その他の364日、もしくは365日と何ら変わることなく今日という日は過ぎていくのだった。

 三つ子の魂とはよく言ったもので、むかし嫌いだと思ったものは何十年経とうが嫌いなままだ。好きなものは好きなまま、どちらでもないものも、そのままに。注意深くケースから取り出したCDをデッキにセットし、プレイボタンを押す。良さは分かるが好きという程でもないな、とあのころ抱いた通りのぼやけた感想が、鮮烈に胸に突き刺さった。
 ソファに深く腰掛けて軽く目を瞑る。記録メディアも音楽プレイヤーも、録音技術だって目まぐるしく進歩したはずなのに、哀愁を含んだ男の歌声が昔とまるで変わっていないように聞こえるのは、やはり記憶違いなのだろう。もしくは自分の頭が勝手に補整を掛けているのだ。あの頃の記憶をもっとも美しいものにするために。

 若い頃ほど飲まなくなったのは、酒の味が分かるようになったからだ。あの頃の自分は背徳感で酔っていた。社会への反抗心など、命がけの旅が終わった頃には春の雪のように淡く溶けていた。今は飲みたいと思ったときに飲む。酒を味わいたくなったとき、そして思い出に浸りたいとき。良い酒は俺を水底へ連れていってくれる。
 そこは明るく静かに開けた場所だ。痛みも苦しみも悲しみも、所詮は水面に落ちた枯れ葉が作る、一瞬の波紋に過ぎない。遙かな水面を見上げ、俺は移り変わる水の模様に目を細める。ずいぶんと深いところまで来てしまった。水面からもたらされる音も光も遠すぎて、ここへ届くころには柔らかく曖昧だ。何も俺を動かすことはできない。


 …あいつは俺の飲酒に良い顔をしなかった。俺のビールを一口舐めて「美味しくない」と言ったきり、勧めても飲もうとはしなかった。カクテルなんてジュースみたいなもんだと言ったら、それならジュースを飲めばいい、と言い返されたこともある。あいつは大人になっても酒に親しまないままだったろうか。それとも案外、いける口だったのだろうか。あり得なかった未来を考えるには、この夜の時間は短すぎる。
 そうだ、「この旅が終わったら」という言葉をたびたび自分たちは口にしていた。それは大方「宝くじが当たったら」のような他愛もないやり取りだったが、苦難の連続に疲弊したときには、一歩を踏み出す力になった。時には窮地に陥ってもなお心を奮い立たせるための、未来の象徴でさえあった。
 俺にとっては旨い味噌汁が飲みたい、近所のレコード屋に行きたい、清潔な畳に布団を敷いて寝たい、その程度のささやかな望みだった。しかしその望みと表裏一体の郷愁こそが、確かにあのころの自分に現状の理不尽さを思い出させ、目的を達成する為の強い意志を揺り起こさせていた。

 あのころお前が望んだものは何だったか…そうだ。バイクの免許を取りたいのだった。ギターを練習してみたいとも。そしてどこか遠いところへ…あのエジプトへの道程ではなく、ただ楽しみのために行き先を選び、遠いところへ旅してみたいと。俺と二人で。
 いま思えば、まったくお前は俺に影響されていた。そしてまだ見ぬものだけを求めていた。あのころ時おり感じていた、とりとめのない不安を、今の自分は言葉にできる。「お前の旅の終わりには何がある?」「もしやお前は、この旅が永遠に続くことを願っているんじゃあないか?」
 実際に問いかけていたならば、間違いなくお前は怒っただろう。いっそ怒りを通り越し、俺に対して幻滅さえしただろう。お前を突き動かしていた復讐心…いや、己の矜持を取り戻そうとする克己心には一点の嘘も翳りすらもなかった。あいつの思い描く幸福は、懐かしい日常ではなく未知への冒険の方に多く含まれていたという、ただそれだけのことだ。


(…苦難の果てに勝利して宝物を手に入れるストーリーは、正しい人に天国が訪れる、という考え方に似ている気がします。確かにお前はそう言っていたな。ご褒美があるから頑張るんだろうよ、と言った俺にお前は曖昧に笑った…。今ならあの表情の意味も分かる、気がする。お前の天国は砂漠の果てにはなく、砂漠を目指して歩く一瞬いっしゅんの足裏の感触、日の輝き、乾いた熱風にこそあったのだと…)

 眠りに落ちる瞬間の無重力へ、あらがうように目を開く。瞼の裏にはあの日照りつけていた太陽の、苛烈な光の余韻が残っていた。男の声が孤独を歌う。取り戻せない愛と若き日の痛みを歌う。なぜこんな、寂しい歌ばかりを聴いていたのだろう、あいつは。聞いたところで、それがいいんですよ、と笑われるだけなのだろう。それでも知りたいと思う俺の心だけが、今もこの水底に沈んでいる。


 あのころの自分たちにとって「生きる」とは死なないことであり、勝ち取る物であり、輝かしいトロフィーのような、勝利と正義の証のような、例えるなら光であり、金色をした圧倒的な祝福だった。
 しかしそれは一面の真理に過ぎないのだと、それを思い知る日々こそが自分の過ごした長い年月だった。部屋の隅のゴミ箱にクリーニング店のタグが沈んでいる。シンクの水に使い終わった食器が冷えて、カレンダーに付けた赤丸はゴミの収集日を示していた。平和な日々は続いていく。どこまでも続く、幸福という名の長い時間。きっと来るであろう明日のために、些細な努力と工夫を積み重ねること。
 西の空を見るたびに、胸を大きな感情が揺さぶる。自分の魂は今すぐにでもここを離れられると訴える。しかしそれは幻想だ。どんなときも確実に時間は過ぎ去り、水が高いところから低いところへ流れ落ちていくように、全てを過去へ押し流していく。もうあの空の下にあいつは居ない。あいつの傍らの自分も居ない。

 あの旅のなかで俺とあいつは三度だけ手をつなぎ、一度だけ口付けた。偶然を装ってあの手に触れた瞬間の、叫び出したくなるような緊張感。あいつが自分から俺の手を引いたとき、きれいに整えられた爪の先が指の関節の薄い皮膚を僅かに掠めた、あの甘くむず痒いような感触。あの夜、強引に上を向かせた榛色の目には満天の星空が映っていて、ああ綺麗だと、綺麗だと思う間に唇を奪っていた。
 命がけの旅のただなかにあって、愛し愛されるということ…気持ちを通い合わせ、互いを理解し、肯定し、求めあうことは、いっそ麻薬的に甘美な感覚だった。あの感情に恋愛と名付けるのは早計かもしれない。俺たちはただ、一人で居ることをやめて、互いの中に互いを住まわせたのだ。互いの全てが目新しく新鮮で、何を見ても好ましかった。「あなたに会うため生まれてきた」と使い古されたような言い回しに、俺は心底から納得した。母の命を救うため、血統の誇りを取り戻すため…大義を背負った戦いの日々は、それでもやはり、楽しかったのだ。あんなにも充実した生はなかった。あんなにも輝いていた時間は。
 気の迷いだったかもしれないし、若気の至りだったかもしれない。醒めることなく断ち切れた夢を、現実でないと判断することは誰にもできない。だから俺にとってあれは運命の恋だ。あいつの手が俺の背中に回されたとき、俺は世界を手に入れたと思った。愚かな若者だった。叶わぬ願いは何も無いと思っていたし、あの旅は実際、蛮勇だった。何かを失ったことの無い人間だけが持ちうる類の傲慢さと勇気だったのだと、今なら分かる。

「この旅が終わったら」、それはあの頃の自分たちにとって特別な呪文のようなものだった。それは俺にとって輝かしい希望の未来であり、あいつにとって非日常という夢の終わりだった。夢から醒めたあいつと一緒に、俺はこの無限の時間を過ごしてみたかった。あの頃の刺客たちのように襲い来る、ほんの少しの面倒なこと、割り切れないことや理不尽なことが積み重なった日々の山を、あいつと一緒に眉を顰め、ため息をつきながら、苦笑まじりに登って行きたかった。そしていつか開けた視界に歓声を上げ、振り返った道程の長さに目を瞠るのだ。それこそがきっと、平穏な日常の連続による幸福な人生って奴なんじゃあないか?
 なあ、そうだろう。そうと言ってくれ、あんた。その歌声にあいつは何を仮託した? 孤独の日々? 理解されない鬱屈? 先の見えない将来のこと? あいつの人生にあんたが果たした以上のことを、俺はあいつにしてやれただろうか。“いつまでもいつまでも雨は降り続けるだろう”? ああそうだ、あの日俺は世界中の誰より強く太陽を待ち望んでいたさ。熱砂の国の大きな太陽は、血の因縁も恐怖も呪いも全てを焼き尽くすようにゆっくりゆっくり昇ってきやがった。だがそいつが連れて来た新しい日に、あいつはもう居なかった。朝の光は強く透明で、あいつの脱け殻の有様を、俺にしっかり教えてくれた。俺たちの旅の終わりの朝、明るく静かな市街地に、俺の影だけが落ちていた。


 俺たちに青春の日々というものがあったとすれば、きっとそれはあの50日間なのだろう。誰かに聞かれたなら、あまりにも短いと惜しまれるかもしれない。だが俺は知っている。分かっている。花京院典明は幸福な旅をして後悔なく死んだ。天国のただなかで足を止めたあいつは、記憶のなかでいつも笑っている。瞬間は永遠だ。あのとき俺たちは時を刻むことをやめた。
 自分の肉体が驚異的な若さを保っているということについて、研究者たちはこの特殊な能力の恩恵だろうと言う。否定する気はない。けれど確かな感覚がある。俺もまたあの冬の日に歩みを止めたのだと。砂漠の町、満天の星の下、永遠になったあいつとともに、時を止めて。そして…魂だけが老いていく。水面が遠い。男の歌声が小さく細くなっていく。お前の愛した寂しい歌が。
 ボトルに残った酒をすべてグラスに空け、残った酒を飲み干した。ひときわ強い酩酊感が思考回路をまろやかにする。俺はソファを立ち、デッキの停止ボタンを押した。青春のただなかに立ち止まった永遠の少年が、少しだけ悲しそうな顔を向けた気がした。“人間はどれほど脆いものか、僕たちはどれほど儚いものか”…歌声が耳の奥に残っている。俺は振り返らずにリビングを出た。俺には明日が来る。「この旅が終わっても」必ず明日はやって来るのだ。
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