「カルデア標準時2000より我の庭にて評議を行う。遅滞なく集まるがよい」
 昼下がりの館内に響き渡った賢王の声は、突然始まり突然終わった。にわかに慌ただしくなるサーヴァント達の雰囲気が、放送の重大さを物語っている。
 このカルデア内の自治は二種類の会議で保たれている。レイシフト及び戦闘に関する打ち合わせを行う「ミーティング」と、それ以外のこと全てを決める「定例会」。出席者は、各クラス内の出挙でそれぞれ1名ずつ決められている。
 しかし稀に賢王ギルガメッシュの呼びかけで開催される突発的な会議がある。評議会だの御前会議だの呼び方は定まっていないが、とにかくそれにはミーティングと定例会の出席者、計16騎が参集されるのだ。遅刻は重罪だ。
 
 果たして開始時刻の5分前には、ほぼ全てのメンバーがギルガメッシュの部屋に集まっていた。部屋といってもそこは庭、というより限りなく森に近い空間だ。重厚な絨毯が敷き詰められたギルガメッシュの私室から地続きになったそこは、しっとりした土に下草が茂り、背の高い針葉樹が聳えている。物理的には一部屋分の敷地しか無いはずだが、恐らく彼の幻術により高さも広さも限りが見えない。
 勝手知ったるサーヴァント達は、好き勝手に草や倒木の上へ腰を下ろしてくつろいでいる。ギルガメッシュはといえば、自室側のベッドの上でエルキドゥと粘土板を読んでいた。のんびりとした空気のなか、外からバタバタと駆ける足音が近づいて来る。先んじて扉を開けた賢王へ、恐縮した面持ちのマシュが駆け込みながら謝罪した。
 
「申し訳ありません! 帰還に手間取りました!」
「許す。貴様らが最後ではあるが、遅参ではないゆえ。…定刻だな。始めるか」
 鷹揚な言葉にほっと胸を撫で下ろすマシュと、焦りの見えない巌窟王が適当な場所に座るのを見届けると、ようやくギルガメッシュはベッドを降りて立ち上がり、森の方へ向き直った。それまで緩んでいた空気が改まる。
「本日の議題であるが…BB」
 僅かな驚きが森に広がった。軽く振り返った賢王の視線の先には髪の長い少女が立っている。今までずっとそこに居た、とでも言うかのように賢王の横へ進み出たBBは、人の悪い笑みを湛えたまま大仰なお辞儀をした。
 
 
「皆さんノコノコと雁首揃えてお集り頂きありがとうございまぁす…と、冗談はさておき」
 一部のサーヴァントから惜しみない殺気をぶつけられ、BBはぺろりと舌を出してみせた。このカルデアには序列も上下関係も無い。ただ王が居るだけだ。
「えー、恐らくは朗報です! 任意のサーヴァントを一騎、よそのカルデアから融通して頂けるかもしれません!」
「融通…?」
 柔らかな青草の上、上品に足を崩して座っていたナイチンゲールが小さく呟く。彼女の声を拾い、BBは言った。
「はい。人類最後のマスターの死亡、その他の原因で人理修復に失敗したカルデアから、サーヴァントを…スカウトしてきて移籍させる、とでもいいますか」
「待ってくれ、もう2017年だぞ。人理修復に失敗したとは…」
 一座の中ほど、大木に寄り掛かかるように立っていたディルムッドが口を挿む。BBは彼の方へ向き直った。
「今この時も人理修復事業に取り組んでいる世界は沢山あるんですよ。もう2017年に人類史の存続、という未来が確定したので、いずれこの大筋を外れてしまった世界は些末な枝葉として切り捨てられますが」
「切り捨てられる?」
「消滅です。その世界があった、という事実さえ誰の記憶にも記録にも残らず、宇宙の歴史から消え去ります。その前に、召喚に成功したサーヴァントだけでも、未来ある編纂事象の世界に送り込もうという計画が持ち上がっているんです」
 怪訝そうな武蔵にさらりと答えると、BBは一同の顔を見渡した。
 
 これまでの特異点の旅で、別の世界という概念は分かっていたはずのサーヴァント達だが、いざ隣の国が滅亡するような調子で世界の終わりを告げられても実感がわかないのだろう。眉間に皺を寄せた皆の声を代表するように、苔むした切株の上であぐらをかいた茨木童子が問い掛ける。
「そのようなこと、可能なのか」
「できないことは言いません。簡単でもありませんが、成功例はあります。万能系後輩BBちゃんとお手伝いの方が居れば、1騎くらいは可能です。武蔵さんやイリヤちゃんみたいに、ぴょんぴょん世界を飛び越えちゃう方ばかりならこんな苦労も無いんですけどねえ」
 可愛らしく肩を竦め、困った顔をしてみせるBBだったが、彼女の自己プロデュースに注目している者は残念ながら居なかった。みな考え込んでいるのだろう、長い長い沈黙の後で、ようやくエリザベートがぽつりと言う。
「アサシン」
「アサシンね」
「アサシンでしょう、どう考えても」
 エレナとアンが続けざまに言葉を継ぐと、同意の声が森に溢れた。壁際に立っていたジキルが軽く手を上げ、場を収める。
「有難う。有難う。ご理解とご協力に感謝します」
 このカルデアのアサシン不足は深刻だった。人理修復の旅の途中はともかく、亜種特異点の撲滅に力を注いでいる今となっては各クラス3~5騎のサーヴァントが戦える状態にあり、控えの者も居る。しかしアサシンだけは変わらず2騎しか召喚されていないのだ。
 
「正直、アサシンなら何でもいい」
 切実な声は最後列から聞こえる。低木の茂みとほぼ一体化したようなアサシンのエミヤだ。しかしジキルが反論する。
「困難な状況を僕らと分かち合う気構えのある人でないと」
「そうですね。後は精神的にタフでおおらかで…できれば、あまり潔癖でない方のほうが」
「来てくれたところで帰ると言われても困るしね…」
 ジキルとベディヴィエールのやり取りを聞いたドレイクが、いたずらっ子のような口調で問い掛けた。
「万が一、万が一だよ。正義感に溢れて純粋無垢な繊細で世間知らずのお坊ちゃんが来たらどうする?」
 うっ、と一同は言葉に詰まった。自由を愛する無法者たちが彼らなりの自治を成り立たせてきたこのカルデアで、それは異物という他ない。言葉を探す彼らの中で、ビリーは難しい顔をしながら愛銃の弾倉を回す。彼の手癖のようなものだ。それをぴたりと止めると、彼はドレイクに言った。
「…撃っちゃう?」
「そこは日々の行いを改めるところだろう!?」
 思わず赤い弓兵が声を荒げて、その場は笑いに包まれた。だが森の団欒をよそに、BBだけは依然浮かない顔を続けている。
 
「BBさん?」
「お手伝いが必要なんですよねえ…」
 ふわふわと近寄り声を掛けたイリヤスフィールに、BBは唸る。
「お手伝いなら、わたしもみんなも喜んで…」
「…できればキアラさんの」
 イリヤスフィールがぐっと押し黙る。本物の沈黙が重く圧し掛かってくるようだった。殺生院キアラは数か月前、BBと時を同じくしてこのカルデアに姿を顕した。否、BBがここへ乗り込んで来た理由の大きな部分を、キアラのサーヴァント化と人理への介入が占めている。彼女を御し得るのは虚数空間を使役するBBの他になく、キアラへの対抗策としてムーンセルにより送り込まれたのだ。
「能動的に世界線を越えられる人なら、ホームズさんでもと思い試算しましたが、不確定要素が多すぎて…。わたしはこのカルデアで霊基の世界移動を管制、送り出しと迎え入れの処理をしなければならないので、実際に向こうへ行ってサーヴァントと交渉・勧誘・引率してくれる方が必要です」
 何をするにも演技臭さのあるBBだが、その苦悩の表情は実に真に迫っていた。彼女の監視下にある限りキアラに勝手な行動は取れない。しかしそのキアラを別の世界に送り出せば一体何が起こるのか。このカルデアで本性を隠している、その反動を彼女が抑える義理などどこにもない。
 ぴたりと止まってしまった議論の流れを見遣り、いつの間にやらBBの背後で椅子に腰かけていたギルガメッシュが顎に手を当てた。ふむ、と何か考えるような素振りを見せ、すぐに口を開く。
「アンデルセンをここに」
 
 
「は、あの女の手を借りる? やめておけ! やめた結果で滅びるならば人理も本望だろうよ!」
 低く張りのある声が、朗々と森に響いた。
「いいか、あの毒婦は人じゃない。人道に則る情もなければ道徳も常識も通用しない。今は多少お行儀よく取り繕っているが、アレの本質は我欲のために人類を滅ぼす魔性菩薩だということを絶対に忘れるな。破滅するぞ」
 執筆作業の邪魔をされた作家は少々不機嫌だ。意見を求めただけなのに、なぜか皆で説教されているような雰囲気になる。
 別の世界、別の宇宙の月で行われた聖杯戦争において、彼はキアラのサーヴァントだったのだという。その戦いの記憶を彼が持っているのか否かは、頑なに口を閉ざすため定かでない。しかしキアラが彼を覚えており格別な感慨を持っていることは確かで、実際このカルデアに顕れたキアラの面倒を全て押し付けられたのもアンデルセンだった。
 森の中心に仁王立ちになった可愛らしい子どもは、しかめっ面のままで問い掛けた。
「しかし、よりによってあの淫獣の力が必要とは…何をしようとしている?」
 BBからの手短な説明を聞くうちに、彼のしかめっ面は苦虫を嚙み潰したようなそれへと変貌していく。呼びつけられた用は済んだのだからさっさと帰れば良いものを、自ら首を突っ込んでしまうところが彼の人間臭いところだった。
 
 サーヴァント達が固唾をのんで見守るなか、長々と溜息を吐いた永遠の少年は眼鏡の蔓を押し上げ、地を這うような声で言った。
「それを行うのが殺生院キアラである、という一点を除けば…むしろ適任だと俺は考える」
 サーヴァント達がざわめいた。
「アレほどに人の心の機微に精通した者はいない。めぼしい者を選ぶ目も、懐柔・誘導のスキルもお手の物だろう。むしろ行き過ぎて洗脳する恐れがあるくらいだ」
 アンデルセンの言葉には異様な説得力があった。彼は長すぎる白衣の裾を翻し、森の入り口へと踵を返す。
「人手不足は分かっている。実行するなら邪魔はせん。せいぜいキアラのサーヴァントごっこが破綻しないことを祈っておけ」
 どうせ消え去る場所ならば、とあの女が剪定される世界で悦楽の限りを尽くす可能性は、全く低くないぞ。そう言い残し、彼は議場を後にした。後に残されたのは頭を抱えるサーヴァント達だ。ギルガメッシュは口の端を上げて笑うと、考え込む者たちへ無慈悲に宣言する。
「目を瞑り、顔を伏せよ。『どちらでもよい』はナシだ。ではまず…計画の実行に賛成の者、挙手せよ」
 
 
 
「僕ね、憧れてたんです」
「何にだい」
 夕食のコロッケをつつきながら、ジキルは言った。
「キャスタークラスの強敵に向かっていくとき、メアリと黒髭が前に出て、その後ろにアンとキャプテンがこう、四角形というか台形というか」
「ああ」
 アサシンのエミヤの脳裏に、海賊たちの戦闘の様子が浮かぶ。近距離での戦いを主にする二人がまず斬り込み、背後から銃砲火器が支援。彼らの戦闘スタイルだ。
「アサシンクラスの時は、王様が前に出てイリヤとエレナさんが後ろに」
「なるね。ああ…うん」
 ジキルの言わんとすることを察し、エミヤは曖昧な声を出した。
「フォーメーションがね、格好よくて羨ましいなあって…」
 暗殺者の戦闘はあまり真正面からの戦いにならないし、なったとしても個々が好き勝手に動くから連携することはあまりないな、とエミヤは思った。しかし冬木からバビロニアまでたった一人で竜を捌き続けた最古参に敬意を表し、野暮な口は挟まず温かなポトフを口へ運ぶ。
 手が止まりがちなジキルの視界へ、エミヤは肘でドレッシングを押しやった。初めてサラダの存在に気付いたように、ようやく彼は手付かずの野菜にそれを掛ける。
 
「…どんなひとが来てくれるんだろう。いや、本当に来てくれるのかな」
「考えても分からないことは考えない方がいい」
「本当に、来てくれるのかなあ…」
 軽く溜息をついて、エミヤはスプーンを置いた。彼は食事を済ませるのが早い。
「断られたところでいつも通りさ。また運を天に任せて駆けずり回ればいい」
 数時間前に送り出したキアラには、カルデア一同からけして無理強いをするな、条件に適うサーヴァントが居なければすぐに帰ってこいと再三再四、念を押してある。あとは彼女の手腕と良心――仮にそれが存在するならば――に祈るしかない。
 前代未聞なサーヴァントのスカウトに、食堂の雰囲気もどこか浮足立っていた。いつもより騒がしい雰囲気の中で自問自答を繰り返すジキルは、空のスープ皿をスプーンで掻きながら小さく苦笑する。
「この感じ、エルキドゥを呼んでいた頃を思い出すなあ」
 つられてエミヤも自嘲気味に呟く。
「…今と違って、木の芽とつくしばかり食べていたが」
「三食よもぎとワカメのこともあったし」
「人以外の獲物を仕留めるのにあんなに必死になるとは…」
 
 愛用のWA2000で懸命に鹿や猪を狙った苦い思い出は、暗殺者をして背後の警戒を怠らせた。
「待て、待て。何の話だ」
「王様!?」
 使用済のトレイを下げようというのだろう、盆を持ったギルガメッシュが、怪訝そうな顔で二人の会話に耳を傾けている。
「気にしないでくれ」
「山菜摘みに行ったときの話を少々」
 エネルギー不足も資金難も今に始まったことではないが、そんな中で運任せの大掛かりな召喚を何度も行うのは至難の業だった。それでもなんとかエルキドゥを召喚したいと、その頃サーヴァント達は自主的に食費の節約に努めていた。つまり自給自足、というより狩猟採集だ。
 なにしろ本来なら不必要なものなので、無駄を省くなら真っ先に手を付けるべきなのが食事だったのは間違いない。しかし人並みの三食に慣れてしまった彼らにとって、味気なく貧相で低カロリーのメニューは辛いものだった。
 
 エルキドゥ召喚計画は賢王には秘密で進められていた。よって、彼の食べるものはもちろん、彼の目の届く範囲では旧来通りの食事を出すよう運営スタッフに計らわせていたのだ。しかしもはや言い訳は通用しない。ギルガメッシュは背を丸め二人の顔を覗き込むと低く言う。
「もし次に同じようなことがあれば、我にも同じ食事を供せよ。不愉快だ」
「心得ました…」
「叱っているのではない。顔を上げよ」
 畏まるジキルの手に、賢王がワインボトルをぽんと手渡す。どこから出したのかなど考えるまでもない。古びたラベルには流麗な字体で60年ほど前の西暦が印字してある。
「前祝いにくれてやる。飲んだらもう今日は休め。果報は寝て待てと言うであろう」
 前祝い、とジキルは鸚鵡返しに口にした。ギルガメッシュは何も言わず、しかし目元は笑ったままで歩き去る。食堂の出口で合流したエルキドゥと何か言葉を交わしている様子だったが、アサシンたちはそれどころではなかった。
 完全に地に足が付いていないジキルと、普段よりほんの少しだけ饒舌なエミヤは、上等な酒の匂いに集まって来た吞兵衛たちと、柄にもなく賑やかに夜を過ごした。
 
 
 
 翌日、カルデア標準時1800。乾期の始まりの夕暮れは雲一つなく澄み渡り、高山の頂から見晴るかす天球の下限、地平線のあたりには北斗七星が輝く光を覗かせている。霊基召喚室ではなく、管制室に集まったサーヴァントたちは、カルデア職員たちのデスクや各種機材の隙間で押し合いへし合いしながらその時を待っていた。
 陣頭指揮を執るBBの声に緊張が走る。レイシフトから帰還するときに酷似したエネルギーの渦が表れ、サーヴァントたちは思わず歓声を上げた。
 収束した光の中から現れた後ろ姿のキアラは、カルデアの床に着地しながらも依然その白い手を渦の中へ差し伸ばしている。手首から先はノイズが掛かったようになって見えない。あの先にまさか、と皆が察した時だった。ぐっと彼女が強く手を引くと、そこには籠手に覆われた掌がしっかりと握られていた。手首から伸びる腕も黒い防具で守られている。
 二の腕に巻かれた黒い布。剝き出しの首が露わになったと思った途端に、艶やかで長い黒髪がばさりとこの世へ飛び出してきた。勢いよく現れた上半身に踊る、紅も鮮やかな大輪の牡丹。皆があっと驚く暇もなかった。最後はキアラの手を借りず、時空の狭間に足を掛けるようにしてひょいと飛び出してきた男は、鍛錬を積んだ者特有の軽やかな身のこなしですっくと立ちあがる。その目はまるで星のように煌めいていた。
 
「いよぅ! なんだ、大勢でお出迎えかい、有難いね」
 底抜けに陽気な声。露わになった青年の全貌もまた、サーヴァント達の目を釘付けにした。見るからに気さくで、しかし隠す気の無い、むしろ誇るような無法者の風体で、その目付きも体つきも武の道に生きた者のもので。
 あまりのことに静まり返った管制室を誤解するのも無理はない。青年は気まずそうに頭のあたりに手をやると、少し不安げに言う。
「あーっと…何かお気に召さないところでもあったかな? もっと強力なアサシンをお望みだったなら申し訳なかったが…」
「まさか!」
 勢いよく言葉を遮って、ジキルが彼へ歩み寄った。
「ヘンリー・ジキル、アサシン。このカルデアに召喚された最初の英霊だ。ここのサーヴァントを代表して言わせてもらう」
 ジキルは両手を差し出して、青年の籠手に覆われた手を取り握りしめた。
「君を待っていた。本当に、よく来てくれた。よく来てくれた…!」
 そこから先が言葉にならない。青年の手を手荒く上下に振りながら感極まっているジキルをよそに、静かに近付いて来たアサシンのエミヤが淡々と問い掛ける。
「真名を聞いてもいいだろうか」
 その答えに皆の注目が集まったのが分かったのだろう。ジキルの勢いに面食らっていたらしい彼だったが、にやりと笑って芝居がかった声音で告げた。
 
「我が名は燕青。奇書水滸伝よりまかり越した、しがない侠客だ」
 よし! とガッツポーズを取る声やハイタッチの音は、割れんばかりの歓声の中からも聞き取れた。ここに至ってようやく自分が大変、物凄く、滅茶苦茶に歓迎されている実感が湧いてきたようで、燕青は逆に居心地が悪そうだ。どこに目を遣ればよいのやら、と戸惑う風情の彼の隣で、おっとりとキアラが微笑む。
「いかがでしょう? 我らが埴生の宿にぴったりのお方と思いお連れして参りましたが」
「キアラさん…!」
「ああっ…そんなに激しく…」
 ジキルはキアラにも握手を求める。そのぶつかるような勢いに押されてふらつきながら、キアラはねっとりと喜色の籠った声を上げた。
「アサシン、エミヤ。君の武勇に比べれば語れる逸話など無い存在だが、よろしく」
 冷静なエミヤの言葉に燕青は頷き、二人は軽く握手を交わす。
「このカルデアは慢性的なアサシン不足でね。僕が来るのも遅かったから、彼は独りで大変な苦労をしてきたんだ」
 キアラに抱き着かんばかりのジキルを皆が必死に止めている。その様子を見遣りながらエミヤは、これからこき使われるぜ、と新たな仲間へ皮肉気に言う。しかし燕青は目尻を下げて笑ってみせた。
「はは、嬉しいねえ。ようやく戦えるんだ、誠心誠意で働いてみせるさ」
 
 エミヤがその意味を問い返す暇はなかった。ようやくキアラから引き剥がされたジキル以下、カルデアの無頼漢や凶状持ち、アウトローに兇賊たちがよってたかって押し寄せる。人波に呑まれ流されるように、燕青は管制室から連れ出された。よく来た、有難う、宜しく、嬉しい、周囲から投げ掛けられる言葉はまるで豪雨のように彼へ降り注ぐ。あとは中華とか満貫全席とか誰かに指示するような声も聞こえたが、問うより先に「酒は飲めるな、よし」と断定の言葉をぶつけられた。
 酒と賭博と素手での闘争は自由。一人の王と一柱の神の下に全てのサーヴァントは平等。もめ事はサーヴァント内での自治会議で解決、御法度は同胞殺しのみ。モットーは『陽気なギャングが地球を回す』…周囲から口々に浴びせられる説明も、そこまで来れば十分だった。遂にげらげらと笑い出した燕青の肩を抱くように、サーヴァント達は食堂へ雪崩れ込んだ。既に準備が始まっていたようで、そこには料理が並び始めている。
 
 かつて優秀なマスターにより、潤沢なサーヴァントに恵まれたカルデアへ召喚された彼は、自分の霊基が保管室へ移されることに何の否やもなかった。そこには既に彼よりはるかに優れた者たちが居て、己の出る幕が無いことなど明白だったからだ。
 飲み食いすることは勿論、笑うことも何かを深く思う暇すらなく眠りにつき、目覚めた時にはカルデアが崩壊しようとしていた。座へ還っていく英霊たちの背を見送りながら、彼には何の感慨も湧きはしなかった。そこへ現れた尼僧の正体が何であれ、誘いに乗って失うものなど何も無い。ええいままよ、と飛び出してみた別世界、まさかそこに広がるのが梁山泊めいた有象無象の巣窟とは思いもしなかった!
 隣に座った同郷らしい赤髪の男に燕青は小酒杯を握らされた。乾杯の音頭が取られてもなお、彼の笑いは止まらない。これから何が起こるにせよ、無を下回ることはあるまい。物語から生まれた彼に生前の記憶などあるわけもなかったが、浪子燕青を形作る逸話はいつも無頼の仲間たちに取り巻かれている。彼はなみなみと注ぎ渡された白酒を一息に飲み干した。現界して初めて味わう酒は、胃を焼くように熱かった。
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