銃兎、と呼ばれた気がして反射的に振り返った。夜景の映り込んだサッシ越しに彼の赤茶色の髪が見える。ソファの幅を目一杯に使い、それでも足りずに放り出された足。日本人離れした体格の理鶯だが、意外とアルコールに弱かったのか…いや、左馬刻のせいだろう。
 三人で集まって飲むときも、理鶯はいつも付き合い程度の酒量を過ごすことはなかった。いつでも戦えるようにしておきたいのだ、という彼の考えを銃兎は知っているが、どうやら左馬刻はそうではなかったらしい。気の良い彼はリーダーに勧められるままに杯を重ね、今は安らかな寝息を立てている。

「理鶯の奴、軍の夢でも見てやがんのか」
 自分が飲ませたせいだというのに、呆れたように左馬刻は言った。名を聞きとがめられなかったことに安堵しつつ、相槌を打つ。
「家族とかじゃねえのか」
「ハン…」
 しまった、と銃兎は思った。安心感で口が滑った。左馬刻に家族の話題はタブーだ。彼の悲劇的な半生について、銃兎は初め調書で知り、その後に本人の口から聞いた。左馬刻の価値観を作った二親の死と、彼の生き方を定めた妹の命。彼のリリックは過去の傷口を自ら開き、そこから滴る血で書かれているように銃兎には思える。

 言葉に詰まって銃兎は煙草に逃げた。眼下に広がる夜景、その先に見える黒い海。言葉を持たず男が二人、横浜の空に向かって紫煙を吐き出す。冬の夜のこと、高層マンションのベランダの空気は冷たい。耳を守ろうとコートの襟を立てたら、遠くから霧笛の音が聞こえた。
 煙草一本分の時間の後で、左馬刻はぽつりと問い掛ける。
「お前、親は居んのか」
 聞かれることは無いと思っていた問いに、驚きながらも銃兎は皮肉り笑う。
「俺が木の股から産まれて来たって言いたいのか?」
「女の腋から産まれてねえのは確かだな」

 左馬刻は中学もろくに出ていないはずなのに、たまに高尚なことを言う。教養のレベルが分かりにくいと思いつつ、銃兎は素直に言った。
「…夫婦仲良く厚木で大豆作ってる。兄は役場の出納係。善良な家庭だろ?」
 片眉を上げて意味深に笑ってやると、察して左馬刻も口の端を上げた。
「はは、てめえだけか」
「そう。腐ってんのは俺だけだ。俺だけが…」
 狂っちまった。煙と共に吐き出されたその言葉に応えはない。もとより銃兎も望んでいない。示し合わせたように二人は二本目に火を付けた。夜風から守るように翳した手を、ジッポの火が僅かに焦がす。


 左馬刻の家は幾つかあるようだったが、銃兎や理鶯が招かれるのはここだけだった。見晴らしの良いこのマンションを彼は気に入っているようだ。入居に際して用心をしたのだろう、異様に壁やガラスが厚く気密性が高い。換気のために細く開けた窓から、室内の暖気が帯のように流れてくる。暖かい空気が頬に触れ、銃兎は顔をしかめた。澄んで冷たい空気の緊張感が緩んだような気がして不快だ。肺の中の有害物質を全て吐き出し、低く呟く。
「ガラじゃねぇんだよなァ…」

 こんな感傷に浸るなど今更だった。法律と人道に反してでも自分は最短距離を行くのだと、リスクを取る勇気も無しに達成できることなど無いのだと、そう心に決めて走って来たのだ。誰とも寄り添わず、理解も求めず、ただ自分の思うままに。フィルターを噛む仕草を見て、左馬刻が赤い瞳を眇めて笑う。
「荒れてんじゃねえか、お?」
「バイク」
「ああ。何だ、文句あんのか」
「ねえよ。全くな」

 素早い言葉の応酬。今日の集まりに理鶯が乗って来たのは深いブルーの大型バイクだった。まるで小山のようなマシンを自在に操り、丁寧なハンドリングで地下駐車場に停める彼の姿を銃兎は思い出す。あれが誰の手によるものかなど、聞かずとも銃兎には察せられた。どこか自慢げに紫煙を吐くと、左馬刻は言う。
「だろ? 若ぇのが取り立てでふんだくって来た奴だが、まだ新しい。あの重さになると体がでかい奴にしか扱えねえし、理鶯にぴったりだ」

 俺が乗っても良かったんだが、折角だしな、と左馬刻は笑う。彼もまた、チームの三人目を気に入っているのだ。強い力と強い生き様。彼がチームに求めるものはそれだけで、それが全てだった。銃兎は細く長く煙を吐くと、少し重い口調で言った。
「左馬刻。理鶯にスマホをやったのは俺だ」
「ああ…いいんじゃねえか? お陰でわざわざハイキングしなくても理鶯と連絡が取れる」
 銃兎の胸の底の蟠りは彼に届かなかったらしい。夜景をバックに副流煙をたなびかせながら、左馬刻は僅かに首を傾げる。銃兎は深く溜息をついた。こんなことを言葉にするのは億劫だ。


「俺は理鶯を束縛してる気がする」
 自分が渡したスマホから初めてのメッセージが届いたとき、銃兎の胸に込み上げた物は喜びと悔いだった。自分はいったい理鶯に何を求めているのかと自問自答した。だからこそ、遠くへ行けるよう、速く走れるよう、バイクを与えた左馬刻の心が羨ましかった。しかし案の定、銃兎の言葉は王のお気に召さなかったらしい。僅かに眉間に皺を寄せ、左馬刻は言う。
「なに女が腐ったようなこと言ってんだ。便利だからやった、そんだけだろうが」

 左馬刻は女性的であることを忌み嫌う。恐らく女は弱いもの、抵抗できないもの、庇護されなければ生きられないもの、と原体験から刷り込まれてしまっているのだ。そんな無力な女たちから見下される現状に、彼は人一倍ストレスを感じている。銃兎は夜空に言葉を探した。
「一人は楽だ。何をするにも自由で…始末が付けやすい」
 そうだろう? と問えば、そうだな、と言葉が返った。自分にとっても理鶯にとってもそれは同じで、もちろん左馬刻にとってもそうであるはずだ。好き好んでアウトサイドを歩いている自分たちに、仲間など無い方がいい。今は三人でいる理由があるが、いずれはまたそれぞれの道へ戻るだろう。

 社会のルールを外れるということは、社会から守られないということだ。互いの事情に構う余裕など無い。いずれ互いの損得が衝突する事態だって容易に起こり得る。理鶯にスマホを渡したとき、銃兎は確かに「踏み込み過ぎた」と思った。「引き返せるのか?」と自問し、「理鶯の気持ちを顧みなかった」と後悔した。そして、自分の甘さに辟易した。
 この気持ちが友情か慕情か恋情か、もしくは寂しさを埋めようとする行為、はたまた独占欲といった物なのか…名前を付けようとは思わない。ただ、もっと近付きたいと思ったこと、そのために行動した自分、その全てが銃兎には信じられなかった。これまで銃兎は己の道筋を全て自分でコントロールして来た。それなのにいま、銃兎の目には見知らぬ景色が映っている。


「欲しいもんは仕様がねえ。だろ? 俺たちはサンタさんに頼れねえからな」
 銃兎は驚いて左馬刻を見た。こいつ分かって言ってるのか、と聞くことは藪蛇だろう。やむなくふざけた言葉で返す。
「信じてんのか?」
「バーカ。それにあの図体はサンタの袋にゃ納まりきれねえ」
 言うなり左馬刻は銃兎の耳元に口を寄せ、じゅうと、と掠れたような低い声で囁いた。…まるで理鶯の寝言のように。

 カッと頭に血が上った銃兎の、回し蹴りの足を左馬刻はすんでのところでいなす。聞こえてたのかよ畜生め、と喚きたい気持ちはやまやまだったが、言えば言うほど墓穴を掘ることは明白だった。苛々と三本目を取り出す銃兎を横目で見遣り、左馬刻は短くなった煙草を深く吸い込む。
「まあ、てめえが理鶯を見つけてくれたお陰でテッペンに手が届くとこまで来た。腐れウサポリの審美眼って奴に感謝してやらねえこともない。俺様の居ねえところでコソコソされんのは癇に障るがな」

 どういう意味だ、と銃兎は一瞬考えて笑った。たぶん左馬刻は、自分と理鶯が二人きりで連絡を取り合い、親密になっていると思っているのだ――そこに恋愛感情が絡む可能性などは一切考えずに。友達が、新しい友達とばかりつるんでいる、そんな気持ちで。
 左馬刻の、いかにも直情型な視野の狭さが銃兎には救いだった。胸のつかえが降りたように、笑いを含んだ声音で銃兎は言う。
「俺たちが二人で会って何するんだ? バトルに関することならてめえが居なきゃ始まんねえだろ。そもそも既読無視の常習犯に言われたかねえよ」

「チッ…」
 幼稚なことを言った自覚はあるのだろう。左馬刻は短くなった煙草を床に落とすと靴の踵で必要以上に踏みしだく。忙しなく次の煙草を探す王に、銃兎は一本献上して言った。
「俺たちは戦うために集まったチームだ。心配しなくても、余計な深入りはしねえよ」
 左馬刻の咥えた煙草の先へ、自分のライターで火を付けてやる。ホストみてえだな、と銃兎は自分の行動を客観視して苦笑した。…ところで咳き込んだ。左馬刻が顔面に煙を吹き掛けたのだ。

「てめェ…」
 本気でムカついたのだろう、自分を睨み付ける銃兎へ左馬刻は言う。
「ハ、分かってねえのはそっちだ」
「…何が」
 ぶっきらぼうな返答に左馬刻は笑った。唇から煙草を取り、ベランダの柵の更に外へと差し伸ばす。煙草に灯った小さな赤は、まるで灯台の明りのように横浜の夜空で光を放つ。
「俺様は強い。てめえも、理鶯も強い。だから三人になれば凄ぇ強い」
「ガキじゃなけりゃバカって感じの言い回しだな」

 予備動作無しに繰り出された左馬刻のつま先が銃兎の向う脛に突き刺さった。無言でしゃがみ込む銃兎に、悠然と立ったままで左馬刻は言葉を続ける。
「いつまでもローリンラビット気取ってんじゃねえぞ、銃兎。俺達ぁもうつるんで戦うことを覚えた。仲間がダチになったところで何が変わるってんだ、ああ? いつでも一人で戦える、その強ささえ無くさなきゃそれでいい」

 痛みに奥歯を噛みしめながらも銃兎は左馬刻の声を聞いていた。銃兎にとって一人で生きられるということは、誰かが居なければ生きられないということの何倍も価値があることだった。自分一人でリスクを負い、自分一人でリターンを得る。それがアウトサイダーとして正しい生き様だと信じていたし、今もその考えは変わらない。けれど。
「欲張れや銃兎ォ。俺たちならそれができるはずだ」
 自分を見下ろす左馬刻の、にいっ、という擬音が似合う笑顔から銃兎は目を逸らす。しゃがんだままではせっかくの夜景にベランダの柵が入り込んでくるが、それでも構わなかった。


 このチームは一艘の舟だ。自分たちは乗組員で、大海原の上で命を預け合う仲間。そのことに何の異論もなく、銃兎は二人の力を信じている。だからこそ…いつか舟が目的の港に着いたとき、当たり前に別れるのだろうと。自分たちは海を渡るために協力しているのであって、その先の未来までは共有しないのだから、と。そう信じていたからこそ銃兎は、理鶯と繋がりを求める自分を嫌悪したのだ。
 けれど左馬刻は欲張れという。銃兎は彼の内心を読み切れない。安易な馴れ合いを良しとしないのは彼も同じだったはずだ。ベランダの床に落ちた煙草からは細い煙が立ち続けている。木枯らしがそれを吹き荒らす。横浜の空にほんの僅かな霞が掛かり、すぐに掻き消える。

 室内から何か物音が聞こえた。理鶯が起きたのかもしれない。振り返る銃兎を制して煙草を消すと、左馬刻はさっさと中へ引き上げて行った。サッシ越しに、二人が言葉を交わす声が聞こえる。彼らの穏やかな声音には、戦場に立つ気迫も棘も全く見当たらない。いつの間に自分たちはこんなにも、互いの侵入を許し合ってしまったのだろう。銃兎は深く溜息を吐いた。水際で思い悩んでいると思っていたのは全くの見当違いで、実際のところもう首まで水に浸かっていた、そんな気分だった。

 ブラインドに大柄な影が映った、と思う間もなくサッシを開けて理鶯が顔を出した。
「銃兎、中に入らないのか」
「いえ私は…」
 断りの言葉を出そうとしたところで、室内の暖かな空気が銃兎に触れる。先ほどのような不快感は無かった。銃兎は細く息を吐く。誰かに頼ることを覚えた自分は、強いままでいられるのだろうか。自分の行いを否定せず、仲間として尊重し、共に戦ってくれる者たちを傍に置くということ。その安堵感が自分の芯を萎えさせてしまうことが無いと言い切れるだろうか。思いながらも銃兎は立ち上がり、室内へと足を踏み入れる。銃兎を迎え入れた理鶯は、無人のベランダに残された燃え差しの煙草に目を留めると、外履きでそれを踏み消した。



お題「寝言」
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