堂々たる体躯の男が独り、ちまちまとした作業をしている。分厚い胸板を丸め、冷たい床に座り込み、一心に壁と向き合って小刻みに手を動かしている。
「おい、四ツ角!」
 後ろから声を掛けられたことにも気づいていないようだった。彼は壁の凹凸にやすりを掛け研磨する作業に没頭している。そのまめまめしい動きに、大柄な肉体を惜しみなく躍動させ戦場を駆ける竜殺しの面影はどこにもない。
「四ツ角! ジークフリート! ええい飛び蜥蜴め、早う来ねば茶菓子が無うなるぞ!」
 部屋の出口からキャンキャンと茨木童子が吠え立てた。大きめのTシャツに短パン、ご丁寧に三角巾まで着用した彼女は小学生の調理実習姿にしか見えないが、その額から生えた二本の角と手足の先の禍々しさだけが、どうにか鬼の威厳を醸している。
 
 茨木の大声と地団駄にも関わらず、ジークフリートは完全に自分の世界へ入り込んでしまっているようだった。もう一度呼び掛けようというのだろう、口元に手を添える茨木に先んじて、彼の頭上に金色の円環が出現した。
「…!」
 突然こつんと頭に落ちて来た固い感触にジークフリートは背を震わせる。ようやく我に返った彼を見て、いつの間にか茨木の背後に立っていた賢王は呆れたような声を出す。
「あまり根を詰めるな。休憩と言うておろうが」
 先に食堂へ行っていたはずの彼だが、二人が来ないことに気付いて引き返してきたのだろう。申し訳なさでジークフリートの表情が僅かに曇る。
「ああ、す…」
 そこまで言って口癖に気付き、彼はぐっと口を噤んだ。その言葉は仲間たちから禁止されている。言い換える方法を考えつつ、ジークフリートは空から降って来た飴玉を口に入れ微笑んだ。
「ありがとう。いま行く」
 
 食堂では動きやすい格好をしたサーヴァント達が思い思いの場所でくつろいでいた。普段は銀の鎧を身に纏っているベディヴィエールでさえも、今日はタンクトップ一枚とジーンズを着たきりだ。銀の腕と肉体が接合する部分も剥き出しになっているが、今更そこに注目する者もいない。
「飲む物は足りておるか」
 問い掛けながら入って来たギルガメッシュへ、一同は口々に問題ないと返す。首からタオルを掛け髪を纏めた屈強な男たちがたむろする様は、工事現場以外の何物でもない。賢王の後に続いて入って来たジークフリートが手近な席に腰駆けると、すぐさま前へ水差しと紙コップが回って来た。
「紅茶のポットは向こうにあるよ。取ってあげようか」
 重力を感じさせない動きで鎖を操りながら、近くに座っていたエルキドゥが彼に声を掛ける。緑の髪を頭の上で一つに結び、ゆるく纏めているために普段は見えないうなじが見えた。非常に長いそれを無理に持ち上げたのだろう、ゴムやピンを駆使した様には複数人の協力、もしくは遊びが感じられる。
 ジークフリートの答えを待たず、天の鎖は器用に隣のテーブルからポットを引っ掛け取って来た。横着をするな、と賢王から窘められる様も微笑ましい。緑のひとはここに居る者のなかでは穏やかな性質だが、あまり他人に気を遣ったり世話を焼いたりするタイプではないので、それは珍しい振る舞いだった。自分の部屋のリフォーム工事ということで、少し思うところがあるのかもしれない。
 
 
 先からギルガメッシュとエルキドゥは、互いの部屋へ行くために一度部屋を出て部屋に入るのは不便だと何かにつけてぼやいていた。彼らの部屋は隣同士なのだが、ただ部屋を出入りするというそれだけの動作が面倒らしい。
 思い返せばウルクの王宮は、広大かつ部屋数が少なく、実に開放的な造りだった。サーヴァントたちが王の私室に招かれる機会はなかったが、カルデアの私室など物の数にも入らないのは想像に難くない。エルキドゥの「ギルと出会ったその日からギルの部屋で暮らした」という証言もまたサーヴァントたちの納得を深くした。
 とはいえ人理修復後も休みなく戦い続けて来た彼らだ。王と朋友の自室問題に取り組めるようになったのは、サーヴァントの数が当初の倍になってからだった。
 亜種特異点への対処の合間に、ようやく手の空いたカルデアの匠たちが立ち上がった。特に一年前の事故を経験した古株たちは、極端に物資も人手も足りなかった時期を生き抜いている。DIYは彼らの合言葉だ。
 
 多数の英霊を内部に抱え、不測の事態も予想されるカルデアの建材には、先端科学と魔術を融合させた特殊なものが使用されている。ギルガメッシュとエルキドゥの部屋を隔てる壁を撤去するためには、鋸やチェーンソーでは話にならないことくらい、彼らにも予想はついていた。
 そんなわけで前代未聞のマイルームリフォーム計画は、仁王倶利伽羅聖天象と羅生門大怨起による轟音と共に幕を開けた。二発の単体バスター宝具によって雑に破壊された壁のきわは、アガートラムによって美しい直線に整えられる。
 ロードキャメロットの働きにより瓦礫の飛散が押し留められた元ギルガメッシュ側の部屋では家具の運び出しや荷物の整理が行われ、同時に元エルキドゥの部屋から水回りの設備と通信機器が撤去された。二台のベッドはヘッドボードを加工した上で接合され、元ギルガメッシュの部屋へ設置されることになった。二人とも現状の部屋には愛着が無かったようで、私物の類いが殆どなかったこともまた工事を簡単にしていた。
 
 大工事が終わったあとは微調整と片付けが殆どだ。ジークフリートが壁や床のバリ取りに熱中している間、手の空いた者が瓦礫を片付け清掃が進んでいく。塵一つなく空っぽになった元エルキドゥの部屋には、賢王が宝物庫から取り出した多数の織物がまき散らされた。手始めに二部屋分の床の広さに足る絨毯を敷いてしまえば、もはやここに壁があった面影はない。
 ギルガメッシュの指示のもと、サーヴァント達は繊細かつ豪華な織物で部屋中の壁を飾る。元エルキドゥの部屋へは、そのまま横になれるような低いソファやラグ、クッションなどを設置した。
 機能的ではあるものの真っ白で無機質だったカルデアの二部屋は、サーヴァントたちが一日がかりで作業した結果…なんということでしょう、広々とぬくもり溢れる中東風のワンルームへと変貌したではありませんか。
 
 リフォーム祝いにと仲間達から献上された観葉植物や間接照明、揃いのスリッパなどは、王の財宝に比べれば見劣りする。しかしふたりは庶民的なそれを、楽しんで部屋に置いた。現代日本の感覚を持つ衛宮家の面々は(結婚祝いかな)と内心で思っていたが、誰も口には出さなかった。
 このリフォームはいたく賢王のお気に召した様子だった。彼はいつになく上機嫌で、大きくなったベッドへ寝具をしつらえる。部屋のど真ん中にでんと設置されたダブルベッド、その布団と枕を美しい刺繍の施された布で覆うと、部屋は一気に華やいだ。ギルガメッシュが手ずから目隠しのための衝立に、鮮やかな幾何学模様が織り出された織物を掛けて、全ての作業は完了した。
 ふたりの基本の生活空間は、家具や設備のある元ギルガメッシュの部屋側に寄っていたため、ソファやクッションの置かれた元エルキドゥの部屋側は、リビングもしくは応接間という雰囲気だ。その空間で最初にもてなされたのは、作業に従事したサーヴァント達だった。レイシフトの非番の一日を王への労働に費やした褒美として、彼らは新設リビングで足を崩し美酒に酔う権利と、王の宝たる高級絨毯で思う存分転がる権利を得たのである。
 
 
 
 彼らの部屋が実に雰囲気よく、また居心地よくなったことで、思わぬ変化が生まれた。元エルキドゥの部屋、現ウルクの応接間へ、ふらりと立ち寄る英霊が出始めたのだ。
 工事作業員への労いでもないかぎり賢王は歓待などしない。しかし追い出すこともない。だから訪れた英霊は、ダブルサイズになった寝台の上で普段通りに親しく過ごす二人をよそに、心行くまで寝転がり、気が済んだら出ていく。
 開放的な住環境に生まれ育ち、いかなる時でも臣下や下僕に付き従われるのが当たり前だったギルガメッシュと、彼の物の考え方を自らにインストールしたエルキドゥにとって、視界の隅に転がっているサーヴァントが何人居ようと振る舞いを変える理由にはならないのだろう。
 
 この応接間を誰より気に入ったのが、茨木童子だった。彼女はかつて、世界の終わりを前にしたウルクで賢王に召喚されたサーヴァントだ。
 もちろん一度彼女は座に戻り、新たにカルデアへ召喚されたわけなので、厳密にはウルクの彼女と今の彼女を同一視することはできない。それでも茨木の霊基には賢王の記憶…というより、躾の厳しかった母親に相対する感覚、のようなものが染み付いてしまったらしい。どこか意識的に「ギルガメッシュ」と呼び捨てる様もまた、反抗期の少女を思わせてサーヴァントたちから楽しまれていた。
 とはいえ彼女とエルキドゥは全くの没交渉であったし、むしろ茨木はエルキドゥを内心で苦手に思っていた。人間ありきで存在する鬼の首魁として、人そっくりの人でないものには、一体どういう感情を持てば良いのか分からなかったのだ。
 
 労働の褒美に思う存分ゴロゴロした絨毯の感触が忘れられず、茨木が遂にふたりの部屋の前に立ったのは、工事から一週間ほど経ってのことだった。逡巡すること数分、呼ばいの声を発する前に、音もなく扉が開いて彼女はぎょっとする。
「君は…」
 応接間のクッションに顎を埋め、腹ばいになっていたエルキドゥは、立ち尽くす小鬼の姿に目を丸くした。結ばれていない髪が頭を要に扇状に広がり、絨毯の上に見事な流れを作り出している。茨木は事態を理解して思わず天を仰いだ。ここはふたりの部屋なのだ。普通なら部屋の主が居ない限り扉が開かれることはないが、ふたりの部屋なら片方が出掛けていることだってあり得るのだ。
 茨木はアクシデントに弱い。苦手だと思っていた相手と突然の二人きり、避けようのない状況に固まっている彼女のもとへ、エルキドゥは立ち上がりゆっくりと近づいてくる。…何かがおかしい。
 エルキドゥの長いながい緑の髪は、一足ごとに短くなっていくようだった。それに反比例するように白い額が盛り上がり、一対の緑の角が生えてくる。いや、それを角と呼ぶかどうかは議論の余地があるだろう。形は見事な牡鹿のそれだったが、翡翠のように半ば透き通り枝分かれした幹には、薄く繊細な葉が付いている。
 
 エルキドゥは茨木と視線を合わせるように腰をかがめると顔を伏せ、棒立ちになった彼女の角に自らのそれをこつん、こつんと押し当てた。…まるで鹿や山羊が群れの仲間へ行う挨拶のように。
「素敵な角だね」
 にこりと微笑みかけたエルキドゥの髪はもはや、ショートカットと呼べる長さになっている。もともと中性的な顔立ちが、髪が短くなったことでよりシンプルな印象になった。何の不純物も雑味もない自然の嬰児は、その角のせいで動物・植物・鉱物の境さえ飛び越えてしまったようだ。彼とも彼女とも言えぬ緑のひとは、白い指を伸ばすと茨木の角の先へ触れる。
「とても立派だね。尖っていて、すごく強そうだ」
「…そうであろう。そうであろうとも!」
 ようやく我に返ったように、茨木は声を上げ胸を張った。
「ギルに何か用だったかい? そうじゃなければ…」
 エルキドゥは僅かに扉の前から体をかわし、暖かく柔らかく居心地の良い応接間を手で指し示す。雪山の頂にある窓の無い部屋のはずなのに、そこにはウルクの日差しが見えるようだった。
「…僕はこれから昼寝の時間なのだけれど」
 金色の視線には、その先の意図を含んでどこか茶目っ気が見えた。
 
 
「吾ほどではないが、汝の角もなかなか良かったぞ! 神秘的な感じが良い!」
「本当? 嬉しいなあ」
 言いながらエルキドゥはするすると髪を縮め、にょきにょきと角を生やして見せる。翡翠の幹から枝が分かれ葉が芽吹く様子は、茨木を何度でも楽しませた。
「貴様ら、斯様に喰い続けて夕餉は入るのか」
「別腹だよ、ギル」
「その通り!」
 絨毯の上で腹ばいに寝転がったふたりの手の届く範囲には、焼き菓子の盛られた皿が幾つも置かれていた。その自堕落な様子に溜息をつきながら、ギルガメッシュはベッドの上で粘土板に目を通している。
 エルキドゥと昼寝して以来すっかりこの部屋の常連になった茨木は、しかし彼女ならではの生真面目さで「他人のねぐらに何度も手ぶらで押しかけるのは如何なものか」と思ったのだろう、何がしかの手土産を持参するようになった。それは大体、厨房のスタッフからせびった菓子の類であり、時には季節の果物にもなった。
 ギルガメッシュはエルキドゥに甘い。君にばかり貰うのは悪いなあ、と呟き終わるときには既に、たっぷりとバターが使われた甘い菓子が山盛りに用意されている。この部屋は茨木の天国だった。
「肥え太って背丈より身幅が増える小鬼も見ものよな」
 ギルガメッシュさえ居なければ。
 
「うるさい煩い五月蠅い! さ、サーヴァントゆえな! 何をどれだけ喰らおうが霊子の目方など変わるわけがなかろう!」
 咄嗟に顎の下に置いていたクッションを投げつけるが、それはギルガメッシュの眼前で金色の円環に飲み込まれ、茨木の頭上に出現したそれから吐き出される。たっぷり綿の詰まったクッションを後頭部で受け止めて、尾を踏まれた猫のような声を出す茨木を横目に、エルキドゥは次の菓子へ手を伸ばす。角の重みに慣れないようで、なんとなく首が座っていない。
 間抜けな状況に高笑いしながら、ギルガメッシュは部屋を出て行った。先ほどまで目を通していたのが亜種特異点へ赴いた先遣隊からの報告であることを茨木は知っている。ここに棲むサーヴァントという群れを頂点で治め、自ら働くことを厭わない賢王の在り方は、彼女としても一目置かないわけではない。
「ふん…好き勝手に喰ろうているのはエルキドゥも同じというに、奴の依怙贔屓はあからさまで好かぬ」
「まあ、僕は体格を好きに変えられるからね」
 どことなくボルテージの下がった悪口へ、エルキドゥは事もなげに答えた。何の過不足もない正論に、茨木は黙らざるを得ない。むう、と唇を突き出していた彼女は、隣でくらくらと危うげに頭を振りながら菓子を摘まむ姿を見て、ふと思う。
 
「汝は、ずいぶんと髪が伸びたな?」
「伸ばそうと思えば幾らでも伸ばせるけれど…」
 言うが早いか角を引っ込めずるずると髪を伸ばしていく。横たわっているので分かりづらいが、どうやら身長を縮めながら泥を融通しているようだ。緑の髪の奔流に巻き込まれながら、いやそうではなくてな、と茨木は制した。
「ここへ来たばかりの頃はもっと短かったであろう。汝の基本形、というものがあるのか知らぬが…肩を少し過ぎるほどではなかったか」
「ええと…そうだったかな」
「そうだ。それが気付いたときには背を過ぎ腰を覆い尻、腿、脛と…。床に付くと言って髪を括り始めたのはいつだ? 最近ではないか?」
 別段、彼女は人の容姿に注目するような性質ではない。ただ、茨木が暴れまわった平安の御代において、長く艶やかで真っ直ぐな髪の毛は美女の第一条件だった。
 もちろん前提となるのは、みどりの「黒髪」であったが、彼女もそれなりに気を遣って自らの髪を手入れしている。ようやっと背を覆う程度の自らの髪に比べれば、エルキドゥのそれは憧憬の対象ですらあったのだ。
 
「もしかすると…伸びたかもしれない」
 驚異の大発見をしたかのようなその顔付きに、茨木は脱力し勢いよくクッションへ顔を埋めた。辺り一面にわだかまり、たぐまったままのエルキドゥの髪が、彼女の痩せた上半身を緩衝材のように優しく受け止める。
 霊基の強化に伴って外見の変わる英霊は居るが、魔術師から何の手も加えられないまま、自然に少しずつ変化していくというのはサーヴァントの在り方を逸脱しているだろう。
「これは大事ではないか…? 何故にサーヴァントの髪が伸びる…?」
「どこかから泥を持ってきてしまったのかもしれない」
 エルキドゥは答えつつも、自分の言葉に納得はしていないようだった。茨木も同じ気持ちだ。緑のひとは神造兵器であり、その見た目の他に人らしいところはなく、サーヴァントの能力をも凌駕している。
 
 英霊ならば傷付いた霊子を癒すのは魔力のほか無いが、世界を構成する力の一部であるエルキドゥは自然そのものから力を得ることができる。ゆえに戦闘中、攻撃を受けて欠けた体を補うために足元の地面から泥と魔力を吸い上げることもままあるが、英霊エルキドゥとして座に記された霊基の上限を越えることはできないはずだ。
「…起きたらギルガメッシュに尋ねてみるか」
「そうだね。ギルなら分かるだろうね」
 考えたところで結論が出るわけもない問題へ、ふたりは早々に白旗を上げた。なにせこの部屋は暖かく、柔らかな絨毯の毛足は絶妙な長さで柔らかなクッションもあり、そしてふたりは満腹だった。
 猫の仔のように体を丸める茨木の体の上へ、さわさわとエルキドゥの髪が乗り上げてくる。絹糸もかくやという艶やかな緑の髪は、レース編みのようにふうわりと彼らの体を包み込んだ。
 うとうとと穏やかな眠りに誘われた茨木は、抵抗することなく心地よい夢に落ちていった。緑のひとの美しい髪からは、木陰の澄んだ空気のにおいがした。彼女の夢が、草間の繭のなかで春を待つ蝶のものだったのも無理はない。 

 
「起ーきーよ。いま何時だと思っている」
 男の大声で春の夢は破られた。不愉快を音にしたように、ぐうぅと唸る茨木の隣で、エルキドゥはぱちりと目を開ける。窓が無いので体内時計に頼るしかないのだが、非常に精度の高いエルキドゥのそれは“夕食時”を指し示していた。
「おはよう、ギル」
「何がおはようだ。まさかあれからずっと寝ていたのではあるまいな」
「まさか…」
 なにやら一仕事済ませて来たらしいギルガメッシュへ誤魔化すように笑いながら、エルキドゥは勢いよく半身を起こした。
 
 その瞬間、自分を取り巻く空気が変わったことは、まどろみの中の茨木にも確かに感じ取れた。
「…にゃんだ。いかがした」
 寝起きで呂律の回らない口を無理に動かしながら、彼女はどうにか目をこじ開ける。傍らにエルキドゥが座っていて、ギルガメッシュは立ったまま自分を見下ろしている。予想の範囲をまったく出ない当たり前の光景から違和感を見つけ出すのに、彼女は少しの時間を要した。
「済まない! ああ、なんと、吾としたことが!」
 絨毯に座ったエルキドゥの背のあたりで、緑の髪はぶっつりと断ち切れていた。茨木は自分の体の下敷きになっている、美しい緑の流れに絶句するよりほかに無い。
「いや…ぜんぜん痛くなかったし、それに…」
 驚きというより不思議そうなエルキドゥを見るうちに、茨木も不自然さに気付いた。自分の体の重みで引き千切られたというのなら、もっと不揃いになるはずではないか。しかしエルキドゥの髪の先は、まるで鋏を入れたかのように真っ直ぐだ。そもそも強く引っ張られたなら切れるより先に抜けるのではないだろうか…
 
 無言で目の前の事態を凝視していた茨木は、突然ぎゃっと叫ぶなりその場で飛び上がり、ギルガメッシュの後ろへ隠れた。
「おい、なにを…」
「動いた! 動いた!」
 茨木の尖った爪先が、床でのたうつエルキドゥの髪のひと房を指し示す。おお、とギルガメッシュの低い声が漏れた。房ごとに分かれた髪が、まるで鎌首をもたげる蛇のようにゆったりとした動きで、一か所に集まろうとしているのだ。幾百匹もの緑の蛇は、身を寄せ合い絡まり合って団子状にまとまる。どんどん凝縮されているかのように、緑の団子は小さくなっていく。
 微動だにせず、座ったままで目の前の光景に見入っていたエルキドゥは、遂に口を開いた。
「…なんだこれ」
「…ん?」
 困り果てたようなエルキドゥの声で、ようやくギルガメッシュは座り込み、謎の団子へ顔を近づける。掛け布団ほどのボリュームがあったエルキドゥの髪は、今では握り拳大にまで小さく纏まっていた。困惑に眉尻を下げたエルキドゥが、白い指でそれをつつく。茨木は目を見開いた。
 指先で押され、僅かに転がった緑の団子の下側からちらりと肌色の部分が見えた。意を決したようにエルキドゥはそれを摘まみ上げ、手の上でひっくり返す。緑色なのは片面だけだった。肌色の饅頭のような顔。小さな小さな耳。上から被せただけのような簡単な白い服へ、一丁前に紐飾りを掛けている。
 
 大雑把にエルキドゥの外見を模した、二頭身の丸っこい何かは、天の鎖の掌でくうくうと寝息を立てていた。



 掌に乗るような大きさのエルキドゥっぽい物のことを、カルデアのサーヴァントは誰ともなく「グゥちゃん」と呼ぶようになった。生物かどうかも疑わしいが、とりあえず自我を持っているようだ。好きな食べ物はバターと蜂蜜、表情はぼんやりしているが動きは俊敏で神出鬼没。視線を感じて振り返るといつの間にか足元に居て、思わず飛び上がるサーヴァントも後を絶たなかった。


「見て、グゥちゃんが罠にかかった!」
 嬉々として声を上げるエリザベートの人差し指が示す先、開けっ放しにされた蜂蜜の瓶に顔を突っ込んだソレは、自分の上に竹籠が覆いかぶさっていることにも気付いていないらしい。
「知能はスズメ並か…」
「うわ、ベタベタ」
 苦笑しながら籠を開けるディルムッドをよそに、当のエルキドゥはどこか他人事だ。瓶から引っ張り出された蜂蜜まみれの姿に少し眉をひそめる。
「見た目はエルキドゥみたいなのにねえ」
「外見が似ていても性能が違えばそれは別の機種だよ」
「いや、誰もソレと貴様を同一の物とは思わんよ」
 レイシフトに同行する岩窟王が、つい、という風に声を掛けた。可愛らしいレースのハンカチで雑に拭かれたソレは、緑の髪が無茶苦茶になっても平気らしく、エリザベートの手の中でされるがままになっている。

 茨木童子は長い爪の先で饅頭のような頬を突いてみた。一応それの第一発見者である茨木だが、特別に懐かれるなどということはなく、彼女もそれを野良猫のようなものと認識している。突けば突いただけ転がってゆく謎の生物に溜息をつくと、茨木は怪訝そうに聞いた。
「しかしコレを捕まえて如何する?」
「一緒にレイシフトしようかと思って! ほら、ファンタジーの主人公にマスコットキャラは必須じゃない? 魔法少女ドラグ☆エリザ、なんちゃって」

 ちゃんと入れ物も用意したんだから、とエリザベートは茨木にポシェットを掲げて見せた。フリルがふんだんに付けられているものの、黒地に赤の水玉柄は毒林檎、もしくは病気の苺といった雰囲気だ。だらしなく座り込んでレイシフトを待つクー・フーリン・オルタが、冷ややかな目でそれを見ている。
「みんな、準備はできたかい?」
 ダ・ヴィンチの声に是と答えながら、エリザベートは“グゥちゃん”をポシェットに押し込んだ。今日の任務は既に修復された特異点の哨戒。敵はアーチャーを主力とする混成部隊、そう手間取ることもないだろう。日々のルーチンのレイシフトを前に、誰の顔にも緊張はなかった。



「断言しよう。帰還させるべきだ」
“解き明かす者”の怜悧な声が、ひときわ大きく管制室に響いた。
「これは君たちの危惧とは次元の違うレヴェルのそう、危機だ。リスクヘッジの観点から言っても問題にならない」
 なおも反応の鈍い魔術師たちに、シャーロック・ホームズは珍しく苛立ちの色を見せる。彼は杖の音も高く歩き出した。メインモニターに映し出された光景は、嵐の海辺。特異点の怪物を相手取り、アーチャーたちが粘り強い耐久戦を展開している。敵の魔力反応はかなり弱くなってきていて、時間を掛ければ勝利できる公算が高い。しかしホームズは険を含んだ声音で言った。

「まさか君たち、かの王は、年を取って人格が変わったとでも思っているのかね? 優しく慈悲深い王は、絶望の淵にあっても自分だけには情けを掛けてくれるとでも?」
 馬鹿馬鹿しい! 言い放った勢いのまま、彼は手近な椅子に身を沈めた。スタッフの困惑がさざ波のように広がって行く。その間にもサブモニターからの音声通信は緊迫した状況を伝え続けていた。エリザベートの金切り声を聞きながらダ・ヴィンチのチームが撤退のコマンド処理を進める。ようやく収束した光の渦から、最初に飛び出したのは巌窟王だった。

「フローレンス!」
 呼ばれるまでもなく、待機していたナイチンゲールが彼に駆け寄り医務室へ先導する。その腕に抱かれた物に目を留めながら。
「急患ですね。容態は」
「全く良くない。全くだ」
 ホームズもまた席を蹴って立ち上がった。
「ムッシュ、なにが」
「呪いだ、ミスター。エルキドゥは死の呪いに抗えない」
 巌窟王の足取りは焦りに満ちて酷く速い。抱えた荷物が軽いせいもある。手足のもげたエルキドゥは、不思議な塑像のように静かに目を閉じていた。背後から両手足を持ったディルムッドとクー・フーリン・オルタが並走してくる。緑の泥の破片を拾い集め、自慢の帽子に詰め込んだエリザベートが、涙を堪えて最後尾を走っていた。

「アタシを庇ったの、エルキドゥは、アタシを」
 なんとか巌窟王に追いつこうと息を切らすエリザベートを、見かねてディルムッドが担ぎ上げた。縺れ合うように医務室に飛び込む。医療スタッフによって準備された寝台へ、バラバラになったエルキドゥを横たえると、ディルムッドは彼女を諫めた。
「あの状況では最も体力があり自己回復できる者が攻撃を受けるのが最善だった。死の呪いの存在は誰にも知り得なかっただろう。君があまり悔やむとエルキドゥの判断を汚すことになる」
「でも…」
 エリザベートは寝台のエルキドゥを見下ろした。それはまったく、壊れた人形と言うより他にない有り様だった。長かった髪は無残に断ち切れ、手足は断面から徐々に崩れ、泥の破片は黒ずんでいく。本来、神造兵器であるエルキドゥは対魔力も非常に高い。生半な呪いなら受ける前に無効化できるだろう。ただ生前の逸話から、死の呪いにだけは抵抗の術を持たない――時間が無いことは明白だった。エリザベートは、はっと気付いたように叫んだ。

「王様は? 王様を早く!」
「…ギルガメッシュ王は別件でレイシフトの最中だ。戦いは大詰め。彼を欠いて勝機はなく、そして彼らは今を好機と睨んでいる」
 ホームズの声にエリザベートは眉根を寄せた。彼ら、という言葉に導びかれるまま、駆け付けてきたスタッフたちに目を遣る。彼女が怨嗟の声を上げようとした、その時だった。
「呼び戻さぬというのか?」
 人間たちの背後に茨木童子が立っていた。はち切れそうなほど膨らんだ両の振袖には、大量の緑の髪が入っている。土で汚れた指先を見るまでもなく、彼女がそれをかき集めるため最後まで戦場に残っていたのは明らかだった。茨木童子は仁王立ちのまま吼えた。


「ふざけるな」
 少女の眉間に深く皺が刻まれ、口が耳元まで裂け上がっていく。獣の威嚇より更に凶悪な、それは鬼の面相だった。
「思い上がるな人間ども。我らは救世に力を貸しているのであって、貴様らの手先になったわけではない。黒髭にもそっと殺されねば分からぬか」
 大股で歩き出した彼女を避けるように、ひとりでに人垣が割れた。茨木童子が寝台の傍らに立つ。言葉の出ない彼女の表情が視界に入ってしまわぬよう、エリザベートは目を伏せた。そのままそっと、着物の裾に包まれた緑の髪に手を掛ける。エルキドゥの背で揺れていたとき、それは輝く絹糸のようだったが、今は土埃にまみれている。大きくひとつ息を吐き、低く唸るように茨木は言った。
「効率など知らぬ。こたびの勝利は諦めよ。急ぎギルガメッシュを呼び戻せ。二度は言わぬぞ。吾はあれに先んじてこの雪山を更地にするも吝かではない」

 引潮のように医務室から人気が失せた。徹頭徹尾、間近で起こっていた騒動には何の興味も示さずに、ナイチンゲールだけが忙しく働き続けている。彼女はエルキドゥのパーツと欠片を集めて繋ぎ合わせ、その全ての接合面をゲル状の物質で覆い、何かの配線を繋げて上からガーゼを被せた。
「あまりに破断箇所が多い。医療用ポッドの開発をもっと早く進めるべきでした」
 淡々とした口調ではあるが、声音には焦燥が感じられる。傍らのホームズが問い掛けた。
「その処置は?」
「カルデアの余剰電力を魔力に変換し注いでいます。これ以上の壊死を食い止めるために」

「それは…回復の見込みはあるのか」
 口を挟んだ巌窟王に向き直り、ナイチンゲールは告げる。
「私には根本的な解決ができません。患者に必要なのは高レベルの解呪か浄化です」
 仮に「治療」で肉体が復元されても死の呪いがある限り浸食は止まらない。しかし解呪は治癒に特化した魔術師や、聖職者のサーヴァントが持ち得る能力だ。エリザベートがヒステリックに叫ぶ。
「ココにそんな徳の高いヒト居るわけないじゃない!」

“できる。こやつ自身が”
 まるで隣に居る人へ返事をしたかのような、さりげない言葉が皆の頭の中に響いた。時を同じくして、複数の足音が廊下を渡ってくる。王の帰還を察して一同が寝台の前を開けると、時を同じくして賢王ギルガメッシュが姿を現した。引き連れられたアーチャーたちの緊迫した面持ちをよそに、彼の表情は穏やかだった。
 十数騎のサーヴァント達の視線のなか、ギルガメッシュはただ静かにエルキドゥを見下ろした。みどりのひとは今や体中に繋げられた管から人工の魔力を注がれ、なんとか現界を保っている。彼はゆっくりと手を差し伸べ、友の頬をそっと撫でると、耳元に顔を寄せて一言「エルキドゥ」と呼びかけた。うっすらと金色の目が開かれる。二人の視線はごく近い距離で交わった。

 彼らの唇が深く重なったのを、サーヴァントたちは固唾をのんで見守っていた。普段からスキンシップの多い二人ではあったが、あからさまな性愛の仕草を人前で見せることは稀だったからだ。だからこそ、それが単なる愛情表現ではないと気付くのもまた早かった。
 轟音を立てて氷河が崩れ流氷として潮流を作る、大地がひび割れ狭間から溶岩が吹き出す、そのような規模のエネルギーの流動が、ヒトの形をした二つのエーテル体の間で起こっている。
 ギルガメッシュが己の魔力を全て譲り渡すほどの勢いでエルキドゥに注ぎ込んでいるのだと、正しく理解した途端に茨木童子は叫んだ。

「やめよ! 汝が消える気か!」
 賢王の肉体は徐々に透き通り、金色の粒子として空気に溶け始めていた。二騎を引き離そうと手を伸ばした茨木を、背後に控えていた巴御前が押し留める。彼女の抗議の声は、エルキドゥの有り様によって立ち消えた。未だ五体は砕けたままだが、ギルガメッシュの魔力により急激にエルキドゥの生命感は増していた。
 ギルガメッシュはエルキドゥ自身に解呪をさせようとしているのだ。そのためには一瞬だけでも、彼が神から与えられた機能を行使できる状態にまで回復させなければならない。口付けを受けたまま、エルキドゥがいやいやをするように首を振る。ギルガメッシュの霊基はもはや、輪郭を目視するのが難しいほどに薄らいでいる。それでもなお、彼の掌はエルキドゥの頭と頬に添えられていた。

「グゥちゃん」

 唐突なエリザベートの声に、その場の殆どの者が呆気に驚き振り返った。彼女が肩から下げたポシェットが、腰のあたりでひとりでに跳ね回っている。それどころではないのに、という声が聞こえてきそうなほどエリザベートは狼狽していた。彼女は寝台から目を逸らさぬまま、震える指でポシェットの留め金を外す。
 途端に緑色の弾丸のように飛び出したそれは、制止の声を出すところか目で追うことすら困難なスピードで、ギルガメッシュのエーテル体へと「飛び込んだ」。
 賢王が完全な霊基を編み直すのと、エルキドゥの体が金色に輝くのと、寝台の上に散らばった泥のパーツが綺麗に消え去るのは、ほぼ同時に起こったことだった。膨大な魔力の放出の余韻だろう、金粉のようなエーテルの欠片がきらきらと舞い散る医務室で、しばらく声を出す者は居なかった。



 底に近い部分であらかじめ穴をあけておいた透明プラスチックの使い捨てコップがふたつ。その穴は内側からセロハンテープで塞がれている。紙パックのジュースに付いているような、短いストローが一本。食紅で色を付けた水と、ただの水。
「こちらの容器に赤い水を入れます」
 なぜかですます調で喋る赤い弓兵は、少女に見えやすいよう気を配りながら片方のコップに着色した水をたっぷりと注ぎ入れた。
「こちらには、ただの水を入れます」
 言いながらもう片方の透明なコップへ、真水を少量だけ入れる。不均衡なふたつのコップを前にして、イリヤスフィールは真剣な面持ちだ。エミヤは彼女に問い掛ける。
「ふたつの容器をストローで繋いだら、どうなると思う?」

 少女は眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「ええー…色が混ざって、両方うすピンクの水になる?」
「ふむ、やってみたまえ」
 エミヤが差し出したストローを、イリヤスフィールは注意深く用意されていた穴へ差し込んだ。その途端、赤い水の量が減り始め、真水の量が増えていく。否、赤い水が真水の中に流れ込んでいるのだ。イリヤスフィールが小さく声を上げた。徐々に赤く色づいていく水は、赤い水と同じ水嵩まで増えると、そこで止まった。まったく同じ量になった薄桃色の水と赤い水を前に、イリヤスフィールは思わず拍手する。

「時間が掛かるから今はやらないが、ずっと放っておけば、水嵩だけでなく水の色も一緒になるぞ。だからイリヤも半分正解だ」
「すごーい! なんで!?」
 少女の純粋な好奇心が優しい大人を苦しめる。
「んん…それを説明するのはなかなか難しいんだが…サイフォンの原理といって、水の位置エネルギーがだね…」
 腕組みをして唸るエミヤの背後を、尼僧がゆっくり通過していく。
「性教育ですか?」
「還ってくれ」
 振り向きもせずにエミヤが言い放つ。くすくすと笑いながらキアラは去っていったが、イリヤはえっちな単語を聞き洩らさなかった。

「お兄ちゃん…?」
「実験終了! さて、後片付けをしよう」
「ねえ、これが王様とエルキドゥさんの魔力にどんな関係があったの?」
「今日の晩御飯は何がいいかね。久しぶりに厨房に立つのも悪くない」
「ねえねえ、二つの間に管を差し込むと水が流れ込むのは…」
 弓兵の腰のあたりにまとわりつく少女の高い声が、のどかな真昼の食堂に響いている。それを横目に見ながら茨木童子は土産の柿を担ぎ直し、先を急いだ。


「イリヤが兄者と色水遊びをしておったぞ」
「幼童のままごと、愛らしいではないか」
 寝台の上で粘土板を捲りながらギルガメッシュはは気の無い返事をした。その傍らでエルキドゥは昼寝の最中だ。目覚めればきっと、こんもり積まれた茨木の土産に目を輝かせることだろう。ねっとりと甘く熟れた柿は、ナツメヤシの実を常食していた中東の英霊たちに好評の果物なのだ。茨木は戯れに一つを取って、片手でお手玉のように弄ぶ。
「昨日は父君から草木の株分けについて教わっておった。子株のできる仕組みと条件について」

 そこまで聞いてギルガメッシュは口の端を上げた。自分たちの行動が思いがけず少女の教育に与えた影響に思い至ったのだろう。ぽんぽんと柿を投げ上げながら、拗ねたように茨木は言った。
「汝は最初から分かっておったのだろう。アレが何だったのか」
「元は我のものだったのだ、気付かぬわけがあるまい」
 飄々と言い放つと賢王は粘土板を閉じ、柿をひとつ掴んだ。どこからともなく小刀と皿を取り出すと、器用に切り分け口に入れる。甘いな、と呟きながら彼はちらりと茨木の顔を見て苦笑した。

「いずれ自然に消えるものだった。安易に名など付けるからそのようなことになるのだ。一夜の夢として忘れよ」
 彼女の僅かに口を突き出した不満げな面持ちには、僅かな寂しさも交じっている。茨木はギルガメッシュを睨み付けると言い返した。
「汝らの匂いで忘れられぬわ」
「…ほう。なるほどな。いや、道理であるか」
 賢王は納得した面持ちで呟いた。

 本来サーヴァントは、英霊の座に刻まれた霊基の枠を超えることはできない。魔術師による霊基の枠を超えた強化はあくまでも外部からの加算であり、英霊の本質が変化しているわけではないのだ。だから許容量を超えた魔力を注がれても、それは大気中に垂れ流されるしかない。
 その点、エルキドゥはかなり特殊なサーヴァントだ。原初の神に与えられた「変容」の特性は、つまり『「枠を持たない」という枠』として座に刻まれている。形態、体長、質量はもちろん、各種の魔術的なパラメータさえ自在に変化する泥の兵器は、十分な魔力さえ注がれれば聖杯にすら成り得るのだ。エルキドゥに許容量の概念は無い。与えられればどこまでも貪欲に飲み込む。

 しかしカルデアに召喚されたエルキドゥは、緑の髪を持つ中性のヒトの形を基本形としている。余剰の魔力を蓄える泥を、エルキドゥは無意識のうちに髪へ回すことで人型を保っていた。だがそれにも限界がある。肥料を潤沢に与えられた植物は、その栄養で自らのクローンを作り、子株として切り離す。突然に断ち切れた髪と、そこから生まれた小さな生き物は、いわば余剰魔力の塊。外付けバッテリーのようなものだった。
 エルキドゥが「株分け」するほどに溢れんばかりの魔力は一体どこからどのように供給されたのか。それは聞くだけ野暮というものだ。

 子株を吸収することで危うく難を逃れたギルガメッシュとエルキドゥは、その後の魔力の変化について殊更に言葉にすることはなかった。元より彼らの魔力の質は似通っているところが多い。だから最初は変化に気付かない者が多かった。二騎の魔力が全く同一になってしまったことに。
 片方がレイシフト先で手傷を負うと、カルデアで待機していたもう片方の魔力量も僅かに減る。回復すれば、片方の魔力も元に戻る。そして、彼らが戦闘で受けるダメージは常に、想定される被害の半分に抑えられていた。何より茨木が「匂い」と表現する彼ら魔力の質は、あの緑の子株とそっくりだ。

「また同じようなことがあれば、汝は与えて死ぬるのか。そのために『繋いだ』のか」
 問い掛ける茨木の目には、不可解な物を前にした僅かな怖れが覗いていた。二人の間で何が行われたのか、想像するのは難くない。賢王はカルデアとのパスとは別に、自分とエルキドゥの間に独自のパスを構築したのだ。魔力を融通し合うのではなく、共有するために。それまで別々に持っていた水瓶の水を、一つの大甕に移し替えるようにして。ギルガメッシュは静かに答える。
「逆のこととて起こり得る。その場合は我が奪う側だ」
「分からぬ。互いに足を引っ張り合っているではないか」
「そうさな、戦力の頭数として考えれば否定はせん。しかし我らはもう二度と、後悔せぬと決めたゆえ」

 ギルガメッシュは傍らの友の寝顔に目を落とした。死の影の無い安らかな表情に、人形という形容は相応しくない。
「天の鎖は楔の戒めに造られた物。神どもの手を離れたのちも、我らは残されるようには出来ておらぬ。望外にここでまみえたのも縁。なれば此度は共に去ろう」
 美しい緑の髪を、賢王の手がさらりさらりと撫でてゆく。自分の傷の責めを相手に負わせるのも、傷付いた相手の仇を万全の状態で討てないのも、茨木にとっては不義でしかない。ましてやそれが好いた相手であるならば猶更だ。そして…己の身がどうなろうとも、相手だけは何の苦しみもなく生きて欲しいと願うのが、愛、というものではないのか。茨木童子は唇を噛み、暫く己の膝を睨み付けていたが、ようやく言葉を絞るように呟いた。


「…吾には分からぬ」
「良い。良いのだ」
 ギルガメッシュの声は耳を疑うほどに優しい。茨木はたまらず立ち上がり、振り返る。つい先日まで絨毯が敷かれ、心地良い住環境がしつらえられていた部屋の半分は、今や針葉樹の森になっている。この森を茨木は知らない。しかし彼女の霊基は記録している。太古の地球、マナが天に満ち地に冥界が広がる時代に彼らが拓いた神の森だ。子株の反省を活かし、エルキドゥが余剰の魔力を草木の形で切り離すようにした結果、あっという間に生い茂った。

 やはりこやつらは人ではない、と茨木は思った。人の王となってもギルガメッシュは神の子で、人の心を知ったとしてもエルキドゥは泥人形だ。己の命と相手の命、その両方をこのように、指先で形を整えるように道筋を付けてしまえるという、気の持ちようが恐ろしかった。
 ギルガメッシュにとって大切なのは一個人の存在ではなく精神活動、ひいては文化、文明と呼ばれる単位のものであるとカルデアの皆は承知している。エルキドゥはこの星を守る機構であるから、元より人間も動物の一種でしかない。彼らに人と同じような執着、愛着を求める方が間違っている。それは茨木とて分かっていた、はずなのだが。

「それでも」
「うん?」
 ひときわ高く聳える杉の木に手を置いて、茨木童子は呟いた。
「吾らは汝らを好いておるぞ」
 空の果て、海の彼方へあてもなく言葉を投げ掛けるような、途方もない感覚が鬼の少女の心を包んだ。神代の森に風が通る。賢王の手になる幻術だろう、壁も天井も消え失せた空間は、差し込む光までもが薄緑に色付いているようだ。しっとりと濡れた下草を踏み、ギルガメッシュが彼女へと歩みを進めた。温かな手が彼女の剥き出しの肩に添えられる。人でなしのくせに、と胸の裡で吐き捨てつつも茨木は、ただ俯くことしかできなかった。
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