「しっかりホールドしてくれ。危険だ」
「はい?」
 タンデムシートに座って小首を傾げる銃兎の手を、理鶯は有無を言わせず取り上げた。そのまま運転席に座る自分の胸へしっかり巻き付ける。
「ニーグリップ…ああ、小官の腰を内腿でしっかり挟んでくれ。体勢が安定する」
「…失礼します」
 思いがけないほど小さな声で銃兎は言うと、言われた通りに後ろから理鶯の腰を両足で挟む。みっしりと筋肉が付いた分厚い腰だった。コアラのように理鶯へ抱き付いた姿勢では、体の表面いっぱいに男の体温を感じる。
「パッセンジャーの経験は…」
「ありません」
 無いようだな、という言葉に先んじて否定した銃兎に理鶯は苦笑する。その音は彼の腹腔の中で反響し、振動として銃兎の胸に伝わった。
「常に小官と同じ方向へ体を傾ける。それだけ心掛けてくれ」
「承知しました」
 では行こう。そう言うなり理鶯はエンジンをスタートさせる。ドッドッドッドッという重低音が銃兎の脳を揺さぶった。

 銃兎の車はいま左馬刻が使っている。妹が熱を出したと連絡を受けたのだ。そのとき事務所に残っていたのは、いかにも筋者といった加工をされた、いかつい高級車ばかりだった。妹を連れて病院へ行くには相応しくないと思ったのだろう、無言で差し出された左馬刻の手に、銃兎は自分の車のキーを乗せた。
 結果、左馬刻の事務所に残されたのは足を無くした銃兎と、バイクで来た理鶯だ。バトルの打ち合わせを放棄して出て行った左馬刻に対して、銃兎は特に怒りなどは無かったが、少し困ったのは確かだ。 事務所の最寄り駅から自宅への経路を思い描いたところで理鶯に声を掛けられ、話は冒頭に戻る。


 信号待ちで停車して、理鶯は少し後ろを振り向いた。ヘルメット越しにくぐもった低音が響く。
「左馬刻は」
 聞こえている、という意思表示でひとつ頷くと、僅かにヘルメット同士がぶつかった。
「妹が居たのだな」
「ええ。そのうち貴方も会うことになります」
「なぜ?」
「左馬刻は貴方を信頼しているから。…自分が、居なくなった時のために」

 青信号とともにエンジンが掛かる。駆動音と風の音で途端に声は聞き取り辛くなった。話を続けようとした銃兎を、理鶯は僅かな身振りで制する。意図を汲んで銃兎は口を閉じた。次に止まるまで会話はお預けだ。
 小山のようなバイクに乗った長身の男二人のタンデムは何かと人目を引いたが、高速道路に入ればそれも消え失せる。ここぞとばかりにアクセルを吹かす理鶯には明らかな稚気が感じられて、銃兎は声を上げて笑った。


「寄り道なんて聞いてませんよ」
「折角の機会だ、良い景色だろう」
 パーキングエリアの展望台から遥かな海を見下ろして、二人は潮風に吹かれていた。ヨコハマの夜景に溶け込む海とは趣の違う、真昼の海。日の光を照り返す細波へ声音を溶かすように、理鶯は口火を切る。
「…左馬刻が、居なくなるとは」
「そのままの意味です。逮捕拘留、収監…あるいは、死」
 彼の渡世を考えれば、それらの全てが身近な問題だ。そして、妹が一人で残される事態も。理鶯は目を細めて言う。

「信頼は光栄だ。しかし…責任重大だな」
「はい。私なんて、万が一の時は彼女を養女にする誓約書まで書かされそうになって」
「書いたのか」
「はは。書けるわけないでしょう。…五十歩百歩ですよ」
 展望台の柵に寄り掛かり、銃兎は煙草を取り出した。口にくわえ、ジッポで静かに火を付ける。
「そういうところだけは、尊敬してます」

 目で問いかける理鶯へ、煙とともに銃兎は言った。
「左馬刻。どんな酷い目にあっても、なりふり構わず大事なものだけは守り通してきた」
「銃兎もそうだろう。目的のために我が身を顧みず邁進している」
「有り難うございます。でも…」
 煙草の先から灰が崩れ、アスファルトへと落ちていく。
「私はもう、大事なものを汚してしまった」


 肺の淀みごと押し出すように、銃兎は空へ向かって雲を吐く。
「正義を守るお巡りさんになりたかったんです。私は正しいもののために戦いたかった」
 そこで口を閉じた銃兎へ、理鶯は静かに頷き先を促す。銃兎は小さく笑って言った。
「明らかな犯罪者を、証拠不十分で釈放したんです。その後の情報ルートを確保するために。合理的な判断だったと今でも思います。でもそれが、始まりだった」
 ほんの小さな染みであっても、一度黒く染まったものはけして白には戻らない。染みはどんどん広がって、やがて布地を多い尽くす。
「その日の帰りに初めて煙草を買って、吸いました。警察官は体が資本だって、それまでずっと毛嫌いしてたんですが」
 銃兎は流し目で理鶯に視線をやった。婀娜っぽい表情を意に介さず、理鶯はまっすぐ銃兎を見た。

「旨かったか?」
 短い問いかけへ答えを返すのに、銃兎は少しの時間を要した。たっぷり煙を吸い、煙を吐いて、一拍の後。煙草を手に取り銃兎は声を震わせる。
「…不味かった。苦くて、煙が目に染みて、」
 煙が目に染みて。繰り返す彼の唇を、理鶯はごく自然な動作で塞いだ。ぽろりと取り落とされた煙草から、細く副流煙が棚引く。呼吸を止めた銃兎の頬を、口付けたまま理鶯が撫でると、ようやく彼は反応を返した。
「理鶯」
「…銃兎?」
「…見ないでください」

 白い頬を光が伝い落ちるさまを、理鶯は視界の端で捉えた。しかし直視はしないまま、明るい海へと目を移す。息も荒げず身じろぎもせず、銃兎はおそらく泣いていた。
「銃兎」
「見ないで」
 短くなった煙草から、フィルターの焦げる臭いがした。しかしそれも浜風に吹き荒らされれば霧消する。
「煙が、目に染みたんだろう」
 理鶯は視線を逸らさぬままに、手探りで銃兎の腰へ手を添える。その手が振り払われることは無く、真昼の展望台にはただ潮騒が満ちていた。
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