「同情なんざ御免だよ」
 地を這うような声が夜の底から響いた。就寝後だったのだろう、部屋の照明は全て消され、暗闇には硝煙の匂いに紛れた女の香りが籠っている。ノックに応えて薄く開かれた扉の隙間に大きな足を無理やり挟み、巨躯の男はじわじわと室内へ入り込もうとした。
「出てけ」
「嫌」
 間髪入れず短い銃声。深夜のカルデアに高く響いたが、周囲の扉の反応は無い。眠っているのか無視されたのか、そこは問題ではなかった。男は強引に血の溢れ出した肩を押し込むと、女の目の前に傷口を晒す。
「なに外しちゃってんの。ココ」
 ぐい、と上半身をねじ込んで、親指で己の心臓を指し示して見せた。廊下の常夜灯が彼の表情を曖昧な逆光にする。男はぬうっと手を伸ばすと、女の構えた銃口を自ら胸に押し付ける。
「ちゃんと狙ってくださいよ」
 続いた銃声は複数あった。ばたばたとぶつかり争うような気配の後で、ようやく居住区の廊下は静まり返った。



 黒髭がスタッフ三名を殺害し、十名ほどを負傷させてからというもの、カルデア内の雰囲気は張り詰めていた。
 サーヴァント数騎の霊基がカルデアから消えたことに端を発するこの事件は、亜種特異点の修正と行方不明者の帰還をもって収束したかに見えていた。しかしそう思っていたのはカルデアを運営する、体制側の魔術師たちだけだった。カルデアと契約した英霊たちの、誰にとってもこの特異点で起こったことは他人事ではない。

 職員殺害事件を受けて運営側は、まず被害者たちを事故死に見せかけた後で、黒髭の霊基を保管庫へ封印した。電力から魔力を作り出し、そのエネルギーで膨大な数のサーヴァントとの同時契約を成立させるフィニス・カルデアシステムにとって、英霊の叛逆はあってはならない事件だ。人理修復計画の根底にある「座から召喚した英霊」への信頼が覆されたとき、カルデアはおろか人理が滅びる。
 本来は一対一で為されるべきマスターとサーヴァントの契約だ。御し切れなくなったサーヴァントを自害させるのはマスターの義務でもある。魔力の供給をカルデアシステムが担っているとはいえ、百を超える英霊の性質を把握し、動向に目を光らせるのは困難だ。このカルデアではエネルギー節減のため、常に現界させているのは主に働く三十騎ほどだが、それでも既に彼らは魔術師たちの手を離れ、彼ら独自の人間関係を構築していた。

 ロマニ・アーキマン亡き後のカルデア職員は、積極的に状況を打開する方策を打ち出すことができなかった。彼らはサーヴァントとスタッフの接触を極力少なくする施策を施したうえで、サーヴァント内の自浄作用に期待することにした。このカルデアには混沌・悪属性の者が多く召喚されているが、発言力の強い英霊の中には善性の者も数騎ある。そもそもが救世の理念に賛同したからこそ召喚された英霊たちだ、彼らが期待したのも無理はない。
 しかしその願いは叶わなかった。普段サーヴァントを纏めている古参の騎士たちは黒髭の行いに口を閉ざした。英霊たちからその言動を尊重されているウルクの王は、黒髭に一言「相手を選べ」と言っただけだった。黒髭が殺害した三名は資材の補給や施設内の整備に携わっていたため、しばらくの間カルデアの生活水準が昨年の火災の直後と同様にまで悪化したためだろう。
 予想外の展開にスタッフたちは恐れ慄いた。一年の戦いを経て、カルデア職員にとってサーヴァントたちは、人類史の英雄から気安い隣人へと認識が変化しつつあった。その背中へ氷水を流し込むような黒髭の行いも、それを批判しない他の英霊たちも、職員たちにとっては恐怖でしかない。

「あの男の蟄居はいつまでだったか」「はて、そういえば知らされておらんな」「まあ四十九日がとこだろうな。弔いも済みゃ文句はあるまい」「弔いか。儂ならば躯なぞ投げ捨てておくものを」「そりゃ勿体ねえぜ書文よ、肉には幾らでも使い道がある」
 普段はミーティングルームなど足を踏み入れもしない戦場の鬼と狠子が、万座のそこを殊更にのんびりと喋りながら通過していく。レイシフト帰りだろう、血風をはらみ刃物を携えたままの彼らを咎められる人間などどこにも居なかった。
 その日のうちに黒髭の霊基は解放された。同時にサーヴァントと一般職員の居住区の間に非常用の隔壁を下ろしたため、互いが偶発的に顔を合わせることは稀になった。姿が見えない分、さらに想像で恐怖が膨らんだのだろう。日常的なレイシフト作業に際しても極端な大人数で対応する職員たちを、サーヴァントたちは冷静に見詰めていた。



 黒髭の大きな掌に掛かれば、女の首など一掴みだ。片腕で簡単に床へ縫い付けられた女の髪とスカートが大きく広がる。優雅なドレープから零れる白い脛が暗闇で浮き上がるようだった。噎せ返るほどの女性性に耐えかねたように、圧し掛かった黒髭は目を背ける。肩・胸・腹と袈裟懸けに切り落とすような弾痕からはとめどなく血が流れ、純白のナイトドレスを汚し続けた。
「ハ、宗旨変えかい? 溜まってんならテメエで始末付けな、みっともない」
「黙ってろ」
 低く怒鳴りつけると黒髭は掌に軽く力を籠める。伝説の海賊の喉は悲しいほどに細い。ネズミや小鳥を掌に載せた時の感覚が彼に蘇る。それを握りつぶす感触も同時に。
「ここ」
 微かに震える手で女は前髪を掻き上げて見せた。なだらかにまるい額を示し、彼女は渇いた笑い声を上げる。
「ヤりたいなら殺しなよ。そっちの方がアンタにゃイイだろ」
 差し出された銃を受け取るや否や、黒髭は真上から彼女の頬を掠めて発砲する。引き金を引く指に躊躇はない。薄い皮膚を破られたことよりも、耳の真横で炸裂した銃声の方が彼女を苦しめた。暗闇の中で二人の視線がぶつかり合う。ぎらついているのは濃く煮詰まった殺意と苛立ち、それしかない。ふと空気が動く感覚がして、彼らが揃って視線を投げた瞬間だった。

「修羅場ですか?」
 唐突に第三者の声がした。薄く開いたままになっている扉の隙間から、白い尼頭巾が覗いている。女は忌々しげに舌打ちをした。
「濡れ場だよ。アンタも交ざる?」
「まぁ嬉しい! でも今日はご遠慮いたします…夜も遅うございますから、お静かに」
 キアラは扉の隙間に挟まっていた布を恭しく手に取ると、入り口脇の戸棚に掛けた。ついでのように室内の照明を点けて、今度こそきっちりと扉が閉まる。夜半の来訪者に対応するため、女が肩に羽織っていたショールが、白々しいLEDの灯りの下で力なく揺れていた。
 尼僧の気配が遠ざかっていくのを確かめると、黒髭は深々と溜息をつき、のそりと身を起こしてその背を壁に凭れ掛けた。乱れた髪に手櫛を通しつつ、女も床に座り込む。暗闇に充満していた負の感情は、煌々と照らす人工の光によって急に輪郭を失ってしまったようだった。

 このカルデアで寝起きする者全員に与えられた、画一的で無機質な雰囲気の部屋だ。ベッドの周囲だけにはどこから持ってきたものか臙脂色の絨毯が敷かれていた。壁際には様々な特異点からの収奪品が乱雑に積み上がっている。
 黒髭がここへ来た回数は少ないが、それでもこの部屋の風景が記憶とまったく変わっていないことは分かった。だからこそ、まるでこの部屋の主であるかのような顔をした、柔らかで繊細な姿形の女は異物でしかない。腹立たしさを虚無感が上回り、彼は投げやりに言った。
「ねえ、座に還れば?」
 手持ち無沙汰を隠す気もなく、女の拳銃を手の中でぐるぐると回しながら黒髭は続ける。
「フラニーちゃんに用は無いんですよ。さっさと消えてください」
 その銃に残弾はある。隣り合わせに座った距離なら外すことなどあり得ない。彼がきちんと狙いを定め、引き金を引きさえすれば簡単に終わる話だった。しかし黒髭は喋り続けた。
「もう居てもしょうがないでしょ。てか居られたら俺が困んの。一応あのBBAの顔と霊基持ってるのに殺したくなっちゃう」

 それはまるで言い訳をするような、歯切れの悪い口ぶりだった。彼は迷っている。手遊びの拳銃は目まぐるしく回り続ける。女はカジノのルーレットを夢想した。黒髭の鬱屈や彼が本能的に持つ殺意が赤、それを押し留めようとする意志が黒。カラカラと音を立てて回る球がどちらに落ちるかは誰にも分からない。
「BBAは貴重な対軍宝具ライダーですしぃ? 再召喚が難しいのは分かってますけど、来ればすぐ一軍ですから。座に還った後もっかいちゃんと召喚してもらいますよ」
「星の開拓者として?」
 赤に転がりかけた球が、女の細い指先で強引に黒へと押し込まれた。
「馬ッ鹿だねぇ、アンタ」
 太陽を落とした女は、豪壮な二つ名に似合わぬ暗い瞳で微笑んだ。投げやりな仕草でどこからともなく葉巻を取り出し咥えると、溜息とともに火を付ける。部屋の空気が紫煙で滲んだようだった。彼女の背後に荒れ狂う灰色の海が見える。その霊基からは失われたはずの、嵐の航海者の片鱗を感じて、黒髭は息を呑んだ。


「アンタに殺されなくてもね、アタシゃ一回死んでんのさ。忌々しい亜種特異点とやらでね」
「は」
「嘘じゃないよ。親愛なるカルデアの仲間たちから蜂の巣にされてお陀仏」
 あん時は誰の顔も覚えちゃいなかったけどさ、と呟いて、ドレイクは煙を肺まで深く吸い、言葉とともにゆっくり吐き出す。
「キャプテン・ドレイクが弱っちくなったと思った? ご名答、今のアタシは召喚されたてみたいなもんだ」
 くつくつと笑いながら、彼女は灰を床へ落とした。乱雑ではあるが不潔ではない彼女の部屋で、黒髭の血と煙草の燃え滓はどこか醜悪な気配を放つ。血溜まりに目を落としながら、ドレイクは静かに言った。
「…アタシたちはカルデアに召喚された時から、座にある大本の霊基までここに移されてるらしい。知ってたかい?」

 唐突な話題の切り替えのうえ、言葉の意味を理解できず、黒髭は軽く眉をひそめる。察したようにドレイクは意図を噛み砕いた。
「アタシたち、レイシフト先で魔力が尽きたら勝手にここへ戻ってるだろ。あれ、毎回フツーに消滅してるんだってさ。で、本来なら座から再召喚しなきゃなんないのを、その手続きをはしょって、ついでに今までの経験や記憶を引き継ぐために、ここを座の代わり? 中継基地? そんな仕組みにしたんだって」
 黒髭は床の一点を見つめながら無意識に髭を撫でていた。ゆっくりと言葉の意味が、実感として骨身に染みてくる。
人理修復のために召喚されて今までの間、気付けばカルデアで目を覚ました戦闘がいったい何回あっただろう? そのたびに自分は、うたかたの生と本物の死を繰り返していたというのか? いやそれは一度消滅した後、新たに霊子で構成されたまっさらな霊体に、記憶と経験のデータを書き込んだようなものだろう。それは連続した同一の自己と言えるのか?

 思わぬ自我のゆらぎに、黒髭はしばし考え込んだ。口を噤んだ男をよそに、ドレイクは葉巻を咥えたままで行儀悪くあぐらをかく。壁を睨みつける眼光は鋭い。
「アタシは特異点の魔術師に召喚されたんだ。この、カルデアの座からね。で、召喚のときに狂化みたいな枠に押し込められてあんなアバズレになったわけ」
 腹の底から全ての空気を押し出すように、ドレイクは太く煙を吐くと、僅かに残った葉巻を血溜まりに押し付ける。じゅうっと火の消える音と共に、鉄の焼けるような匂いが僅かに立った。
「別にあのアバズレを引き継げば強いまんまで戻ってこれたかもしんないけど、そんなのアタシが御免さ。そもそもアレはアタシじゃないしね。で…」
 ドレイクは自分の首に両手を掛けると、きゅっと縊るような動作を見せた。白目を剥いて舌を突き出した様は分かり易いブラックジョークだ。黒髭は力なく笑った。
「はは…やっすい命ですなあ」
「当たり前だろ。もう死んでんだ。死人は生きてる人間のオモチャになるしかないんだよ」

 それは、ぞっとするほど澱んだ瞳と暗い声だった。思わず黒髭が彼女の顔を覗き込む。本人もハッとしたように目を見開くと、ぱん! と勢いよく己の頬を張った。ぎょっとする男を牽制するようにドレイクは言った。
「今のはナシ」
 彼女は上半身ごと黒髭へ向き直る。座ってもなお自然には目線の高さが合わない。顎を上げたドレイクは、恐らく意識的にだろう、顔全体で笑ってみせる。
「アタシはもうちょっと遊ばなきゃ気が済まないから戻ってきたんだ」
 壁際に積み上がった数々の戦利品が勲章のように輝いている。黄金の鹿の舳先で水平線を見つめる強い瞳こそが、黒髭の追い求めるものだった。人類史を更に高みへ押し上げる、時代の転換点。星の開拓者は頬に垂れていた髪をざっと掻き上げると言った。
「宵越しの金は持たない主義だが、この散りざまはあんまりじゃないか。どうせ消えるならアタシらしくパーッと派手に、花火みたいにおさらばするさ。命も弾も、ありったけ使わなきゃ楽しくない。そうだろう?」

「魔術師のオモチャでも?」
 ドレイクは肩を竦めて嘯く。
「そうだよ。古今東西の有名人と肩を並べて大暴れ。誰も見たことが無い景色を最前列で拝めるなんて、サイコーじゃないか。まあ…」
 にいっと引き上げられた唇は血の気が滲んだヴァーミリオン。思わずそこを凝視する男を知ってか知らずか彼女は続けた。
「嫌んなったらその時は引き上げだ。アタシゃ楽しいからここに居る。何度も言ってんだろ。飽きたら終わり。だからオモチャで結構」
「どっちがオモチャか分かりませんなァ…」
 溜息とともにそう吐き出すと、黒髭の上半身は僅かに壁から滑った。彼の尻の周りに広がっている血だまりは時間とともに黒ずんで来ている。目に見えて生気が失せてきた顔だが、それでも黒髭は変わらぬ口調で言った。


「ねえBBA、いっこ質問」
「なにさ」
「いっつもそのヒラヒラ着て寝てんの」
 黒髭の思い描く…それは信仰する、とさえ言い換えられるかもしれない…稀代の海賊フランシス・ドレイクは、性別はともかく海賊の象徴のような存在だった。誰よりも気ままで強欲、好奇心と冒険心に満ち溢れ、身の危険を犯しても一夜の栄華を取る、熱帯のスコールのような魂。血と硝煙と潮の匂いに塗れた生きざまから、深窓の令嬢が身に付けるような繊細なドレープは酷くかけ離れていた。
「似合わないなんて分かってるよ」
 誰にも会わない夜くらい、こんな格好も悪くないだろ、とドレイクは蓮っ葉に言い捨てた。照れ隠しなのかもしれないが、本当に似合っていないのなら笑い飛ばすこともできたのに、と歯噛みする黒髭の心中など彼女には分からないだろう。彼が見知らぬ女の影を感じて鬱屈を募らせたそのドレスも、今となってはドレイクの一面として新鮮に目に映る。

 思わずまじまじと己の肢体を見つめる黒髭の視線をどう捉えたものか、ドレイクはふいにニヤリと笑って問うた。
「で、どうすんの。ヤんの」
 一瞬、黒髭の腹に力が籠った。
「…ヤるわけねえでしょ。拙者のストライクゾーンはマシュ殿が上限でつ」
 へらへらと笑顔を向ける黒髭だが、彼の顔色はもはや土気色だ。もし、万が一、その気があったとしてもこれでは満足に動けないだろう。徐々に視点すら定まらなくなってきた男へ、問わず語りのようにドレイクは囁いた。
「野郎どもに囲まれて海から海へ航海の人生。ひとっつも悔いちゃいないけどね、若いころに年頃らしい綺麗な格好しといても良かったなーってババアんなってから思ったことが、一度も無いってわけじゃないのさ」
 それで、これ。スカートの裾をぴらりとつまみ、ドレイクは小さく笑った。
「今なら可愛いフラニーちゃんがお相手してあげられないでもなかったが…まあ日頃の行いかね」

 ひひひ、と悪童のような忍び笑いを漏らすとドレイクは立ち上がる。伝説の大海賊のささやかな後悔が、瀕死の男の鼻先でふうわりと翻った。浴びせられた言葉をきちんと理解しようにも黒髭の思考はまとまらない。
「婦長呼んでくる。なんか聞かれたら遊んでて暴発させたって言いな」
「…めっちゃ返り血付いてますけど」
「トドメさすよ」
 吐き捨てながら、キアラが掛けて行ったショールを再び羽織って胸元を隠す。そこから赤く長い髪をばさっと勢いよく掻き出し、スカートの裾を蹴立てて彼女は部屋を出て行った。真っ白なジョーゼットのナイトドレスに己の血が飛び散る光景が黒髭の瞼の裏に焼き付いている。彼女にお似合いだったのは白いフリルと鮮血のどちらだったのか、考えるうちに黒髭の意識は途絶えた。



「…だからね、考えてみても御覧なさいな。自分の恋人が知らないうちに拉致され! 洗脳され! 自分の知らないところで殺される!」
 悲しげなエレナの切々とした語りに、職員たちはただ聞き入っている。
「もちろん人殺しは罪だわ。サーヴァントの身でありながら、召喚した側に楯突くなんて、って気持ちもごもっとも。でもね、生前の黒髭にとって人殺しなんて取り立てて騒ぐほどでもない、日常だったのよ。恋人が酷い扱いを受けたせいで、一瞬だけ、この時代のモラルを忘れてしまったのね」
 大げさな身振り手振りのほかに、ほんの少しだけ幻惑の魔術も香っていることに、赤い弓兵は気付いている。職員からの好感度が高く口が達者な奴、という選出でエレナと二人ここへ送り込まれた彼だが、もっぱら彼女の弁舌に相槌を打つことしかしていない。
「正直に言うとね、あたし達だって怖いのよ。だって今どこかから召喚されたら、あたし達は否応なしに従わなければならない。サーヴァントだもの! その先で自分がどんなことをさせられるのかも分からず、ここで皆と得た絆も思い出も全部失くしてしまう…その最悪のパターンを見せられたようなものでしょう」
 黒髭ひとりを悪者にして終わる話じゃないの。お分かり? エレナが職員の一人ひとりと丁寧に視線を合わせていく。その強い眼力に釣り込まれたかのように、彼らは端からこくりこくりと深く頷いて行った。


 サーヴァントの居住区へ戻るふたりの周囲に人影はない。張りつめていたカルデアの空気のために、ここに住むものたちの気ままなそぞろ歩きはすっかりなりをひそめていたが、それもじきに戻るだろう。
「暗示はどれくらいもつのかね?」
「ほんの軽いものだから、そうね、三日くらいかしら」
 驚いたようなエミヤの表情を見ながら、彼女は事もなげにほほ笑む。
「人の心はいつでも自分に都合の良いように働くものよ。誰だって牙を剥く猛獣の檻の中にいるよりも、強くて気さくな仲間たちに囲まれてるって思った方が楽じゃない」
「じきに自己暗示になると?」
「ええ。今晩、立食パーティなんていかが? 今のうちに楽しさを味わわせてあげるの。すぐに居心地の良さを思い出すわ」
 エミヤは複雑な面持ちのまま口を噤んだ。気配を察し、エレナが言葉を継ごうとする。しかしそれを遮る声があった。

「首尾よくやったようだな」
 柱の影から出て来たウルクの王へ、エミヤは反射的に笑顔を作る。
「ああ。彼女の独壇場だった」
「いやだわ、丁寧にお話しただけよ」
 彼らの背後で重い音を立てながら、隔壁が一枚ずつ上がっていく。賢王は口もとを緩ませると、少女の形をした神智学者へ言葉を投げかけた。
「褒美をやろう。望むものを考えておくがよい」
 それだけ言うと賢王は、さっさとその場を後にした。自分たちが戻るのを待っていたのだろうか、と考えかけてエミヤは思考に蓋をする。彼の赤い瞳の前に見通せぬことなどないのだ。エレナがぽつりと呟く。

「王は一度もご意見をなさらなかったわね」
 足りない言葉は多かったが、エミヤには真意が伝わった。この件に関してサーヴァントの中でも善後策を考えるものが無いでもなかったのだ。しかしそれらの議論を、王は常に傍観しているだけだった。
「彼の考えはすなわち正解だからな。全ての過程が無駄になる。それを彼は何より厭う」
 エミヤの言葉にエレナはそっと睫毛を伏せる。彼女が老成した淑女であるという事実が、しゃがみ込み視線を合わせその手を取ろうとするエミヤに自身を律させた。
「あたし達は正しい行いをしているのかしら」
 彼女の声には、不安というより思い悩む風情があった。エミヤは真摯に口を開く。
「分からない。だが、ここでカルデアが滅びれば、人類史もまた危機に瀕する。それだけは確かだ」
「ええ、分かっているわ。…分かっているのよ」
 ごめんなさい、と呟くエレナの肩に、エミヤはそっと手を置いた。失礼にはあたらなかったようで、ほんの少し彼女が微笑む。

「…それにしても、驚いたわね! まさかあの二人が」
「本当に…」
 話題を変えたいエレナの心にエミヤは黙って寄り添った。ドレイクと黒髭の“非常に親密な”関係の第一報はキアラより齎されたが、皆それだけならば話半分で済ませただろう。しかしナイチンゲールの傍証があれば話は別だ。
「解放されるなりキャプテンの部屋へ押し掛けるとは…しかも夜中に…」
「驚いた彼女が反射的に発砲しても抱きすくめ押し倒して…」
 きゃっとエレナが頬に手を当てる。恋人の手で鉛玉を三発お見舞いされた黒髭は、現在ナイチンゲールのもと絶対安静状態だ。復帰したらドレイクの霊基の再強化に付き合うのだという。
「愛って素晴らしいわね、エミヤ?」
「んん…まあ、そうだな」

 正直なところ、エミヤには本当にあの二人の間にそういった感情や、そこから派生する関係が成立しているのかどうか、疑問が残っていた。しかし名状しがたい複雑な関係であることは間違いないと思われ、その関係をあえて「恋人」と表現することで今回の件が楽に片付けられたという側面もあるので、深くは追及しないことにした。
「折角ここに居るんだから、色んなことをしたらいいのよ」
 エレナの言葉は自分に言い聞かせるようでもあった。サーヴァントという立場や存在そのものの脆さと危うさ、いま過ごしているこの時間の儚さ。己の足元の不確かさにおののいたところで、やるべきことは変わらない。
「パーティ料理の希望はあるかな?」
「そうね、ボルシチには絶対ビーツが必要よ」
 いま軽い調子で会話している彼らの声は、静かな廊下に響いている。しかし夜になれば、賑やかな喧噪に包まれているだろう。何が起こるか分からないまま流され日々を過ごすのは、生きていた頃と同じはずだ。ならば今ここでしか味わえない楽しみに溺れたところで何の不都合があるだろうか。
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