ブライアンは本当に嫌な奴。なによ、ダディーィマミィーィなんて赤ちゃんみたいな言葉使って親に甘えて、馬鹿みたい。いまどきスーパーマンの仮装なんてダサすぎだし、第一ぜんぜん似合ってないわ。
 どうせ全部あたしへの「あてつけ」なんだ。ブライアンはあたしを可哀想な子だと思ってる。ハロウィンに派手な仮装もさせてもらえない、父さんも母さんも相手をしてくれない、あたしを可哀想な子にして、可哀想な子を助けてあげる自分をヒーローだと思いたがってる。心の中では見下して笑ってるくせに。

 母さんも母さんだ。都会のハロウィンはお祭り騒ぎだって、テレビを見てたらいくらでも分かったはずなのに。今まで住んでた、海しかない田舎の街とはレベルが違うんだって。それなのに何の準備もしてくれないで、「ジョリーンは可愛いからこれで十分よ」なんて、面倒臭くて考えたくなかったっていうのが見え見え。シンディはお姫様のドレスを買ったのよ、サラは妖精の服を作ってるんだって、あたし何度も言ったのに。

 ママは何も分かって無い。こんなに地味な格好じゃ皆に会いたくないわ。だから教会のパーティなんてご免なのに、お隣さんに頼んでまで連れて行こうとして。決められたことに逆らいたくないだけなのよ。ブライアンのパパもママも、あたしを見て「あれ?」って顔をした。「これだけ?」ってね。あたしが何も分からないって思って、馬鹿みたい、馬鹿みたい!
 真っ黒なワンピース、タイツに靴。いくら三角に髪を結いあげたって、これじゃ黒猫っていうよりアダムズ・ファミリーよ。その上しっぽも無いなんて、散々。こんな格好でシンディやサラたちと遊べっていうの?冗談じゃない!ブライアンのママの魔女の格好の方が、あたしの100倍、1000倍素敵だわ。

 だからあたし、もういいって言ったの。父さんが帰って来るのを待って、父さんの車で連れていってもらうって。もう誰にも会いたくなかったし、これ以上ブライアンの家の人に囲まれて居心地の悪い思いをしたくなかったから。ブライアンのパパもママも、あからさまにほっとした感じだった。そうね、遅くなってもパパと一緒の方が楽しいわよね、なんて。父さんが滅多に帰って来ないことなんて、隣に住んでて分かってるくせに。
 もう、馬鹿みたい、馬鹿みたい。何もかも全部、馬鹿みたい!

 ハロウィンの夜はどこも明るい。夜も遅いのに、小さな子どもが楽しげにはしゃぎまわっている。お陰で独りで歩いていても叱られなかったけれど、「誰でもウェルカム、お祭りを一緒に楽しもう!」そんな雰囲気があたしを余計に惨めにさせた。
 ママが居る家には戻れない。でも誰にも会いたくない。ストレイ・キャット。小さく呟いた後で、我ながら恥ずかしくなり思わず周りを見渡した。大丈夫、誰もあたしなんか見ていない。今日は楽しいハロウィン・ナイトだもの、皆トリック&トリートに夢中なんだ。


 人が居ない方へ、居ない方へ。愉快な音楽も子どもの笑い声も段々聞こえなくなっていく。街灯もまばらになり、気が付いたらあたしは町はずれの橋まで辿りついていた。川を渡り切ったら隣の町だ。橋の真ん中で立ち止まり、欄干に寄り掛って遠くの街明りを眺めると、なんだか急に悲しくなってきた。
 あたしは独りだ、と思った。親も友達も居るはずなのに、何故だか強烈にそう思った。ふと思い付き、欄干によじ登る。いつか父さんとここに来て、夜空を眺めたことを思い出したのだ。街中では要らない明かりが多すぎて、星が綺麗に見えないんだって。あたしには何が楽しいのか全然分からなかったけれど、父さんに付き合ってあげたんだった。

 自分の身長と同じくらいの高さの手すりに登ると、一気に空が近くなった。今なら父さんよりも背が高いはずだ。教会の尖塔に、一際大きな星が引っ掛かっている。手を伸ばせば、掴めるような気がした。
 その時、隣町の方から駆けて来る影に気が付いた。頭には大きなかぼちゃを被っている…大笑いした顔に繰り抜いてある…季節外れな袖無しの服を着て…あら、腰に巻いた布には大きな染みが付いてる…胸から何かが生えて…
 目の前を走り去る瞬間、あたしはぎょっとして目を見開いた。かぼちゃのジャックの胴体は、縦一列に細い槍のようなもので串刺しにされている!

 ハロウィンらしい、グロテスクな仮装ではなかった。貫かれた傷口からは血がぼたぼたと垂れて、石橋の上に血溜を作って行く。口を「O」の形に開けたまま固まるあたしに追い討ちをかけるように、きゃんきゃんと鳴きながら小さな犬が走ってきた。かぼちゃの後を追っていたはずの犬は、橋に差しかかると突然、欄干に立つあたしに向かって飛びかかって来た。
 テリア種らしい仔犬は全身血塗れだった。白く濁った眼玉は虚ろ、口から血の泡を吹いている。
自分が叫び声を上げていると気付く間もなく、あたしは犬を振り払いながら、バランスを失ってまっさかさまに川へと落ちて行った――



「だからさァ、イギーがぶつかってびっくりして落っこちたんだよ。俺は何もしてないよォ」
「お前がガムで釣ってたんだろう。そうじゃなけりゃ、イギーがあんなところまで行くはずがない」
 すぐ近くで人の声が聞こえた。背中にはごつごつ、お尻はちくちくした感触。どうやら眠っていたらしい、と慌てて瞼を開ける。たくさんの足が目に飛び込んできて、あたしは慌てて上を向いた。
「チャオ、ガッティーナ。気分はどうだい?」
 あたしが起きたことにすぐ気付いたようで、男の人がしゃがみ込んで顔を覗き込んで来た。真っ黒な髪の毛を女の子みたいに伸ばしてる。

 怖がらせちゃいけないって思ったんだろう、彼はあたしににっこり笑い掛けた。ゾンビの仮装だと思うけど、体中にジッパーみたいな継ぎ接ぎの模様を付けている。優しげな笑顔に、思わずあたしは口を開いた。
「あたし…ここは…」
「君は橋から落ちたんだ。それで今まで気を失ってたんだよ。ほらナランチャ、ごめんなさいは?」
 彼は自分の背後から、無理矢理男の子を引っ張り出してあたしの前に立たせた。あたしは思わず声を上げた。大きなかぼちゃを抱えた男の子の格好には見覚えがあった。
 でも、おかしい。さっきは間違いなく突き刺さっていた鉄の杭みたいなものが、綺麗さっぱり消えている。服にも血の染みは付いていないようだった。

「…ごめんよ。まさかイギーが飛びかかるなんて思わなくてさ。君、コーヒーガムなんて持ってないよね?」
「持ってないわ」
 イギーというのがあの血塗れの…ううん、きっと見間違いなんだろうけれど…犬の名前なのかしら、などと混乱しながらも答えるあたしに、男の子はしょんぼりした様子で「ほんとにごめん」と手を合わせた。それをよそに黒髪の青年は、あたしのことをじいっと見ている。
 なにか、と口を開こうとしたあたしを男の人は手で制し、少年の方を振り返った。
「ナランチャ、アバッキオにイギーを連れて来いって」
「え、いいの?」
 また飛びかかるんじゃないか、と思ったのはあたしも同じだった。でも男の人は自信ありげに頷いた。


 駆け出した少年を見送って、ようやくあたしは立ち上がった。少しくらくらしたけど、もう平気だった。橋から落ちたと聞いたけれど、ここはどこだろう。こんな雑木林が町はずれにあっただろうか。
 無意識のうちに冷えた指先を暖めようとしていたらしい、手をこすり合わせたあたしを見て、男の人は胸のあたりのジッパーに手をかけた。じーっと音をさせて、大きなジッパーが胴体を横断する。あたしはびくっと背中を震わせた。
 スーツみたいな形をした男の人の服は、彼の体ごと、真っ二つに裂けた。何度も瞬きをしたけれど、絶対に見間違いじゃない。目の前で、男の人の体がぱっくり割れて…なのに彼は平気な顔をして、胴体の裂け目に手を突っ込むと、何か赤い光を掴み出した。

「落とさないように気を付けて」
 男の人はにこやかにそう言うと、真っ赤に燃える石を私に差し出した。それどころではないはずなのに、見えない力に操られるようにして、あたしは手を差し出した。
 その石は燃えているのに暖かく、柔らかいような固いような、不思議な感触だった。手の中の炎に見惚れている間に、彼はジッパーを閉じて元通りに胴体を繋げてしまった。
 そこへ、木立の間から犬の鳴き声が聞こえて来た。でもあたしの視界に入ったのは、暗がりで爛々と光る二つの目。身構える暇も無かった。ざわざわと木々を揺らして現れた、巨大で真っ黒な狼は、口にあの小さなテリアを咥えていた。

 狼は仔犬をそっと地面に下ろし、ゆっくりと黒髪の男の人の前へ進み出た。暗い木陰を抜けた狼に、さっと月明かりが差しかかる。
 あたしは目を疑った。さっきまで狼が居た場所に、今は長身の男性が立っている。派手なバンドの人みたいに口紅を塗って、プラチナブロンドを背中まで伸ばしていて…ああ、でもあのぎざぎざの耳!膝から下の足も、狼の後ろ脚のままじゃない!
 ひっくり返りそうなあたしをどうにか落ち付かせたのは、いつの間にか足元に来ていた仔犬の暖かさだった。なんだかひょうきんな顔付をしたその犬は、あたしに身を擦り寄せてなんだか甘えているようだ。

 狼だった男の人は、長い髪を掻き上げて物憂げに言った。
「イギーは、あんたを襲ったんじゃない。じゃれつこうとしたんだ」
「あたし、良い匂いがしたのかな」
「懐かしい匂いがしたんだろう」
「え?」
 首を傾げるあたしの足やスカートを、イギーはくんくんと嗅ぎまわる。しゃがみこんで撫でてみると、途端に興味なんて無さそうなそぶりをするのがおかしかった。でも、さっきは振り払ってごめんね、と謝ると、ほっぺを一回ぺろんと舐めてくれた。


 すっかりイギーと打ち解けたあたしを見ながら、ゾンビの男の人は切りだした。
「さて、さて。理由はどうあれ来てしまったものはしょうがない。どうにか帰る方法を探さなきゃ」
 あたしは立ち上がって問い掛けた。
「ここはどこ?あたし、川に落ちたと思ってたんだけど」
「すぐ近くさ。とても遠い場所だけど」
 彼はなんだかおかしな答え方をして、何か狼の男の人と小声で相談をしているようだった。大人しくイギーを抱っこして待っている間に、結論が出たらしい。二人は改まった様子であたしに呼び掛けた。

「俺はブチャラティ。こっちがアバッキオで、ナランチャだ。宜しく、ガッティーナ」
「あたしは…」
 名乗ろうとしたあたしの唇を、思いがけないほど素早くブチャラティの指が塞いだ。ぞっとするほど冷たくて、あたしは手の中の石をぎゅっと掴んだ。
「名前を言っちゃいけない。ここに居る間、君は名無しの仔猫ちゃんだ。さもないと、お家に帰れなくなる」
 ブチャラティの真っ黒な瞳に飲み込まれそうだった。あたしは夢中で何度も頷いた。



 木立の隙間を縫うように月明かりの道を辿るのは、かぼちゃと犬とゾンビと狼。彼らに衒いなく呼び掛けられているうちに、あたしは自分が人間じゃなくて本当に黒猫になってしまったように感じた。
 歩きながらブチャラティは、お人形みたいに腕を取り外したり、お腹を縦に割ったりしてみせてくれた。最初はあんなに怖かったのに、段々とても愉快に思えてきて、あたしは何度も「もう一回!」とせがんだ。
 ブチャラティは本当に穏やかで優しい人だったけれど、あたしがうっかり燃える石を落っことしそうになったときは、とても慌てた様子だった。

「気を付けてくれよ。それが砕けたら俺は消えちまう」
「これはなあに?宝石?」
「俺の心臓さ」
 え?と聞き返そうとした時、先頭を行くナランチャが急ブレーキを掛けたようにつんのめって止まった。
「チェーザレ!」
 彼の声につられて道の先に目をやると、金髪の青年が姿を現したところだった。予想はしていたけれど、やっぱり普通じゃない。尖った耳の後ろから、ぐるぐると捻じれて天を突く、立派な角が一対生えている。さくさくと落ち葉を踏むのは黒い蹄。涼やかな空色の瞳の中、虹彩が縦に裂けている。


「チャオ、ブチャラティ」
 片手を上げて挨拶しながらも、彼の視線はあたしに向けられている。どんな顔をしていればいいのか分からず俯くあたしのもとへ、山羊みたいに軽やかに跳ねて歩み寄ると、彼はどこか嬉しそうな声で言った。
「ああ、やっぱりそうか。そうじゃないかと思っていた」
 大きな手であたしの頭を撫で、ほっぺに軽くキスしてくれる。彼の髪からは、ふわん、と石鹸の匂いがした。
「運試しだぜ、可愛いガッティーノ。なに、いざって時は俺たちがなんとかしてやるさ」
 その言葉にたまらなくなって、あたしは遂にそれを訊いた。

「お兄ちゃんたち、だあれ?あたしのことを知ってるの?」
 あたしが知りたいのは名前じゃないんだって、皆分かってくれたみたいだった。山羊のお兄さん…チェーザレ?はブチャラティと目を見合わせ、肩を竦めるようにして楽しげに笑った。そして言った。
「知ってるさ。君に繋がる星の輝きを」
 彼はミュージカルみたいに大袈裟なやり方であたしの手を取り、先へ歩くよう促した。あたしは慌てて、後ろで立ち止まったままのブチャラティたちを振り返った。ほんの少しの間しか一緒に居なかったのに、離れるととても心細かったのだ。


 ブチャラティはあたしの手からそっと心臓を受け取ると、元通り胸の中にしまい込んだ。
「ここから先はチェーザレが案内してくれる。俺たちは一足先にパーティの準備をしてるから、早く来るんだぞ」
「パーティですって?」
 こんな時間から?こんな場所で?と驚くあたしに悪戯っぽく笑い掛けて、ブチャラティたちは去って行った。不安そうな顔をしたあたしの肩を親しげに抱き寄せ、チェーザレは言った。
「俺のことはシーザーって呼んでくれ」
「チェーザレじゃなくて?」
「ああ。シーザーでいい」
 きっぱりそう告げて歩き出す彼に、慌てて私も足を動かした。

「どこへ行くの?」
「この夜の王様たちにご挨拶だ。上手くいけば、君は家に帰れるだろう」
 シーザーの腰の付け根のあたりから生えた、小さな山羊の尻尾がぴこぴこと揺れている。楽しげな彼とは裏腹に、あたしは急にドキドキしてきた。
「上手くいかなかったら…?」
 見上げたあたしのほっぺをそっと撫でて、シーザーはぱちんとウインクした。そして、まるで投げキッスをするみたいに、指を唇へ近付ける。ふうっと息を吹きかけると、指先からは幾つものしゃぼん玉が舞い上がった。
「キレイ!」
 シーザーの指先からは次々にしゃぼん玉が生まれて消える。月明かりを受けて虹色に煌めくしゃぼん玉の群れが夜空へ昇って行くのは、とてもロマンチックだけど、少し切なくなるような、不思議な景色だった。


 暫くの間、あたしはシーザーと手を繋いで歩いた。大きな角や蹄付きの足に気を取られて気付かなかったけれど、彼はとてもカッコいい。その上あたしのことを、年が離れた妹みたいに、だけど一人前のシニョリーナとして、大事に扱ってくれた。
「いいか、絶対にここで物を食べるなよ。飴ひとつでも、ジュースを飲むのもダメだからな」
 シーザーはとても真剣な顔をしてそう言った。思わずあたしも真面目な顔で頷いた。
「でも、どうして?」
「そういう決まりだからだ。早く家に帰ってパーパに甘えたいだろう?」
 あたしは思わず俯いて、シーザーの手をぎゅうっと握った。父さんのことを何て説明すればいいだろう。父さんはあまり帰って来ないのよ。たぶん、家が好きじゃないの。ママは父さんが嫌いみたい。足元に視線を落としたまま、何から言うべきかと考えていたけれど、シーザーに肩を叩かれて、あたしは立ち止まった。

 林の中にぽっかりと、木の生えていない空間があった。バスケットのコート…もしかしたらサッカーが出来るかもしれない、そのくらいの広さ。満月がスポットライトみたいに広場を照らしている。その真ん中で、まるであたしを待ちかまえていたみたいに立っている二つの影があった。
「御機嫌よう、お嬢さん。今日は素敵な月夜だね」
 低く、穏やかで、あったかい声だった。あたしは声のする方を見て、はっとした。そっくり同じ格好をした二人の男の人がこちらを見ている。真っ黒な燕尾服にシルクハット。歴史の教科書の偉い人みたい。片方の人は銀細工の取っ手の杖を持ち、もう片方の人は内ポケットから懐中時計を覗かせている。

 シーザーが丁寧にお辞儀をしたので、あたしもつられて頭を下げた。きっとこの人たちが、彼の言う「王様」なのだろう。
 怖々と頭を上げ、招かれるままに近付く。人々の囁き声や、すれ違う温度を肌で感じた。広場にはあたし達以外誰の姿も見えないのに、まるで人混みの中を縫って歩いているような、奇妙な感覚だった。
「もっとこっちにおいで。大丈夫、君を食べたりしないから。ね?ディオ」
 最初に声を掛けてくれたのと同じ、杖を持った男の人の声だった。温かみのある黒髪は、太陽の下でみたら濃いブルネットかもしれない。印象的な緑色の瞳や彫りの深い目鼻立ちを見て、あたしはこの人によく似た人を知っている、と思った。

 話し掛けられたはずなのに、隣に立っている男の人は、つんと横を向いたままだった。豪華な金色の髪の毛は、月光の下できらきら輝いている。ルビーみたいに真っ赤な瞳も陶器のように冷え冷えとした真っ白な頬も、凄く綺麗だけどまるで作り物みたいで現実感が無い。
 金髪の人からの返事を諦めたようにちょっと笑って、男の人は膝を屈めてあたしと視線を合わせてくれた。ああ、そうだ。この人は父さんに似てるんだ!
「お名前は?」
「…黒猫よ」
 震える声であたしは答えた。ざわざわとした話声が、一層大きくなったように感じた。

 彼は凄く困ったような、でもとても嬉しそうな、なんだか複雑な笑い方をした。そして、燕尾服のポケットに手を突っ込むと、沢山のお菓子を引っ張り出した。
「お腹が空いてるだろ?お菓子はどうかな」
「いらないわ。甘いものは嫌いなの」
 全くの嘘だったけれど、そうでも言わなければお菓子の引力に逆らえそうになかった。確かにあたしはお腹を空かせていたし、本当は甘いものが大好きなんだから。
 答えたきり手元を見ようともしないあたしに、根負けしたみたいに男の人は呟いた。

「賢い子だね」
「そんな型通りの問答があるか、馬鹿らしい」
 ようやく口を開いた金髪の人は、憎々しげにそう言うと隣の男の人を肘でどんと押した。するとその衝撃で、目の前の男の人の頭の上からシルクハットが滑り落ち、肩から頭が転がり落ちた。きゃっと叫んで飛びのいたあたしの足元で、転がった男の人の頭は全く動じた様子もなく、金髪の人を諌めるように言った。
「いいじゃないか、この子には帰りを待つ人が居るんだ」
 ねえ、お嬢さん?と笑い掛ける男の人の生首に、思わずあたしは何度も首を縦に振った。


 その様子を見ていた金髪の人は、物凄く面倒臭そうに溜息を吐くと、ぞんざいに言い放った。
「チビ、こっちを見ろ」
 反射的に振り返ったあたしを、金髪の人はまじまじと眺めた後でひょいっと持ち上げた。
「忌々しい、お前の血がぷんぷんと匂っている」
 お前、というのは、いま地面で転がっている生首さんのことなのかなあとあたしは思ったのだけれど、金髪の人があたしのほっぺにキスをしたので、そんな考えは一気に吹っ飛んでしまった。
 地面に降ろされてみると、なんだか頭の上に違和感がある。そっと手を伸ばしてみると、結い上げた髪の毛があったはずの場所には、柔らかくてちょっと暖かい動物の…多分、猫の耳が生えていた。

 両手を頭の上にやったまま、驚きと感動に震えているあたしに、足元からのんびりと声が掛る。
「お嬢さん、済まないけど手を貸してくれないかな。まったくディオは乱暴なんだから」
 そうだ、生首さんのことを忘れていた。あたしは慌てて生首さんを抱え上げる。大人の首って結構重い。頑張って胸のあたりまで持ち上げたところで、ボディの方が跪いてくれたので、注意しながら肩の上に生首さんを乗せる。彼は二三度手で微調整をしていたが、やがてしっくり来たようで満足げに笑った。
「どうもありがとう、黒猫さん。折角ここまで来たんだから少し遊んで行くといい。大丈夫、ここは一夜限りの夜の国だから、時間の心配は要らないよ」

 あたしの心配を見透かしたようにそう言うと、体に乗っかった生首さんは、金髪の人とは反対のほっぺにキスをしてくれた。その途端、しゅるんとお尻から尻尾が生える。素敵!
 夢中で尻尾を振るあたしを楽しげに見ながら、生首さんは言った。
「僕はジョナサン。あいつはディオ。宜しくね、黒猫さん」
「ジョナサン?」
 鸚鵡返しに口にして、あたしは考え込んだ。あたしは多分、その名前を聞いたことがあるんだ。ジョナサン、緑の目の、優しいジョナサン。遠い昔の父さんの声が耳に蘇る。ええと、あの時あたしは何の話を聞いていたんだっけ…
 考え込むあたしをよそに、ジョナサンはぱちんと指をはじいた。広場に点々と明かりが灯る。あたしはびっくりして声を上げた。


 木々の間に渡された紐に、かぼちゃのランプがたくさん吊るされていて、広場はオレンジ色の光で一杯だった。広場の中央には大きなテーブルが置かれていて、その上には色とりどりの料理やお菓子が並んでいた。その周囲を行き交う、沢山の奇妙な人々。今まで布を一枚隔てたように感じていた彼らのおしゃべりする声は、今やすぐ傍から聞こえていた。
「チャオチャオ~お嬢ちゃん、可愛いね!これ食べる?」
 手足に滑らかな鱗の生えた男の人が、妙に色っぽい笑顔でパンプキンパイを取り分けてくれた。アシンメトリの髪型と服。片目をマスクで隠している。喋るたびに唇からはみ出る細長い舌も、指先に生えた鋭い鉤爪も、なんだか怖く感じなかった。

「ごめんなさい、食べられないの」
 凄くお腹は空いてるんだけど、と心底悲しい気持ちで言うと、彼は残念そうにお皿を引っ込めた。蛇みたいにしなやかで、てらてらと光る長い尻尾がくるんと丸まる。それを見て、あたしはドキドキしながら問い掛けた。
「お兄さん、もしかして、悪魔?」
「いや、俺は…」
 手を振って否定しようとしたお兄さんを押し退けるようにして、白い服の人が割り込んできた。
「そうだ悪魔だ。取って喰われるからそいつと関わるな」
 癖の強い巻き毛の中から、白くて三角形の耳が覗いている。ぴんと立った尻尾も真っ白だ。

「酷いよギアッチョ!」
「夢魔は夢魔らしく女を引っ掛けて来い!ガキ好きの夢魔なんて存在自体があり得ねえだろクソが!」
 ママが聞いたら眉をひそめそうな汚い言葉が白猫さんの口からぽんぽん飛び出す。なんて早口なんだろう!でも蛇のお兄さんはというと、全然こたえてないみたいだった。
 俺ぁギアッチョ、このバカがメローネと物凄く適当な自己紹介をした後で、ギアッチョは怪訝そうに言った。
「見ない顔だな」
 慌ててあたしは答えた。
「最近生まれたばかりなの」
「初めての前夜祭か。そりゃめでてえな、飲んでけよ」
 同族のよしみだ、と差し出されたワインは血みたいに真っ赤。うっかり受け取りかけて、あたしは思い留まった。

「あたし、まだ仔猫だから、お酒は飲めないの」
「なんだつまんねえ奴だな」
 チッと大きく舌打ちをされて、思わず尻尾が足の間で丸くなる。そこへ、まるで助け舟を出すように舞い降りる黒い影があった。
「悪魔を呼んだか?ガッティーナ」
 着地の瞬間に大きな翅が強い風を巻き起こす。一瞬目を閉じたあたしの前に立っていたのは、絵本で読んだままの「完璧な」悪魔だった。牛みたいに大きくせり出した角に、蝙蝠の翅、尖った尻尾。綺麗な金髪をきっちりと結って、お洒落なスーツは蜘蛛の巣柄だ。ミラノコレクションのモデルさんみたい。ぽーっと見惚れている間に、悪魔のお兄さんは二人に歩み寄り一発ずつ拳骨を落とした。


「黒猫は客分だってジョナサンから言われてるだろうが!変なちょっかい出すんじゃねえ!」
 見た目の印象からは予想外だが、随分男っぽい人だった。ギアッチョは何だか抗議したそうな感じだったが、悪魔さんのひと睨みでぶすくれた表情になる。
「リゾット、居たんならてめえが止めろよ」
 悪魔さんはあたしの背後に視線を留めて、突然そう言った。思わず振り返ると、背の高い半透明の男の人が私を見下ろしている。あたしはジョナサンの首が転がった時と同じくらい、もしかしたらもっと大きな声で叫んだ。
「いや、通りすがりだ」
 淡々とした低い声は、なんだかぼんやりしている。見た目ほど怖い人じゃないのかもしれない。黒い服に黒いフードを被り、囚人みたいな縞々のズボンを履いている。

「だが、お前を探していた。俺と一緒に来い」
「あなたは…」
 差し出された手にそう問い掛けると、彼は一言で答えた。
「死神だ」
 あたしは手を引っ込めた。悪魔さんが死神の前に立ち塞がり、あたしを背中で隠してくれる。あたしからは見えなかったけれど、悪魔さんはよっぽど怖い顔をしていたらしい。
「待て、プロシュート、誤解だ」
 言い訳をするような死神の声は、ちょっと情けない。

「魔法使いがお前に会いたいと言っているんだが、奴は鬼火の番をしているから動けない。だから俺が呼びに来た」
「仮にも死神ともあろうモンが、使いッ走りなんかしてんじゃねえよ」
 また怒りだしそうなギアッチョをよそに、死神は底の見えない真っ暗な瞳であたしを静かに見下ろしている。どうしたら良いのか分からずまごつくあたしを見て、悪魔さんは苦笑すると言った。
「分かった、俺が一緒に行く。テメェはここらで飯でも食ってろ。ったく、祭りの夜だってのに辛気臭ぇツラしやがってよ」
「元から俺はこういう顔だ」
 少しむっとした声で死神は言ったが、悪魔さんは聞き流しながらあたしの腰に腕を回した。もしかして!そう思った時にはもう、あたしは悪魔さんに抱かれて舞い上がっていた。

 広場の上をぐるりと遊覧飛行する悪魔さんと、まさしく「猫の仔のように」抱えられたあたしを見て、集まった人々は口ぐちに笑ったり囃したりした。でもあたしの目は、明るい広場のその向こう、どこまでも永遠に続く真っ黒な森の景色に釘付けだった。
 ビルの影も街の灯りも、木々の切れ目すら見えない。
「ねえ、悪魔さん」
「プロシュートだ」
「プロシュート。ここはどこなの?」
 ブチャラティが優しくはぐらかした答えを、プロシュートはあっさりと口にした。
「死者の国」

 それに対してあたしが口を開くより早く、彼は言葉を継いだ。
「質問は魔法使いにしてくれ。俺の役目はここまでだ」
 慌てて視線を地上へ戻すと、広場の一角に大きな焚火が見えた。うずたかく積まれた薪の傍らに座りこむ人影が一つと、小さな影。よく目を凝らしてみると、あたしにはそれが何だか分かった。
「イギー!」
「なんだお前ら、友達か」
 飛び降りるように着地して、イギーに駆け寄る。笑いながら翼を畳むプロシュートに、あたしも笑って「そうよ」と答えた。どうやらイギーは仲間と遊んでいたようだ。グレイハウンドとレトリバーが、興味津々って感じでこちらを見ている。


「ここは時間が止まった世界だ。過去の死者も未来の死者も関係ない。永遠に続き、一瞬も無い国。いつでも君の隣に在るが故に、近すぎて見えないだけなんだ」
 その言葉が、さっきのあたしへの答えなのだと最初は気が付かなかった。中東風の顔立ちをした男性は、白いローブに身を包み、穏やかな眼差しで炎を見ている。
 おずおずと近付くあたしへ、ゆっくりと男性は向き直った。彼の両腕の肘から先だけが、変わらぬ位置に漂っていたけれど、散々ショッキングなものを見たあたしは余り驚かなかった。

 男性は、まるで学校の先生みたいにあたしに問い掛けた。
「君は、昼間の星はどこで何をしているか知っているかな?」
「お空の裏側で、眠っているのかしら」
 思いついたことをそのまま言ったあたしの目の前に、焚火の前に浮いていた片方の腕が飛んでくる。ちっちっち、と人差し指を動かして、彼は言った。
「そうじゃない。ちゃんと君の頭の上で輝いているんだよ。太陽の光が強すぎて見えないだけだ。でも、『見えない』からといって『無い』わけじゃない」
「うん」
 頷いたあたしを見て、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「この世には、見えている物よりももっともっと沢山の見えないものがあるんだ。君が『無い』と思っているものも、ただ『見えていない』だけなのかもしれない。…私の言いたいことが分かるかな?」
 あたしの中で、何かがぱちんと弾けるような感覚があった。あたしはこの人を見たことがある。けして動かない、色褪せた紙の上で。
 こくんと頷いたきり、顔を上げられないあたしへ、彼はしみじみと呟いた。
「君の存在は、彼の幸福なんだ。君が彼をどう思っていようとね。そして私も、君に会えて嬉しかったよ」



「そろそろお開きにしようか。君のお父さんが心配しているみたいだ」
 ジョナサンがぱんぱんと手を叩いてそう言ったとき、あたしは焚火の傍でシーザーやメローネと一緒にかぼちゃを積み上げて遊んでいた。二人とも子供好きみたいで、あたしが何をしても楽しそうに相手をしてくれた。ついさっきまで駆けまわっていたイギーは、ダニーやアーノルドと一緒に丸くなって寝ている。見れば、月は随分傾いて、もう森の木々の中に埋もれそうになっていた。
 広場の中央に現れたジョナサンとディオの周りを、三々五々に集まってきた人々が取り囲む。いつの間にか近くに来ていたらしいブチャラティが、あたしの背を優しく押して、二人の前へ進みださせた。

「さて黒猫さん、君の帰る道は二つある」
 ディオに目配せすると、ジョナサンはマントの裾を持った左手を、真横へぴんと伸ばした。ジョナサンと左右対称になるように、ディオは右側にマントを広げる。二枚の扇を並べたように、大きな窓に掛けられたカーテンのドレープのように。
「どちらでも、好きな道を選べ」
 あたしは思わず目を見開いた。二人のマントの内側には、見慣れた街の夜景が広がっていた。古い石の橋、家々の灯り、その向こうには教会の尖塔。コピーしたみたいにそっくり同じだ。

 あたしの決断を、皆が固唾を飲んで見守っている。でも、あたしには何が違うのか分からない。見れば見るほど街並みが遠のいていくように感じる。指先が段々冷たくなってきた。どうしよう、どうしようと焦るあたしに、追い討ちをかけるようにディオが言った。
「早く選べ。そして誤れ。そうすれば俺は今晩の飯にありつける」
 にやっと笑った唇からは、鋭い牙が覗いていた。あの瞳は血の色だったんだ、とあたしは今更理解した。
 喉はからから、呼吸が浅い。全然分からないけれどジョナサンの方に行こうか、彼は優しそうだから私を助けてくれそうだ。そう決めかけたあたしの耳元で、低い声が囁いた。


「思い出せるかどうか、だ。大事なことは、大抵自分の中にある」
 アバッキオの声だった。振り向かないままで身じろぎもせずにその言葉を飲み込むと、頭の中が整頓されていくように感じた。もう一度、注意深く、二人の夜景を見比べる。大事なことの切れはしを見逃さないように。
「…困った時には星を見るんだって、父さんは言ってた」
 無意識のうちに口から言葉が飛び出した。広場に静かなざわめきが広がった。
「砂漠の夜、目印になるのは星しかないんだって。動かない星で方角を定めて歩くんだって」
 喋りながら、どんどん考えが纏まっていく。あたしはディオのマントの一点を指さして、言った。

「あの橋の上から見ると、北極星はいつでも教会のてっぺんにあるのよ」
 彼のマントの中の教会は、尖塔に大きな星を一つ乗せている。ジョナサンのマントには、無かった。
「…本当に、それでいいのかい?」
「うん」
 しっかりと頷いてみせたら、ジョナサンは眉毛を下げるみたいにして笑って、マントから手を離した。一瞬翻ったマントの裏に見えたのは、荒涼とした荒野の景色だった。
「ほらね、僕の言った通りだろう?賢い子だ、ってさ」
 言いながらディオに近付き、なんでもないことのようにディオの首を持ちあげた。そして片手で自分の首を取り、ディオの体にくっつける。ディオの首は悔しそうに唇を噛むと、手の中でぴょんと跳ねて自力で肩に収まった。

「入れ替わってたの!?」
 驚いて叫んだあたしに、ジョナサンはごめんね、と謝って言った。
「きっと僕の方に来る、って言うからさ。でも僕は君を信じていたよ」
 危うく間違い掛けた、というのは彼のためにも言わないことにした。
「ほら、早くお帰り。道が閉じてしまわないうちに」
 促されるままに、マントに手を入れる。透明な膜を突き破るみたいな、なんだか奇妙な感触だった。
 あたしは後ろを振り向いた。今晩出会った人たちが、みんな手を振ってくれていた。あたしの中で、魔法使いの言葉が蘇った。いつでもそこにある。目に見えないだけで。
「またね!」
 大きく手を振って、あたしは思い切りマントの中に飛び込んだ。



 目を開くと、そこは薄闇の世界だった。望遠鏡を覗くみたいに、遠くに丸く囲われた懐かしい景色が見える。あっちへ行けばいいのかな。そう考えて居たら、すぐ近くから静かな声がした。
「境まで、送って行こう」
 その人はきらきらと緑色に光るカンテラを手に持っていた。神父様みたいな裾の長い服も緑色。その上から、くすんだ色味の布をフードみたいに被っている。あたしにはもう、彼が何者だか分かっていた。そう、炎の前で魔法使いに出会った時から。
 無言で付いて来るあたしの頭を、彼は優しく撫でてくれた。途端に耳としっぽが消えてしまう。ああ、とがっかりした声を出したあたしに彼は言った。

「君の世界では必要ない物だろう?」
「…あたし、もっとここに居たい」
 急にあたしの胸の中に、沢山の石が落ちて来たみたいだった。大嫌いなブライアンのことや、家で待ってるママのことや、帰って来ない父さんのこと。他にもいっぱい。それに比べて今夜のパーティは、なんて楽しかったんだろう。だけど彼はきっぱりと首を振った。
「ダメだよ。一夜限りの国だってジョナサンも言ってただろう。前夜祭が明けたら、もうお家に帰れなくなってしまう」
「でも…」
 俯くあたしに、小さく溜息をついて、彼は呟いた。

「君が帰らないと、承太郎が悲しむ」
 あたしは驚いて顔を上げた。何度も何度もそれとなく匂わされながら、はっきりと名前を口にしたのは彼が初めてだったからだ。ハイスクールの頃の写真だと言っていた。砂漠の中で日本の学生服を着て、父さんと背中合わせみたいにして写っていた人。…昔、死んでしまった人。
「ほら、パパが君を探してる」
 彼がカンテラを高く掲げると、薄闇のトンネルにぼんやりと父さんの姿が映し出された。確かに何かを探しているようだ。
 さあ、と促す彼に、あたしは思わず問い掛けた。


「どうしてあなたはここに居るの?皆と一緒じゃないの?」
 急に現れた彼に何故驚かなかったのか、その理由がいま分かった。この薄闇には彼の気配が満ちている。淡い緑色と、深い静けさと、小さく冷たい孤独。真剣なあたしの目を見て、彼は困ったように微笑んだ。
「僕は皆みたいに勇気がなくて、向こうに行くことができなかったんだよ。でも向こうに行かなかったから、いま君をこうして助けることができた」
「…あなたは、それでいいの?」
 写真立てを見つめる父さんの横顔を思い出して、あたしは声を絞り出した。彼はきゅっと眉根を寄せると、カンテラを足元に置いて、あたしを強く抱きしめた。服を通して、彼の肌の冷たさが伝わって来る。

「君と僕は、たましいの形が良く似てる。僕には君の寂しさが良く分かるよ、ジョリーン。でもね、君は僕よりもうんと強い子だ。君はいつか、とても大きなものを守るだろう。今は小さな、この手のひらで」
彼はあたしの手をそっと撫でて言った。
「ここを出たら君は、今日のことを何も思い出せないかもしれない。でも忘れないでくれ。君の辛さや苦しさは、いつか君の強さになる。君の歩く道に無駄なものはひとつもないんだよ、ジョリーン」
彼の体の冷たさが、あたしにはただ悲しかった。あたしは「一緒に行こう」と言いたかったんだ。ここに彼を一人で残して行きたくなかった。でもそれが、彼を困らせるだけなのだということも、分かっていた。

父さんの言葉を真似して、あたしはやっと一言つぶやいた。不思議な響きの、その名前。彼は驚いたようにあたしを見てから、もう一度、強く抱き締めてくれた。
「振り向かないで、駆けて行くんだよ。その火をしっかり、両手で持って」
 ゆっくりと体を離し、彼は切なげに微笑んだ。カンテラから出した大きな緑色の宝石をあたしの手に握らせる。輝く光はあたしの指を透かして緑色に照らし出した。
「…また会える?」
「もちろん」
 彼は微笑んで、あたしの肩を強く押した。その力を受けて、あたしは出口へと走り出す。
「バイバイ、ジョリーン。承太郎をよろしくね」
 その言葉と共に、緑色の薄闇は消えていった。



「ジョリーン!」
 耳をつんざく父さんの声に、あたしははっと目を覚ました。なんで父さんがここに?あたしの手に結んである緑色の紐が、父さんの手に握られている。父さんはそれを手繰ると、がっしりとあたしの手を掴んだ。
 肩が抜けそうな程痛い。それはそうだ、あたしは右手を父さんに掴まれて、橋から宙吊りにされているんだから。足元の遥か下には川がごうごうと流れている。
 父さんは何か日本語で叫ぶと(きっと良い意味ではないだろう)、一気にあたしを橋の上まで引き摺りあげた。何がなんだか分からないけど、しゃがみ込んで肩で息をする父さんを見ていたら、ぐっと涙がこみ上げて来て、あたしはわあわあ泣いてしまった。父さんが抱きしめてくれる。父さんからは、いつも海の匂いがする。

 あたしを抱きかかえて橋の上で座り込んだ父さんは、ぐったり疲れた様子で言った。
「ワーナーさんから、お前が独りで帰ったって電話があってな。なのに家にも居ないし、お前の友達も会って無いって言うし…」
「ごめんなさい」
「学校から教会まで走り回って…まさかこんなところに…」
「ごめんなさい、父さん」
 新しい涙がこぼれそうになったが、それらは全部父さんの服に吸いこまれていった。人の温もりがあたしをとても安心させた。なぜだろう、冷たい手の感触ばかりが残っている。記憶を辿ろうとしたあたしの頭の中で、緑色の光が煌めいた。あたしは思わず叫んだ。
「どうしよう、あたし、宝石を!」

「宝石!?」
 驚く父さんをよそに、両手を開いてみる。ポケットも探ってみたが、あの大粒の石の姿はない。
「あたし、宝石を貰ったの。こんなに大きなエメラルドを。しっかり持って、って言われてたのに!」
「待て、ジョリーン。いつ、どこで、誰から貰ったんだ?」
「それは…」
 思い出そうとすると、記憶には霧がかかってしまったようだ。だが、何も言えなくなって頭に当てたあたしの手を、父さんが強く引いた。
「これは…」
 あたしの手首から、きらきら光る緑色の紐のようなものが伸びていた。さっき父さんが引っ張っていた奴だ。なのに父さんは、その紐に顔を近づけてまじまじと見ている。


 やがて緑の紐はだんだんその輪郭をぼやけさせ、あたしの手に溶けるみたいにして消えて行った。
「消えちゃった」
 しょんぼりするあたしの背中を撫でて、父さんは静かに…ほんの少しだけ微笑んで、言った。
「…家に帰ろう、ジョリーン」
 父さんは、何もかも分かったようだった。あたしには教えてくれないけれど。でも、何故かあたしは、それでもいいやと思えた。父さんにとって大事なことは、父さんに伝わればそれで良いんだろうから。
 立ち上がるあたしに手を貸して、ふと父さんは思い出したように口を開いた。
「ウェンズデイか。アダムズ・ファミリー。良く似合ってるぞ」

 最初は何を言われたのか分からなかったが、どうやらあたしの髪の毛は解けて、作り物の耳はどこかに落としてしまったらしい。あたしは思わず、笑って答えた。
「ありがと、父さん」
 親子が立ち去った後の橋の上は、何事も無かったかのように、枯れ葉が舞っているだけだった。一瞬、風の吹き抜ける音が、大勢の人のざわめきに似ていたが、聞く人が居なければそれも取るに足らない事だった。
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