあたりに漂った。出し過ぎたかな、と思ってみてももう遅い。青江の髪は少し気恥ずかしいほどにつやつやと輝き、しっとりと纏まっている。甘い香りが体に絡みつくようだ。彼は所在なさげに立ち上がると、誰にも会わぬよう注意しながらなんとか部屋へ戻った。
既にすっかり日は落ちている。第二部隊の石切丸は、今日も出陣しているだろう。間もなく戻って来るはずの彼がここへ来るまでの時間をどうやって過ごせばよいのか、青江には見当も付かない。壁に凭れかかったまま、ずるずると畳に座り込むと、物の無い部屋は夕日を浴びてがらんと只管広かった。ここ数日、様々な者たちと触れ合っていたせいで、暫く忘れていた静寂だった。
暗闇に、彼の気配が漂った。青江は目を閉じ、膝に置いた手に僅かな力を籠める。石切丸の大きな体の質量が、音を立てぬよう静かにこちらへ近付いて来るのは、まるで嵐の気配を感じながら晴天を見上げているような、そわそわと落ちつかない心地だった。とん、と障子に手を掛ける僅かな音。思わず息を止める青江をよそに、彼はなかなか入って来ない。青江が焦れて目を開く。その時だった。
紙一枚を隔てた外から、あおえ、と音ではなく、例えるなら空気の震える振動だけが彼の肌へ伝わる。それは声よりなお速く強く聴く者の意識に訴えかけるようだった。自らの魂の芯鉄をぐいと押されたような心地に、思わず青江は詰めていた息を吐き出した。彼の脳裏に閃いたのは言霊という言葉だ。何かの手応えを得たのだろう、掛けられていた手に力が籠り、するすると木の触れ合う音を立てて障子を開いて行く様を、青江は目を閉じたまま感じ取る。
二度目の呼ばいは石切丸の肉声だった。背中でそれを受け止めた青江は、安堵したような低い男の声の中に、確かにそれだけではない静けさを見出していた。息を殺すようにして石切丸が部屋へと一歩踏み込んで来る。明かりの無い部屋の中でも迷うことなく二歩、三歩と足を進め、大きな掌がそっと青江の肩へと置かれた。するとその手が僅かに震え、青江の背中を確かめるように撫で下ろす。薄い純白の彼の衣は、石切丸の手のぬくみを余すところなく青江に伝えた。
「この衣は」
石切丸の言葉は問いかけではなく確認だ。だから青江は一つ頷くだけで良かった。いつも肩から掛けていた白装束に両手を通し、きっちりと身に纏った青江の後ろ姿は、その長く艶やかな洗い髪の印象も相俟ってまるでこの世のものではなかった。
「神様に攫われるなら、きっとこの格好がふさわしいんだろう」
静かな声が暗闇に染みる。それを聞いた石切丸は、まるで供物を捧げ持つ太古の神官のように、うやうやしく青江の肩へ手を回すと、後ろからゆっくりと己の胸へ凭れかからせた。そのまま上から彼の顔を覗きこむと、常にない彩りが石切丸の目を奪う。米神のあたりに飾られた小ぶりな牡丹の花にそっと触れ、石切丸は呟いた。
「君が、差したのかい。自分で」
そう問い掛けると、青江は薄く目を閉じたまま、こくりと頷く。食事の盆に添えてあった友人の私物だ。忘れるということは無いだろうから、きっとこれは自分にくれたのだろうと理解して、青江はそれを髪に飾った。自分では似合っているかなど分からないが、彼は友人の見立てを何より信じていたし、半ばお守りのような感覚だった。
石切丸は堪え切れずに少し荒く息を吐き、吸う。途端に肺腑を満たす濃厚な花と蜜の香り。それは普段の彼からはまずしない、あまりに甘いものだった。あの戦場を駆ける脇差が、あの誇り高い刃が、ただ自分に身を委ねるために慣れないことをしているのだと…そして己の行動に恥じ入りながらも自分の行動を待っているのだと、石切丸が全てを諒解するのに時間は掛らなかった。
胸に抱き込まれた青江は身じろぎもしない。自分よりも遥かに小さく薄い体が浅く呼吸を繰り返す様を見て、石切丸は安心させるようにその白い頬に手を添えた。
「良いんだね」
石切丸の問い掛けはどこまでも穏やかだった。青江は緊張の色を隠せず、それでもなんとか眉尻を下げ、唇の端を僅かに上げた。
「良いよ」
首を捻って斜め上の石切丸と視線を合わせる、それは泣き出す前の表情に似ていた。思わず石切丸は後ろから青江を抱きすくめ、そのまま片手を青江の膝の裏へ滑り込ませると、立ち上がりながらふわりと抱え上げる。
青江は石切丸に比べて小柄だが、けして華奢ではない。だから不安定な体勢に危険を感じ、咄嗟に眼前の逞しい首へ両腕を回した。途端に予期せず間近で顔を見合わせてしまい、彼らは共に気恥しさから目を逸らす。衣服越しの互いの温もりならすっかり知った仲ではあったが、このような直截な触れ合いをするのは初めてだった。
石切丸は青江を抱えたまま、開けっ放しの障子を潜って外へ出た。幾らか欠けた立ち待ちの月は、それでも彼らの行く手を照らし出している。外気に触れた途端、青江は身を小さくして、まるで石切丸の懐へ入り込もうとでもするかのようだ。仔猫のような仕草に目を留めて、人払いはしてあるよ、と耳元で囁けば、青江は観念したかのように胸元に顔を埋める。
ゆっくりゆっくりと歩く石切丸の腕の中は、まるで温かな船のようだ。青江はこれまでどの主からも大切に愛されてきたが、それはあくまでも価値のある武器としての扱いだ。いま自分が受けているのはそういった物ではないと青江にははっきり感じられた。それは例えば美しく脆い蝶を指先に留まらせるような…否、触れるだけで崩れ去る精緻な細工を持ち運ぶような。
自分はそんなものではない、と胸元からせり上がる思いに、青江はしっかり蓋をする。それは言うなれば彼の実戦刀としての本能であり、蓋をしたのは付喪神の自我だ。ああ、自分はよく分からないものになってしまったと青江は強く瞑目する。耳元で花弁がさわさわと鳴った。
石切丸が僅かに背を丸め、それで青江は彼が敷居を跨いだことを察する。辺りにはしっとりと密やかな香華がくゆっていた。ああ、三条の対だ、と青江は理解した。目を閉じ石切丸の胸に顔を伏せたまま、彼の歩みを想像する。着いた、と青江が思うのと、石切丸が彼を夜具へとゆるやかに横たえるのは、ほぼ時を同じくしていた。
不安定だった腕の中から急にしっかりした布団に降ろされて、青江は突然自分の姿が全て露わになっていると気付く。思わず両手の袖で顔を覆ったが、それはすぐに石切丸の手によって取り払われてしまった。いま自分がどうなっているのか分からない不安に負けて、遂に青江は目を開けた。すっかり暗さに慣れた目に飛び込んで来る老松色。石切丸の肩越しに、三条の部屋の調度が見える。
覆いかぶさる男の体を反射的に跳ね飛ばしそうになり、青江はなんとか自制した。顔を覆うため肩より高く上げていた両腕の、脇の下に石切丸が手を付いている。なんて無防備なんだろう、と青江はぞっとした。もしこれで石切丸が自分に敵意を持っていたなら、恐らくろくな抵抗も出来ぬままに折られるだろう。この体勢から出来得る反撃は――と想像し始めて、青江は違和感に気付いた。
現実逃避のようにそんなことを考えている青江をよそに、石切丸は立ち上がった。圧迫感から解放された青江が彼の様子を視線で追う。石切丸は自分の胸ほどの高さの几帳の傍で、羅の羽織りを肩から落とす。続いて細帯に手を掛けた。後ろ手に結び目を解き帯を取ると、袷が開いてだらりと落ちる。
しゅ、しゅ、と音を立てて袖を抜く仕草に、青江は男の色気を感じて仄かに赤面する。中から現れる襦袢の涼やかな流水紋。しなやかな布は、彼の肉体の凹凸を強調するかのようだ。脱いだ全ての衣服と帯を纏めて几帳の上に掛けると、ようやく石切丸は布団の青江へ向き直った。
この段になって青江はようやく、石切丸がよそゆきの服を着込んでいたことを認識した。うすものの羽織りなんて、一体いつから持っていたんだろう。あの夏物の単衣は恐らく絽か紗、どちらにしろ短い季節しか着られない、道楽に類されるような趣味の衣類だ。石切丸はどちらかといえば質素で地味な色柄を好むと青江は既に知っている。ならばそう、答えはひとつ。
「石切丸、随分お洒落して迎えに来てくれたんだねえ」
青江の言葉はからかうように弾んでいた。
「僕、ずっと目を閉じてたんだ。勿体ないことをしてしまった。ねえ君、また着てくれるかい。こんどこそ君の伊達男っぷりを目に焼き付けておくから」
ぺらぺらと青江は喋り続ける。その時にはもう彼自身気付いていたのだ、この慣れない状況での、無音を恐れているのだということに。石切丸が足を捌くたび、襦袢の裾がするりと鳴る。そのことを意識するだけで、青江はたまらなく恥ずかしいのだ。
そんな感情を知ってか知らずか、石切丸は一言も発さないまま布団の際まで歩み寄ると、青江の腰のあたりに座る。全身を上から見下ろされる感覚に耐えかねて、青江は反対側へ寝返りを打った。
「青江、こちらを向いて」
空気を僅かに湿らせるように、石切丸は殆ど息だけでそう言った。
「お前があんまり緊張しているようだったから、のんびり支度させて貰ったけれど。…私は別に、脱ぎ散らかしたって良かったんだよ」
最後の言葉を殊更低く剥き出しの耳へ囁けば、青江はまるで赤子のようにくるりと丸くなってしまった。その様がまた幼くて、石切丸は忍び笑う。青江が寄ったせいで空いた布団の隙間に横になると、彼の背中に緊張が走ったのが見て取れた。そのうちなんだか小動物を虐めているような気分になってしまったので、石切丸は青江の背中を撫でてやる。青江は薄い単衣の下には何も着ていないようだ。
布越しに背骨の数を数えながら触れて行くと、彼はくすぐったそうに身をよじる。頃合いか、と肩に手を掛けてみたら案外簡単に仰向けに転がった。しかし石切丸をまともに見る事はできないようで、視線をあらぬ方向へ飛ばしながら、青江はぼそりと呟いた。
「君と一緒に寝たことなんて何回もあるのに、どうしてこんなに恥ずかしいんだ」
「そりゃあ、お前」
「いい、言わないで」
自分の発言を頭から後悔したのだろう、青江は力任せに石切丸の口を塞ぐ。その隙に石切丸は青江をぐっと引き寄せて、小さな頭の下に腕を差し込んだ。
「捕まえた」
そう笑う石切丸の顔は、齢千年を越えた大太刀とも思えぬ素朴なもので、力任せに逃げようとした青江の気概は、音を立てて萎んで行った。観念したようにぐったりと石切丸の腕を枕にすると、青江はほう、と息を吐く。その姿がまるでしょげているように見えたので、石切丸は問いかけた。
「…嫌なら、今日はこのまま寝てもいいけれど」
「…本当に?」
じっとりと青江が見返すと、石切丸は口ごもった。分かりやすい反応に青江は思わず笑いながら、ころんと仰向けに寝返りを打った。
「僕は刀だったんだ、石切丸」
青江の小さな呟きへ、石切丸は不思議そうに言う。
「今も君は刀だろう」
「違う。今の僕には君が切れない」
きっぱりと言い返し、青江は言葉を継ぎ足した。
「斬れればそれで良かった。それが僕の価値だったし、重宝されると嬉しかった。それが刀だろう、石切丸。僕は幸福な刀だった」
うん、そうだね、と合槌を打つと、青江は静かに語り続ける。
「僕はもう刀に戻れない。けれど君の手を離せない。君とこうなる時のことを考えて、僕は怖かった。君と深く繋がることで、僕と君のどちらかは壊れてしまうんじゃないかと思った。君は神様の持ち物だから。でも、違った」
この部屋へ来て初めて、ようやく、青江は石切丸の目を見て言った。
「とっくに僕は壊れていたね、石切丸」
そう言って笑う青江の笑顔はどこまでも儚く透明で、石切丸は発作的に強く抱きしめたくなる衝動をどうにか堪えた。ここへ連れて来てすぐ、青江の気配が戦場のそれになっていたのは石切丸も察知していた。まさか斬られる心配はしていなかったが、もしやあの時青江は、自分を斬れるかどうかと考えていたのだろうか。そう考えると切なくなって、石切丸は言葉を返す。
「お前の言うことも、分かるよ青江。しかしその言に拠るならば、私はとっくに刀ではなかったということだ。そうだろう」
「石切丸」
「刀としてこの身を受けながら、殆どの生を神域の中で過ごしてきた私は、ただただ神威の器でしかなかった。人に使われる喜びも、人を斬る本能も忘れて…」
驚いたようにこちらへ顔を向ける青江の、髪に差した花が頭の下敷きになる前に、石切丸は掌を差し伸べて咄嗟に守った。この牡丹を青江に渡したのが誰か、石切丸には分かっている。青江がその内面を共有できるような相手を持っていること、そしてその相手からも自分が許されたことが、石切丸には嬉しかった。
「酷い手傷を負ったあの日。意識も戻らぬうちに私は、三人がかりで徹底的に禊祓いをされていたんだよ。お前は知らなかったと思うけど」
私の言いたい事が分かるかな、という石切丸の問い掛けに、青江が考え込んだのはほんの少しの間しか無かった。それって、と呟く青江に石切丸はひとつ頷き、微笑む。
「私に恋を教えてくれて有難う、青江」
本来の姿では情欲などは持てないはずだった神威の器は、いつの間にか穢れではなく魂に在り得べき状態の一つとして情を持ち合わせるようになっていたのだ。青江の頬と唇に、羞恥ではない赤みが差す。
「ここへ来て私は生まれてきた意味を知った。君に出会って己の心を、情と欲に向き合った。審神者にも神にも望まれぬことかもしれないが、それでも私はここに居る」
腕と頭に挟まれて無造作に乱れた青江の髪を、石切丸は自由な右手で梳かしながら畳へ流す。艶々と濡れたように輝く髪は、まるで川の流れのようだ。
「時は流れる。不変のものはこの世に無い。ならば私とお前の有り様が変わって行くのもまた、現世の倣いというものだろう」
言いながら、石切丸は青江の体をごく近くまで引き寄せた。互いに纏った布は余りに薄く、触れるだけで指先の体温を相手の肌へと移してしまう。むしろ素肌ではない分、互いの肌の感触をより生々しく感じるようだった。
石切丸は青江の手を取り目を見詰めながら語り掛ける。
「私は神様ではないから、私たちにこの先何が待つかは分からない。けれど私はお前のために出来ることなら何でもしたいと思っているし、お前の幸福をいつでも祈っている。お前の災厄を我がことのように受け、お前の行く末には共に在りたいと願っているんだ。それを…許してくれるかな」
石切丸の唇が青江の瞼へ交互に触れる。そのまま頬へ、首筋へ、胸元へと降りて行くのを青江は切なげに見守っていた。互いに抑えた呼吸が荒い。石切丸は肘を青江の体の両側に置いて体を支えると、ゆっくり彼の体へ覆いかぶさった。圧倒的に大きく強い獣に上位を取られている状況を、青江の心は喜びと捉える。
襦袢の袷の隙間から石切丸の肉体が青江の眼前に晒された。自分とは全く違う、それは成熟した男の体つきだ。細帯で締められた腰までの筋肉が、青江の体を探るたびにひくひくと動く。まったく人間は、自分たちに何という器を用意してしまったのだろうと青江は叫び出したいほどだった。大きな獣はちらりと青江の顔を伺うと、そのまま口を開いて彼の腰紐の一端を食む。あ、と情けないほど滲んだ声は青江の喉から勝手に漏れた。す、すす、と緩慢に解けていく戒めと、牙を剥き出しにした石切丸の熱っぽい瞳。とても頭の処理が追いつかず、見ていられなくなった青江の目から零れ出したのは、小さな器から溢れ出した感情だったのかもしれない。
あとほんの少し力を加えるだけで解け落ちる帯をそのままに、石切丸は囁いた。
「お前を抱いていいだろうか。私はお前を愛したい」
頬を涙でしとどに濡らしたまま、青江は一度だけ、深く深く頷いた。石切丸は青江の髪に飾られた牡丹の花を恭しいほどの手付きで取ると、枕元にそっと置く。花で隠されていた米神に触れるだけの口付けを落とすと、そのまま青江の息を奪った。
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