ライムストリート駅は雪だった。広い駅舎を覆うドーム型の天窓からは、厚い雲を通り抜けて角の取れた光がほんのりと差し込んでいる。視線を下ろしてみれば、大荷物を抱えた家族連れでごったがえすプラットフォーム。カートに鞄や包みを山積みにして行き来する人の群れに、しかし殺伐としたものは感じなかった。ホリデーシーズンが始まった真昼、どこか浮ついたような雰囲気は、穏やかな曇天の薄明かりにふんわりとラッピングされているようだ。
ヨーロッパへは何度も来たことがあるのに、イギリスは初めてだった。自分の興味の方向を思えば、なぜもっと早くに訪れていなかったのかスゴく不思議だ。そして、初の渡英をこんな形で迎えることになったということも。
「寒くない?」
仗助は問い掛けたくせに、僕の答えを待たず自分のマフラーを巻き付けてくる。暖房の効いた車内から出たばかりで、こっちは暑いくらいだというのに、不細工に巻かれたマフラーからは染み込んだ仗助の体温がどんどん伝わって来た。ああ、鬱陶しい。だが僕の抗議の視線にもこいつは気付かないようだった。
分かっているのだ。こいつは緊張している。ガラにもなく。めちゃくちゃに緊張している。目まぐるしく列車が発着し人の行き交う駅に居ながら、仗助の頭はここではない明後日の方角へ回転している。周りに積まれた鞄やスーツケースを見れば、誰かの荷物番をしていることは分かるだろう。けれど立派な体格をした、彫りの深い顔立ちの、黙っていれば良い男が、焦点の合っていない目で突っ立っているのは滑稽だった。
今いきなり頭をぶん殴っても暫くぼんやりしてるんじゃないかな、と僕の好奇心の虫が疼く。さりげなく旅行鞄を左手に持ち替える。僅かに右手をあげた時だった。
「待たせたな」
「はい、どうぞ」
承太郎さんの低い声と、花京院さんの缶コーヒーは同時に僕へ差し出された。
「すみません、あの」
「いいよ」
慣れない硬貨を数えようとする僕を、花京院さんは有無を言わさぬ笑顔で押し留める。不細工に巻きつけられたマフラーへ、一瞬彼の視線が向けられたのが分かる。ノーコメントが有難かった。僕らのやり取りを見ながら承太郎さんは言った。
「もう近くまで来ているらしい。クリスマスだから道が混んでいるようだ」
ポケットに電話を仕舞うと、彼は片手に持っていた水のペットボトルを軽く仗助の額へぶつけた。仗助もでかいがこの人は更に上を行く。くだらない仕草の一つひとつさえ、なんだかもう彫像っぽい。
動く神像のような承太郎さんと、彼に寄り添う花京院さんは、何の自己主張をするわけでもないのに人混みの方から避けて歩かれているようだった。隅っこで立っていた僕らは何度ともなくぶつかられ、足を踏まれているというのに。
「らしくねえな。あいつのことだからキッチリ十分前くらいに来てると思ったぜ」
「お前とは違ってな」
ようやく正気に戻ったらしい仗助の憎まれ口に、しっかり承太郎さんが釘を刺した。
僕にしてみれば年末進行なんて大した問題じゃあないが、それでもクリスマスから海外旅行となると少し準備が大変だった。仕事には余裕を持って取り組むのが僕のモットーだ。新春特大号と2月号の原稿までを担当に送って、それから荷造りに取りかかったものの、最終的には「俺んちなんだから足りないモンは何でも貸せます」という言葉に甘えてしまったところが多い。滞在日数の割にはかなり身軽だ。
もっとも仗助は僕を長時間拘束することに、そもそも申し訳なさを感じているようだ。今回のイギリス行きを切り出した時の鬼気迫る…いや、背水の陣、とでもいうような表情を僕は生涯忘れないだろう。俺の家に来てくれませんか、と、クリスマスなんで、親戚みんな集まるんで、と言ってあいつは僕の手を握った。ただならぬ気配に、反射的に「やだよ」と突っぱねてやりたくなったが、冗談なんてとても言える雰囲気ではなかった。
警察学校に通っていた頃の、あどけなさの残る青年の横顔ばかりが印象に残っていたが、いつの間にか仗助は社会の中で、市井の人々を守る大人になっていたのだ。仗助の手は熱く、筋張っていて、力強かった。間違いなく、僕よりもずっと。四つの年の差を笠に着てさんざん子ども扱いをしてきたが、年貢の納め時かもしれない。僕はなんだか酷く納得してしまって、頷くよりほかに無かったのだ。
仗助の家族はいつも世界中に散らばって生活しているが、だからこそ年に一度集まるクリスマスは大切にしているらしい。欧米人にとってのクリスマスは日本人の正月みたいなものだから、というのは花京院さんの弁。
仗助と親しい仲になる以前から彼の作品はよく知っていたが、知り合った切掛けは美術雑誌で対談記事を組まれたことだった。その時に初めて言葉を交わし、盛り上がった末にアドレスを交換した。彼の口から仗助の名が出たときは、近所のタバコ屋とハリウッドが連結したかのような、大規模な世界観の改革が僕の頭の中で起こったものだ。
つまり仗助くんは僕の義弟ってことになるね、と花京院さんは笑った。花京院典明の代名詞であった寒色で描かれる抽象画は、年を追うごとに色彩豊かな風景画へと作風を変えている。彼は結婚して以来、一日も離れず承太郎さんと行動を共にしていた。承太郎さんは海洋生物の研究者として世界中の海を旅しているので、自然と彼も「旅する画家」になったのだ。
承太郎さんには昨日、成田で初めて会った。僕は遺伝子の神技を目の当たりにした気分になった。彼は仗助にスゴクよく似ている。似ているが、ちょっと違う。仗助が常に周囲へと発散する人好きのオーラ、周囲の誰もがあいつを放ってはおけないような、あの雰囲気が承太郎さんには無い。
いや、人の目を引きつけるカリスマ性は息苦しいほどに感じる。しかし仗助が群れる生き物であるのと対照的に、彼は君臨するものなのだろうと僕は分析した。パーツで言えば目元が違う。仗助の甘ったるく垂れたアメジストに対して、承太郎さんの凛としたエメラルドの涼やかさ。
仗助とは一回り以上も年の離れた兄弟らしい。道理で仗助の口から聞く兄の話に、同性の兄弟にありがちな意地の張り合いや喧嘩の思い出が出てこないはずだ。彼らの両親は仕事の都合で来日し、仗助は日本で生まれた。両親が帰国しても、既に成人していた承太郎さんと一緒に仗助は日本に残った。仗助にとって兄貴は、身近なヒーローであり保護者であったのだろう。親と離れて遠いアジアで彼は育ち、そうして僕に出会った。
承太郎さんに引き連れられて、僕らは駅の外へ出た。ちらちらと綿雪の舞うリヴァプールの町は、覚悟していたほどの寒さではない。海商都市というだけあって、沿岸性の気候なのだろう。駅前のクリスマスマーケットは大変な混雑で、移動式のメリーゴーランドまで設置されている。新旧の建物が入り乱れたような風景は独特の雰囲気を醸していて、このまますぐ離れてしまうのが少し惜しいような気分になった。車寄せのそこここで家族が久しぶりの再会を果たしている。
「ごめんなさい、お待たせしました」
視界に風が吹き込んできたように錯覚させる、爽やかな声がした。見れば美しいブロンドの青年が、7人乗りSUVを降りて手を振っている。彼がラフに着崩した真っ黒のコートもその車も、高級品であることが何となく見て取れた。
「おおージョルノー!」
「久しぶり!」
大荷物を抱えているくせに軽やかに仗助は走り寄った。子犬のじゃれ合いを見ているようで、後ろの僕たちも何となく笑ってしまう。仗助に続いて、承太郎さんともキスとハイタッチ。印象的な明るい色合いに一瞬目が眩んだが、やはりというか、彼らは顔立ちが似ていた。青年はこちらへ目を留めると、花京院さんの荷物を強引に取り上げて頬を寄せた。
「お元気そうで何よりです」
「君もね。…」
短い言葉の後で花京院さんが僕へと目線を流す。青年のマリンブルーの視線が僕へと向けられる。
「あなたが…」
「初めまして。岸辺露伴です」
少しだけ緊張して名乗った僕へ、彼はまるで花が咲くように満面の笑みを向けた。差し出された手を思わず握ると、そのまま引き寄せられてハグを受けた。たぶん僕より年下だろうが、相手を自分のペースへ巻き込むのが上手い。
「僕はジョルノ・ジョースター。承太郎さんと仗助のいとこです。さあ乗って、もう皆待ってるんだ」
背中に手を回されて車へ誘導される。トランクへ荷物を積み込む間も彼の興味は僕に向けられているのが分かった。あんなに華やかに笑う彼だが、黙っていると少し近寄りがたい雰囲気がある。仗助より承太郎さんに似ているかもしれない。白い肌と金髪碧眼は、仗助たちよりももっと濃い北欧系の血を感じさせた。
目指す家へはゆっくりで二時間、飛ばして一時間ほどらしい。つまり二倍の速さで走るってことです、などと楽しげにしゃべりながらハンドルを操るジョルノだが、市街地を抜けて以来かなりのスピードでブッ飛ばしている。この分だと十分くらいで着いてしまいそうだ。
「会えて嬉しいです、露伴。仗助から話はずっと聞いてたんだ。いつ連れてくるのかって皆やきもきしてたんですよ」
「みんな?」
「ええ、みんな。あ、もうジョリーンも着いてますよ」
バックミラー越しに放たれた言葉へ、承太郎さんは少し驚いたようだった。
「早かったな」
「ギリギリ間に合ったとかで、きのう叔父さんたちと一緒の飛行機で帰ってきました。だから日本組が最後ですね」
「ジョルノ君はいつ?」
花京院さんの問いへ歌うようにジョルノは答えた。
「三日前から。イタリアはそういうところ緩いですからね、ナターレが近づいたら仕事になんてなりゃしません」
「久しぶりの親子水入らずじゃあねえか」
「おあいにく様、あの人たちはチャリティーだのパーティーだので大忙しですよ。今も二人とも別々に出掛けてます。僕らよりは先に帰ってると思いますけどね」
ハイスピードで交わされる親戚同士の会話に僕が付いて行けていないのを悟ったらしい。荷物を抱えて隣に座った仗助が、えーと、と切り出した。
「俺たちの親がジョセフとシーザー。ニューヨークに住んでる」
頭の中で家系図を描く。運転席からジョルノが口を挿んだ。
「シーザー叔父さんはよくイタリアにも来ますけどね」
「親父はジェノヴァ出身だからな、里帰りと仕事を兼ねて」
後ろから承太郎さんも付け足す。みんなが投げてよこす情報を、僕はどんどん頭に叩き込む。
「ジョセフじじいの兄貴がジョナサン。ジョースター家の当主ってことになります。ジョルノの親父さんで、俺たちから見れば伯父っすね。旦那さんがディオで、これから行く家に普段住んでるのはこの二人」
「あと、ダニーとホルス」
「悪い悪い。二人と一頭と一羽だな」
ダニーはグレイハウンド、ホルスはオオハヤブサです、とジョルノの真面目な声が続く。両方ともハンティングに活躍するような動物だな、と僕はちらりと思った。そして問いかける。
「君はイタリアに住んでいるのかい?」
「そう、仕事でね。まあ学生のときから留学してますから、あっちの暮らしにも慣れました」
就職するまでシーザー叔父さんのご実家に下宿してたんです、などと楽しげに話すジョルノだったが、僕の気がかりはそこではなかった。
「二人暮らしの家に僕まで押しかけて良かったんだろうか…」
日本の正月のようなもの、ということは、そんなに余所者が首を突っ込む雰囲気ではないはずだ。仗助の言わんとすることは分かる、そこに僕を呼ぶという意味も。だが長々と滞在するのはジョナサンさんたちにとっても負担ではないか? 何せ今の時点で出てきた名前は10人分だ。もちろん僕だって満員電車の中で十日も過ごせるとは思えない。
「二人暮らしの家…」
花京院さんがぼそりと呟く。承太郎さんがにやりと口の端を上げた。
「まあ、何も気にするな。何もな」
変わらず暴力的な速さで突っ走っているはずなのに、あまりスピードを感じなくなってきたのは窓の外の景色のせいだろう。民家は疎らになり、代わりに姿を表したのは広大な丘陵、点々と連なる湖。雪雲りの空を映して、湖面は灰色の鏡のようだった。賑わう地方都市から静謐の湖水地方へとエリアが変わろうとしている。細く低い石積みの壁は何かの境界を示すものだろうか。低く垂れ込めた雲の下、羊が何頭か草をはんでいる…
「仗助?」
「なんすか」
仗助はかたくなにこちらを向かない。僕の目も、風景の消失点に釘付けになったままだ。ぐんぐんと迫ってくる建物は、僕の語彙では家よりもむしろ、城に近かった。広々とした草地を、気の遠くなるほど長い生け垣で囲っている。大きさの比較対照が無いからスケール感が分かりにくい。おそらく巨大であろう門扉と、そこから建物へ延びる舗装された道がようやく視認できたころ、僕は目に入ったものを思わず呟いた。
「あの、…旗」
「うん…」
仗助は、こちらを向かない。悪さをした犬のように首を右斜め下へ捻っている。まさかアレがお前の家じゃあないよな、と口を開く直前。中部座席の緊張感を知ってか知らずか、ジョルノは明瞭な声で教えてくれた。
「ああ、あれは当主が在宅であることを示す旗です。よかった、父さんはもう帰ってるみたいですね」
小さな城…大きな家? の屋根で翻る旗には、複雑な紋章が描かれていた。漫画を描くために仕入れた雑学は色んなところで役に立つ。二頭のイルカが支える盾型エンブレムの上、金のバイザーが付いた騎士のヘルメット…貴族。その頭上には四つの宝石が付いたクラウン…男爵家。
「仗助」
「あーっ! あーっ! 靴、」
「どうかしましたか!?」
力任せにでかい足を踏んづけている僕の肩へ、後ろから花京院さんの手が伸ばされた。
「落ち着いて、露伴くん。気持ちは痛いほど分かる。きっとそうだと思っていた、僕もそうだった」
「礼服なんて持って来てないぞ…」
「あ、けっこう冷静だね」
「要らねえよ、そんなもん。どうせ食って飲んで騒ぐだけだ」
そろそろ降りる支度しとけ、と承太郎さんは笑いを堪えたように言う。厚い雲の切れ間から一筋差した強い光が、ジョースター家の牧草地に降り注いだ。僕にできることはもう、この素晴らしい湖水地方の風景を目に焼き付ける作業くらいしかない。仗助の足を踏みながら。
ジョルノが胸から取り出したリモコンを操作すると、鋼鉄の門扉はゆっくりと開く。玄関ポーチまで一直線に舗装された道のほかは、丘陵地帯の地面がそのまま残されていた。館の主の美意識が見えたようで少し嬉しい。キョ、キョ、と空から猛禽類らしい鳴き声がする。窓からその姿を確認することはできなかった。徐々に車は減速し、車寄せへと静かに横付けされた。
「はい、お疲れさまでした」
ジョルノの声とともに皆はがやがやと立ち上がった。一番近くに座っていた僕がドアを開け、最初に降りる。駅で感じたのとは質の違う冷気が頬を刺した。すぐにこちらへ回ってきたジョルノに手を差し出され、甘えて荷物を一つ渡しながら、僕は本心から言った。
「君、運転上手いね」
「ありがとう。久々の右ハンドルで緊張しました」
「マジかよ」
大胆にもほどがあるだろ、と思わず笑う僕の背後を、何かが走り抜ける気配がした。
「パパぁ! お帰り! ただいまーッ!」
花京院さんの上品なベージュのトレンチコートに、何か凄い色彩が飛びついていた。
「ジョリーン、また綺麗になったんじゃないか?」
「パパの娘だもん、当然よ」
承太郎さんの隣に居ると華奢に見えるが、花京院さんだって日本人の規格からすれば良い体をしている。ハイティーンらしい女性とはいえ、全力で走り加速を付けて飛びついてきた人間をしっかり抱き留めるのはなかなか力が要るだろう。そう思いながらようやく停止した彼女を見て、僕は少し考え込んだ。どこかで会ったことがある? 彼女も僕の視線に気づいたらしい、振り向きながら矢継ぎ早に言った。
「このヒトが露伴ね? そうでしょ? 会えて嬉しいわ露伴! おじいちゃん達がお待ちかねよ。さあ入って入って!」
口を挿む暇もなく残った荷物をむしり取られ、僕は手ぶらになってしまった。彼女…ジョリーンは両手に僕と花京院さんの鞄を抱えてのしのしと歩いていく。力持ちだ。唖然としていたところで、ふと彼女が視線を後ろへ投げかけた。
「あ、父さんも久しぶり」
承太郎さんは黙って帽子の鍔を下げる。なるほど、こういう家族か。僕は思わず承太郎さんの荷物を一つ持ち、一緒に並んでジョースター家の扉をくぐった。
美しい絨毯、壁紙、絵画、シャンデリア。外見は城だったが中身は美術館だった。正面に掲げられた肖像画はこの家の先祖のものだろうか。高い吹き抜け構造の玄関ホールの両側には大きな階段が二本、踊り場を共有し二階へと繋がっている。見上げるような玄関扉の裏側は精緻な彫刻が施されており、その脇には大理石で出来ているらしい女神像が鎮座している。僕は目の前のものを吸収するのに必死だった。だってどこに目を移しても「何も無い場所が無い」。
長い長い時間が積み上げた歴史の圧力に無言になっていた僕は、背中に熱を感じて我に返った。いつの間にか後ろに立った仗助が、僕の背に手を添えている。視線の先を辿った僕もまた、腹の底に力が入った。簡単な来客ならここで済ませるのだろう、ホールの隅に据えられた瀟洒なテーブルセットには、男性が二人座っていた。
彼らを一目見た瞬間に、僕は分かった。意を決して歩き出すと、呼応するように彼らも立ち上がった。僕の目は手前の人物に吸い寄せられる。間違いなく仗助はこの人の血を多く受けたのだろうと一も二もなく理解できた。人懐こそうな紫の目は好奇心に溢れ、暖かみのあるブルネットの髪は好き勝手な方向へ跳ねていた。屋敷にそぐわぬコンバットブーツを毛足の長い絨毯に埋めながら、彼は大股でこちらへ歩み寄る…。
「へっへっへ~、どぉーもどうも初めまして、コレの親のジョセフです~~~」
緊張感が砕け散った。目を点にしたであろう僕の前に、もう一人の男性が割って入る。ジョルノより明るい金髪に、ライムグリーンの綺麗な瞳。止まった頭の片隅で、イケメン! という言葉が木霊した。仗助の親なのだからもう壮年だろう、そういう軽薄な言葉は似合わないだろうが、ファッション誌の表紙を飾っても何の違和感もない、華やかな人だ。彼は鼻の頭に皺を寄せてジョセフさんを押しのける。
「コメディアンかお前は。失礼、気を悪くしないでほしい。俺はシーザー。君が露伴だね?」
「はい、初めまして。お招きくださり有難うございます、ジョースターさん」
「そんなに気を遣わないで。俺のことはシーザーと呼んでくれ。どうせここに居る奴はみんなジョースターさんだ」
「確かに」
深く納得した僕に、彼はにっこり笑いかけると手を差し出す。堅く握手を交わすとそのまま僕は彼の胸へと迎え入れられた。これがこの家の手口か。シーザーさんの首筋からは清潔でどこか郷愁を誘う、石鹸のような香りがした。
「日本から何時間掛かった? 疲れただろう。とりあえず部屋に案内するよ。荷物を」
「いえこれは承太郎さんので、僕のは…」
部屋の前に置いたわよー、と階段の踊り場からジョリーンの声がした。肩をすくめるとシーザーさんは承太郎さんの鞄を取り上げ後ろのジョセフさんに投げ渡す。そして僕の腰に手を回し颯爽と歩き出した。親密にエスコートされて階段を上がりながら、これがイタリア男のポテンシャルか、と僕はなすがままにされるばかりだった。
「君については色々と聞いてるんだ。仗助と、典明から」
「花京院さんから?」
「そう。君がどんなに素晴らしく先鋭的なアーティストであるか。こっちでは出版されていない画集や展示会の写真なんかは典明に送ってもらった。凄く刺激的だったよ。君に会うのが楽しみだった」
情熱的に言いながら、彼は僕の頬にキスをくれた。たどたどしくキスを返す。こういう習慣があることは知っていたし、ジョルノと仗助たちの間で見てもいたが、自分でやるのは初めてだ。僕は全力で照れた。こういう感情が自分に残っているとは驚きだ。
「…嬉しいです。ありがとう」
なんとかそれだけ絞り出す。この家の人、仗助の家族でさえ無ければ、誉められるのも挨拶のキスも何ということはなく受け流せたに違いない。好かれたい人から好かれるとはこんなに安心するものなのかと思う。シーザーさんは悪戯っぽい声音で言った。
「実はさっき、こいつは嘘を吐いている。意味は分かるかい?」
「ジョセフさんが嘘を?」
僕らの後で奇妙に蛇行しながら歩いているジョセフさんと、それを捕まえようとする仗助のよく分からない追いかけっこを見るうちに、僕は閃いた。
「…フィレンツェ? それともルーヴル」
「ルーヴルだ。あの企画展はこいつが主催したようなもんだからな。こいつはコミックアートに目が無い。内覧会で君のサインも手に入れている」
「ああ…ジョースター財団の…」
正直あの展示会をどこが企画し、出資し、宣伝を行ったかなどまるで把握していなかったが、彼がジョセフ・ジョースターである限りどこにでも関与する可能性はあるだろう。
「だから仗助が君を連れてくるって言ったときは驚いたよ。だって家の寝室には君のコミックがずらっと並んでいたし、こいつの部屋にはルーヴルで君に貰ったサインが飾られてたんだからね。なあジョセフ、あのとき電話で仗助に何回『マジで?』って言ったんだ?」
「36回だよ!」
やけくそのように言い返すと、ジョセフさんは持っていた荷物を扉の一つに投げつけた。すぐさま中から承太郎さんが顔を出し、「じじい!」と怒りを露わにする。まったく男子高校生のようなメチャクチャさだ。廊下に落ちた自分の荷物を引っ張り上げて、承太郎さんはどこか僕に済まなそうな顔を見せた。
承太郎さんの怒りをよそに、ジョセフさんは隣の部屋の扉を開けた。見慣れた鞄が行儀良く並んでいる。促され、中に足を踏み入れる。
「ここが仗助の部屋。一通りは用意されてるはずだが、足りない物があったら何でも言ってくれ。見ての通り隣が承太郎の部屋で、向かいが俺たちだ」
暖炉には既に火が入っていた。木製のマントルピースには獅子と魚を図案化したような複雑な装飾が浮き彫りにされている。深く落ち着きのある赤いクロスが張られた壁には幾つか絵や写真が飾られていて、僕はその中に花京院さんのスケッチを見つけた。壁際のチェストも窓を向いて置かれたソファセットも、部屋で一番の存在を放つキングサイズのベッドもすべて、年代と風合いがシックに統一されている。ほう、と満足げに息を吐いた僕を見てシーザーさんは笑った。
「荷ほどきが終わったら降りてきてくれ、義兄さんたちが戻ったら食事になるから」
「あー、その前に!」
行くぞ、と立ち去ろうとしたシーザーさんから逆走するようにして、ジョセフさんは部屋の中へ…僕の方へ駆け寄ってきた。
「…!」
ハグされる、と思った次の瞬間にはもう、僕の足は宙に浮いていた。僕を抱え上げぐるぐるとその場で回って見せたジョセフさんは、温かく逞しい左腕に僕を座らせるようにして満面の笑みで見つめると、来てくれて嬉しい、と言って頬に小さなキスをくれたのだった。
「疲れた?」
「…ああ」
ベッドの上に大の字になったまま、僕は暫く動けなかった。人付き合いはできないこともないが、好きでもない。成田を発って以来、常に周囲を慣れない人に囲まれていて、そろそろ疲れている。仗助にも気配で伝わっているのだろう、スーツケースを勝手に空けたのは頂けないが、荷ほどきをやってくれるのは素直に有り難い。僕の服を一着ずつハンガーに掛けクローゼットに仕舞いながら、仗助は言った。
「ごめんな、でも今日のパーティーの主役はアンタだから…」
彼は僕に何かを強いることをしない。それを僕が嫌がるのはもちろん、それがお互いの中に亀裂を生む最短の手段だということを知っているからだろう。僕は眉を八の字に下げて困っているであろう奴の表情を想像し、ベッドをばんばんと叩いてみせた。気持ちは伝わったようで、仗助の重い足音が近づいてきて、マットレスが揺れ、軋む。
「露伴先生」
腰掛けた仗助の腹に手を回し、背中に耳を当てるように抱きつくと、熱い体温と響く脈動、筋肉の動く感触が余すところなく感じられた。目を閉じてしまえばここが日本の安アパートかイギリスの男爵邸かなど分かりはしない。
「お前の両親、若いな」
「あー全然老けないんスよね、何なんだろアレ」
「いい人たちだな」
「そっすか~?」
仗助の低く甘い声が腹腔の中で反響しているのが分かる。両親と僕を引き合わせたことで随分楽になったのだろう、こいつは僕より一足先に緊張状態を脱したようだった。悔しくなった。
「ニューヨークの不動産王、ジョセフ・ジョースター」
「…」
こいつの体は本当に分かり易い。緊張するとすぐ変なところに力が入り、筋が軋む。
「聖家族贖罪教会が公開されたときは日本から予約取って見に行ったよ。あの設計はシーザー・A・ツェペリの仕事だった。オフィシャルでは旧姓を使ってるんだな、親父さん」
「…イヤ?」
こわごわ、という風に仗助は上半身を捻り、僕へと問いかけた。僕は思わず大声で答える。
「何がだ!!! なあ、食事が終わったらインタビューしたいんだが良いかな!? ジョリーンだって知ってるぞ! ストーンフリーのボーカルだ! 何なんだお前の家族は! メチャクチャに面白いじゃあないか!」
「インタビューじゃねえだろ、露伴」
急に仗助が声を潜めたので、逆にドキッとした。
「クリスマスに家に呼ぶって意味くらい分かってんでしょ? だから一生懸命マンガ仕上げて一緒に来てくれたんだよな」
ベッドに肘を付き、寝転がった僕と吐息のふれ合う距離から彼は囁く。視線を上げなくても、いま仗助がマジな顔をしているのは分かり切っていた。これ以上の抵抗はしない方がましだろう。僕は観念して言った。
「すまん、仗助」
「なに」
「僕もわりと緊張している」
ぐっと仗助が息を呑んだ。
「スゴイ才能を持った人たちと沢山繋がりが持てて嬉しいのは本心だ。あと…そんな人たちと、家族、になるっていうのも…ドキドキする」
遂にベッドに寝転がった仗助が、とぐろを巻くようにして体中を抱き締めてきたせいで、思わず喉からぐえっと声が出た。
「苦しい、こら」
「ありがとな、露伴。ホント…こんな遠くまで来てくれて」
更にぎしぎしと力を籠めてくる。大きい子ども、なんていう比喩では手ぬる過ぎる。これはもう熊か何かだ。僕は思い切り仗助の高い鼻を抓り上げた。
「ぶさいく」
真っ赤になった鼻の頭を笑ってやったら、仗助はようやく僕の体を解放した。痛ぇなあ~ひどいっすよ~、と文句を垂れるその目は潤んでいる。抓り過ぎたわけではないだろう。こいつは感動屋だ。そして嘘を吐くのが本当に下手なのだ。
日本のそれとは違い、イギリスのクリスマスでは子どもへは勿論、大人同士でもプレゼントを交換する。一人の相手へ何個もプレゼントを用意するのが普通で、本命の物のほかにもウケ狙いの玩具やほんの小さなお菓子などとにかく沢山。どんな些細なものにも丁寧にプレゼントのラッピングをする。…等々、喋りながら仗助は自分のスーツケースから次々に箱やら袋やらを取り出してみせた。驚いたことにこいつの荷物のうち一つはまるごとプレゼント入れになっていた。道理でやたら多いはずだ。
「言ってくれたら僕も準備したのに」
「忙しい時期にそんなことまでお願いしませんって。それに、ごま蜜だんご買ってきてくれたんでしょ?」
実のところ、僕は仗助に何かクリスマスプレゼントとか用意するべきかと聞いていたのだ。しかし彼は、わざわざ日本から会いに来てくれるだけで十分っすよ、とはぐらかした。食い下がった結果、なんとか「みんなで食べられるような日本のお菓子」を引き出したため幾つか持ってきたが、まさか10人も居るとは思わなかった。足りるかな、と思うと同時に、確かに10人へ複数のプレゼントを準備するとなると一仕事だな、とも思う。半分持ってやるだけで大変だ。
二人でプレゼントの山を抱え、えっちらおっちら降りていくと、階下では食事の準備が進んでいるようだった。楽しげに跳ね回っているお団子頭へ仗助が声を掛ける。
「ジョリーン、俺たちもプレゼント置いていいんだよな~?」
振り向いた彼女の目が輝くのが分かった。
「もっちろん! どんどん置いて、積み上げちゃって!」
こっちよ、と引っ張って行かれたのがダイニングルーム…晩餐室だろう。ひときわ立派な石造りの暖炉ではごうごうと火が燃えており、白いクロスの敷かれた長テーブルには時代がかった七枝燭台が据えられている。ジョルノが次々に並べていくアンティークな銀食器のセットには、全て柄の部分に精緻な彫刻がしてあった。旗になっていたのと同じ紋様だ。
また思わず停止していた僕を、仗助が声で促す。暖炉の横にでんと鎮座していたクリスマスツリーは本物の樅の木だった。仗助より大きいから2メートル以上あるだろう。あたしとおじいちゃんたちで飾り付けしたのよ、とジョリーンが胸を張る。色とりどりのオーナメントにたっぷりの綿雪、頂上に大きな星。しかし同じほどに目を引くのは、ツリーの下にうずたかく積み上げられたプレゼントの山だった。
「凄まじい量だな」
言いながらどんどん包みを降ろしていく僕らを、ジョリーンは楽し気に見ていた。
「クリスマスだもの! …うわっ露伴、その服もカッコイイ! 仗助とは大違い!」
「うるせえぞ~」
仗助が拳を振り上げる真似をするとジョリーンはきゃらきゃらと笑った。からかいの言葉は冗談だろうが、誉め言葉は本心だろうと思う。冬に挑みかかるような彼女の服装は肩出し・へそ出しのパンツスタイルで、非常に好みだ。たぶん僕らは趣味が合う。万が一高いレストランや観劇などに誘われた時のために持ってきていたチョット良い服に着替えてみたのだが、やってよかった。
「君の服も凄くイカしてるよ。どこのブランド?」
「パッショーネの新作! ジョルノがデザインしたんだ」
「へえ…」
初耳、と言葉を繋げようとしたが、玄関ホールのざわついた気配で僕は口をつぐんだ。大型犬の吠え声と、一瞬だけ通り抜けた冷たい外気。いつの間にか出ていたらしいジョルノが僕を呼ぶ。半ば用件を察し、僕は小走りでダイニングを出た。
「いらっしゃい! 露伴くんだね、遠くからよく来てくれた! 君を待っていたんだよ!」
顔中を笑顔でいっぱいにして、その人は居た。ダークブラウンの髪に雪の結晶をたくさん付けて、高い鼻の頭を真っ赤にして。
「僕はジョナサン。こいつはダニー。明日すごく寒くなるっていうから、暖炉の焚き付けを沢山取って来たんだ。部屋の空調は大丈夫だった?」
「あ、はい、とても暖かかったです」
「それは良かった! また後でおしゃべりしようね! ディオはまだ?」
「さっき戻って、着替えてます」
ジョルノが淡々と答えると、ジョナサンさんはさっと表情を変える。
「しまった、急がないと」
言うが早いか彼は巨体を翻し、大階段を四段飛ばしで駆け上っていった。身体能力が凄い。ラグビーとかやっていたんじゃないかな、と思う。雨靴も外套も品は良さそうだったが、愛用し続けて長いのか、かなり着古していた。飾らないというより「構わない」人なのだろう。彼の全身から発散される、善良で大らかな雰囲気は、僕の予想をかなり裏切っていた。
「父です」
「うん」
「この家の主です」
「ロード・ジョースター…」
しみじみと呟く僕をよそに、ジョルノはダニーの体をタオルで拭いてやっていた。口に何本も太い枝をくわえて、大人しく座っている。賢い犬だ。傍らにはジョナサンさんが慌てて置いていった枝の山が残されている。ジョルノはどこからか持ってきた籠にそれらを放り込みながら言った。
「いつもはお手伝いさんたちがやってくれるんですけどね、今日からみんなに休暇をあげたんです。まあ父はこういうことを嫌がる人ではないので、あんな感じ。あれでも昼間はロイヤルファミリーの昼食会に列席していました」
思わずヒュウと口笛を吹いた僕に小さく笑い、乾燥室に置いてきます、とジョルノもここを後にした。その後ろをダニーが大人しく着いていく。ああ、ハンティング、と僕は昼間の思考を思い出した。きっと彼は立派に男爵の狩りのお供を務めるに違いない。
手持ちぶさたになった僕は、来た時にじっくり見られなかった玄関ホールの美術品をひとつひとつ確かめ始めた。絵もあるが、骨董品も多い。青磁の坪や香水瓶などオリエンタルな趣味が目立つ。貿易業で財を為した家なのかもしれない。奥の壁にはアフリカや北欧、ミクロネシアなど文化圏を問わず仮面ばかりを集めて飾ってあった。僕の目はそのうちの一つに吸い寄せられる。石で出来ているらしいそれは、僕の知識ではどの地域・文明に属する物なのかすら分からない…
「アステカ文明の遺跡から見つかったものだ」
背中に氷水を流し込まれたような驚きが僕を襲った。
「君が岸辺露伴か」
「…初めまして」
向き直り、ようやくそれだけ口にする。僕の真後ろに立っていた人物は、逞しい体つきからは考えられないほど優雅な身のこなしで僕に右手を差し出した。
「ディオ・ジョースター。仗助が世話になっているそうじゃあないか」
「世話なんて、そんな」
シェイクスピアの歌劇のように重厚で美しいクイーンズ・イングリッシュ。どこか冷徹にさえ見える白皙の美貌。癖のない髪質と、色白を通り越して雪のように白い肌さえ除けば、豪華なブロンドといいマリンブルーの瞳といい、まったくジョルノに似通っている。まるで血が滲んだような唇は、白い肌によって色彩が際立っているのだろう。彼は口の端をつり上げるようにして笑みを形作ると、僕の手を強く握り言った。
「君のことが知りたい。友達になろう、露伴」
この人には逆らえない、と僕は思った。何か強い磁場が働いていて、心が強制的に吸い寄せられるようだった。底なしの海のような強い瞳から視線を逸らせない。ただ浅く呼吸を繰り返すことしかできない僕を救ったのは、さっき聞いたばかりの声だった。
「ディオ、抜け駆けはよくないよ」
のんき、とすら言えるような口調でジョナサンが僕らに割って入った。まるで呪縛から解き放たれたように視界が広がる。料理の匂いやガヤガヤと皆の喋る声がダイニングの方から流れてきて、ようやく僕は今の状況を思い出すことができた。急いで着替えてきたのだろう、ジョナサンさんのジャケットは後ろの襟が立ってしまっている。
「コンサートはどうだった?」
「去年よりはだいぶマシだったな。次はぜひお前も一緒に、と」
「光栄だ。さ、行こう! そろそろ食事になるだろう」
何事も無かったかのように淡々と喋るディオさんには、さっきまで見せていた蠱惑的な雰囲気は無い。呆れたように白い手を伸ばし、ジョナサンさんの襟を直す。僕はジョナサンさんに肩を抱かれるようにして歩き出した。
「半年分くらい喋った気がする…」
「お疲れ様」
僕の歓迎会という名目のクリスマス・イブ・パーティは、それはそれは盛大で、にぎやかで、温かなものだった。
暖炉の真ん前、ディオさんとジョセフさんに挟まれた席は間違いなく主賓の扱いであり、少々慌てたが、そもそも皆がラフな格好をした食事だ。格式張っているのはテーブルセットくらいで、料理など多国籍が極まっている。聞けば一人一品のルールで皆が作ったり持ち寄ったりしたらしい。あからさまに買ってきただけのフライドチキンの隣にちらし寿司と海鮮パスタが並んでいたのはそういうわけだったのだろう。
ディオさんに対して警戒心を抱けていたのは最初だけだった。この飾らない宴席で、それでも律儀にタイを着用していた彼は、綺麗な所作で牛タンの味噌漬けを口に運びながら実に楽しく会話を盛り上げてくれた。ちょうど席次の中程に向かい合って座ったジョセフさんとシーザーさんの、テーブルを挟んだやり取りだけで常に話題には事欠かないのだ。質問の嵐に口ごもったときには花京院さんが助け船を出してくれたし、ワインがとにかく美味しかったし。
お腹いっぱい食べて飲んでいい気分になったときにはもう、僕はずっと昔からこの人たちに囲まれていたかのような錯覚に陥るほどだった。今日初めて会った人たちにこんなに打ち解けられるなんて考えてもみなかった。きっと皆が僕に気を使ってくれたのだと思う。この家の人たちは殆どが異郷で暮らしているだけあって、余所者に寄り添うのに慣れているのだろう。バスルームから帰ってきた僕は、数時間前と同じようにベッドで大の字になっていたが、あのときの疲れと今とは少し意味合いが違うのだった。
僕より先に帰ってきていた仗助は(この家には家族用の他にもバスルームが何カ所かある。客室の数を考えれば当然なのだが)勝手知ったる自分のテリトリーとばかりに、ソファに体を伸ばして悠々とくつろいでいた。最初は仗助の癖にこんな部屋、と思ったが、そうしているとやはり馴染んでいるのが分かる。もっとも彼がここで育ったというわけではなく、帰省のとき必ず泊まる仗助専用の部屋、という扱いらしいが。重厚な木の扉に掛けてあるクリスマスリースは、庭の草木を利用してジョルノが作ったという。白い花を付けたトネリコとアイビーの蔓を輪にして赤いリボンで留めただけのシンプルなものだったが、品よくセンスが良い。
ごろごろとベッドの上を転がっていた僕の目は、そのまま壁を滑っていって、チェストの上の家族写真に留まった。十年ほど前なのではないだろうか。何かのトロフィーを手にしたジョルノと隣で笑う仗助は二人ともハイティーンに見える。ジョリーンはきっと小学生くらいだろう。その周りを囲む大人たちも、今より少しずつ若い。ここに写っていない人物こそが撮影者なのだろうと思えば、ジョルノの少し誇らしげな表情にも合点がいった。
「あの、ディオという人は」
考えているうちに、僕の口からは自然に言葉が出ていた。それに仗助は軽く言葉を返す。
「迫力あるでしょ。ジョナサンの旦那さんで、うちの最高権力者です」
「…?」
ロード・ジョースターとその一族の中で、ジョナサンさんより発言力のある者が居ていいのか? 僕の至極当然な疑問は、空気を通じて仗助にも伝わったらしい。彼は苦笑気味に答える。
「うちってみんな自分勝手っていうか、好きなことにしか興味ない奴ばっかだから、こう、地に足が付いてるっていうの? 財産とか相続とか資産運用とかそういうこと考えられるの、あのヒトしか居ないんすよ」
「意外だな。彼こそよっぽど貴族っぽいから、銭勘定とは無縁な感じがしてた」
「でしょー。ロード・ジョースターって言ったらだいたい皆ディオの方見るもんな」
暖炉の中で薪のはぜるパチパチという音が、パーティの記憶を呼び覚ました。その前の記憶まで。あのとき僕を見ていた彼の目は、獲物を値踏みする捕食者のそれに近かった。捕まえたウサギを愛しげに見つめる肉食獣の目。
「…僕は嫌われてるんじゃないだろうか」
「なんで?」
「なんとなく…」
きっと仗助には伝わらないだろうと思い、口を閉じる。仗助の持つ、愛されて育った人間特有の無防備さと前向きさは、ジョナサンさんに通ずるところがあるように思う。なんとか話題を変えようと考える僕に、仗助は意外なことを言った。
「ディオと喋るときのタブー。教えときます」
僕の表情だけで仗助は興味の濃さを察したようだった。
「ジョルノはディオに似てる、って思ったでしょ? それ言ったらダメです。めちゃくちゃ機嫌悪くなります」
「なぜ?」
「さーね。でも社交辞令っていうの? 会話のとっかかりでソレ言っちゃう人多いんすよ。それでもう空気は最悪。まあ普通は喜ぶと思いますからね」
「ふうん…」
僕はベッドの天蓋を睨みつけた。豪華な金糸のタッセルはどこか彼を思わせる。確かにジョルノはディオさんに似ているが、あの癖毛や血色の良い頬、しっかりした眼窩の骨格なんかはジョースター家の血筋だろう。自分の子どもが自分に全く似ていてほしくない、という気持ちを想像してみたところで理由は幾つも思いつかない。
「自己嫌悪の強い人なのかなァ…」
呟いてみたが、あまりピンと来る仮説ではなかった。彼は間違いなく自分の能力に自信を持っていて、能力の研鑽を怠らないタイプの人間だ。考えに耽る僕を異音が邪魔する。
「んー…んんん」
「なんだい、気持ち悪い声出して」
しょうがないので聞いてやると、仗助はソファの背に顔を乗せるようにしてこちらを向いた。二人きりの部屋で声を潜める意味は無いだろうと思うが、気分の問題なのだろう。
「…ディオはもともとジョージ爺ちゃんの養子なんスよ。子どもの頃、孤児院から引き取られてきたって聞いてます」
僅かに動揺しながら僕は問い返す。
「お前の爺さんの養子? ってことは」
「ジョナサンとじじいの兄弟ってこと」
「そりゃあ…」
言葉を続けられない僕へ、仗助は言った。
「まあ血縁は無いわけだから結婚したっていいわけですけど。なんかそこら辺も関係あんじゃねえのかな~」
そりゃあるだろう、と僕は思った。気になる。ものスゴク気になる。
「興味湧いてきたんでしょ」
「分かるか?」
「そりゃね。でも変な小細工しない方がいいっすよ。ディオ、めっちゃくちゃ頭も勘もいいしプライド高いから。ケンブリッジ法学部首席卒業」
「凄いな」
「ジョナサンも頭いいけどよォ、ああいう、勉強のために勉強するっていうか、実用的な感じ? は素質無い。お陰で家のことは任せっきりです」
そろそろ寝ましょっか、と仗助が立ち上がった。逆らわず布団に入り枕に頭を埋めると、部屋の明かりが消される。しかし暖炉の火で真っ暗にはならない。赤い光が仗助の背中の形に遮られ、彼が薪をくべているのだと分かった。朝まで持つのかな。持たなくても死にやしないか。きっと昔からこの家の男たちは、こうして暖炉に向かい合って来たのだろうと思った。
薄く目を閉じて出会った人々のことを思い返す。どうもこの家には学者タイプと商売人タイプが交互に出現するようだ、などとつまらないことを考える。想像した通り、ジョースター家はもともと新大陸との貿易で財を為した商家で、19世紀に爵位を購入してロードの地位を得たらしい。今は亡きジョージ氏もまたやり手のビジネスマンだったという。
めいっぱい暖炉に薪を詰め込んでからベッドへ乗り上げてきた仗助の素晴らしい肉体美は、寝間着越しだというのに暖炉の明かりの逆光で妙にドラマティックに見えた。この体もいきなり天から降ってきたわけではない。ジョセフさんが居てシーザーさんが居て、ジョージ氏が居てその奥方が居て…数え切れない見知らぬ人々の生命活動、その最先端に仗助が存在する。まあそれは、僕だって同じことなのだけれど。
「凄いの貰っちゃったなあ…」
「? なんか言った?」
甘く小さな囁きはピロートーク用の声だ。僕は答える代わりに仗助の胸にしがみつく。仗助が嬉しそうに笑うのが気配だけで分かった。僕を抱きしめる腕はとにかく暑苦しくて、鬱陶しくて、安心する。窓の外に雪を感じる。ぱちぱちと暖炉は楽しげにはぜる。暖炉ってこんなに温かいのか。この経験も漫画に活かさなければ。僕はストンと眠りに落ちていった。
ぱちん、と一際おおきな音を立てて薪が裂けた。すんなりと覚醒した僕は、ふわふわの大きな枕と果ての見えない布団に数秒混乱する。しかし耳に仗助の寝息を感じてようやく思い出した。ここはイギリス、リヴァプール近郊、ジョースター邸、仗助の寝室。はるばる日本から飛んできてメチャクチャな歓待を受けてからまだ数時間と経っていないだろう。
後ろから僕の体を抱き締めるぶっとい腕をどうにかすり抜けて、僕はベッドを降りた。重厚な絨毯は僕の足音をすっかり覆い隠してくれた。薪はまだまだ残っていたが、せっかくなので追加しておく。暖炉の脇には焚き付けの小枝もたっぷり準備されていて、僕はジョナサンさんのことを思い出した。
暖炉の明かりで浮かび上がる、置き時計の文字盤は丑三つ時だ。そんなに寝ていないことに驚いた。無いと思っていた時差ボケだが、やっぱり影響はあったようだった。無理矢理にでも寝るべきだろうと思うが、頭の中は非常にクリアだ。ふと、雪明かりの屋敷の様子が見たくなる。荷物の一番上に入れているスケッチブックとペンを取り出すと、僕はガウンを羽織って部屋を出た。
屋敷は寝静まっていた。耳を澄ませば皆の寝息も聞こえてきそうだ。雪は外の音を吸うことを僕は知っている。薄雲をまとった月と星の光が、地面の雪に照り返されて、窓の外はぼんやりと明るかった。曖昧な輪郭で廊下に落ちる窓枠の影。…しんしんと、寒い。廊下には暖房が無いのだから当然だ。柔らかな布製の部屋履きと、寝間着の裾の隙間から、冷えた夜の空気が入り込んでくる。コートを羽織ってくるべきだったと僕は後悔した。
大階段を降りて玄関ホールに出ると、女神像が僕を見下ろしていた。薄明かりが天窓の色ガラスを通り抜け、純白の女神にほのかな色彩を与えている。応接間、晩餐室、居間、図書室…月明かりを頼りに歩いていた僕は、ふと足を止めた。書斎の扉からかすかに光が漏れている。電気の消し忘れか? そっと近づき扉を開けると、中から暖められた空気とペンが紙を走る音が流れ出した。
「閉めてくれ。寒い」
ぴしゃりと叩き付けられた声に、僕は思わず従った。扉をきっちり閉めて振り返ると、ちょうどディオさんがこちらを見たところだった。本当に驚いたのだろう、彼は目を丸くした後で言った。
「済まない、ジョナサンかと思った」
「いいえ、こちらこそ、明かりの消し忘れかと思って入ってしまいました」
失礼しました、と出て行こうとした僕をディオさんは呼び止めた。手招きに従い歩み寄ると、ソファを指で示される。蜘蛛の巣に自分から飛び込んでしまった気分だった。僕は緊張しながら腰掛けた。ディオさんはキャビネットの中から何かを取り出して…ウイスキーだ。ショットグラスに入れられたそれを受け取る。手持ちぶさたに目を泳がせながらグラスを舐めると、予想以上に強かった。
夥しい数の本に埋もれたような部屋だった。本棚に包囲されたマントルピースの上に置かれたエキゾチックな骨董品と置き時計。ファイアースクリーンには大樹と蔓植物を記号化したような不思議な模様が華やかに描かれていた。暖炉の上の壁には大きな肖像画が飾られている。椅子に腰掛けている紳士は在りし日のジョージ氏だろう。彼の両側に立つ3人の子どもたち。
「…私は子どもの頃、この家に養子に入った。だからジョナサンとは兄弟として育てられた。血縁こそ無いが、私にとってこの家は婚ぎ先でなく実家なんだ」
僕の視線を追ったのだろう、ディオさんは静かにそう言った。白い膝小僧を見せる金髪の少年は、まるい頬を微笑みでいっぱいにして僕らを見下ろしていた。…なぜだろう、この笑顔は僕の心をどこか不安にさせる。
「私は亡き父に…ジョージ・ジョースター氏に深く感謝している。ジョースターの家名が積み重ねてきた歴史も、蓄えてきた財産、数々の名声とそれが生んだ権力、この素晴らしい土地と屋敷、すべてが本来なら野垂れ死ぬはずだった私を育ててくれた。分かるか? どんなに私がこの家を愛しているかを」
ディオさんの言葉にはもの凄い説得力があったが、それ以上に有無を言わせぬ迫力があった。滅多なことを言った途端に首を刎ねられそうな、という表現はオーバーじゃない。最高権力者、という言葉が耳に蘇る。この書斎こそが彼の玉座なのだろう。僕は深く頷くことで返事の代わりとした。彼はデスクを立つとゆっくりソファへ歩み寄り、僕の隣に腰掛けた。緊張が最高潮に達したとき、彼は表情のない目で僕に問うた。
「単刀直入に聞こう。君は仗助とジョースター家のために何ができる?」
これは審判だ、と僕は悟った。彼はその気になれば僕を如何様にも排除できる。この場面で求められている言葉を幾つか僕は導きだし…そして、言った。
「そんなの僕の知ったこっちゃないね。僕は僕のやりたいようにやる」
「なに?」
隣り合った肩に、静電気のような悪意が走った。これまでに何度も危ない橋を渡ってきたが、こんなに生々しい敵意を受けたことはない。どうにか声に震えが出ないよう、心持ちゆっくりと僕は口を開いた。
「ただ…あのアホッタレに愛される才能が、僕以上にある奴が、この世に居るとは思えないな」
さあ、どう出る。渾身の力で放ったハッタリで、僕の脳はじんじんと痺れたようになっていた。長い長い無言の時間を、マントルピースの上の時計が小さく確実に刻んでいく。
低い笑い声で僕は正気に戻った。赤い唇を手で覆い隠すようにして、ディオさんは苦しげに喉を震わせている。唖然とした僕に、彼は笑いながら言った。
「失礼…。このクリスマスを迎えるにあたり…事前に仗助から話は聞いていた。婚約者を連れていく、と」
「バッ…」
カ野郎、という言葉は済んでのところで飲み込んだが、その反応もまたお気に召したらしい。彼は悠然と足を組むと、ちびりとウイスキーを胃に落として言った。
「こちらに拒否権なぞ無かったのだ。仮に私が異を唱えようものなら、あれは二度とこの家へ足を踏み入れなかったろう。そういう奴だ。いや、奴ら、か」
露伴、と呼びかけられる。その滑らかな発音は、彼が僕の名前を認識したのが昨日今日の話ではないことを物語っているようだ。
「このジョースター家のアホどもはな、好き勝手に生きることに関して右に出る者がない。こうと決めたら一直線、他人の口出しなどどこ吹く風で我が道を突き進む。そしてそれは愛情についても同じだ」
グラスをことんとテーブルに置き、ディオさんは言った。
「あいつらの愛は、重いぞ」
「愛される才能、言い得て妙だな。脇目も振らずに全力で注ぎ込まれる愛情を、真正面から受け止めるにせよ受け流すにせよ、この家の系譜に名を連ねるには相当の覚悟が必要だ」
「あなたは?」
思わず問いかけた僕に、ディオさんは歌うように美しい節回しで答えた。
「ジョナサンは私のものだ。そして私はジョナサンのもの。だからジョナサンの思想、哲学、来歴と将来。家財も権利も地位も。ジョナサンが率いる血族の一人ひとりとその伴侶。ジョナサンが持つ愛と名の付くすべての感情は私のもの」
「…あなたはまったく、ジョースター家の管財人ですね」
思わずこぼれ落ちた僕の言葉に、ディオさんは瞳と唇を優雅に撓めた。僕は初めてこの人の、本物の笑顔を見た気持ちになった。
「この家が富み栄えることこそ私の至上の喜びだ。最も得難い資産は人材。私とジョナサン、そしてジョースター家は君を歓迎するよ、露伴」
言いながら彼は僕のグラスにウイスキーを注ぎ足し、小さく乾杯してみせる。なんとかつなぎ止めていた緊張の糸がぷつりと切れて、僕は思わず俯き、大きく息を吐いた。溺れかけてようやく岸に上がった感覚だ。それをどう受け取ったものか、彼は僕の背中に手を回す。隣り合った肩がぶつかり僅かに体温を伝え合った。
「なにも泣くことは無いじゃあないか…安心しろ、嘘などついてない」
過去に誰かを泣かせたな、と僕は察した。そしてそれは恐らく。
「君を見ていると典明を思い出す。あれも大胆な男だった」
「教えてください」
勢い込んで尋ねると、彼は人の悪い笑顔で唇の前に人差し指を立てる。分かっていると頷くと、ディオさんは楽しげに言った。
「やはり、承太郎のためにできることなど何も無いと、自分は無力だと言っていた。だがその後、困ったような顔でな。『でも僕を追い出したら承太郎もこの家を出るでしょうし、悲観して僕が死んだら承太郎も後を追いますよ、どうしましょうか』と」
「脅迫だ!」
押し殺した笑い声が書斎に満ちた。
「ジョルノが生まれたばかりだから、あのとき典明はまだ十代だったろう。若気の至りという奴か…あまりの言い草に笑ってしまったよ。今でも会うたびネタにする」
「ジョルノはジョナサンさんに似ています。同じように、あなたにも」
「仗助め…」
名前が出たのを良いことに話題を変えてみたが、やはり彼には通用しない。僕らの間で交わされた会話のあらましまで察したのだろう、忌々しげに吐き捨てると、彼はしばらく口をつぐんだ。温められた蜂蜜がとろりとろりとこぼれるように、滑らかに時間が過ぎてゆく。ディオさんは僕の持つスケッチブックに目を留めて言った。
「…君は漫画家だったね。ヴィクトリア様式の建築の取材かい?」
「ええ。でもそれ以上に興味があるのはこの家の人々です」
「私も含めて?」
「もちろん」
一歩も引かない構えを見せると、ディオさんはグラスを取り上げ、ぐいっと中身を空にした。僕は驚いた。この人はそうとう飲み慣れている。
「私は…私は自らの出生に強いコンプレックスを抱いている。この傷が癒えることは生涯無いだろう」
いきなり核心を突く言葉が出て、むしろ僕の方が焦った。真剣に話を聞く体勢を整える間にも、彼の低い声は部屋の空気を震わせ続ける。
「私の実父は人間の屑だった。責任感は無く計画性も無くそ
ヨーロッパへは何度も来たことがあるのに、イギリスは初めてだった。自分の興味の方向を思えば、なぜもっと早くに訪れていなかったのかスゴく不思議だ。そして、初の渡英をこんな形で迎えることになったということも。
「寒くない?」
仗助は問い掛けたくせに、僕の答えを待たず自分のマフラーを巻き付けてくる。暖房の効いた車内から出たばかりで、こっちは暑いくらいだというのに、不細工に巻かれたマフラーからは染み込んだ仗助の体温がどんどん伝わって来た。ああ、鬱陶しい。だが僕の抗議の視線にもこいつは気付かないようだった。
分かっているのだ。こいつは緊張している。ガラにもなく。めちゃくちゃに緊張している。目まぐるしく列車が発着し人の行き交う駅に居ながら、仗助の頭はここではない明後日の方角へ回転している。周りに積まれた鞄やスーツケースを見れば、誰かの荷物番をしていることは分かるだろう。けれど立派な体格をした、彫りの深い顔立ちの、黙っていれば良い男が、焦点の合っていない目で突っ立っているのは滑稽だった。
今いきなり頭をぶん殴っても暫くぼんやりしてるんじゃないかな、と僕の好奇心の虫が疼く。さりげなく旅行鞄を左手に持ち替える。僅かに右手をあげた時だった。
「待たせたな」
「はい、どうぞ」
承太郎さんの低い声と、花京院さんの缶コーヒーは同時に僕へ差し出された。
「すみません、あの」
「いいよ」
慣れない硬貨を数えようとする僕を、花京院さんは有無を言わさぬ笑顔で押し留める。不細工に巻きつけられたマフラーへ、一瞬彼の視線が向けられたのが分かる。ノーコメントが有難かった。僕らのやり取りを見ながら承太郎さんは言った。
「もう近くまで来ているらしい。クリスマスだから道が混んでいるようだ」
ポケットに電話を仕舞うと、彼は片手に持っていた水のペットボトルを軽く仗助の額へぶつけた。仗助もでかいがこの人は更に上を行く。くだらない仕草の一つひとつさえ、なんだかもう彫像っぽい。
動く神像のような承太郎さんと、彼に寄り添う花京院さんは、何の自己主張をするわけでもないのに人混みの方から避けて歩かれているようだった。隅っこで立っていた僕らは何度ともなくぶつかられ、足を踏まれているというのに。
「らしくねえな。あいつのことだからキッチリ十分前くらいに来てると思ったぜ」
「お前とは違ってな」
ようやく正気に戻ったらしい仗助の憎まれ口に、しっかり承太郎さんが釘を刺した。
僕にしてみれば年末進行なんて大した問題じゃあないが、それでもクリスマスから海外旅行となると少し準備が大変だった。仕事には余裕を持って取り組むのが僕のモットーだ。新春特大号と2月号の原稿までを担当に送って、それから荷造りに取りかかったものの、最終的には「俺んちなんだから足りないモンは何でも貸せます」という言葉に甘えてしまったところが多い。滞在日数の割にはかなり身軽だ。
もっとも仗助は僕を長時間拘束することに、そもそも申し訳なさを感じているようだ。今回のイギリス行きを切り出した時の鬼気迫る…いや、背水の陣、とでもいうような表情を僕は生涯忘れないだろう。俺の家に来てくれませんか、と、クリスマスなんで、親戚みんな集まるんで、と言ってあいつは僕の手を握った。ただならぬ気配に、反射的に「やだよ」と突っぱねてやりたくなったが、冗談なんてとても言える雰囲気ではなかった。
警察学校に通っていた頃の、あどけなさの残る青年の横顔ばかりが印象に残っていたが、いつの間にか仗助は社会の中で、市井の人々を守る大人になっていたのだ。仗助の手は熱く、筋張っていて、力強かった。間違いなく、僕よりもずっと。四つの年の差を笠に着てさんざん子ども扱いをしてきたが、年貢の納め時かもしれない。僕はなんだか酷く納得してしまって、頷くよりほかに無かったのだ。
仗助の家族はいつも世界中に散らばって生活しているが、だからこそ年に一度集まるクリスマスは大切にしているらしい。欧米人にとってのクリスマスは日本人の正月みたいなものだから、というのは花京院さんの弁。
仗助と親しい仲になる以前から彼の作品はよく知っていたが、知り合った切掛けは美術雑誌で対談記事を組まれたことだった。その時に初めて言葉を交わし、盛り上がった末にアドレスを交換した。彼の口から仗助の名が出たときは、近所のタバコ屋とハリウッドが連結したかのような、大規模な世界観の改革が僕の頭の中で起こったものだ。
つまり仗助くんは僕の義弟ってことになるね、と花京院さんは笑った。花京院典明の代名詞であった寒色で描かれる抽象画は、年を追うごとに色彩豊かな風景画へと作風を変えている。彼は結婚して以来、一日も離れず承太郎さんと行動を共にしていた。承太郎さんは海洋生物の研究者として世界中の海を旅しているので、自然と彼も「旅する画家」になったのだ。
承太郎さんには昨日、成田で初めて会った。僕は遺伝子の神技を目の当たりにした気分になった。彼は仗助にスゴクよく似ている。似ているが、ちょっと違う。仗助が常に周囲へと発散する人好きのオーラ、周囲の誰もがあいつを放ってはおけないような、あの雰囲気が承太郎さんには無い。
いや、人の目を引きつけるカリスマ性は息苦しいほどに感じる。しかし仗助が群れる生き物であるのと対照的に、彼は君臨するものなのだろうと僕は分析した。パーツで言えば目元が違う。仗助の甘ったるく垂れたアメジストに対して、承太郎さんの凛としたエメラルドの涼やかさ。
仗助とは一回り以上も年の離れた兄弟らしい。道理で仗助の口から聞く兄の話に、同性の兄弟にありがちな意地の張り合いや喧嘩の思い出が出てこないはずだ。彼らの両親は仕事の都合で来日し、仗助は日本で生まれた。両親が帰国しても、既に成人していた承太郎さんと一緒に仗助は日本に残った。仗助にとって兄貴は、身近なヒーローであり保護者であったのだろう。親と離れて遠いアジアで彼は育ち、そうして僕に出会った。
承太郎さんに引き連れられて、僕らは駅の外へ出た。ちらちらと綿雪の舞うリヴァプールの町は、覚悟していたほどの寒さではない。海商都市というだけあって、沿岸性の気候なのだろう。駅前のクリスマスマーケットは大変な混雑で、移動式のメリーゴーランドまで設置されている。新旧の建物が入り乱れたような風景は独特の雰囲気を醸していて、このまますぐ離れてしまうのが少し惜しいような気分になった。車寄せのそこここで家族が久しぶりの再会を果たしている。
「ごめんなさい、お待たせしました」
視界に風が吹き込んできたように錯覚させる、爽やかな声がした。見れば美しいブロンドの青年が、7人乗りSUVを降りて手を振っている。彼がラフに着崩した真っ黒のコートもその車も、高級品であることが何となく見て取れた。
「おおージョルノー!」
「久しぶり!」
大荷物を抱えているくせに軽やかに仗助は走り寄った。子犬のじゃれ合いを見ているようで、後ろの僕たちも何となく笑ってしまう。仗助に続いて、承太郎さんともキスとハイタッチ。印象的な明るい色合いに一瞬目が眩んだが、やはりというか、彼らは顔立ちが似ていた。青年はこちらへ目を留めると、花京院さんの荷物を強引に取り上げて頬を寄せた。
「お元気そうで何よりです」
「君もね。…」
短い言葉の後で花京院さんが僕へと目線を流す。青年のマリンブルーの視線が僕へと向けられる。
「あなたが…」
「初めまして。岸辺露伴です」
少しだけ緊張して名乗った僕へ、彼はまるで花が咲くように満面の笑みを向けた。差し出された手を思わず握ると、そのまま引き寄せられてハグを受けた。たぶん僕より年下だろうが、相手を自分のペースへ巻き込むのが上手い。
「僕はジョルノ・ジョースター。承太郎さんと仗助のいとこです。さあ乗って、もう皆待ってるんだ」
背中に手を回されて車へ誘導される。トランクへ荷物を積み込む間も彼の興味は僕に向けられているのが分かった。あんなに華やかに笑う彼だが、黙っていると少し近寄りがたい雰囲気がある。仗助より承太郎さんに似ているかもしれない。白い肌と金髪碧眼は、仗助たちよりももっと濃い北欧系の血を感じさせた。
目指す家へはゆっくりで二時間、飛ばして一時間ほどらしい。つまり二倍の速さで走るってことです、などと楽しげにしゃべりながらハンドルを操るジョルノだが、市街地を抜けて以来かなりのスピードでブッ飛ばしている。この分だと十分くらいで着いてしまいそうだ。
「会えて嬉しいです、露伴。仗助から話はずっと聞いてたんだ。いつ連れてくるのかって皆やきもきしてたんですよ」
「みんな?」
「ええ、みんな。あ、もうジョリーンも着いてますよ」
バックミラー越しに放たれた言葉へ、承太郎さんは少し驚いたようだった。
「早かったな」
「ギリギリ間に合ったとかで、きのう叔父さんたちと一緒の飛行機で帰ってきました。だから日本組が最後ですね」
「ジョルノ君はいつ?」
花京院さんの問いへ歌うようにジョルノは答えた。
「三日前から。イタリアはそういうところ緩いですからね、ナターレが近づいたら仕事になんてなりゃしません」
「久しぶりの親子水入らずじゃあねえか」
「おあいにく様、あの人たちはチャリティーだのパーティーだので大忙しですよ。今も二人とも別々に出掛けてます。僕らよりは先に帰ってると思いますけどね」
ハイスピードで交わされる親戚同士の会話に僕が付いて行けていないのを悟ったらしい。荷物を抱えて隣に座った仗助が、えーと、と切り出した。
「俺たちの親がジョセフとシーザー。ニューヨークに住んでる」
頭の中で家系図を描く。運転席からジョルノが口を挿んだ。
「シーザー叔父さんはよくイタリアにも来ますけどね」
「親父はジェノヴァ出身だからな、里帰りと仕事を兼ねて」
後ろから承太郎さんも付け足す。みんなが投げてよこす情報を、僕はどんどん頭に叩き込む。
「ジョセフじじいの兄貴がジョナサン。ジョースター家の当主ってことになります。ジョルノの親父さんで、俺たちから見れば伯父っすね。旦那さんがディオで、これから行く家に普段住んでるのはこの二人」
「あと、ダニーとホルス」
「悪い悪い。二人と一頭と一羽だな」
ダニーはグレイハウンド、ホルスはオオハヤブサです、とジョルノの真面目な声が続く。両方ともハンティングに活躍するような動物だな、と僕はちらりと思った。そして問いかける。
「君はイタリアに住んでいるのかい?」
「そう、仕事でね。まあ学生のときから留学してますから、あっちの暮らしにも慣れました」
就職するまでシーザー叔父さんのご実家に下宿してたんです、などと楽しげに話すジョルノだったが、僕の気がかりはそこではなかった。
「二人暮らしの家に僕まで押しかけて良かったんだろうか…」
日本の正月のようなもの、ということは、そんなに余所者が首を突っ込む雰囲気ではないはずだ。仗助の言わんとすることは分かる、そこに僕を呼ぶという意味も。だが長々と滞在するのはジョナサンさんたちにとっても負担ではないか? 何せ今の時点で出てきた名前は10人分だ。もちろん僕だって満員電車の中で十日も過ごせるとは思えない。
「二人暮らしの家…」
花京院さんがぼそりと呟く。承太郎さんがにやりと口の端を上げた。
「まあ、何も気にするな。何もな」
変わらず暴力的な速さで突っ走っているはずなのに、あまりスピードを感じなくなってきたのは窓の外の景色のせいだろう。民家は疎らになり、代わりに姿を表したのは広大な丘陵、点々と連なる湖。雪雲りの空を映して、湖面は灰色の鏡のようだった。賑わう地方都市から静謐の湖水地方へとエリアが変わろうとしている。細く低い石積みの壁は何かの境界を示すものだろうか。低く垂れ込めた雲の下、羊が何頭か草をはんでいる…
「仗助?」
「なんすか」
仗助はかたくなにこちらを向かない。僕の目も、風景の消失点に釘付けになったままだ。ぐんぐんと迫ってくる建物は、僕の語彙では家よりもむしろ、城に近かった。広々とした草地を、気の遠くなるほど長い生け垣で囲っている。大きさの比較対照が無いからスケール感が分かりにくい。おそらく巨大であろう門扉と、そこから建物へ延びる舗装された道がようやく視認できたころ、僕は目に入ったものを思わず呟いた。
「あの、…旗」
「うん…」
仗助は、こちらを向かない。悪さをした犬のように首を右斜め下へ捻っている。まさかアレがお前の家じゃあないよな、と口を開く直前。中部座席の緊張感を知ってか知らずか、ジョルノは明瞭な声で教えてくれた。
「ああ、あれは当主が在宅であることを示す旗です。よかった、父さんはもう帰ってるみたいですね」
小さな城…大きな家? の屋根で翻る旗には、複雑な紋章が描かれていた。漫画を描くために仕入れた雑学は色んなところで役に立つ。二頭のイルカが支える盾型エンブレムの上、金のバイザーが付いた騎士のヘルメット…貴族。その頭上には四つの宝石が付いたクラウン…男爵家。
「仗助」
「あーっ! あーっ! 靴、」
「どうかしましたか!?」
力任せにでかい足を踏んづけている僕の肩へ、後ろから花京院さんの手が伸ばされた。
「落ち着いて、露伴くん。気持ちは痛いほど分かる。きっとそうだと思っていた、僕もそうだった」
「礼服なんて持って来てないぞ…」
「あ、けっこう冷静だね」
「要らねえよ、そんなもん。どうせ食って飲んで騒ぐだけだ」
そろそろ降りる支度しとけ、と承太郎さんは笑いを堪えたように言う。厚い雲の切れ間から一筋差した強い光が、ジョースター家の牧草地に降り注いだ。僕にできることはもう、この素晴らしい湖水地方の風景を目に焼き付ける作業くらいしかない。仗助の足を踏みながら。
ジョルノが胸から取り出したリモコンを操作すると、鋼鉄の門扉はゆっくりと開く。玄関ポーチまで一直線に舗装された道のほかは、丘陵地帯の地面がそのまま残されていた。館の主の美意識が見えたようで少し嬉しい。キョ、キョ、と空から猛禽類らしい鳴き声がする。窓からその姿を確認することはできなかった。徐々に車は減速し、車寄せへと静かに横付けされた。
「はい、お疲れさまでした」
ジョルノの声とともに皆はがやがやと立ち上がった。一番近くに座っていた僕がドアを開け、最初に降りる。駅で感じたのとは質の違う冷気が頬を刺した。すぐにこちらへ回ってきたジョルノに手を差し出され、甘えて荷物を一つ渡しながら、僕は本心から言った。
「君、運転上手いね」
「ありがとう。久々の右ハンドルで緊張しました」
「マジかよ」
大胆にもほどがあるだろ、と思わず笑う僕の背後を、何かが走り抜ける気配がした。
「パパぁ! お帰り! ただいまーッ!」
花京院さんの上品なベージュのトレンチコートに、何か凄い色彩が飛びついていた。
「ジョリーン、また綺麗になったんじゃないか?」
「パパの娘だもん、当然よ」
承太郎さんの隣に居ると華奢に見えるが、花京院さんだって日本人の規格からすれば良い体をしている。ハイティーンらしい女性とはいえ、全力で走り加速を付けて飛びついてきた人間をしっかり抱き留めるのはなかなか力が要るだろう。そう思いながらようやく停止した彼女を見て、僕は少し考え込んだ。どこかで会ったことがある? 彼女も僕の視線に気づいたらしい、振り向きながら矢継ぎ早に言った。
「このヒトが露伴ね? そうでしょ? 会えて嬉しいわ露伴! おじいちゃん達がお待ちかねよ。さあ入って入って!」
口を挿む暇もなく残った荷物をむしり取られ、僕は手ぶらになってしまった。彼女…ジョリーンは両手に僕と花京院さんの鞄を抱えてのしのしと歩いていく。力持ちだ。唖然としていたところで、ふと彼女が視線を後ろへ投げかけた。
「あ、父さんも久しぶり」
承太郎さんは黙って帽子の鍔を下げる。なるほど、こういう家族か。僕は思わず承太郎さんの荷物を一つ持ち、一緒に並んでジョースター家の扉をくぐった。
美しい絨毯、壁紙、絵画、シャンデリア。外見は城だったが中身は美術館だった。正面に掲げられた肖像画はこの家の先祖のものだろうか。高い吹き抜け構造の玄関ホールの両側には大きな階段が二本、踊り場を共有し二階へと繋がっている。見上げるような玄関扉の裏側は精緻な彫刻が施されており、その脇には大理石で出来ているらしい女神像が鎮座している。僕は目の前のものを吸収するのに必死だった。だってどこに目を移しても「何も無い場所が無い」。
長い長い時間が積み上げた歴史の圧力に無言になっていた僕は、背中に熱を感じて我に返った。いつの間にか後ろに立った仗助が、僕の背に手を添えている。視線の先を辿った僕もまた、腹の底に力が入った。簡単な来客ならここで済ませるのだろう、ホールの隅に据えられた瀟洒なテーブルセットには、男性が二人座っていた。
彼らを一目見た瞬間に、僕は分かった。意を決して歩き出すと、呼応するように彼らも立ち上がった。僕の目は手前の人物に吸い寄せられる。間違いなく仗助はこの人の血を多く受けたのだろうと一も二もなく理解できた。人懐こそうな紫の目は好奇心に溢れ、暖かみのあるブルネットの髪は好き勝手な方向へ跳ねていた。屋敷にそぐわぬコンバットブーツを毛足の長い絨毯に埋めながら、彼は大股でこちらへ歩み寄る…。
「へっへっへ~、どぉーもどうも初めまして、コレの親のジョセフです~~~」
緊張感が砕け散った。目を点にしたであろう僕の前に、もう一人の男性が割って入る。ジョルノより明るい金髪に、ライムグリーンの綺麗な瞳。止まった頭の片隅で、イケメン! という言葉が木霊した。仗助の親なのだからもう壮年だろう、そういう軽薄な言葉は似合わないだろうが、ファッション誌の表紙を飾っても何の違和感もない、華やかな人だ。彼は鼻の頭に皺を寄せてジョセフさんを押しのける。
「コメディアンかお前は。失礼、気を悪くしないでほしい。俺はシーザー。君が露伴だね?」
「はい、初めまして。お招きくださり有難うございます、ジョースターさん」
「そんなに気を遣わないで。俺のことはシーザーと呼んでくれ。どうせここに居る奴はみんなジョースターさんだ」
「確かに」
深く納得した僕に、彼はにっこり笑いかけると手を差し出す。堅く握手を交わすとそのまま僕は彼の胸へと迎え入れられた。これがこの家の手口か。シーザーさんの首筋からは清潔でどこか郷愁を誘う、石鹸のような香りがした。
「日本から何時間掛かった? 疲れただろう。とりあえず部屋に案内するよ。荷物を」
「いえこれは承太郎さんので、僕のは…」
部屋の前に置いたわよー、と階段の踊り場からジョリーンの声がした。肩をすくめるとシーザーさんは承太郎さんの鞄を取り上げ後ろのジョセフさんに投げ渡す。そして僕の腰に手を回し颯爽と歩き出した。親密にエスコートされて階段を上がりながら、これがイタリア男のポテンシャルか、と僕はなすがままにされるばかりだった。
「君については色々と聞いてるんだ。仗助と、典明から」
「花京院さんから?」
「そう。君がどんなに素晴らしく先鋭的なアーティストであるか。こっちでは出版されていない画集や展示会の写真なんかは典明に送ってもらった。凄く刺激的だったよ。君に会うのが楽しみだった」
情熱的に言いながら、彼は僕の頬にキスをくれた。たどたどしくキスを返す。こういう習慣があることは知っていたし、ジョルノと仗助たちの間で見てもいたが、自分でやるのは初めてだ。僕は全力で照れた。こういう感情が自分に残っているとは驚きだ。
「…嬉しいです。ありがとう」
なんとかそれだけ絞り出す。この家の人、仗助の家族でさえ無ければ、誉められるのも挨拶のキスも何ということはなく受け流せたに違いない。好かれたい人から好かれるとはこんなに安心するものなのかと思う。シーザーさんは悪戯っぽい声音で言った。
「実はさっき、こいつは嘘を吐いている。意味は分かるかい?」
「ジョセフさんが嘘を?」
僕らの後で奇妙に蛇行しながら歩いているジョセフさんと、それを捕まえようとする仗助のよく分からない追いかけっこを見るうちに、僕は閃いた。
「…フィレンツェ? それともルーヴル」
「ルーヴルだ。あの企画展はこいつが主催したようなもんだからな。こいつはコミックアートに目が無い。内覧会で君のサインも手に入れている」
「ああ…ジョースター財団の…」
正直あの展示会をどこが企画し、出資し、宣伝を行ったかなどまるで把握していなかったが、彼がジョセフ・ジョースターである限りどこにでも関与する可能性はあるだろう。
「だから仗助が君を連れてくるって言ったときは驚いたよ。だって家の寝室には君のコミックがずらっと並んでいたし、こいつの部屋にはルーヴルで君に貰ったサインが飾られてたんだからね。なあジョセフ、あのとき電話で仗助に何回『マジで?』って言ったんだ?」
「36回だよ!」
やけくそのように言い返すと、ジョセフさんは持っていた荷物を扉の一つに投げつけた。すぐさま中から承太郎さんが顔を出し、「じじい!」と怒りを露わにする。まったく男子高校生のようなメチャクチャさだ。廊下に落ちた自分の荷物を引っ張り上げて、承太郎さんはどこか僕に済まなそうな顔を見せた。
承太郎さんの怒りをよそに、ジョセフさんは隣の部屋の扉を開けた。見慣れた鞄が行儀良く並んでいる。促され、中に足を踏み入れる。
「ここが仗助の部屋。一通りは用意されてるはずだが、足りない物があったら何でも言ってくれ。見ての通り隣が承太郎の部屋で、向かいが俺たちだ」
暖炉には既に火が入っていた。木製のマントルピースには獅子と魚を図案化したような複雑な装飾が浮き彫りにされている。深く落ち着きのある赤いクロスが張られた壁には幾つか絵や写真が飾られていて、僕はその中に花京院さんのスケッチを見つけた。壁際のチェストも窓を向いて置かれたソファセットも、部屋で一番の存在を放つキングサイズのベッドもすべて、年代と風合いがシックに統一されている。ほう、と満足げに息を吐いた僕を見てシーザーさんは笑った。
「荷ほどきが終わったら降りてきてくれ、義兄さんたちが戻ったら食事になるから」
「あー、その前に!」
行くぞ、と立ち去ろうとしたシーザーさんから逆走するようにして、ジョセフさんは部屋の中へ…僕の方へ駆け寄ってきた。
「…!」
ハグされる、と思った次の瞬間にはもう、僕の足は宙に浮いていた。僕を抱え上げぐるぐるとその場で回って見せたジョセフさんは、温かく逞しい左腕に僕を座らせるようにして満面の笑みで見つめると、来てくれて嬉しい、と言って頬に小さなキスをくれたのだった。
「疲れた?」
「…ああ」
ベッドの上に大の字になったまま、僕は暫く動けなかった。人付き合いはできないこともないが、好きでもない。成田を発って以来、常に周囲を慣れない人に囲まれていて、そろそろ疲れている。仗助にも気配で伝わっているのだろう、スーツケースを勝手に空けたのは頂けないが、荷ほどきをやってくれるのは素直に有り難い。僕の服を一着ずつハンガーに掛けクローゼットに仕舞いながら、仗助は言った。
「ごめんな、でも今日のパーティーの主役はアンタだから…」
彼は僕に何かを強いることをしない。それを僕が嫌がるのはもちろん、それがお互いの中に亀裂を生む最短の手段だということを知っているからだろう。僕は眉を八の字に下げて困っているであろう奴の表情を想像し、ベッドをばんばんと叩いてみせた。気持ちは伝わったようで、仗助の重い足音が近づいてきて、マットレスが揺れ、軋む。
「露伴先生」
腰掛けた仗助の腹に手を回し、背中に耳を当てるように抱きつくと、熱い体温と響く脈動、筋肉の動く感触が余すところなく感じられた。目を閉じてしまえばここが日本の安アパートかイギリスの男爵邸かなど分かりはしない。
「お前の両親、若いな」
「あー全然老けないんスよね、何なんだろアレ」
「いい人たちだな」
「そっすか~?」
仗助の低く甘い声が腹腔の中で反響しているのが分かる。両親と僕を引き合わせたことで随分楽になったのだろう、こいつは僕より一足先に緊張状態を脱したようだった。悔しくなった。
「ニューヨークの不動産王、ジョセフ・ジョースター」
「…」
こいつの体は本当に分かり易い。緊張するとすぐ変なところに力が入り、筋が軋む。
「聖家族贖罪教会が公開されたときは日本から予約取って見に行ったよ。あの設計はシーザー・A・ツェペリの仕事だった。オフィシャルでは旧姓を使ってるんだな、親父さん」
「…イヤ?」
こわごわ、という風に仗助は上半身を捻り、僕へと問いかけた。僕は思わず大声で答える。
「何がだ!!! なあ、食事が終わったらインタビューしたいんだが良いかな!? ジョリーンだって知ってるぞ! ストーンフリーのボーカルだ! 何なんだお前の家族は! メチャクチャに面白いじゃあないか!」
「インタビューじゃねえだろ、露伴」
急に仗助が声を潜めたので、逆にドキッとした。
「クリスマスに家に呼ぶって意味くらい分かってんでしょ? だから一生懸命マンガ仕上げて一緒に来てくれたんだよな」
ベッドに肘を付き、寝転がった僕と吐息のふれ合う距離から彼は囁く。視線を上げなくても、いま仗助がマジな顔をしているのは分かり切っていた。これ以上の抵抗はしない方がましだろう。僕は観念して言った。
「すまん、仗助」
「なに」
「僕もわりと緊張している」
ぐっと仗助が息を呑んだ。
「スゴイ才能を持った人たちと沢山繋がりが持てて嬉しいのは本心だ。あと…そんな人たちと、家族、になるっていうのも…ドキドキする」
遂にベッドに寝転がった仗助が、とぐろを巻くようにして体中を抱き締めてきたせいで、思わず喉からぐえっと声が出た。
「苦しい、こら」
「ありがとな、露伴。ホント…こんな遠くまで来てくれて」
更にぎしぎしと力を籠めてくる。大きい子ども、なんていう比喩では手ぬる過ぎる。これはもう熊か何かだ。僕は思い切り仗助の高い鼻を抓り上げた。
「ぶさいく」
真っ赤になった鼻の頭を笑ってやったら、仗助はようやく僕の体を解放した。痛ぇなあ~ひどいっすよ~、と文句を垂れるその目は潤んでいる。抓り過ぎたわけではないだろう。こいつは感動屋だ。そして嘘を吐くのが本当に下手なのだ。
日本のそれとは違い、イギリスのクリスマスでは子どもへは勿論、大人同士でもプレゼントを交換する。一人の相手へ何個もプレゼントを用意するのが普通で、本命の物のほかにもウケ狙いの玩具やほんの小さなお菓子などとにかく沢山。どんな些細なものにも丁寧にプレゼントのラッピングをする。…等々、喋りながら仗助は自分のスーツケースから次々に箱やら袋やらを取り出してみせた。驚いたことにこいつの荷物のうち一つはまるごとプレゼント入れになっていた。道理でやたら多いはずだ。
「言ってくれたら僕も準備したのに」
「忙しい時期にそんなことまでお願いしませんって。それに、ごま蜜だんご買ってきてくれたんでしょ?」
実のところ、僕は仗助に何かクリスマスプレゼントとか用意するべきかと聞いていたのだ。しかし彼は、わざわざ日本から会いに来てくれるだけで十分っすよ、とはぐらかした。食い下がった結果、なんとか「みんなで食べられるような日本のお菓子」を引き出したため幾つか持ってきたが、まさか10人も居るとは思わなかった。足りるかな、と思うと同時に、確かに10人へ複数のプレゼントを準備するとなると一仕事だな、とも思う。半分持ってやるだけで大変だ。
二人でプレゼントの山を抱え、えっちらおっちら降りていくと、階下では食事の準備が進んでいるようだった。楽しげに跳ね回っているお団子頭へ仗助が声を掛ける。
「ジョリーン、俺たちもプレゼント置いていいんだよな~?」
振り向いた彼女の目が輝くのが分かった。
「もっちろん! どんどん置いて、積み上げちゃって!」
こっちよ、と引っ張って行かれたのがダイニングルーム…晩餐室だろう。ひときわ立派な石造りの暖炉ではごうごうと火が燃えており、白いクロスの敷かれた長テーブルには時代がかった七枝燭台が据えられている。ジョルノが次々に並べていくアンティークな銀食器のセットには、全て柄の部分に精緻な彫刻がしてあった。旗になっていたのと同じ紋様だ。
また思わず停止していた僕を、仗助が声で促す。暖炉の横にでんと鎮座していたクリスマスツリーは本物の樅の木だった。仗助より大きいから2メートル以上あるだろう。あたしとおじいちゃんたちで飾り付けしたのよ、とジョリーンが胸を張る。色とりどりのオーナメントにたっぷりの綿雪、頂上に大きな星。しかし同じほどに目を引くのは、ツリーの下にうずたかく積み上げられたプレゼントの山だった。
「凄まじい量だな」
言いながらどんどん包みを降ろしていく僕らを、ジョリーンは楽し気に見ていた。
「クリスマスだもの! …うわっ露伴、その服もカッコイイ! 仗助とは大違い!」
「うるせえぞ~」
仗助が拳を振り上げる真似をするとジョリーンはきゃらきゃらと笑った。からかいの言葉は冗談だろうが、誉め言葉は本心だろうと思う。冬に挑みかかるような彼女の服装は肩出し・へそ出しのパンツスタイルで、非常に好みだ。たぶん僕らは趣味が合う。万が一高いレストランや観劇などに誘われた時のために持ってきていたチョット良い服に着替えてみたのだが、やってよかった。
「君の服も凄くイカしてるよ。どこのブランド?」
「パッショーネの新作! ジョルノがデザインしたんだ」
「へえ…」
初耳、と言葉を繋げようとしたが、玄関ホールのざわついた気配で僕は口をつぐんだ。大型犬の吠え声と、一瞬だけ通り抜けた冷たい外気。いつの間にか出ていたらしいジョルノが僕を呼ぶ。半ば用件を察し、僕は小走りでダイニングを出た。
「いらっしゃい! 露伴くんだね、遠くからよく来てくれた! 君を待っていたんだよ!」
顔中を笑顔でいっぱいにして、その人は居た。ダークブラウンの髪に雪の結晶をたくさん付けて、高い鼻の頭を真っ赤にして。
「僕はジョナサン。こいつはダニー。明日すごく寒くなるっていうから、暖炉の焚き付けを沢山取って来たんだ。部屋の空調は大丈夫だった?」
「あ、はい、とても暖かかったです」
「それは良かった! また後でおしゃべりしようね! ディオはまだ?」
「さっき戻って、着替えてます」
ジョルノが淡々と答えると、ジョナサンさんはさっと表情を変える。
「しまった、急がないと」
言うが早いか彼は巨体を翻し、大階段を四段飛ばしで駆け上っていった。身体能力が凄い。ラグビーとかやっていたんじゃないかな、と思う。雨靴も外套も品は良さそうだったが、愛用し続けて長いのか、かなり着古していた。飾らないというより「構わない」人なのだろう。彼の全身から発散される、善良で大らかな雰囲気は、僕の予想をかなり裏切っていた。
「父です」
「うん」
「この家の主です」
「ロード・ジョースター…」
しみじみと呟く僕をよそに、ジョルノはダニーの体をタオルで拭いてやっていた。口に何本も太い枝をくわえて、大人しく座っている。賢い犬だ。傍らにはジョナサンさんが慌てて置いていった枝の山が残されている。ジョルノはどこからか持ってきた籠にそれらを放り込みながら言った。
「いつもはお手伝いさんたちがやってくれるんですけどね、今日からみんなに休暇をあげたんです。まあ父はこういうことを嫌がる人ではないので、あんな感じ。あれでも昼間はロイヤルファミリーの昼食会に列席していました」
思わずヒュウと口笛を吹いた僕に小さく笑い、乾燥室に置いてきます、とジョルノもここを後にした。その後ろをダニーが大人しく着いていく。ああ、ハンティング、と僕は昼間の思考を思い出した。きっと彼は立派に男爵の狩りのお供を務めるに違いない。
手持ちぶさたになった僕は、来た時にじっくり見られなかった玄関ホールの美術品をひとつひとつ確かめ始めた。絵もあるが、骨董品も多い。青磁の坪や香水瓶などオリエンタルな趣味が目立つ。貿易業で財を為した家なのかもしれない。奥の壁にはアフリカや北欧、ミクロネシアなど文化圏を問わず仮面ばかりを集めて飾ってあった。僕の目はそのうちの一つに吸い寄せられる。石で出来ているらしいそれは、僕の知識ではどの地域・文明に属する物なのかすら分からない…
「アステカ文明の遺跡から見つかったものだ」
背中に氷水を流し込まれたような驚きが僕を襲った。
「君が岸辺露伴か」
「…初めまして」
向き直り、ようやくそれだけ口にする。僕の真後ろに立っていた人物は、逞しい体つきからは考えられないほど優雅な身のこなしで僕に右手を差し出した。
「ディオ・ジョースター。仗助が世話になっているそうじゃあないか」
「世話なんて、そんな」
シェイクスピアの歌劇のように重厚で美しいクイーンズ・イングリッシュ。どこか冷徹にさえ見える白皙の美貌。癖のない髪質と、色白を通り越して雪のように白い肌さえ除けば、豪華なブロンドといいマリンブルーの瞳といい、まったくジョルノに似通っている。まるで血が滲んだような唇は、白い肌によって色彩が際立っているのだろう。彼は口の端をつり上げるようにして笑みを形作ると、僕の手を強く握り言った。
「君のことが知りたい。友達になろう、露伴」
この人には逆らえない、と僕は思った。何か強い磁場が働いていて、心が強制的に吸い寄せられるようだった。底なしの海のような強い瞳から視線を逸らせない。ただ浅く呼吸を繰り返すことしかできない僕を救ったのは、さっき聞いたばかりの声だった。
「ディオ、抜け駆けはよくないよ」
のんき、とすら言えるような口調でジョナサンが僕らに割って入った。まるで呪縛から解き放たれたように視界が広がる。料理の匂いやガヤガヤと皆の喋る声がダイニングの方から流れてきて、ようやく僕は今の状況を思い出すことができた。急いで着替えてきたのだろう、ジョナサンさんのジャケットは後ろの襟が立ってしまっている。
「コンサートはどうだった?」
「去年よりはだいぶマシだったな。次はぜひお前も一緒に、と」
「光栄だ。さ、行こう! そろそろ食事になるだろう」
何事も無かったかのように淡々と喋るディオさんには、さっきまで見せていた蠱惑的な雰囲気は無い。呆れたように白い手を伸ばし、ジョナサンさんの襟を直す。僕はジョナサンさんに肩を抱かれるようにして歩き出した。
「半年分くらい喋った気がする…」
「お疲れ様」
僕の歓迎会という名目のクリスマス・イブ・パーティは、それはそれは盛大で、にぎやかで、温かなものだった。
暖炉の真ん前、ディオさんとジョセフさんに挟まれた席は間違いなく主賓の扱いであり、少々慌てたが、そもそも皆がラフな格好をした食事だ。格式張っているのはテーブルセットくらいで、料理など多国籍が極まっている。聞けば一人一品のルールで皆が作ったり持ち寄ったりしたらしい。あからさまに買ってきただけのフライドチキンの隣にちらし寿司と海鮮パスタが並んでいたのはそういうわけだったのだろう。
ディオさんに対して警戒心を抱けていたのは最初だけだった。この飾らない宴席で、それでも律儀にタイを着用していた彼は、綺麗な所作で牛タンの味噌漬けを口に運びながら実に楽しく会話を盛り上げてくれた。ちょうど席次の中程に向かい合って座ったジョセフさんとシーザーさんの、テーブルを挟んだやり取りだけで常に話題には事欠かないのだ。質問の嵐に口ごもったときには花京院さんが助け船を出してくれたし、ワインがとにかく美味しかったし。
お腹いっぱい食べて飲んでいい気分になったときにはもう、僕はずっと昔からこの人たちに囲まれていたかのような錯覚に陥るほどだった。今日初めて会った人たちにこんなに打ち解けられるなんて考えてもみなかった。きっと皆が僕に気を使ってくれたのだと思う。この家の人たちは殆どが異郷で暮らしているだけあって、余所者に寄り添うのに慣れているのだろう。バスルームから帰ってきた僕は、数時間前と同じようにベッドで大の字になっていたが、あのときの疲れと今とは少し意味合いが違うのだった。
僕より先に帰ってきていた仗助は(この家には家族用の他にもバスルームが何カ所かある。客室の数を考えれば当然なのだが)勝手知ったる自分のテリトリーとばかりに、ソファに体を伸ばして悠々とくつろいでいた。最初は仗助の癖にこんな部屋、と思ったが、そうしているとやはり馴染んでいるのが分かる。もっとも彼がここで育ったというわけではなく、帰省のとき必ず泊まる仗助専用の部屋、という扱いらしいが。重厚な木の扉に掛けてあるクリスマスリースは、庭の草木を利用してジョルノが作ったという。白い花を付けたトネリコとアイビーの蔓を輪にして赤いリボンで留めただけのシンプルなものだったが、品よくセンスが良い。
ごろごろとベッドの上を転がっていた僕の目は、そのまま壁を滑っていって、チェストの上の家族写真に留まった。十年ほど前なのではないだろうか。何かのトロフィーを手にしたジョルノと隣で笑う仗助は二人ともハイティーンに見える。ジョリーンはきっと小学生くらいだろう。その周りを囲む大人たちも、今より少しずつ若い。ここに写っていない人物こそが撮影者なのだろうと思えば、ジョルノの少し誇らしげな表情にも合点がいった。
「あの、ディオという人は」
考えているうちに、僕の口からは自然に言葉が出ていた。それに仗助は軽く言葉を返す。
「迫力あるでしょ。ジョナサンの旦那さんで、うちの最高権力者です」
「…?」
ロード・ジョースターとその一族の中で、ジョナサンさんより発言力のある者が居ていいのか? 僕の至極当然な疑問は、空気を通じて仗助にも伝わったらしい。彼は苦笑気味に答える。
「うちってみんな自分勝手っていうか、好きなことにしか興味ない奴ばっかだから、こう、地に足が付いてるっていうの? 財産とか相続とか資産運用とかそういうこと考えられるの、あのヒトしか居ないんすよ」
「意外だな。彼こそよっぽど貴族っぽいから、銭勘定とは無縁な感じがしてた」
「でしょー。ロード・ジョースターって言ったらだいたい皆ディオの方見るもんな」
暖炉の中で薪のはぜるパチパチという音が、パーティの記憶を呼び覚ました。その前の記憶まで。あのとき僕を見ていた彼の目は、獲物を値踏みする捕食者のそれに近かった。捕まえたウサギを愛しげに見つめる肉食獣の目。
「…僕は嫌われてるんじゃないだろうか」
「なんで?」
「なんとなく…」
きっと仗助には伝わらないだろうと思い、口を閉じる。仗助の持つ、愛されて育った人間特有の無防備さと前向きさは、ジョナサンさんに通ずるところがあるように思う。なんとか話題を変えようと考える僕に、仗助は意外なことを言った。
「ディオと喋るときのタブー。教えときます」
僕の表情だけで仗助は興味の濃さを察したようだった。
「ジョルノはディオに似てる、って思ったでしょ? それ言ったらダメです。めちゃくちゃ機嫌悪くなります」
「なぜ?」
「さーね。でも社交辞令っていうの? 会話のとっかかりでソレ言っちゃう人多いんすよ。それでもう空気は最悪。まあ普通は喜ぶと思いますからね」
「ふうん…」
僕はベッドの天蓋を睨みつけた。豪華な金糸のタッセルはどこか彼を思わせる。確かにジョルノはディオさんに似ているが、あの癖毛や血色の良い頬、しっかりした眼窩の骨格なんかはジョースター家の血筋だろう。自分の子どもが自分に全く似ていてほしくない、という気持ちを想像してみたところで理由は幾つも思いつかない。
「自己嫌悪の強い人なのかなァ…」
呟いてみたが、あまりピンと来る仮説ではなかった。彼は間違いなく自分の能力に自信を持っていて、能力の研鑽を怠らないタイプの人間だ。考えに耽る僕を異音が邪魔する。
「んー…んんん」
「なんだい、気持ち悪い声出して」
しょうがないので聞いてやると、仗助はソファの背に顔を乗せるようにしてこちらを向いた。二人きりの部屋で声を潜める意味は無いだろうと思うが、気分の問題なのだろう。
「…ディオはもともとジョージ爺ちゃんの養子なんスよ。子どもの頃、孤児院から引き取られてきたって聞いてます」
僅かに動揺しながら僕は問い返す。
「お前の爺さんの養子? ってことは」
「ジョナサンとじじいの兄弟ってこと」
「そりゃあ…」
言葉を続けられない僕へ、仗助は言った。
「まあ血縁は無いわけだから結婚したっていいわけですけど。なんかそこら辺も関係あんじゃねえのかな~」
そりゃあるだろう、と僕は思った。気になる。ものスゴク気になる。
「興味湧いてきたんでしょ」
「分かるか?」
「そりゃね。でも変な小細工しない方がいいっすよ。ディオ、めっちゃくちゃ頭も勘もいいしプライド高いから。ケンブリッジ法学部首席卒業」
「凄いな」
「ジョナサンも頭いいけどよォ、ああいう、勉強のために勉強するっていうか、実用的な感じ? は素質無い。お陰で家のことは任せっきりです」
そろそろ寝ましょっか、と仗助が立ち上がった。逆らわず布団に入り枕に頭を埋めると、部屋の明かりが消される。しかし暖炉の火で真っ暗にはならない。赤い光が仗助の背中の形に遮られ、彼が薪をくべているのだと分かった。朝まで持つのかな。持たなくても死にやしないか。きっと昔からこの家の男たちは、こうして暖炉に向かい合って来たのだろうと思った。
薄く目を閉じて出会った人々のことを思い返す。どうもこの家には学者タイプと商売人タイプが交互に出現するようだ、などとつまらないことを考える。想像した通り、ジョースター家はもともと新大陸との貿易で財を為した商家で、19世紀に爵位を購入してロードの地位を得たらしい。今は亡きジョージ氏もまたやり手のビジネスマンだったという。
めいっぱい暖炉に薪を詰め込んでからベッドへ乗り上げてきた仗助の素晴らしい肉体美は、寝間着越しだというのに暖炉の明かりの逆光で妙にドラマティックに見えた。この体もいきなり天から降ってきたわけではない。ジョセフさんが居てシーザーさんが居て、ジョージ氏が居てその奥方が居て…数え切れない見知らぬ人々の生命活動、その最先端に仗助が存在する。まあそれは、僕だって同じことなのだけれど。
「凄いの貰っちゃったなあ…」
「? なんか言った?」
甘く小さな囁きはピロートーク用の声だ。僕は答える代わりに仗助の胸にしがみつく。仗助が嬉しそうに笑うのが気配だけで分かった。僕を抱きしめる腕はとにかく暑苦しくて、鬱陶しくて、安心する。窓の外に雪を感じる。ぱちぱちと暖炉は楽しげにはぜる。暖炉ってこんなに温かいのか。この経験も漫画に活かさなければ。僕はストンと眠りに落ちていった。
ぱちん、と一際おおきな音を立てて薪が裂けた。すんなりと覚醒した僕は、ふわふわの大きな枕と果ての見えない布団に数秒混乱する。しかし耳に仗助の寝息を感じてようやく思い出した。ここはイギリス、リヴァプール近郊、ジョースター邸、仗助の寝室。はるばる日本から飛んできてメチャクチャな歓待を受けてからまだ数時間と経っていないだろう。
後ろから僕の体を抱き締めるぶっとい腕をどうにかすり抜けて、僕はベッドを降りた。重厚な絨毯は僕の足音をすっかり覆い隠してくれた。薪はまだまだ残っていたが、せっかくなので追加しておく。暖炉の脇には焚き付けの小枝もたっぷり準備されていて、僕はジョナサンさんのことを思い出した。
暖炉の明かりで浮かび上がる、置き時計の文字盤は丑三つ時だ。そんなに寝ていないことに驚いた。無いと思っていた時差ボケだが、やっぱり影響はあったようだった。無理矢理にでも寝るべきだろうと思うが、頭の中は非常にクリアだ。ふと、雪明かりの屋敷の様子が見たくなる。荷物の一番上に入れているスケッチブックとペンを取り出すと、僕はガウンを羽織って部屋を出た。
屋敷は寝静まっていた。耳を澄ませば皆の寝息も聞こえてきそうだ。雪は外の音を吸うことを僕は知っている。薄雲をまとった月と星の光が、地面の雪に照り返されて、窓の外はぼんやりと明るかった。曖昧な輪郭で廊下に落ちる窓枠の影。…しんしんと、寒い。廊下には暖房が無いのだから当然だ。柔らかな布製の部屋履きと、寝間着の裾の隙間から、冷えた夜の空気が入り込んでくる。コートを羽織ってくるべきだったと僕は後悔した。
大階段を降りて玄関ホールに出ると、女神像が僕を見下ろしていた。薄明かりが天窓の色ガラスを通り抜け、純白の女神にほのかな色彩を与えている。応接間、晩餐室、居間、図書室…月明かりを頼りに歩いていた僕は、ふと足を止めた。書斎の扉からかすかに光が漏れている。電気の消し忘れか? そっと近づき扉を開けると、中から暖められた空気とペンが紙を走る音が流れ出した。
「閉めてくれ。寒い」
ぴしゃりと叩き付けられた声に、僕は思わず従った。扉をきっちり閉めて振り返ると、ちょうどディオさんがこちらを見たところだった。本当に驚いたのだろう、彼は目を丸くした後で言った。
「済まない、ジョナサンかと思った」
「いいえ、こちらこそ、明かりの消し忘れかと思って入ってしまいました」
失礼しました、と出て行こうとした僕をディオさんは呼び止めた。手招きに従い歩み寄ると、ソファを指で示される。蜘蛛の巣に自分から飛び込んでしまった気分だった。僕は緊張しながら腰掛けた。ディオさんはキャビネットの中から何かを取り出して…ウイスキーだ。ショットグラスに入れられたそれを受け取る。手持ちぶさたに目を泳がせながらグラスを舐めると、予想以上に強かった。
夥しい数の本に埋もれたような部屋だった。本棚に包囲されたマントルピースの上に置かれたエキゾチックな骨董品と置き時計。ファイアースクリーンには大樹と蔓植物を記号化したような不思議な模様が華やかに描かれていた。暖炉の上の壁には大きな肖像画が飾られている。椅子に腰掛けている紳士は在りし日のジョージ氏だろう。彼の両側に立つ3人の子どもたち。
「…私は子どもの頃、この家に養子に入った。だからジョナサンとは兄弟として育てられた。血縁こそ無いが、私にとってこの家は婚ぎ先でなく実家なんだ」
僕の視線を追ったのだろう、ディオさんは静かにそう言った。白い膝小僧を見せる金髪の少年は、まるい頬を微笑みでいっぱいにして僕らを見下ろしていた。…なぜだろう、この笑顔は僕の心をどこか不安にさせる。
「私は亡き父に…ジョージ・ジョースター氏に深く感謝している。ジョースターの家名が積み重ねてきた歴史も、蓄えてきた財産、数々の名声とそれが生んだ権力、この素晴らしい土地と屋敷、すべてが本来なら野垂れ死ぬはずだった私を育ててくれた。分かるか? どんなに私がこの家を愛しているかを」
ディオさんの言葉にはもの凄い説得力があったが、それ以上に有無を言わせぬ迫力があった。滅多なことを言った途端に首を刎ねられそうな、という表現はオーバーじゃない。最高権力者、という言葉が耳に蘇る。この書斎こそが彼の玉座なのだろう。僕は深く頷くことで返事の代わりとした。彼はデスクを立つとゆっくりソファへ歩み寄り、僕の隣に腰掛けた。緊張が最高潮に達したとき、彼は表情のない目で僕に問うた。
「単刀直入に聞こう。君は仗助とジョースター家のために何ができる?」
これは審判だ、と僕は悟った。彼はその気になれば僕を如何様にも排除できる。この場面で求められている言葉を幾つか僕は導きだし…そして、言った。
「そんなの僕の知ったこっちゃないね。僕は僕のやりたいようにやる」
「なに?」
隣り合った肩に、静電気のような悪意が走った。これまでに何度も危ない橋を渡ってきたが、こんなに生々しい敵意を受けたことはない。どうにか声に震えが出ないよう、心持ちゆっくりと僕は口を開いた。
「ただ…あのアホッタレに愛される才能が、僕以上にある奴が、この世に居るとは思えないな」
さあ、どう出る。渾身の力で放ったハッタリで、僕の脳はじんじんと痺れたようになっていた。長い長い無言の時間を、マントルピースの上の時計が小さく確実に刻んでいく。
低い笑い声で僕は正気に戻った。赤い唇を手で覆い隠すようにして、ディオさんは苦しげに喉を震わせている。唖然とした僕に、彼は笑いながら言った。
「失礼…。このクリスマスを迎えるにあたり…事前に仗助から話は聞いていた。婚約者を連れていく、と」
「バッ…」
カ野郎、という言葉は済んでのところで飲み込んだが、その反応もまたお気に召したらしい。彼は悠然と足を組むと、ちびりとウイスキーを胃に落として言った。
「こちらに拒否権なぞ無かったのだ。仮に私が異を唱えようものなら、あれは二度とこの家へ足を踏み入れなかったろう。そういう奴だ。いや、奴ら、か」
露伴、と呼びかけられる。その滑らかな発音は、彼が僕の名前を認識したのが昨日今日の話ではないことを物語っているようだ。
「このジョースター家のアホどもはな、好き勝手に生きることに関して右に出る者がない。こうと決めたら一直線、他人の口出しなどどこ吹く風で我が道を突き進む。そしてそれは愛情についても同じだ」
グラスをことんとテーブルに置き、ディオさんは言った。
「あいつらの愛は、重いぞ」
「愛される才能、言い得て妙だな。脇目も振らずに全力で注ぎ込まれる愛情を、真正面から受け止めるにせよ受け流すにせよ、この家の系譜に名を連ねるには相当の覚悟が必要だ」
「あなたは?」
思わず問いかけた僕に、ディオさんは歌うように美しい節回しで答えた。
「ジョナサンは私のものだ。そして私はジョナサンのもの。だからジョナサンの思想、哲学、来歴と将来。家財も権利も地位も。ジョナサンが率いる血族の一人ひとりとその伴侶。ジョナサンが持つ愛と名の付くすべての感情は私のもの」
「…あなたはまったく、ジョースター家の管財人ですね」
思わずこぼれ落ちた僕の言葉に、ディオさんは瞳と唇を優雅に撓めた。僕は初めてこの人の、本物の笑顔を見た気持ちになった。
「この家が富み栄えることこそ私の至上の喜びだ。最も得難い資産は人材。私とジョナサン、そしてジョースター家は君を歓迎するよ、露伴」
言いながら彼は僕のグラスにウイスキーを注ぎ足し、小さく乾杯してみせる。なんとかつなぎ止めていた緊張の糸がぷつりと切れて、僕は思わず俯き、大きく息を吐いた。溺れかけてようやく岸に上がった感覚だ。それをどう受け取ったものか、彼は僕の背中に手を回す。隣り合った肩がぶつかり僅かに体温を伝え合った。
「なにも泣くことは無いじゃあないか…安心しろ、嘘などついてない」
過去に誰かを泣かせたな、と僕は察した。そしてそれは恐らく。
「君を見ていると典明を思い出す。あれも大胆な男だった」
「教えてください」
勢い込んで尋ねると、彼は人の悪い笑顔で唇の前に人差し指を立てる。分かっていると頷くと、ディオさんは楽しげに言った。
「やはり、承太郎のためにできることなど何も無いと、自分は無力だと言っていた。だがその後、困ったような顔でな。『でも僕を追い出したら承太郎もこの家を出るでしょうし、悲観して僕が死んだら承太郎も後を追いますよ、どうしましょうか』と」
「脅迫だ!」
押し殺した笑い声が書斎に満ちた。
「ジョルノが生まれたばかりだから、あのとき典明はまだ十代だったろう。若気の至りという奴か…あまりの言い草に笑ってしまったよ。今でも会うたびネタにする」
「ジョルノはジョナサンさんに似ています。同じように、あなたにも」
「仗助め…」
名前が出たのを良いことに話題を変えてみたが、やはり彼には通用しない。僕らの間で交わされた会話のあらましまで察したのだろう、忌々しげに吐き捨てると、彼はしばらく口をつぐんだ。温められた蜂蜜がとろりとろりとこぼれるように、滑らかに時間が過ぎてゆく。ディオさんは僕の持つスケッチブックに目を留めて言った。
「…君は漫画家だったね。ヴィクトリア様式の建築の取材かい?」
「ええ。でもそれ以上に興味があるのはこの家の人々です」
「私も含めて?」
「もちろん」
一歩も引かない構えを見せると、ディオさんはグラスを取り上げ、ぐいっと中身を空にした。僕は驚いた。この人はそうとう飲み慣れている。
「私は…私は自らの出生に強いコンプレックスを抱いている。この傷が癒えることは生涯無いだろう」
いきなり核心を突く言葉が出て、むしろ僕の方が焦った。真剣に話を聞く体勢を整える間にも、彼の低い声は部屋の空気を震わせ続ける。
「私の実父は人間の屑だった。責任感は無く計画性も無くそ
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