真っ暗な部屋の中、ぽつり、ぽつりと灯りがともっている。あちらでは幾つも固まって、こちらでは一つひとつ散らばるように。押し殺した声は潮騒のように闇に満ち、息詰まるような人いきれが、ここへ居る者の多さを示すようだった。
 窓の外には月も星も見えない。分厚い強化ガラスの向こうは横殴りの吹雪だ。耳をすませば風雪がカルデアの壁を嬲る、どろどろという地響きのような音すら聞こえるだろう。十月末の気候としてはありきたりだが、今日のそれはどこか陰鬱だ。不安を煽られるようで落ち着かず、ただひたすら目の前の蝋燭の灯りに見入っていた。

「カルデアスの火は無事だ。いまは非常用電源でシステムの復旧にあたっている。自家発電機構に大事は無く、我らの居住区も順次配電されるらしい。テスラが言うのだから間違いあるまい」
 暗闇の中ではドアの開閉の気配もつかめなかったが、朗々とした声とともに灯りが入ってくる。ゆるやかに上下動しながら部屋の中心へ至った炎が、友を伴って管制室の様子を見に行っていた賢王の手にある物と疑う余地は無かった。

 彼の言葉に、そこかしこから安堵の溜息が漏れる。高山の頂に立つ施設がいまさら吹雪ごときで停電など、信じられないが起きてしまったのだから仕様がない。これは夜明けと共に原因究明の対策会議だな、と思ったところで館内アナウンスが入った。サーヴァント数騎の名が呼ばれ、部屋の電源が復旧したことが告げられる。
 本来の物とは比べ物にならない、ざらついて聞き取りづらい音声。電気に頼らぬ急場しのぎの簡易的な魔術であることは明白だった。全館に電気が戻るには時間が掛かりそうだ。星の配置か暦の巡りか、今日の大気は魔力が濃いと女史がぽつりと呟いた。彼女の名は先ほどアナウンスされている。小さな手に自らの火を持つと、こちらを少し振り返り、彼女は部屋を後にした。


 電源がダウンすると、部屋のオートロックが開かない。もちろん英霊たちにとってドアをこじ開けるなど容易だが、待っているのは灯りもなく暖房もない部屋、そして壊れた扉だ。無理やり入るよりも談話室で時間を潰す方が良いと考える者は多かった。
 スタッフから渡された非常用の蝋燭とマッチがその場の全員に行き渡っても、不思議と部屋は暗かった。皆が手に持つ炎は小さく、せいぜいその胸元を丸く照らすのみで、全く周囲へ光が放たれない。それは外の吹雪の迫力だけで消えてしまいそうなほどに弱弱しい。

 あの塔のようだ、と窓際で伯爵が呟いた。絶望の闇がすべてを塗り潰していく。己の輪郭が闇に溶け出していく、そんな夜だと。彼の声に耳を傾けていた英霊たちは、急にうそ寒さを感じた。監獄塔へ赴いた者たちは、脳裏にあの饐えた空気と苦悶の声が蘇ったのだろう。部屋に重苦しい気配が満ちる。
 ギギ、と小さな鳴き声の後で、再びアナウンスが入った。名を呼ばれた伯爵は、軽く息を吐くと指先に留まっていた蝙蝠を窓の桟へ飛び移らせる。音声伝達のため飛ばされてきた使い魔だろうが、管制室のスタッフには随分トラディショナルな魔術を使う者が居るようだ。
 みな、今日は真っ直ぐ部屋に戻れよ。こんな夜に起きていてもろくなことは無い。誰へともなくそう言いながら、伯爵は火を取り上げてぐるりと周囲を照らした。図ったようなタイミングで稲妻が走り、光に遅れて音が届いた。轟音の響く暗闇に、どこか心細げな英霊たちの姿が浮かび上がる。伯爵は何かを探るような目つきだったが、やがて諦めたように談話室を去っていった。


 ああ、頭いたい、と呻くような声がする。ごつ、ごつ、と自分の頭を叩いているのか、まさか壁に打ち付けてはいないだろう。悶えるように彼女の前でか細い炎がゆらゆら揺れる。

「こんな雷の夜には、綺麗な女の子をたくさん並べるでしょ。それで、足の綺麗な子は足首を、手の綺麗な子は手首を、半分くらいナイフで切って、お風呂のお湯に漬けるの。そうしないと、血ってすぐに止まっちゃうから。切った瞬間のぱっくり裂けた傷口からは、真っ白な脂肪とピンク色の肉が覗くんだけど、すぐに血が溢れ出して真っ赤になる。元気な子なら壁に掛かる程ぴゅうぴゅう飛ぶわ。勿体ないからすぐにお風呂へ、ぽちゃん。足首を切った子は浴槽に腰掛けさせて、手首を切った子は縁に頭を載せさせて。5人か6人、用意できたら素敵。透明のお湯へ、マーブル模様みたいに女の子の血が溶けだしてくるわ。私はゆっくりお風呂に浸かりながら、女の子の体がどんどん白く透き通っていくのを見ている。明かりは蝋燭一本でいいの。窓の外の稲妻が、一瞬ぱあって辺りを真っ白に照らす瞬間。その時に浮かび上がる女の子の青ざめた肌と、薔薇色の湯船のコントラストね。あんなに心が満たされる時はない。女の子たちの血と命で、アタシはもっと美しくなる。いちばん綺麗に、いちばん残酷に、いちばん贅沢に、自分の欲望を満たす」

 あれが見られたら頭痛なんて吹っ飛んじゃうのに、と竜の娘はうっそり笑った。ほどなく自分の名を呼ぶ声に、彼女はいかにも大儀そうに立ち上がると、竜尾を引きずるようにして部屋を後にする。…と、戻って来た。テーブルの上に置き去りにしていた自分の火を取る。
「夜明けまでアタシの部屋に来ないでね」
 見たくなっちゃうから、と呟いた彼女の顔を、小さな火が下から照らす。血が滲んだような唇が耳の下まで裂けていた。



「サムハインの夜だな」
 声の主に驚いた。部屋の隅の床、周囲の暗がりより一層色濃い大きな黒は、ケルトの狂王に他ならない。しかし彼が自分から口を開くところを見たのはこれが何度目だろう。
「今年死んだ者の霊が旅立つ日。かつて死んだ者の霊が帰る日。生と死が混濁する。俺たちの暦ではこの夜からが新年だ。境界を越えるとき、そこには必ず歪みが生まれる」
 低く小さな声だったが、周りが身じろぎすらしないため、それははっきりと聞き取ることができた。外の吹雪すら、畏まったかのようになりを潜めている。

「…むかしメイヴが、クルアチャンの城で新年を迎える宴を開いた。そして余興に悪趣味なことを言いだした。処刑場の絞首台に吊るしたままにしている罪人、その足首に小枝を結んで来るものはないか、と。サムハインの夜には妖精や、自然界の霊魂も現れる。まだ旅立っていない死者の霊が、恨みを晴らそうとすることもある。怖気づく者のなかで、ようやく一人、挑戦者が現れた。奴は浄化と魔除けのために、松明に煌々と炎を焚いて、処刑場へ向かった」
 話の筋をなぞるように、狂王は床に置いていた自分の火を引き寄せた。暗闇の中に濃淡で彼の姿が浮かび上がる。

「絞首台に着いた男は、指示の通り死体の足に小枝を結んだ。するとどうだ、死体が目と口を開け、水を飲みたいと言い出した。罪人の魂はまだ旅立っていなかったのだ。仕様が無いので男は死体を背負って家々を回り、恐れ遠ざけられながらもなんとか水を得て罪人に飲ませてやることができた」
 語り続ける狂王の背後で、弱弱しく照らされた観葉植物の曖昧な影がざわざわと揺れている。彼の吐息で火が動くせいだと分かっていても、落ち着かない。

「男は褒美を貰うためにメイヴの城へ戻ろうとして、驚いた。サムハインの夜に力を増した地霊たちが、城に火を放ち人間たちを皆殺しにしている。立ち竦む男に死体は言った。『これは幻だ。しかしお前が人間に警告しなければ、来年のサムハインにこの幻は現実となる』。男は急いで城へ戻り、メイヴに事の次第を話した。メイヴはすぐに軍を率いて地霊の国を攻め滅ぼした。夜明けに殺された地霊たちは、次のサムハインまでの一年間、この世に留まり苦しんだという」

 語り終えると狂王は、ふう、と長く息を吐いた。小さな火は危うく消されそうにちらちらと瞬く。彼が火を庇うように手で囲い、のっそりと立ち上がると、計ったように蝙蝠が狂王の真名を告げた。
「火を離すな。冬に備える熾火のように」
 そう言い残すと狂王は、ゆっくりと部屋を後にした。



「不思議な話、私もあるわ」
 張り詰めた沈黙をなんとかかき混ぜるようにして、女の声が闇に響いた。皆の視線が発言者を探し彷徨う。壁に寄り掛かって立っていたのだろう、床に置かれた彼女の炎にぎらりと何かが反射した。抜き身の刃物だ。微かに湾曲した刃渡りを小さな炎にゆっくり翳して、彼女は訥々と語り出した。

「あの夜、六甲越で丹波へ出ようと思っていた。峰ひとつを歩いて越えて、もう少しで人里に出るかなって。月が明るかった」
 ぱちんと音を立てて鞘に納めた刀を、彼女は大事そうに胸に抱く。
「それは長い一本道を、いきなりすーーーっと来た。ごーーーって地鳴りがしたようにも思う。私は反射的に近くの木の枝に飛びついた。身一つで」
 低い声でそう言うと、彼女は一息ついて何かを思い出すような素振りを見せた。

「通り魔、なんて言うけれど、あれがそうなのでしょう。それが通り過ぎたあと、あたり一面のすすき野原に、こう、三尺くらいかな、帯みたいに溝みたいに、そこだけ刈り取ったようになって、すすきの穂先がきれいに落ちてしまっていた」
 ようやく皆は彼女が遭遇したものについて想像することができた。

「四つ足の獣じゃなかった。蛇や百足のたぐいでもない。棘も鱗もなかった。ただもう、塊だった。黒いものだ、影の塊だ」
 ふだん明るい彼女だからこそ、潜めた声には鬼気が混じる。
「幽霊か妖怪かなんて分からない。何も分からないけれど、とにかくあれは魔のもので、それは何の前触れも無く訳も無く、誰もが行き合い得るということね」

 そう結論付けて、彼女はもう一度息を吐いた。奇譚というより天災の方が近いような話だが、化学の発達していない時代は、目に映るあらゆるものが奇譚だったに違いない。
 僅かにざわつく闇の中、彼女のすぐ傍らから声がする。



「それでは拙僧も小話をばひとつ」
 剃髪した僧侶が彼女の隣に立っていた。彼は自らの火を手に持ち、胸の前で掲げるようにして話し始めた。
「寺院でともに学んだ仲間にたいへんな男前が居た。色好みでもあったのだろう、人目を忍んであれこれ遊んでいたらしい。だがそのうちに奴は自分の行いを恥じ、大いに後悔した。そして二度とここへは戻らぬ、深山幽谷へ赴き更に厳しい修行へ身を投じる、と決意した」
 堂々と響く声は、なるほど読経で鍛えられたものだろう。怪を語るには少々、安定感があり過ぎるかもしれない。

「関係を持っていた女はその決心を聞き酷く悲しんだが、その僧の出立の日になると健気にも見送りに来た。別れ際に女が渡したものは、僧衣に締める一本の細帯だ。『あなたのご健勝を祈って縫いました、私の形見と思ってお持ちください』と。僧はその帯を腰に巻き、振り返ることもなく歩き去っていった。…それから季節が幾つか巡り、かの男から文が届いた」
 僧侶がにやりと笑ったのが、灯りに浮かび上がった陰影で見て取れた。思わず皆、身構える。

「あの日、寺を後にした僧は、目指す霊山へ行きつく前に宿場で宿をとったのだという。飯を食い、衣と帯を揃え衝立に掛けて眠ったところ、暫くして奴は目を覚ました。暗い部屋は、しんと静まり返っている。だが何かの気配を感じ、床から立ち上がり、手燭に火を入れた。すると…」
 僧侶の呼気を受けて手元の灯りがちらちら揺れる。
「ぼうと浮かび上がった衝立から、掛けておいた帯がばたりと落ちた」

「帯はそのまま蛇のように、ずるずると這って布団の中へと入ってくる。奴はもちろん驚いたが、帯はもちろん帯のまま、蛇に変じたなどということはなかったという。しかし怪異には変わりない。むんずと掴むと持っていた小刀で、奴はその帯を切り裂いた!」
 徐々に高められた語気、最後の言葉が暗い部屋に鈍く反響する。たっぷりとその余韻を聞いてから、僧侶は低く言葉を紡いだ。
「帯には女の髪がみっしり縫い込まれていたらしい」



 名を呼ばれ、連れ立って出て行く二人の灯りを見送って、談話室中央のソファセットの一角から声が上がった。
「では、私も話そうかな。何が良いか…職業柄、恐ろしい話の引き出しはあるが、どれも人の悪性を語ることと表裏一体だ。ただの残酷譚はお呼びでないだろう」
 ローテーブルに置かれた炎が彼の胸元から顎の辺りを曖昧に照らす。顔の前で指先を合わせる独特な仕草。しばし物思いに耽った探偵は、ゆったりとした調子で話し出した。

「医学博士の某氏は非常に優秀な人物でね。各国の大学で精神医学を学びこれを修め、英国へ戻ると医院を開業した。どの医者も匙を投げたような重篤な患者を好んで受け入れたので、世間では名医と評判だった。ある集まりで私も話しをしたことがある。穏やかで聡明な人物だったが…。いや、事件の解決を急いだわけでもないから、恥ずべきことではないだろう。勘でしかないが、私は彼の瞳に獣を見た」
 けだもの、という言葉を探偵は、実に忌々しそうに発音した。釣り込まれて聞く皆の存在を意識してかしないでか、淡々と調子を変えずに彼は語り続ける。

「単なる興味に基づく捜査で彼の悪性は嫌と言うほど思い知ったよ。自分の患者に金持ちの老人が居れば、彼は言葉巧みに暗示をかけて自分に全財産を残させた。気弱で内気な精神薄弱者が居れば、嗜虐的な“治療”でこれを弄んだ。息子の精神を案じて来院した母親を丸め込み、身ぐるみ剥いで一家離散に追い込みいたぶったこともある。悪行三昧を重ねてもなお露見しなかったのは、逆説的に彼の優秀さを物語っているとも言えるね。依頼人の居ない事件をどう解決するか、思案を始めた時だった」
 彼はふと、言葉を止めた。一定のリズムが狂い、皆の視線が彼の灯りへ集中する。闇を裂くように鋭い声で探偵は告げた。

「突然、彼は発狂した」

 探偵の語調は徐々に荒く、強く、速くなっていく。
「錯乱した彼は、自分に近づく者すべてに殴りかかった。人が近づかなくなると、自分に対して罵声を浴びせた。『お前は人の物を奪うだけ奪っておいて自分の名誉は失いたくないと思っていた違うか違うか』。彼は刃物を手にしていた。『お前は人の女を汚すだけ汚しておいて自分の女は清く取っておいた違うか違うか』。彼は自分の妻に襲い掛かると顔をずたずたに切り裂いたうえで犯した。妻が死ぬとまた叫んだ。『お前は人を裁くだけ裁いておいて自分は誰からも裁かれたくなかった違うか違うか』『違うか違うか』『違うか違うか』」

 ちがうかちがうか、という言葉が暗い談話室でこだまし、互いに干渉しながら広がっていくようだった。音の響きがすっかり消え去り静まるのを待って、探偵は再び、淡々と口を開いた。
「彼は己の腹を切り、はらわたを掴み出した。どす黒い腸をむしり取ると、それを両手で掴んで自らの首を絞めて死んだ。変死、いや怪死ということで私も現場へ行ったがね、凄惨の一言に尽きた。精神疾患かと警察は話していたが、私は悪霊に取り憑かれたのだとだけ言って帰ったよ。獣に良心の呵責などあるわけが無い」

 蝙蝠に真名を告げられて、探偵は肩を竦めて立ち上がった。テーブルに置いていた火を手に取ると、彼の青白い顔は闇に浮き上がるようだった。特徴的な杖の音がこつこつと遠ざかっていく。
 暗闇の中のこと、図らずも彼と隣同士に座る羽目になっていたのだろう。小鬼はぐうっと伸びをすると二人掛けソファの上で胡坐を組み、意気揚々と喋り出した。



「今は昔のこと。光孝天皇の御代に、若い女房が三人ほど連れだって、武徳殿の松原を内裏のほうへ歩いていった。中秋を過ぎた涼しい夜で、月が大層うつくしかった」
 少女とも老婆ともつかぬ声が謡のように和語を紡ぐ。

「しばらく歩くうち、大きな松の下の木陰に、見知らぬ女が現れた。通り過ぎる女房のうちの一人を招き寄せ、その手を取ってなにやら話し込んでいる。あとの二人はじきに話が済むものと立ち止まって待っていたが、いくら経っても戻ってこない。どうしたものかといぶかしんで、二人で松の木陰に近づくと、朋輩もおらねば女もおらぬ。どこへ消えたと探してみれば、朋輩の手と足だけがばらばらと地に落ちていた!」

 今にもきゃらきゃらと笑い出しそうな、弾んだ甲高い声で鬼は喋り続ける。
「二人の女房はこれを見るや、きゃあと叫んで逃げ出して、衛門の陣に駆け込んだ。詰めていた武士へ涙ながらにこのことを訴えたので、武士は驚いて急ぎその場へ駆けつける。聞き伝えた野次馬も大勢集まり、散らばった手足を見ては大騒ぎ。これは人に化けた鬼に食われてしもうたのだ、と口々に言い合った」
 笑みを堪えたような言葉では、本来この話から受け取るべき恐怖などみじんも伝わってこない。皆にはもう、この話の落ちなど分かっていただろう。

「ゆえに女子どもはこのような、人気のない寂しい場所へ独りで行ってはならぬのだ。よく気を付けよ、という教訓譚だな。あれは実に甘くて柔らかな、良い肉置きの女であった」
 にんまりと笑う小鬼の顔、その可愛らしい唇から覗く秀でた牙が、下からの灯りに照らされていた。
 蝙蝠の声に己の名を聞き付けると、彼女はソファから飛び降りて跳ねるように部屋を出て行く。凶悪に尖った彼女の足の爪が、固い床と触れ合うたびに、チャ、チャ、と音を立てるのは、恐ろしくもあり滑稽でもあった。



 次は誰だ、という言外の探り合いが暗い談話室に満ちていた。部屋のそこかしこで潜めた声のやり取りが聞こえる。たまたま周りが静まった瞬間、声を出してしまったのがまずかったのだろう。ごく小さな「僕はそんな…」という声に、新たな話を期待する言葉が次々と投げ掛けられた。
 声の主は好んで戯れに加わる性質ではないと、皆分かっていたからこそ悪乗りしたのかもしれない。だから少しの逡巡の末、彼が語り出したときには、じわじわと驚きが部屋に広がった。

「…現代社会の汚点と暗部を煮凝りにしたような最貧国の村で、僕はとても美しいものを見たことがある。澄んだ夜空、満天の星の下で踊る着飾った娘たち。焚き火の赤い光と、彼女らを彩る青い光が、まるで夢のように交錯していた」
 闇に溶けるような、むしろ同化するような、低く陰のある声だった。部屋の隅、窓の桟に浅く腰掛けるようにして彼は居た。

「青い光の正体はセシウム137。半減期30.1年の放射性物質によるチェレンコフ光。娘らは勿論、村人たちの大半が数日後には全身から出血して死んだ。さらに数日の後、政府は大規模な麻薬プランテーションが発見されたと偽って、その村の周辺一帯を空爆し瓦礫を地中深くに埋めた。そこは今、自然保護区になっている。以上だ」

 あまりに冷静に、淡々と告げられた言葉たちに、聞く者はみな唖然とするほかなかった。ようやく話の趣旨を理解した後で、今度は続きや説明を求める言葉が部屋のそこかしこから上がった。
「…なんだ、もう言うことは無いんだが。いつもの汚れ仕事だよ」
 そう断ってから、しぶしぶ、という調子を隠さずに暗殺者は口を開いた。

「先祖代々の狩猟の術を禁じられ、野生動物を保護されてしまった男たちは、渇いた土地を耕して痩せた牛を飼うしかない。だが勿論それでは飢えて死ぬしかないから、軽犯罪は彼らの主要な生業だった。…彼らはある日、町の廃病院に置き去りにされた医療機器に目を付けた。既に金目の物は持ち去られていたが、重くて運ぶのに難儀するものはそのままにされていたんだ」
 暗殺者の声は低く微かだ。皆は吹雪にかき消されそうなその声を聞き逃すまいと、一心に暗がりへ耳をそば立てた。

「彼らは病院へ侵入し、その場である装置を解体し、パーツに分けて村へ持ち帰った。部品には高価な貴金属も使われていて、彼らは大喜びだった。装置の中心には粉末が入っていた。それが何かは分からなかったが、分かったところで手遅れだったろう。その粉が暗闇で光ることを知った彼らは、それを皆に分け与えた」
 その言葉の示す意味を知っている以上、彼の語る言葉は恐怖以外の何でもない。
「村の若者たちは、こぞって不思議な粉で顔や体に伝統の文様を描いた。粉を髪にまぶし、指先を染めた。その夜は、精一杯に着飾った娘らが意中の青年の告白を待つ、年に一度の恋の祭りだったから」

 部屋中から漏れる、納得と悲哀の溜息の中をかいくぐるようにして、暗殺者は言葉を続けた。
「あとは、最初に言った通りさ。夢のような一夜が明けると、待っていたのは原子力事故による放射線障害。患部を清めようとするのは生き物としての本能だろうな。不思議な粉末を洗い流そうと村の近くの水源へ歩いて来る人の群れを…僕は片っ端から撃った」
 暗闇に、驚きによる緊張感が走った。
「部族の聖地であるその水源は、下流の村々は勿論、外国の基地や駐屯地や大使館、某国の研究施設にも利用されている。そして内戦の続いたこの国では、まだ一触即発の緊張感が満ちていた。…僕はようやく、自分がここへ寄越された理由が分かったんだ。彼らが光の粒を水に流せば、何かもっと大きな災厄に繋がるのだろう、と」

 俯き加減の暗殺者の顔は、目深に被られたフードで全く伺うことができない。足元に置かれた火もまた頼りなくゆらめいていた。血のように赤いその装束は、黒よりもむしろ闇に溶け込むようだった。
「武装勢力でもテロリストでも無い、病の人々を撃ち殺しながら、僕は美しい祭りの光景を思い出していた。…もう本当に、話すことは何もないよ」
 彼を引き留める声は、今度こそ、一切上がることはなかった。自らを指し示す言葉を聞くと、失意の暗殺者は掻き消えるようにして部屋を後にした。



 暫くの間、暗闇の部屋で口を開く者は居なかった。ただただ外で荒れ狂う吹雪が建物に打ち付ける不気味な音と、時おり走る稲妻だけが、彼らの世界を支配していた。
 誰かが話している最中にも名を呼ばれた者は部屋を出て行き、もう談話室に残る英霊は全体の半数ほどになっている。彼らは誰からともなく、身を寄せ合うように部屋の中心にあるソファセットとその周辺へ集まって来た。火が一か所に集まることで、少なくともテーブルのあたりだけはぼんやりと赤い光に照らし出された。

「そういえば昔、杭州を訪れたとき様々の生き物を使うのを見たな」
 ソファの背に行儀悪く腰掛けた小柄な男が、ふと思い出したように口を開いた。
「七匹の亀を飼っている者があってな。それらを机の上に置いて、合図の太鼓を打つと、一番大きな亀が這いだして来て、机の真ん中に身を伏せる。次に二番目に大きな亀が這いだして来て、その背に登る。それから順々に這い登っていって、七番目の最も小さな亀は六番目の甲羅の上で逆立ちをする。全体の形はさながら小さき塔のごとく、これを烏亀畳塔と名付ける」

 武骨、という印象の強い声だった。喋り方こそ老成しているが、声音は若々しい。
「また、蝦蟇九匹を養っている者がある。土を盛り上げて、そこに大きな蝦蟇が座っていると、ほかの小さな蝦蟇が左右に四匹ずつ向かい合って並ぶ。やがて大きいのが一声鳴くと、ほかの八匹も一声鳴く。大きいのが幾たびか鳴けば、ほかも幾たびか鳴く。最後に八匹が順々に進み出て、大きいのに向かって頭を下げて一声。さながら礼を為すようにして退く。名付けて蝦蟇説法といった」

 怪談というよりはむしろ不思議な昔話、といった体の彼の話術は、巧みではなかったが皆は興味深く耳を傾けた。
「任城から来た道士に、鰍を切る術を見せられたこともある。一尾は黒く、一尾は黄色い鰍を取り、研ぎ澄ました刃に秘伝の薬を塗って胴切りにして互い違いに継ぎ合わせると、いずれも半身は黄色く、半身は黒く、首尾その色を異にした二尾の魚は元通りに水を泳ぎ回っていた。儂は試しにその魚を貰い受け、鉢に入れて飼ってみたが、半月の後にはみな死んでしまった」

 どこか無念そうな声音がまた、良い味を出していた。僅かに緩んだ空気の中、男は名前を呼ばれると、テーブルに置かれた火の中から注意深く自分のものを選び出し、取り上げる。武人らしい隙の無い身のこなしで彼は部屋を出て行った。一つ火が減っただけで、随分と部屋は暗くなったようだった。



「そんじゃアタシも話をしよう。長い航海の途中、食料を求めて寄港したときのことだよ」
 高くはないが強く明るい声は、それだけで場に活気を与えるようだった。
「必要な物を仕入れて、もちろん久しぶりの陸地だ、何日か飲んで騒いで少々暴れて、アタシは船に戻った。そうしたら、小舟で迎えに出て来た手下が悪魔の顔をしていた」
 船長はそこで話を止めて、悪戯っぽい顔で同じテーブルを囲む数人を見渡した。

「悪魔ったら悪魔だよ。アタシは一目見た途端、なるほど悪魔はこんな顔をしてんだね、って思ったんだ。そいつに連れられ乗り込んのは間違いなくアタシの船だが、乗組員はみんな悪魔の顔をしていた。もちろん気色は悪かったが、アタシは銃から少しも手を離さないまま、着替えもせずに部屋に籠った」
 彼女はその時の様子を再現するかのように、小柄な体を緊張で覆い、懐から銃を取り出して見せた。

「そうしたら甲板の方から、火事だ火事だと怒鳴り声が聞こえてきた。部屋から出ずに放っておいたら、確かに焦げ臭いにおいがする。なんだか暑っ苦しくなってきた気もした。それでも更に放っておいたら、いつの間にか臭いは消えた。何の用だったか部屋に入って来た野郎は、もう元通り、人間の顔に戻っていたよ。不思議に思っていたら、今度は隣に停泊してた船がドンパチやかましいじゃないか。毒にも薬にもなんないしみったれた商船だったが、袖振り合うも他生の縁だ。野郎どもを引き連れて様子を見に行ったら、あれは驚いたね。生真面目そうな船長が、片っ端からてめえの部下を撃ち殺してやがんのさ!」

 談話室が僅かにざわめいた。その反応に満足したのだろう、彼女は話の先を急いだ。
「アタシは『もしや』と思ってね。悪魔はみんな殺せたかいって聞いたんだ。そうしたら、『あと一匹、火薬樽の裏に』って言うじゃないか。手下に探しに行かせたらなんのことはない、見習い水夫のガキがガタガタ震えてた。これが悪魔かい。ええ、悪魔かい。って、ガキの顔を見せてやったらねえ、だんだんこう、興奮で真っ赤になってた顔色が、さあっと白くなって。甲板の惨状を見渡して、船長はおいおい泣きだしたよ」

 何の仕業かは知らないが、船の主にだけ周りの野郎が悪魔に見える、そういう風が通り抜けて行ったんだとアタシは思ってるよ。
 そう結論付けた船長の横顔は異様なほどに落ち着いていた。もしや海の上の世界では、こういった手合いはよくある話なのかもしれない。少し聞いてみたかったが、口を開くのが憚られるうちに、次の話が始まっていた。



「皆と島原でちょいと引っ掛け、俺はひとりで屯所へ戻った。その日はどうにも遊ぶ気分じゃなかったんでな。近藤さんはアレだ、おんなを請け出すだのなんだの目尻を下げて忘八と話し込んで、まあご苦労なこったと俺は先に抜けてきた。りいりいと鈴虫ばかりは鳴いていたが、どうにも暑っ苦しい夜だったな。屯所へ戻って寝支度をしても、頭蓋の中へ熱が籠ったようで妙に落ち着かねえ。仕様がねえから濡れ縁へ出てな、ぼうっと柱に寄ッ掛かっていた」
 男の目は、遠く離れた故郷の慣れ親しんだ場所を懐かしんでいるように思えた。けれどそれは違うということも分かっていた。今の彼にとっては戦場こそが居場所であり、共に戦う者が仲間なのだから。

「大きな音が聞こえるまで、俺はうとうとしていたようだ。咄嗟に刀を掴んで立ち上がったら、庭の向こうっ岸からばたばたと顔色無くした男が母屋へ駆けてくる。おい、どうした、と声を掛けたら、情けねえ声を出して土にへたり込んだ。――厠に幽霊が出た、と言う」

 長時間、怪談ばかりを聞き続けた一同は、伝統的とさえ言える導入に思わず身を乗り出した。恐ろしさと興奮は、とろ火のように彼らの神経を刺激している。
「百人以上の隊士を抱えた頃の屯所だ、厠は幾つもあったが便壺は深く掘ってあった。そうしょっちゅう汲み取りに来させるわけにもいかねえ。だから用を足すと、こう、底に落ちる音が響くわけだな。夜中なら尚更よっく聞こえるだろうよ。だが、そいつが用を済ませても、いつもの音が聞こえなかったらしい。で、おかしいなと便壺を覗き込んでみたわけだ。曇りの晩だったが、おあつらえ向きにさあっと雲が晴れて月光が入り…」

 舞台演出のように稲妻が光り、一瞬だけ談話室の英霊たちを鮮烈に照らした。
「間違いなく手が出て来た、とそいつは言った。驚いて立ち上がると、今度は背後から背中をぞろりと撫でられる。もうそれで参っちまって、後も見ずに一目散に逃げだしたって寸法だ。さいきん入った新人隊士の中じゃあ腕の立つほうだったが、今は腰から下が砕けっちまって見る影もねえ」
 男はソファに座り直すと、背もたれに深く体を預けた。
「俺ぁ部屋へ戻って灯りを取ると、下駄を突っ掛け庭に出て、そいつの襟首掴んで無理やり立たせた。引きずって厠へ行ってみると、まあ、予想通りだな。おい、見ろ、と俺はそいつの首を掴んだまま、便壺の上に灯りをかざした。ひいひいと情けなく身を捩って抵抗したが、羽交い絞めにしてやってようやくそいつはそれを見た」

 炎の灯りは男によく似合っていた。理性と狂気がないまぜになって共存する彼の瞳は、赤い光によく映える。
「たしかに、白い腕が出ていた。腕の先には肩があり、俯いた頭の年若そうな前髪に、新人隊士は頓狂な声を上げた。厠の梁からは、ほどけた麻縄が垂れ下がり、風もないのにぶらぶら揺れていた。首を括って落ちた先が便壺とは、最後まで情けねえ奴だ」
 くつくつと、喉を締めるようにして男は笑い声を上げた。彼の倫理観が破綻しているのか、それとも彼なりの倫理がそこにあるのか、判断することは誰にもできない。

「ほれみろ、幽霊なんか居ねえだろう、と俺は言ってやったが、そいつが何と答えたかは忘れっちまった。あくる朝、監察に引き上げさせたら、そいつと同じ期に入って来た隊員だったことが分かった。そいつにとっちゃあ幽霊だった方が良かったのかもしれねえな。腑抜けのようになったそいつは、数日の後に斬られて死んだ」
 梁からぶら下がって死ぬよりは、まあ見れた最期だったがな。そう言って男は話を締め括った。一同はようやく、これが彼にとっての怪談ではなく、死んだ男の怪談だったのだと気づいた。



 男が呼ばれて席を立つと、部屋はいよいよ静かになった。灯りの数はあと五つ。最後にはなりたくないな、とふと思う。

「深夜、水を飲みに出て部屋に戻ると自分が寝ていることがある」

 言葉の意味は鳥肌とともに理解した。青年の声は思いがけず近くからする。
「僕は静かにドアを閉め、もう一度水を飲みに行く。ことさらゆっくりと歩き、外の景色を眺め、遠回りして部屋に戻り、もう一度ドアを開く。自分はもう居ない。僕はベッドに入り、眠る」

 彼の語りに口を挿める者は居ない。彼の苦悩は皆知っている。
「いつか自分が消えなくなるのでは、と思うと怖い。けれどそれ以上に怖いのは、夜中に目を覚ましたとき、ドアを開けてこちらを見る自分と、目が合うのではないかということだ」
 青年は重く長く溜息をついた。

「僕はここに居るべき自分なのだろうか」
 彼の瞳が赤く見えたのは、炎の灯りのせいだろう。青年はよろめくように立ち上がると、小さな火に縋るようにして部屋を後にした。彼の名が呼ばれたのには気付かなかった。
 テーブルの上には、華奢な眼鏡が置き去りにされている。



「唐の安禄山が乱を起こした時。張巡が睢陽を守って屈せず、城中の糧秣が尽きた折りには愛妾を殺し、その肉を将兵へ食わせたのは有名な話だな。遂に城が落とされ捕らわれてもなお怨敵を罵り続け、殺されたのちは忠臣の亀鑑として世に伝わった」
 重苦しい沈黙を破るように、暗闇へ飄々と紡がれたのは侠客の語りだった。

「それから九百余年の時が過ぎ、清の康煕年間の頃だ。会稽の町に住む書生が病を患った。腹の中に大きな瘤ができて、それが日毎に痛むという。それは腹中から人のように言葉を発することもあった。前代未聞の奇病だ。手の施しようもなく病がいよいよ深くなった夜、白衣の女が枕元に立ちこう言った」
 すっ、と息を吸い込むと、彼の口から出たのは悩まし気な女の声だった。

「あなたの前世は張巡です。私はあなたの妾でした。あなたが忠臣であることは誰もが知るところですが、なぜ罪もない私を手に掛けられた。そのうえ死肉を士卒へ与えるなど。なんと惨い、おぞましい、牛馬の如き扱いを。畜生のように食われた恨みに報いようと、私は十三代あなたを付け狙っていましたが、あなたはいつも強い力で守られていて高位高官に生まれ変わり、その機会を得られませんでした。しかし今のあなたは単なる白面書生に過ぎませんので、ようやく積年の恨みを晴らせます」

 まるで侠客の口を借りた女が、自ら胸中の恨みつらみを吐露したかのようだった。迫真の演技に慄く皆をよそに、彼の語りは続く。
「…言い終わって女の姿はかき消えた。書生も間もなく世を去った。その死体はまるで枯れ木のように軽く、いぶかしんだ者たちが腹を裂いてみたところ、はらわたがすっかり無くなっていた。それはまるで、内側から野犬に食い尽くされたかのようだったらしい」
 語り終えると侠客はにやりと笑い、灯りを持って立ち去った。その後ろ姿はまったく、白衣の女そのものだった。



 いよいよ灯りは少なくなった。蝋燭三本を寄せ集めたところで、如何ほどの物にもなりはしないだろう。残された者たちの中で目配せの気配が交差する。ため息とともに口を開いたのは、赤い弓兵だった。
「…雨は降っていないが、雨粒がぎっしりと空気に舞っているようだった。息をするたび肺に水が溜まる。目に映るすべてが濡れている。近道をするつもりで藪の中へ分け入ると、踏み込むたびにじゅくじゅくと足元が音を立てた。私が親しんだ荒涼たる砂岩の大地とは対極に位置する環境だ。私はこの森がとうに滅んだと知っている」

「私は会いたい人があって、この森を越えるのが一番早いと歩いていたんだ」
 そう呟く弓兵の声は、どこか寂しげに暗闇へ溶けた。

「間もなく大きな湖の縁に出た。翡翠をのぞき込むように、澄んだ水は碧かった。水底の草影に小魚が動くのも見える。この水もきっと跡形もないだろう。この密林は焼き尽くされた。俺は弾頭を運ぶ手助けをした。ここで生きた人々も、彼らがより所とした森のスピリットも、人類史から消え去ったのに。…水底の遙か下のほう、薄靄の中にぼうっと町の家並みが見える。ジャングルの奥地とは似ても似つかぬ風景だ。会いたい人は皆そこに居る。なるほど、もうすぐだと思った」

 思い出しながら言葉を継いでいるのだろう、彼の話は取り留めが無いような印象で、それがどこか幻想的だった。
「湖は浅いが広かった。霧に包まれた対岸には、亜熱帯にそぐわぬ雑木林がぼんやり見えている。白鷺のようだが嘴のそれほど尖っていない、不思議な鳥が湖のところどころに立っている。みな眠っている…」
 成熟した男の低く穏やかな声は、外の嵐の音をかいくぐるように、不思議にしっかりと聞こえた。

「ここで俺はある人とすれ違った。挨拶をしてすぐ別れたが、暫くして振り返ったら木の影から、別の者が少し顔を出して笑っていた」
 そう言ったとき、確かに彼も微笑んでいた。その目にはただ、届かないものを愛おしむ、静けさだけが満ちている。もうあるかなしかの光となった数本の蝋燭が、時おり彼の白髪を闇から浮き上がらせていた。

「ここで夢は醒めた。醒めたあともこの夢から受けた静かな感じが頭の芯に響いていて、かなり明らかに景色を思い起こすことができた。現れた様々のものが、何かしらの示唆や意味を含んでいるようにも思え、しかし単なる記憶の再構築だとも思えた。知人は確かに昔、親しく付き合っていた者のように感じたが、定かでない。後から顔を見せた男は、多少の予想が付くがね。だがそれも全てが曖昧で、静々と霧が掛かっていて…」

 ふう、と胸中の息を吐きつくすように、彼は背を丸め俯き目を閉じた。図らずも儚い灯りを受けたその表情は、啓示を待つ神官とも、痛みに耐える人とも見えた。
「何にせよ俺は、会いたいと思った人すら思い出せなかった」
 その言葉で彼の話は終わった。誰も、何も言わなかった。吹雪の音が少し弱まって来たようだ。少しして、自分を指し示す名を聞いた彼は、夢の中を歩くように静かにここを出て行った。



 いよいよ残りの火はふたつとなった。真正面に座った男の様子を伺う。消えかけた火の明りでも、彼が誰であるかは容易に分かった。彼は柄にもなく、少し思案するような素振りを見せていたが、遂に言葉を唇に乗せた。
「語るか?」
 その短い音がこちらへ向けられたもので無いことは、感覚で知れた。返答は聞こえなかったが彼には分かったのだろう。酷薄そうな赤い目を上げて、初めて彼はこちらを見た。

「貴様の部屋に明りは灯らぬ」

 え、と思うひまも無かった。彼はテーブルに置かれた灯りを二つとも取り、一つを傍らへ差し出した。…闇の中からみどりのひとが溶け出して、その灯りを受け取る。
 ふたつの灯りは相前後して部屋を出て行った。扉の閉まる音がやけに大きく響いた。
 もう火はない。目の前に置かれていたのは彼の火だったのだ。そしてもう、誰も語らない。嵐が通り過ぎていく。雷鳴も絶えた。一夜の祭りが終わろうとしている。

 ここは暗くて、さびしい。


*****


出典

クー・フーリン・オルタ:アイルランドの伝説
武蔵:『佐藤春夫全集』より
胤舜:『日本怪談全集』より
ホームズ:蒲松齢『本朝聊齋志異』より
茨木:『今昔物語』より
エミヤ殺:wikipedia“ゴイアニア被曝事故”より着想
書文:『中国怪奇小説集』より
ドレイク:柴田宵曲『妖異博物館』より
土方:『佐藤春夫全集』より
ジキル:平山夢明『怖い本』より
新宿のアサシン:『中国怪奇小説集』より
エミヤ弓:『志賀直哉全集』より
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