結局、具体的な解決を出ないまま、青江は歌仙の部屋を辞した。もとより解決することなど無いのだ。青江が諦めるか否か、それだけのことであって、誰から何を強いられているわけでもない。それでも胸のつかえは取れず、昨日今日の出陣では青江らしからぬ失態も、些細なものだがあったりした。恐らく歌仙にはばれていただろうが、青江の心を知る彼は素知らぬふりを通してくれた。
 疲れた体を引き摺って自室へ戻る。夜へ出掛けて夜に戻る生活が続く彼は、もう自分が蛇や猫などの夜歩く生き物にでもなってしまったかのような気分だった。ああ、蛇はいいねえ、寝そべったままで戦える。そんなくだらないことを考えながら真っ暗な部屋の戸に手を掛けて、青江は足元の不思議な感覚に視線を落とした。

 暗がりの中では最初おがくずか何かに見えた小山は、目を凝らせば薄紅の色彩をもった柔らかな花弁が積もっているのだと分かる。いったい幾らの花から毟ればこんな量になるというのだろう。驚きを通り越して唖然としたまましゃがみこんだ青江は、花弁の小山のてっぺんに置かれた一際大きなひとひらに目を留めた。握り拳の半分ほどもあるそれには、細い筆で何か文字が書かれている。
 有名な古歌の下の句をそこに読み取って顔を上げた青江は、廊下にもちらほらと舞い落ちている花弁に気付いた。芙蓉の花だろうか、一体どこから摘んできたものやら。
 そんなことを考えながら彼は急いで戦装束を解くと、部屋着に着替えて廊下に出た。よく風で飛ばされなかったものだ、と思いながら花弁を一枚一枚集めて歩く。あちらに一枚、こちらに一枚とまばらに落とされた花弁は、しかし曲がり角や分岐点では懸命に注目を集めようとするように沢山撒き散らかされていて、仕掛け人の真面目さに青江は思わず苦笑した。

 案の定というべきか、花弁の指し示す道の先は三条の座敷へと続いている。最後の渡殿を越えて回廊を曲がったところで、青江は真上から声を掛けられた。
「いはでおもふそ」
 花弁の歌と同じ文句を紡ぐ高い童の声に、青江は笑いながら答えた。
「言ふに勝れる」
 その途端、飛び降りて来た影に目を凝らす暇も無かった。
「あおえぇ…」
 情けない声とともに、今剣の細い腕が腰の下に絡みついた。幼い体の温かさはいっそ熱いほどだ。小さな頭を撫でてやるうちに、共犯者であるらしい小狐丸が暗がりからぬうっと姿を現す。心には下行く水のわきかへり、いはで思ふぞいふにまされる。言葉に出すより更に強くあなたのことを思っていますよ、というそれは素朴な気持ちを伝える歌だった。

「だれかにいじめられたならぼくらにいってくれなきゃこまります」
「有難うね、今剣」
「おぬしはもう我らの係累だ。頼りにならぬやもしれんが、出来得る限りは関わらせて貰いたいところだな」
 石切が絡んでいるならば尚更、と小狐丸は笑う。豊かな白の総髪が月光を照り返して眩しいほどだ。その神々しさを助長させるような深紅の瞳は、しかし青江へ笑い掛けている。
「我らはおぬしが求めるまでは手出し無用と思うたのだが…のう」
 同意を求めて背後に視線をやる小狐丸、その先には何やら椅子のようなものを幾つも重ねて運ぶ普段着の岩融の姿があった。
「お前ら、早う準備せい。青江は何ぞ得意なものはあるか」
 突然の問い掛けに戸惑う青江に返事の暇さえ与えることなく、今剣が青江を三条の広間へと誘った。普段は下ろされている蔀戸や簾が全て除けられ、目一杯に開かれた部屋は月の光を奥の奥まで取り込んでいる。月影を迎え入れるようにして用意された五つの円座と、幾つかの楽器。上座で琵琶の糸を絞る三日月は、青江を見て嬉しそうに微笑んだ。


「おお、おお、よう来たな。そなた音曲は嗜むか?」
「多少は…でも」
 展開の速さについていけず、まごつく青江はそれでも何とか受け答えした。青江にも教養程度の琴の習いはある。しかし琴は楽団の長が弾くべき格の高い楽器だ。上座の三日月が琵琶を持っている以上自分が手に取ることはできないし、第一彼らの前で披露できるような腕前とはとても思われず、青江は考え込んでしまう。
「音曲は好まなんだか?ならば歌舞でも構わんぞ、なあ」
 三日月がそう言うと、異口同音に賛成の声が上がる。青江がざっと見渡すと、今剣が龍笛で岩融が鼓、小狐丸が篳篥を奏でるようだ。管弦の定石に則るならば、糸と笛が足りない。ここに来て青江はようやく足りない一口に気付く。彼はこのような集まりで、いつもどんな音色を奏でたのだろう。
 青江の次の言葉を三条の刀たちが待っている。彼は脳裏に思い描いた面影をぱっと振り払い、三日月へ問い掛けた。
「ここに無い楽器でも…?」
「何なりと申せ」
 鷹揚に頷く三日月に、青江は言った。

「三味線は、ありますか」
 その言葉に今剣は勢いよく立ち上がると、一足飛びに部屋の外へ出た。三日月の瞳の中で金色の虹彩が輝きを増す。目の前の刀が喜んでいることはその雰囲気から十二分に察せられた。
「名も音色も聞いたことがあるぞ。しかしおれには弾けぬ。流石、青江は馴染みの糸もはいからだなあ」
 童のように無邪気に喜ぶ三日月のもとへあっという間に運ばれたそれは、三味線、としか言っていないのに、青江の想像していた通りの材質や太さ、撥の大きさをしていた。今更この一群に対して何を言うつもりもないが、やはり余人の想像の及ばぬところを多く持っている。
 今剣から渡された三味線を興味深げに眺めると、三日月は瞳の中の月をとろけさせるように甘く微笑みながら、それを青江へ差し向けた。
「受け取れ」
 手に取った三味線の手触りに青江は目を細めた。彼が長らく棲んだ大名家では、奥の女性たちの中で流行していた楽器だ。戯れに撥を取り、びん、とひとすじ糸を掻いてみる。慣れない音に小狐丸の耳が――実際のところ、本当に耳なのか青江には分からないのだが――ぴくりと跳ねた。
「これは、良い糸ですね」
「そなたの物だ。気に入ったか」
 瞬間的に顔色を変えた青江を見て、三日月は楽しそうに笑う。
「はははそのような顔をするでない。…ならば、そうさな、この三味線は糸質だ」

 三日月はそこで一度言葉を切ると、ひらひらと手を翻し青江を更に近くへ呼び寄せる。膝でいざって近付いて来た青江の肩を抱き寄せて、まるで内緒話をするように袖で口元を隠し、三日月は彼の耳へ囁いた。
「爪弾きたくば、足繁く我らに会いに来るが良い!」
 三日月宗近との余りに近い触れ合いと、その余りに他愛無い言葉に、青江は顔を真っ赤にしたまま堪え切れずに笑い出す。
「青江よ、三日月の君は貴様が顔を見せぬと言うて、いたくお嘆きであったのだぞ。今更何を言うても無駄よ」
 鼓の張りを確かめながら、そう岩融が唇の端を吊り上げた。
「さあ青江、何を弾く。双調、平調、何が好みだ」
 今にも踊り出しそうなほどに上機嫌の三日月に、青江も嬉しくなって返事した。
「ならば…柳花苑」
「よいぞ、よいぞ」
 夏の夜の景趣に合わせた青江の選曲は、またしても彼を満足させたようだ。三日月が手を叩いて喜ぶと、まるでそれが合図とあらかじめ定められていたかのように面々は楽器を手に取った。

 重く凝った夏の空気を掻き分けるようにして、今剣の笛の音が空へと鳴った。それに追随するかのように張り詰めた鼓がてんてんと拍子を刻み、小狐の篳篥が低く歌い出す。傍らの三日月が、ふ、と息を詰める瞬間が青江には手に取るように感じられた。それに心を添わせるようにして、べん、と撥を下ろす。途端に青江の背筋を鳥肌が駆け上って行った。
 青江の旋律は琴のものをそのままなぞっている。曲の主役は笛達だったが、謂わば副旋律として動き回る青江の撥にぴたりと付いて来るまろやかな音色は、三日月の手に鳴る琵琶だ。細かく音を刻む青江の動きを柔らかに抱擁するかのように、三日月は穏やかな和音を奏でる。
 今剣と小狐が競い合うようにして音色を押し出す様は、まるでじゃれあいながら駆けているようだ。岩融の鼓は周囲の熱気に混じり合いながらも冷静な拍を刻んでおり、彼の性格の一面を思わせる。青江が鼓笛の盛り上がりに乗じて僅かに糸に遊びを入れれば、目配せも何もせぬ前に三日月はその調子へ色を加えた。

 堪え切れずに青江は空へ、はあ、と熱く息を吐いた。濁流に呑まれるような衝動と、他と混じり合う快感。音色の違う楽器の響きが重なり合って和音を作る。すっ、と隣で三日月が深く息を吸った。次の拍で、打つ。一糸乱れぬ鳴弦は青江の背骨を痺れさせた。ああ、ここに彼が居たならば。夢うつつの青江の目には、小狐丸の傍らで笙を吹く男の姿が見えていた。
「泣くか、青江」
 夜の空気を撫でるように静かな三日月の声を、意味ある言葉として理解するまでに、青江は少々の時間を要した。震えの残る指先で頬に触れると、確かにそこはひやりと濡れている。
「悲しいか」
 いいえ、と青江は首を振る。ならば、と三日月は問いかけた。
「恋しいか」
 青江は弾かれたように三日月の打ち除けを見詰めた。小狐丸も岩融も、今剣までもがそんな二人の様子を微笑みながら見守っていた。湿気に滲んだ夜の空気を、一陣の風が吹き払う。目を細めて夜風に髪を遊ばせながら、三日月宗近は歌うように言った。
「生は須らく物狂いであるという。恋もまた然り」
 そして青江へ手を差し伸べる。
「おいで」
 意味が分からずぽかんとする青江を見るや、三日月は己の膝をぽんぽんと叩いた。いや、それはさすがに、と後ずさりする青江だったが、粘り強い交渉の結果、身を寄せ合って傍らに座るところまでを了承させられる。好々爺のような雰囲気と喋り口で油断していた青江は、彼が己より遥かに力強い太刀であることを忘れていた。
「ほれ、じじいに何なりと言うてみよ」
 肩を組むように引き寄せられ、全身で三日月の衣の肌触りとそこに焚き染められた香を感じている青江は、目を白黒させながら小さくなる他ない。それでも何とか喉から引き出したのは、彼らを微笑ませるような質問だった。
「あなたがたが僕に親切にして下さるのは、僕が石切丸のものだからですか」
「そうだ。しかしそれ以上に、そなたが我らの係累だからだ」
 口元に笑みを湛えながら、三日月はしかしきっぱりと答える。そこには一切の迷いが無く、青江は己を受け容れた群れの強さと寛容さを感じる。三日月は幼子にするように青江の頭や頬を撫でながら、うっとりとした調子で言った。

「さてもゆかしき連れ弾きよ。このような管弦の宴は初めてだ。おれは三味線が弾けぬがな、その音と手付きでそなたの手練ぶりは分かる」
「お恥ずかしい。人の真似ごとです」
 固まったままのそう青江が言うも、三日月の調子は変わらない。
「なに、我らの在り様すべてが人の真似ごとさ。それだけ細かに人の真似ごとができるほど、そなたは人に親しんでいた」
 そしてふいに青江の顔を覗きこむと、彼は声の高さを僅かに変えた。

「昔むかし…いづれの御時にか、おれはそなたに会うたことがある。恐らくそなたは覚えておらんだろう」
「…豊臣の?」
 一気に座り方まで改めそうな青江を押し留め、三日月はその艶やかな長い髪に手指を通して戯れてみせた。
「そのような顔をせずともよい、よい。ひとつ腰に差されるどころか、並べ飾られたことすらない。おれがちらりと垣間見ただけのこと」
 遠い記憶の中にも、あの城での生活に数えきれぬほどの同輩たちがひしめきあっていたことは残っていた。自分も彼も、あの時あの場所で同じ空気を吸っていたのだと言われれば、そういうこともあるかもしれない、と思う。
「ただ、その頃のそなたは今のような姿ではなかったなあ。天下人好みの絢爛豪奢たる姿で、幾つも与えられた典雅な拵えに、にこにこと微笑んでおった」
「…そのことは、覚えています」
 自分は相手の記憶が無いというのに一方的に覚えられているというのは気恥しく、そしてやはり少し情けなく、青江はどのような顔をするべきか咄嗟に選ぶことができない。そんな彼の淡い葛藤を見透かしたように、三日月は両手を青江の頬に添わせた。
「そなたは人によく愛されて来たのだな」

 問い掛けるでも断定するでもないその口調は、すとんと青江の腹に落ちた。彼の態度から肯定の意思を察すると、三日月はゆるゆると言葉を繋ぐ。その言葉に途中で茶々を入れる者など、その場には誰も居なかった。
「そなたが神剣になれんのはな、そなたが人に愛されたからだ。そなたを手にした全ての人は、そなたを手放したいとはゆめにも思わぬ。家の宝として子々孫々へ受け継ぎ、または宝であればこそ、大事に際して誰かへ贈った。よいか青江、神域に祀られた刀たちは、どれも人に恐れられたのだ。いわく付きの来歴であるとか、かつての主が神にも喩えられる傑物であったとか…或いは刀そのものに呪い祟りの逸話があるとか。理由は様々にあろうが、とにかく奴らは『人の手に負えぬ』と思われたのだ。だから神に捧げられた」
 分かるか、と僅かに首を傾げられ、青江ははい、と小さく答える。どこまでも人の理屈に則った物の考え方は、青江には理解しやすい事柄だった。
「幾百年、幾千年の清めと言祝ぎで、奴らは一見、刀の本能を忘れたような姿形をしておるがな。神の手の下に隠れているのは人から遠ざけられたほどの異形の力よ。人はそれがどのような性質のものであろうとも、人智の域から外れたものは須らく神として祀り上げる。そういう意味では奴らはやはり、神であるのかもしれんがなあ」
 ははは、と長閑に笑って見せて、三日月はふいに青江と顔の距離を詰める。

「何かおれに聞きたいことがあるのではないか」
 呼吸が触れ合うほどの近さで見る三日月の双眸に、青江は吸い込まれそうになっていた。天下五剣の魔性と言えば話は早い。しかし彼がそこに感じ取ったのは、宇宙や時間と言った終わり無い物の果てを覗き見る、言うなれば深淵の迫力だった。
「僕は石切丸の傍に居ない方が良いのではないでしょうか」
 小さな声の青江の問いは、彼の本心そのものだ。聞くあてもなく、また聞いたところで誰の返答も受け容れる気にはなれないであろうそれを、青江は深淵へと投げ込んだのだ。金の打ち除けが僅かに揺らめく。
「そうさなあ」
 一呼吸置いて喋り出した時にはもう、青江は魅入られたかのようにそこから目を逸らすことができなくなっていた。
「あれはもう、かつての主を殆ど覚えておるまい。そういう風に造られたのだ。濁り酒の入っていた器を丁寧に洗い、清水で満たしたようなもの。水はあまりに清かであるがゆえ、容易に色も香も移る。…故に奴らは禊で祓う。そうせねば、今の己を保てぬのだ」
 青江は遠目に大太刀たちの禊の様子を見たことがある。火を焚いて地に片膝を付きながら清められた水を被っているその様子は、彼らの不可侵の印象を強くすると同時に、己の生まれた意味と本能を全て否定するある種の不健康さを感じさせた。
「僕が居ると、『石切丸』が壊れるということですか」
「神域の外の誰と居ようが、あれは等しく穢れるだろう。そう己を卑下するものではない。にっかり青江は破邪の剣、主も城も守り切る――そうだろう?」

 三日月が青江に微笑み掛ける。虜惑的なものではなく、親愛の情として。勿体なさと感謝の気持ちで青江の頬は僅かに染まる。
「でも、それでも…」
「神の所有物という目から見れば、情も欲も魂の余計な添加物に過ぎぬ。それを穢れと言うならそれまでよ。石切丸は己の意思で、穢れでもってそなたを慈しんでおる。そなたが立ち入ることではない」
 言い掛けた言葉をやや乱暴に摘み取って、それでもなお三日月は穏やかだ。彼はようやく青江の金と赤から目を逸らすと、髪を一撫でして引き寄せる。彼の唇が青江の耳に触れるか触れないかという距離。反射的に及び腰になる青江だったが、三日月の低い言葉の調子に全ての動きをぴたりと止めた。

「その身の全てを神に捧げられてしもうた石切の、ただ一つの持ち物がそなたなのだ。だからなあ青江、おれは神の刀の石切が、そなたで死ぬると決めたことが、本当に嬉しいのだ」
 見開かれた青江の目に、小狐丸が、岩融が映る。彼らの座所まで三日月の声の届くわけが無い。しかし若々しい外見に反して目だけは古代樹のように老成した彼らの、達観した微笑みは等しく青江に注がれていた。
 彼らの死生観に直面し、口を開けない青江のことをどう解釈したものか、三日月は楽しげな調子で話し掛ける。
「己の意志で死にざまを選ぶなど、有限の命の醍醐味ではないか」
 なあ、と三日月は同意を求めるが、青江の視線が動かないことを悟ると、一転して声の調子が変わった。
「俺はそなたに非道いことを言っているか。何なりと申してみよ」
 青江の顔色を伺うような気配と言葉に、彼はゆるゆると首を振る。ああ、あの神域の神々とは棲む世界が違うのだ。それは動かしようの無い事実であり、そこに何らかの感情を覚えることすら適当ではないのだろうけれど、青江は遂に目を閉じてしまった。それをどう解釈したものか、近くから聞こえる三日月の声は、囁くように小さい。

「おれ達が、怖いか?」
 その問いは明瞭だからこそ、あらゆる誤魔化しを許さない。青江は瞑目したまま、簡潔に言った。
「はい」
「逃れたいか」
 しかし間髪入れぬ次の問いには口ごもる。それはとても難しい質問だった。唇を震わす青江に向かい、三日月は低く淡々と言葉を繋いだ。
「俺には止められん。もしそなたがそう言うならば三味線は餞別代わりに取らせよう。石切には…何とか言うておく」
「うそばっかり」
「面倒ごとは我らの役目」
「できぬ約束はせぬが吉ですぞ」
「これは手厳しい」
 数珠つなぎのように溢れ出る面々からの恨みごとに、三日月は苦笑しつつ肩を竦めた。思わず目を開けた青江もこれには少しだけ笑う。その機を逃さず三日月は、何かの謡の節回しのように青江へ語りかけた。

「梅が枝は夏に香らず、杜鵑は冬に帰らん。何者にも咲くべき場所と時がある。そなたのそれが石切の傍らで無いというのなら止めはせん。だがそれを決めるのはそなた自身でなければらならん。さもなくば後の愁いとなろう」
 どうだ、という言葉は返答を強いるものでも急かすものでもなかった。ふいに訪れた静寂を夏の夜風がささやかに揺らす。青江は吐息で唇を湿すと、低く呟くような声音で打ち明けた。
「僕はあなた方が少し怖い。友人にも言われたんです、あなた方は埒外だと。けれど…ここへ参りました」
「石切丸を慕うておるから?」
 三日月の問い掛けに、青江は視線を上げた。

「ここが僕の群れだから」
 揺らいで睫毛にけぶる彼の瞳が、にわかに強い意志を持つ。
「貴方がたがどれだけの思いで僕を迎え入れて下さったのか、ようやく思い知りました。不束者で申し訳ありません」
「良いのか」
「はい」
 そうか、という三日月の声は青江にも殆ど聞こえないほど小さな小さなものだった。噛み締めるような響きに、彼もまた、少し緊張していたのだと理解して、青江は少し申し訳なくなった。僕などのためにと言えば、また卑屈だと叱られるかもしれない。けれど彼ほどのものが自分のために心を揺らす、そのことが何とも畏れ多いような、勿体ないような心地だった。
「次の曲は、おれが決めるぞ」
 振り切ったように笑顔で告げる三日月に、青江は「この話題はこれでお仕舞い」の意図を汲み取る。否やもなく勿論、と言うと、三日月の目は楽しげに細まった。
「想夫恋」

 弦が主役の恋の小曲が、ゆったりゆったりと夏の空気を染めて行く。三味線の旋律に琵琶が色を付け、笛が唱和するうちに、青江の心は凪いでいった。
 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし――
 無機物である自分たちは、使い手である人間たちより遥かに時の影響を受けにくい。石というものは元来、不変の象徴として人から信じられていた。しかし一握の玉鋼であった自分が刃として形を与えられ、長い長い時を経て己の魂を形作る、それは物理的な方法では触れることすら出来ない領域の、ゆるやかな変化だろう。そして自分以上に長く生きた彼と、本来出会うはずのなかった時空で触れ合った時、その変化は決定的になった。
 変わらないものはない。生物の命も、石の心も、その時々で姿を変えて、いずれは等しく朽ちていく。だからこそ、今この時を生きる価値があるのだ。だからこそ、己が意志して生きるのだ。
その恋を怨まれ放逸された女君と、彼女を追って野に下る若宮の恋の物語は、さてどういう結末を迎えたのだったか。青江は思い出せなかったが、美しく咲いて散れば良い。物語を彩る糸の音をつま弾きながら青江はただそう思い、成程これが器物の精の真髄か、と自分の中に隠れていた三日月の言葉に驚いた。

 短い管弦の小品は、鳴弦の余韻を残して終わりを迎えた。感じ入るように三日月は長く琵琶を抱いていたが、ようやくそれを静かに置くと、今剣に視線を送った。一つ頷き立ち上がった少年は、部屋の奥の几帳から布をするすると巻き上げる。見るともなしにそれを見ていた青江の顔が強張った。
「なんで…いつから」
 青江の声に応えてくれる者は居なかった。狩衣を着崩した格好の石切丸は、急に消え去った目隠しに驚き咄嗟に扇を広げて顔を隠したが、もう遅いうえ無駄にも程がある抵抗だ。彼自身、そんなことは分かっていたのだろう。程なく音を立てて扇を畳むと、紅潮しつつもどこか憮然とした表情を三日月に向ける。だが掴みどころなくにこにこと微笑み続ける彼にとって、そんな意思表示は無いも同じのものだった。
 石切丸はゆっくり立ち上がると、さわさわと袴の裾を捌く音を立てながら青江に歩み寄り、彼が立ち上がるのに手を貸した。驚くほどに大きな手だ。細く筋張って白い青江の手は、簡単に包みこまれてしまう。常にない石切丸からの少し強引な触れ合いに、青江は僅かに戸惑い振り返る。その様をにこやかに見守っていた三日月は、唇の形だけで「またおいで」と彼に伝えた。


 彼に手を引かれながら夜更けの回廊を渡るのは、もう何度目のことになるか知れない。しかしいつもは本殿から離れへの移動であることを考えれば、三条の部屋から青江の部屋へ戻る道行きはいつぞやの宴以来のことかもしれなかった。
「石切丸、怒ってる?」
「…なぜそんなことを?」
「だって君、何も喋らないし、少し、手が痛いし…」
 それを聞いた石切丸は、何か熱いものにでも触ったかのように、青江の手から指を引いた。
「済まない!」
「いや、そこまででは…」
 予想以上の反応に、言った青江も口ごもる。暫しの沈黙。二人の間を流れる微妙な距離と、石切丸の行き場の無い手は、結局青江の背中に添えられることで決着を見た。ほどなく着いた青江の部屋の周囲には、眠る刀たちの気配が満ちている。ここで良いよ、と振り返った彼に、石切丸は意外な言葉を口にした。
「青江、部屋に上がるよ」
「えっいいけど…」
 元より青江の部屋には物が少ない。見た目を気にするほどの物が無いので、別に急に来られたところで焦る必要は無いのだが、これまで数度も上げたことの無いものを自分の領域に入れるというのは多少勇気が要ることだ。
 おずおずと石切丸を先に部屋へ通すと、青江は急いで明かりを灯し、緊張を誤魔化すようにあたふたと動き回った。
「敷物か何か…」
「結構だ」
 きっぱりとした声に、青江は退路を塞がれた心地になる。石切丸は青江の本体が掛けられた床の間を背にどっかりと座ると、立ったままの青江に向かって両手を広げてこう言った。
「おいで」
「…やっぱり石切丸、何か少し変だ」
 これはどう考えても、三日月への意趣返しだろう。彼が見ていないところでは無意味なような気もするが、青江はそこへ何も触れずに男の胸へ収まってやる。二口の刀の刃を映したかのように、彼らの体格には大きな差があった。青江が膝に乗り上げてようやく顔の高さが同じになるが、胡坐の中に尻を付いてしまえば石切丸の顎が青江の頭に乗って来る。
 両手と顎で青江の全身を拘束し、石切丸はようやく人心地ついたとでも言うように、満足げな溜息を洩らした。体は大きいがやることはまるで子どものようだ。青江は下世話な宮中の女房のように、這いつくばって几帳の隙間から自分たちの様子を覗き見ていたのだろう石切丸の姿を想像してくつくつと笑う。何だい、どうしたんだいと問い掛けるその声までもがおかしかった。

 笑い続ける青江に呆れたものか、それとも理由を問うても痛い目に遭うのは自分だと予感しているのかは定かでないが、石切丸は腕の中の彼を好きなように遊ばせていた。だがようやく静かになって来たところで、咳払いと共に口を開く。
「青江、お願いがあるのだけれど、良いかな」
 石切丸がこのように下手に出るのはあまり無いことだった。彼は穏やかで優しいがへりくだることをあまり知らない。驚く青江が反射的に頷くと、彼は一生の重大事を告げるような口ぶりで言う。
「髪を…」
「ええ?」
 予想外の言葉に、まだ腹の中に残った笑いが疼きだす青江へ、石切丸は言った。
「ほどいて、見せて貰えると、嬉しいんだけれどな」

 言葉の迫力と裏腹な内容に、青江の頭は返って冷えた。
「…別にそのくらい、なんでもないよ」
 言うが早いか青江は自らの髪に手を遣り、するすると解き始める。纏めて結っていただけと思っていた石切丸は、予想よりも手の込んだ髪型を見て静かに驚いた。ぽいぽいと小さな髪留めを外し、大きく括っていた紐を外すと、ようやく彼の艶やかな髪がばさりと肩から背中へと流れる。
「もしかして君、おすべらかしが好みかい」
 聞くだけ野暮だった、と青江は言い終わる前に後悔した。重力に従い上から下へと落ちただけの髪に、幾度も指を潜らせ掌で持ち上げ後頭部の感触を楽しみ髪に頬さえ擦り寄せる姿を見れば、喜んでいないわけがない。石切丸は青江の脇の下に手を入れると、上半身の力だけで青江を自分の膝へ持ち上げ、半回転させて向き合うように座らせた。
「これにときめかない男は居ないと思う」
 言葉の調子だけは真面目だが、その目と手からは正面から見た青江の姿に興奮しきりの様子が伺える。仕舞には髪を巻き込んで体ごとがばりと抱きすくめられ、青江は何だか彼の性癖の一部を垣間見てしまった気分になった。
「喜んでくれるのは嬉しいんだけど、昼はやっぱり纏めたいなあ」
「勿論だ。この姿は私だけのものにしておきたい」
 青江の髪に顔を埋めたままで、石切丸はきりりと言う。面白いやら切ないやらで、青江は呻くようにまた言った。
「やっぱり君、今日は少しおかしいよ」
「しまったなあ。今までお前の前でお行儀よくし過ぎていたみたいだ」
 首元で笑われるとくすぐったい。そう青江は抗議しようとしたのだが、ふうと石切丸が息を吐いた途端に辺りの空気が変わる。

「太郎か蛍か…お前に何か酷いことを言ったかな」
 青江の動揺は密着した体同士が余すことなく石切丸へ伝える。その事に気付き腕から逃れようとする青江を、石切丸は圧倒的な腕力で押し留めた。
「隠さなくていい」
 耳元で真摯に囁けば、青江の抵抗はほどなくやんだ。そのいとけない仕草に石切丸は、場を弁えず再び抱き籠めてしまいたくなったが、ぐっと堪えて体を離す。そして片膝にまたがるようにして座り、手元へと視線を落とす青江へ語りかけた。
「謝らせてくれ。彼らは誤解しているんだ。私が口を噤んでいたから」
 青江は視線を合わせないが、聞いてくれる気はあるようだ。安堵した石切丸は、一度言葉を切って、先を続ける覚悟を決めた。青江の肩に手を置いて、低く、しかしはっきりと言葉を紡ぐ。
「私に凝っていた穢れはお前のものではない。お前に纏わりついていた有象無象の穢れだよ。私はお前と触れ合うたびに、それらをこの身に移し取り、禊で清め祓ってきたんだ」

 今度こそ、青江が石切丸を見詰める番だった。食い入るような視線を受け止め、むしろ見返す程の気概で石切丸はその先を言う。
「お前は境界に立っている。自分でも薄々勘付いているだろう。お前の容貌は男性と女性の、お前の瞳は神性と魔性のそのどちらをも帯びている。磨り上げられた大脇差は成人にも見える少年の形を取り、邪気祓いの霊剣は白装束を纏って顕現した…境界には闇が潜む。『どちらへも行ける者』は『どこへも行けない者』に好かれ易い。帰属する場所を持たないということは、自由だがとても不安定だ。そういうものは決まって、行き場の無い者たちに縋りつかれる」
 一息にそこまで言って、一呼吸置いた。言われたことを咀嚼しようとしているのだろう、青江は口元に手を当てながら目を見開いている。その様子を目に留めながら、石切丸は囁いた。
「いつか私が言ったことを覚えているかな、青江。私という個の持ち主の話」
「君はすっかり神様に捧げられてしまったから、君の自由になるものなんて何も無いんだろう」
「違う。私は、自由どころか所有を欲する心すら持ってはいない」
 石切丸は、目を閉じた。長い瞬きの間に、己の来し方と行く先を思う。目を開いたら目の前に思わしげな青江の顔があって、石切丸は微かに微笑んだ。
「…はずだった」

 微笑する石切丸とは対照的に、青江の顔は僅かに悲しげだった。しかしそこに、石切丸の心配していた罪悪感の匂いは無かった。彼はほんの少し、お節介な一族たちへ感謝する。
「戦に出て血を浴びて、ここへ戻ってお前に触れるたび、私の中に無いはずの欲が疼いた。私は神の佩刀、神威の器。情も欲も神の与えたもうたものではない。禊をすれば消えてしまう、魂魄の混ざり物のようなものだった」
 だからね、青江、と呼び掛けて、石切丸は彼の頬を掌で包んだ。青江の頬は小さく滑らかで冷えている。この皮膚の下に潜む肉と骨、この体を動かす刀の魂の、どれも余すところなく石切丸には愛おしく感じられた。
「忘れたくなかった。失くしたくなかったんだ。お前を慕わしく想う、この心を。そのためにお前を不安にさせてしまうなんて思ってもみなかった。私が浅はかだったと思う。許してくれるかい」
 青江の両目が潤んでいた。古来神性の象徴とされる金の目も勿論美しいが、石切丸は彼が心の奥底で忌避しているらしい、髪に隠れた赤目をこそ愛している。それは彼の一族にも持つ者が多い。正邪を分たぬ大きな力…例えば畏れを受ける地霊のような、人智を超えた存在にこそ相応しい目だと彼は思う。
 衝動に抗わず、石切丸は青江の瞼へひとつずつ口付けを落とした。これまで何度も触れ合いながら、性的な香りのするものとは無縁だった青江は、突然のことにどうしたらよいのか分からず、ただ目を見開いている。
「また明日、ここへ来るよ」
 石切丸はその耳元へ、殊更に低く甘く囁いた。青江の腹に力が入るのが触れ合った肌を通して伝わって来る。彼の魂を清めるための触れ合いとは行動原理が根底から違うのだ。青江が戸惑うのも無理は無いが、冗談にしろ彼の方から意味深な誘いを掛けてくることはざらにあったのだ。
 不安定な火の明かりは、二人の影をゆらゆらと照らす。そこまで自分はそういった方面とは無縁に思われていたのだろうか。そんなことを考えて石切丸は彼を膝から下ろすと、名残を惜しむように掬い上げた髪束の先へも恭しく接吻した。
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