「僕が変なこと言ってるって、思うかい?」
問い掛けたノリアキに、あたしは強く首を振った。正直、あたしには別の世界とかそういうことはピンと来なかったけど、ノリアキが父さんと生きようと思ってくれた、そのことが嬉しかったの。
ノリアキはあたしの顔を見て、本当に嬉しそうに笑った。その時廊下を通り掛った看護婦さんが、あたしたちの声を聞き付けたんだろう、ひょいと覗きこんで少し驚いた顔をした。そのリアクションで、あたしはこの病室を訪れる人は無かったのだろう、と当たり前の事実を再確認した。
神妙な顔をしたあたしをよそに、ノリアキはサイドボードに手を伸ばした。
「覚えてる?」
ちらりとこちらに向けられた写真の中から、昔の自分が笑い掛けてた。
「勿論。その写真を撮って貰ったあと、あたしは迷子になったわ」
「君は昔からおてんばだった」
「二人とも歩くのが遅いだけよ」
冗談めかして言い返すと、ノリアキは快活に笑い声を上げた。元気な様子を見て、あたしはほっとした。そういえばあの日、迷子になったあたしを探し当ててくれたのはノリアキだった。勝手にふらふら歩いて行った挙句ふたりからはぐれて、どうしようもなくなってわんわん泣いてた時だった。あたしをおんぶして、泣きやませようと風船を買ってくれたっけ。
迷子センターで待ってた父さんは物凄く怒ってたけれど、あたしの泣き腫らした顔と握りしめた風船と困り顔のノリアキを順々に眺めて、最後は溜息といっしょに頭を撫でてくれたんだった。
「…ありがとね」
ただそれだけ呟いたあたしに、ノリアキは穏やかな表情のまま、頷くような首を傾げるような、ゆるやかな仕草を返した。あたしもそれ以上は言わなかったし、彼も問い掛けはしなかったけど、それで良かったの。今あたしたちの気持ちが通じてるってことは、あたしたち自身が良く分かってたもの。
だから、チャンスを逃せば一生聞けないかもしれない、とてもヘヴィな質問をするとしたら、今しかないと思った。
「父さんの、子どもを、憎いとは思わなかった?」
ノリアキは、心底驚いた顔をした。
「どうして!」
「だって、ノリアキは…父さんのことが好きだったんでしょう」
「それとこれとは話が別だ、アイリン。むしろ、彼の子どもだからこそ可愛くないわけがないじゃあないか。まあ、彼の子じゃなかったとしても、君がとびきり可愛いお姫様であることに違いは無いけどね」
包み込むような笑顔のままで投げ掛けられる、昔と全く変わらない愛情は、嬉しかったけど苦しくもあった。こんなにあたしを愛してくれる人に、自分が返した仕打ちをどうしても思い出してしまうから。
懐かしい思い出のせいで、今にも五歳児にするようなやり方であたしの頭を撫でそうになっていたノリアキも、口を噤んでしまったあたしを見てふと現実を取り戻したようだった。
「…君の父さんの結婚は、確かに僕にとってショッキングだった。だけど…僕は彼を引き止めなかったし、反対もしなかった。むしろ後押ししたんだよ、アイリン。だから僕が君を疎ましく思うことなんて、あるわけないんだ」
大人の声と喋り方で紡がれた言葉に、あたしは思わず顔を上げた。
「なんで? わけがわからない」
「それは…」
勢いよく問い掛けたあたしのために、複雑な自分の気持ちを言葉に精製してるんだろう、ノリアキは何も無い場所を見つめるような仕草をした。けれど上手くいかないらしい、うーん、と少し悩んだ後で彼は、長い話になるよ、と前置きした。
『――大学生になった僕らは、安アパートでルームシェアを始めた。提案したのは承太郎だ。彼はどうしても一人暮らしをしたかったらしいが、愛情深い彼のお母さんが難色を示したらしい。そこに、花京院と一緒ならどうだ、と交渉した彼も彼だが、ノリアキちゃんと一緒なら安心ね、と許したお母さんもどうかと思う。ともかく、僕が空条家において絶対的な信頼を勝ち得ていたことは間違いない。
僕の気持ちを全く無視して進められた同居計画ではあったが、僕に異存なんて無いことは彼も分かっていたんだろう。一人暮らしをしたいのは僕だって同じだったが、自宅から通える距離の大学へ行くのにわざわざ家を出る必要は無いと却下されていた事情もあった。
承太郎の名前はうちの両親に対しても切り札だった。母はかなり渋っていたが、最終的には父の「社会勉強」という言葉に負けたようだった。そうして僕らは、お互いの大学のちょうど中間あたり、駅から遠くて古い代わりに安くて広いという、貧乏学生御用達の物件を見つけ出すことに成功した。
正直、僕は進学を機に承太郎との縁が途切れることもあり得ると思っていた。孤高の不良で無くなった承太郎は、そのカリスマ性を保ちながらも周囲と良好な関係を築いていた。僕以外の友人だって沢山居たんだ。別々の大学に進学し、お互いそこで新たな人間関係の輪に入り、そのまま自然に…というのは良くある話だろう。けれどそれは、春から始まる共同生活によって杞憂に終わった。
安アパートの生活は、毎日が新鮮で楽しかった。そうめんを茹でたことすらない男二人だ、何をするにもハプニングは付き物で、僕は万華鏡のように現れる承太郎の新たな一面に夢中になるばかりだった。
例えば彼は早寝早起き、だけど何かに没頭すると平気で徹夜したりする。そのくせ次の日に気だるい様子を見せないのは、単に基礎体力が有り余っているせいだろうな。
他には、彼は几帳面。出した物は仕舞うし、汚れた物を放置もしない。ただ、収納には彼独自の拘りがあるようで、何度か共用部分の整理法に関して熱い議論を繰り広げたよ。
あと、彼は甘いものが嫌い。だけど唯一の例外が、カリカリに焼いたトーストに薄く塗る蜂蜜。この蜂蜜にも彼ならではの妙な拘りがあって、僕はそのためだけに少し遠い百貨店へ買い物に行く羽目になった。
けれど、嫌じゃなかった。嫌じゃ無かったんだよアイリン。
僕は昔から一人に慣れていた。むしろ誰かと一緒に居るのは負担だった。自分のペースを乱されるのが苦手だったし、他人のために気遣いをするというのが何より億劫な性質だった。でも彼に関することなら全く話は別だった。
彼が聴いているラジオの音で寝付けなくても僕は満足だった。録り溜めたビデオが摩訶不思議な順序で並び直されていても、目当てを探すのが楽しかった。蜂蜜だってそうだ。一緒に買い出しに行くときは、百貨店を見て回る楽しみが増えた。僕は食べないものだけれど、彼がそれを好きだから、買いに行くのも苦ではなかった。彼のために遠回りして蜂蜜を買って帰る、その行為だけで僕は幸福だった。僕は今、誰よりも彼に近い場所で生きていると。
でもその代わり、僕を新たな不安が襲った。結局高校生のうちに彼がガールフレンドを作ることはなかったけれど、大学になれば分からない。むしろ出来ない方が不自然だった。高校時代でさえ、彼の心を射止めようとする女の子は星の数ほど存在したんだから。
いま、承太郎に一番近い場所に居ることを許されているのは自分だという自信はあった。けれど、それはあくまで親友・相棒としての立ち位置だ。これから先、承太郎の中に恋愛という新たな価値観が生まれたら最後、あっという間に霞んで行ってしまう存在だろう。
僕はまだ見ぬ「彼女」を恐怖した。僕が得た最初で最大…そして唯一の宝物を、いとも容易く軽やかに奪って行くシフォンのスカートを。キャンディピンクの口紅を。春風を纏うばらの香水、自慢げに細く尖ったヒールの曲線を恐怖した。それで僕はどうしたと思う?
承太郎に女の子を紹介したんだよ。つまり僕は、いつか来る終末の想像に耐え切れなかったんだ。承太郎の好みのタイプは知り尽くしていた。それだけ長い時間を僕らは共有していたからね、皮肉なことだが。
実際、僕が紹介した女の子たちを承太郎が無碍に扱うことはなかった。雰囲気の柔らかな、控えめで、理知的で、けれどウィットに富んだ女性。僕の見立てが間違っていたとは思わない。承太郎は人の好き嫌いがとても激しい奴だから、少しでも気に食わなければ僕の紹介とかそういうのは関係なく席を立っていたはずだ。
けれど「彼女」らと承太郎の関係はいつも長続きしなかった。最短三日、最長二カ月ってところだったかな。そしてついに、音を上げるように彼はこう言った。『俺ぁテメーとつるんでる方が楽しいぜ、花京院』ってね。
頭がおかしくなりそうなほど嬉しかった。もしかしたら、僕が一番聞きたい言葉だったかもしれない。でもそれに甘んじるわけにはいかなかった。僕は不安定なこの状況を、喩え暗転でも構わない、打破したかったんだから。
『そりゃどうも。でも君、いつまでも僕にべったりだとホモに間違われるんじゃあないのかい?』
…僕の渾身の捨て身のギャグを、承太郎は意外な言葉でかわした。
『俺のことばっかで、てめえに女が居たためしがねえ』
返事に窮した僕は、理想が高いから、とか何とか言って誤魔化した。そうかよ、と笑う承太郎を直視することなんてできなかった。君より好きになれる子がこの世に居れば考えるさ、って喉まで出掛かった言葉を、目を伏せながら飲み下す。嬉しい、苦しい、楽しい、切ない。激し過ぎる感情の触れ幅に、僕自身付いて行くのがやっとだった。
彼の何気ない一言で震える僕の心臓は、いつでも肋骨の中でめちゃくちゃに跳ね返りまわっているようだった。これが恋というものならば、なんて辛いことなのだろう。自分の意思で辞める事すらできないなんて。
悩み疲れて眠れぬ夜は、いつもあの明け方の夢を思い出そうとした。そのたびに、僕は彼に二度と寂しい思いをさせたくないのだと…喩え彼の孤独を、僕が引き受ける羽目になったとしても、と…ただそれだけのシンプルな答えを見出してしまい、堪らない気持ちになった。
…どうしてこんなにも彼のことが好きなのだろう。その上どうしてこんなにも、彼を求めてしまうのだろう。欲しがってしまうのだろう。
考えても考えてもその答えは出なくて、でもただ只管に彼に会いたくて、喋りたくて、知りたくて、彼のことならどんなことでも、彼と関係する全ての事柄に触れていたくて、できることなら彼を構成するものの一つになってしまいたい。
僕が必要だと、僕でなければダメだと思って欲しくて、彼にとって替えの利かない何か、そして絶対不可欠の何かとしていつまでも彼の心を陣取ってしまいたい。
本当は誰にも、どんな些細なことだって、譲ってやりたくないんだ。それが彼に関することである限り。なんて強欲なんだろう。
彼と知り合えただけで、友人になれただけ、親友になれただけ。「それだけ」で十分だとずっと思ってきて、でもそれは僕の欲望が際限なく広がっているということの証拠に他ならない。
いっそ彼の目に留まらなければ良かった。そうだ僕は、明け方の夢から覚めた時、彼から逃げ出すべきだった。始まったものはいつか終わる。出会いがあれば別れが来る。彼への愛情を悟ったのに、それでも彼の背を抱き返してしまったのが僕の弱さだった。
僕が彼に向ける愛情と、彼が僕に向ける友情が平行線を辿りけして収束しないであろうことは、随分前から分かっていたのに。
彼が誰かと友情を交わし、誰かと愛情を結び生きて行くその様を、僕の居ない世界で彼が幸福に暮らす様子を、ただ遠くから見守っている。それが自分にできる最善の、そして唯一の、彼への愛情を昇華する方法だったはずなのに。
けれどもう遅い。時間を巻き戻すことはできない。僕はこの思いを抱えたまま、押し流されて行くしかないんだ…
…承太郎の寝息の聞こえる部屋で、僕は何度も、何度も、こんな思いを繰り返した。それはまるで、心を絶えずとろ火で焙られるような、甘く苦しい日々だった。
彼の祖父が体調を崩したのはその頃だった。彼が家族と慌ただしくアメリカへ渡り、そして帰って来た時、何かが起こる予感はしていた。
アメリカの大学に編入しようかと思う、と彼は言った。僕は同時に沸き起こった、彼に対する応援の気持ちと、置いて行かれたくないという切実な願いに戸惑って、一瞬、口を開けなかった。
承太郎は大学で海洋生物学の研究をしていた。アメリカの東海岸にはその分野の権威ある研究所があるらしく、そこで研究者として働きたいということだった。そのためにアメリカの大学に編入し、博士号を取る。
理路整然とした彼の言葉には口を挟む余地などどこにもなかった。しかし、なぜ今それを、という僕の疑問は顔に出ていたらしい。承太郎は自分の膝に聞かせるように、俯き目を伏せた。
見合いを勧められたのだという彼の言葉は、まるで不始末を告白する子どものように頼りなげで、僕の心を一層ざわめかせた
体調を崩し気弱になった彼の祖父は、どうしても曾孫が見たいのだと家族に強く訴えたのだそうだ。承太郎に特定の彼女が居ないことなど彼の母親は重々承知していたから、見合いの話はとんとん拍子に進んで行った。お金持ちであることは分かり切っていたけれど、僕は承太郎が所謂上流階級の人間であることをこの時改めて思い知った。
勿論、彼の母親も祖父も無理強いはしていなかった。承太郎が一言「いやだ」と言えば、無かったことになる話だった。しかし承太郎は良いとも悪いとも言わず、口を噤んで帰ってきたらしい。日本へ。僕らの家へ。
ぼそぼそと事の成り行きを説明して、ちらりと僕の顔を見上げた彼は、常にないほど揺らいでいる様子だった。彼は迷っているのだ。日本の気ままで自由な毎日を捨てても良いものか。
それはつまり…自惚れが過ぎるかもしれないが、こうも言いかえられた。まだ顔も知らない妻と、同居するほどの仲の親友、どちらを取るか。
祖父の仕事仲間の娘なのだと、両親も乗り気なのだと言う承太郎の言葉は、「とりあえず会って断る」という妥協案を出そうとした僕の口を噤ませた。本来承太郎はそのような、優柔不断な選択を選ばない性質だった。彼は性に合わない可能性をも模索するほど悩んでいたんだ。
『てめえ、俺によく女を引き合わせただろう。ひとつ忌憚無きご意見てのを聞かせちゃくれねえか』
そう言って承太郎は笑ったが、その横顔は既に疲れ切っているようだった。彼のあの視線は、間違いなく僕に承諾を…否、決断を求めていた。彼自身、悩み抜き考え疲れた後で、僕にこの話をしたに違いない。
彼は生来速度を緩めて誰かと歩調を合わせるとか、自分の欲求を曲げて周囲に協調するとか、そういう「消極的な和」とも言うべき状態に身を置くことができない人だった。己の望みや志、信念、そういう物のためならば、他の全てを投げ打って邁進できる人。それは素晴らしい資質でもあっただろうけれど、それが求められる舞台は非常に限られていた。
だから彼はいつもどこか「浮いて」いた。彼の体格や顔立ち、隠しきれない育ちの良さもまた、彼を一般的な日常から乖離させて見せたけれど、僕は何より彼の魂の在り様が、世間と一線を画していたのだと思っている。それはまるで、泳ぎ続けなければ息もできない回遊魚が、熱帯魚に混じって水槽の中を泳がされているような。誰が悪いわけでもない、ただそう生まれ付いただけなのだけれど。
もちろん彼が自分が周囲に馴染めないことを思い悩むような素振りを見せたことなど一度も無い。けれど、自分が異質であることは承知の上で全ての身の振り方を決めていたような節がある。
そんな彼が生涯の伴侶を…昔の話にしても、まだ若い身空で…得るかどうかという話は、彼のこれまでの人生哲学を根底から覆す話だったはずだ。仮に所帯を持つにしても、彼が身を休める場所を得られるとすれば恋愛結婚以外はあり得ないと僕はずっと思っていたんだ。
けれど彼は愛情深い人だから、祖父や母親の無邪気な期待にもできれば応えてやりたかったのだと思う。幸か不幸か周囲に埋没することのできない彼を見守り続けた両親・祖父母との間には、恐らく世間一般のそれ以上に強固な絆があったように僕には思えた。
なんて酷い男だ、君は。僕の胸の中の理不尽な怒りは、限界を通り越して不思議に濾過され、明るい悲しさとでもいうような、乾いた感情に変わっていた。
この僕に、決断をさせようというのか。君の未来を委ねるというのか。例えば僕がやめろと、結婚なんて君には無理だとそう言ってやめさせて…後に残るのは何だ。自分の欲望のために君の人生を狂わせたという自己嫌悪。後悔の沼に腰まで浸かって続いていく君との日々。
あの日僕は、承太郎のために生きようと決意したんだ。それが、僕に与えられた未来の意味だと。僕の幸福と彼の幸福の行く先が分かれているのなら、僕に悩む余地などない。なぜって、僕は承太郎が好きだから。本当に、承太郎を愛してしまったから。何度も何度も眠れぬ夜に繰り返した自問自答を、僕は冷静に反芻した。
『…いい、お話じゃあないか』
やっとのことでそう言った僕に、承太郎は顔を上げた。
『そう、思うか』
彼の表情に浮かんでいたものが、驚きか安堵か寂しさか…僕に分かるはずもない。僕は膝の上で固く結んだ拳を見ていたから。
もしもあの時、彼の顔を真正面から見返す勇気があったなら、もしかしたら別の道もあったのかもしれないけれど。
今でもよく思い出すよ。承太郎の結婚式、招かれた彼の友人は数多く居た中で、僕は友人代表のスピーチを任された。
白いタキシードを着た承太郎は映画俳優のように格好良かったし、傍らに並ぶ奥さんも…もちろん君のママだよ、アイリン…まるでお姫様みたいに可愛らしかった。それぞれの家族も招待客も皆笑顔で祝福していた。そんな中、僕はスポットライトを浴びながらマイクを手に取った。
『承太郎君とは高校時代からの付き合いで…』
初めて出会ったあの夏の日の強烈な日差しと、コントラストを描く鮮烈な影。目を覚ました承太郎の瞳のエメラルドが瞼の裏に蘇って、僕は一瞬言葉に詰まった。
『…卒業してからは同居人として…』
承太郎と過ごした何気ない日々が堰を切ったように思い出された。僕の思い出は彼の居る風景、彼と見た景色、彼と見た夢…その全てを掻き混ぜ溶け合わせたようなものだった。
たぶん、空を見ても海を見ても僕は彼を思い出すだろう、この先、一生。
そう思うとやりきれなくて、それでもどこか嬉しいような気さえして、僕は注意深く乱れた呼吸を整えた。
『…こんなにキレイなお嫁さんを捕まえるなんて…』
友人たちのテーブルから、はやし立てるような声が上がる。言葉と共に視線を上げると、恥ずかしそうな花嫁のとなりでむっつりと黙った承太郎が、照れ隠しのように髪を掻き上げたところだった
『…ヒトデやイルカを追っかけるのもほどほどにしないと…』
会場から温かな笑い声が上がる。ここに集まった全ての人が、いま彼を祝福している。僕だけが薄暗い場所に立ち尽くしたまま、宴の輪に入れないでいる。こんなにも彼の幸福を願っているのに。こんなにも彼を、愛しているのに。
『…温かい家庭を築いてください…』
心臓がひとつ鼓動を打つたびに、体中を冷えたアルコールが駆け廻るようだった。凍えるような焼けるような、感覚を鈍らせる類いの痛みが胸の内から指先へと広がって行く。自分の決断が間違っていたのではないかと、今まで必死で向き合わないようにしてきた答えの無い問いが強烈な力で僕の理性を締め付けた。
『…おめでとう、承太郎…』
弓弦を引き絞るような、か細い声で言った僕を、皆は感極まって泣いているのだと思ったらしい。邪気の無いからかいと励ましの声が四方から飛んできたせいで、僕は気力を振り絞り、笑顔らしきものを作りだす必要に迫られた。
スポットライトに照らされたまま、笑顔の僕は壇上の承太郎へと目を向ける。視界がぼやけたのは眩しいせいだけではなかった。
『…僕も、とても嬉しいよ』
だってこんなに上手に、君を手放すことができたんだ。こんなに綺麗に、君を見送ってあげられた。ちゃんと祝福もしてあげられたんだ。
会場中から送られた盛大な拍手を受け、自分の席へ戻りながら、僕は強く拳を握った。壇上の二人と客席は、照明の陰陽でくっきりと分けられていた。
僕は、自分が承太郎の人生の舞台から退場したことを悟った。
その決断を下したのは自分だ。誰を恨むつもりもない。ただ、ただ胸が苦しくて、息が出来ないほどに切なくて、唇の震えを止められなかった。その頃にはもう、会場の注目は花嫁が読む家族への手紙に移っていた。
承太郎たちの新婚旅行は北極圏だった。承太郎はずっとイヌイットの村からオーロラが見たいって言ってたからね、きっと彼が行き先を決めたんだろうってすぐ分かったよ。勿論、奥さんがその行き先に何の興味も無いってこともね。
でも彼女は承太郎と一緒だったらどこでもいいの、ってとても幸せそうだった。僕は体の奥をぎゅっと締め付けられるような気分になった。彼と一緒にオーロラを見るのが僕だったら、きっと彼と同じ世界を共有できたのだろうにって。
だって僕は承太郎から冒険の夢を聞くたび、彼の隣に居るのが僕だと信じて疑わなかったんだ。承太郎だってそのつもりで色んな話をするんだろうって。辛い想像はし尽くしたつもりだったけど、それでも僕は心のどこかで、承太郎とずっと一緒に居られると思いたがっていたんだろうな。
空港で二人を見送って、僕は彼の荷物が残された一人きりの家へ帰った。居間のテーブルの上に彼しか食べない蜂蜜が半分以上も残っているのを見て、僕は初めて、声を上げて泣いた』
「…気持ち悪い話をして、ごめんね」
唐突な謝罪を受けて、あたしは思わずきつい目付きでノリアキを見詰めた。驚いたような彼の表情を見て、きっぱりとあたしは口を開いた。
「ノリアキ、あたしはもう大人よ」
「そうだねアイリン。君は本当に綺麗になった」
大人の決まり文句をなんかは無視してあたしは彼に追い縋った。
「だからノリアキ、あたしにもっと大人の話をしてよ。子供だからって遠慮されて、守られて、その気持ちはとても嬉しかったけど、もうあたしはきっと…」
あたしはノリアキの瞳を真正面から見詰めた。彼の髪の毛より少しだけ濃い鳶色。寒い冬の日、あたしのために作ってくれたとびきり甘いココアの色。
「きっとノリアキの友達になれるわ」
堂々と言い放ったあたしを、ノリアキは最初驚いたように見返したけれど、段々その表情にはいつもの彼の優しさと…ほんの少しの疲れのようなものが、混じっていったようだった。
『――承太郎が居なくなっても、僕の生活に別段の変化は無かった。深夜の騒音が無くなった割に睡眠時間は増えなかったし。まあ、百貨店で買い物をすることが無くなったくらいじゃないかな。
僕は淡々と大学を卒業し、淡々と就職した。所謂バブル世代って奴で、相当な高望みさえしなければどこへだって勤められたんだよ。それなりに有名なスクール・ネームと我ながら優秀な成績表で、僕の人生はいとも容易く転がって行った。
本当に、気持ち悪いくらい明るい時代だった。健康的な、昼間の太陽の明るさじゃあない。深夜なのにそこらじゅうで極彩色のネオンがびかびか光っていて、それが眩し過ぎて寝る事も出来ないって感じの明るさだ。
同期の奴らが家を買ったとか車を買ったとか…どんな女性と付き合いデートで幾らのワインを空けどこのホテルのスウィートに泊ったとか…そういう話は僕にとって、ボイジャーが今銀河のどこら辺を飛んでるかって情報と同じくらい遠いものだった。あ、むしろボイジャーの方が近かったかもな、興味がある分だけ。
要するに僕は、時代の狂乱に付いて行けて無かったんだ。大学生とフリーターばかりが済む安アパートに就職しても住み続けるなんて、と笑われたことだってある。でも僕はそこを離れる気がなかった。彼の思い出と暮らすんだ、なんて安易なセンチメンタリズムじゃない。僕は彼と一緒に過ごした時間を切り捨てることができなかっただけだ。
家に居る時だけが僕の落ち付ける時間だった。家の中だけは大学生の頃から変わらない時間が流れていたから。目を閉じて時代遅れのレコードに針を落とせば、今でも隣に同じように膝を抱えて曲に聴き入る承太郎が居るようにさえ感じられた。
僕はあらゆる意味で、完全に立ち止まっていた。立ち止まっていることに、危機感も無ければ悪いことだとも思っていなかった。
…再会は、冬の夜だった。僕は仕事から帰って丁度コートを脱いだ時で、部屋の暖房もまだ効き始めたばかりだった。サッシの隙間から微かに入り込む冬の風に眉を潜め、次の週末にでも何か詰め物を探そうか、なんて考えていた時だった。扉を叩く音が聞こえたんだ。
宅急便とかそういうのじゃあないことは分かった。だってそれならインターホンを押すだろうからね。アパートのチャイム音はまるでブザーのような大きくて品の無い音で、僕は反射的にその音を嫌っていた彼のことを思い出した。彼が鍵を忘れて出かけた時、怒ったように困ったように扉を叩く、そのやり方まで。
僕は急いで立ち上がり、玄関の鍵を開けた。心の中は疑念が五割、恐怖が四割、残り一割は…なんだろう、得体のしれない何かだ。そうだ、恐怖だよ。喜びなんてどこにもなかった。
開け放った扉の向こうには、果たして27歳の空条承太郎が立っていた。僕は慌てて扉を閉めようとした。なぜって、部屋を見られたくなかったからさ。
僕たちの交流は、まるきり絶えていた。もちろん承太郎が寄越す連絡を僕が完全に無視していたからなんだが。そんな、もう君のことなんか忘れましたよ、もう他人ですよ、みたいな素振りを見せていた僕が、あの頃のままの部屋に住んでいるなんて、なんだかもう、なあ。いたたまれないじゃないか。
だがそこは承太郎、無理矢理扉の隙間に足を突っ込み、力任せに扉を開けようとする。僕は両手でドアノブを掴み渾身の力で閉めようとする。まあ、敵うわけはなかったけどね。
部屋を見渡し絶句する承太郎の気配を感じながら、僕はもう死にたい気分だったよ。一言「模様替えするのが面倒で」とか何とか言えばよかったんだろうが、そんなことも思いつかないくらい僕も慌てていたんだろう。
承太郎の目が、ダイニングの蜂蜜に止まった。もう何年も前に賞味期限が切れてる奴だ。彼はそれを手に取って、じっと見て、じっくりと見て…永遠にも思える数秒間だった。ようやくこちらを向いて、承太郎は言ったんだ。アメリカに来いって。
最初、何を言っているのか分からなかった。分からなかったのに、僕は聞いた。奥さんは? ってね。
言った直後に後悔したよ、バカみたいだろ。アメリカに来いって、普通遊びに来いってことだよな。それをどうして僕は配偶者の心配なんかしてるんだ。自分が顔を出したら奥さんが嫉妬するとでも思ったのかな? 狂ってる!この五年で嫌というほど思い知った現実を、承太郎の存在が吹き飛ばしてしまったようだった。
しかし驚いたことに承太郎は、僕の言葉を聞いて首も傾げず笑いもせずにこう言った。昨日、離婚が成立したってね。僕はぽかんと口を開けて固まった。その間に、娘は俺が引き取っただの、マイアミに転居しただの言っていたようだったが、僕には目の前の現実が信じられなかった。
僕が頭の片隅で何度も何度も考えた童話のような夢物語が今まさに目の前で展開されようとしていた。夢は夢でも悪夢かな、目が覚めたら自己嫌悪に陥って一日気分が冴えない感じの奴だ。
だが承太郎は蜂蜜をテーブルに置くと、ゆっくり僕に近づいてきて、がっしり僕の肩を掴み…その、キスを。大丈夫? アイリン。そう、ごめんね、ここだけだから。
そりゃ僕は怒ったさ。数年ぶりの回し蹴りだったよ。脇腹のあたりが不穏な感じに引きつって、多少年を感じたな。承太郎は僕の足を余裕しゃくしゃくで受け止めると、そのまま僕をかつぎ上げてソファに落っことした。二人でバイト代を割り勘して買った、安いソファだった。
てめえ、ずっと俺に惚れてたな、と承太郎は言った。僕は落とされた体勢のまま、芋虫みたいに縮こまって、はいそうですと言った。言うしかないだろ、この部屋を見られた今では、何を言ってもしらじらしい嘘にしかならない。
そうですよ、花京院典明は空条承太郎に片思いしてました。春も夏も秋も冬も好きで好きで君のことが、君に告白できる女の子が羨ましくて、君が少しでも誰かに優しくするとあの子が彼女になるんじゃないかってやきもきして、そんな自分が大嫌いで苦しくて、だから自分から君に女の子を紹介したりして、君への恋心に振り回されるのが辛すぎてもう諦めたくて、でも君はいつでも僕のところに帰ってくるしお前と一緒に居るのが気が楽だなんて言ってくれて、勘違いしそうになる自分を一生懸命叱りつけてどうにかこうにか君と楽しくやってましたよ、君も楽しかったと思ってくれてたらもう僕は何も言うことないです、僕と一緒に居てくれて、僕のことをを友達って思ってくれて、君の特別な人になれたんだから、もう僕は十分です満足ですだから離婚なんてバカな考えやめて今すぐ奥さんに土下座のひとつやふたつお見舞いしてきてください娘さんが可哀想じゃあないですか!
…いいかいアイリン、こういうのをヤケクソっていうんだ。とにかくもうあのときの僕はやぶれかぶれで、もうどうにでもなれ! って気分だったな。
だが承太郎は僕の懺悔というか恨み節というかそんなものを仏頂面で聞き終えると、一言「なんでもっと早く言わなかった」とのたまった。
寝転がったまま、はあ? と聞き返す僕の襟首を掴んで無理矢理ソファに座らせると、承太郎はずいっと顔を近づけてきた。
五年ぶりにまじまじと見る彼はすっかり大人になって、やっぱり格好よかった。忘れたつもりになっていた僕の中の若い部分がぞくっとしたよ。
『俺が見合いを受けるかどうか迷った時、お前は行くべきだと言ったな。俺に惚れてたなら行かせるなよ。むしろ告白しろよ』
承太郎は少し、けれど本気で、怒っているようだった。僕は自分が間違ったことをしたなんて全く思っていなかったけれど、彼から向けられる珍しい怒気に怯んで、何とか口を開いて言い返した。
『無茶言うな!僕は君の幸せを思ってだなあ…君だって相手を気に入って結婚できて子供まで生まれたんだ、万々歳じゃないか!』
承太郎は怒っているのではなく悔やんでいるのかもしれないと、喋りながら僕は察した。何にしても彼は、感情表現の不器用な人なんだ。
『何が万々歳だ! てめえ一人が割食ってるだろうが!』
『それは…気にするな!』
返す言葉もネタ切れした僕へ、あからさまに大きな溜息を吐いてみせてから、承太郎は言った。
『てめえのそういう面倒くせえところは大方把握してると思っていたぜ』
少々失礼なことを言われた気がしなくもないが、続く言葉に僕はそれどころではなくなってしまった。
『アメリカに来い、花京院。俺もお前が好きだ』
何も言えないままじっと見つめる僕の視線に、耐えかねたように承太郎は視線を逸らした。帽子の鍔に指を掛け、ぐっと下唇を噛む仕草はまるきりティーンの頃の彼と同じで、僕はなんだか悲しくなってしまった。
『…憐れみは要らないよ、承太郎』
呟いた僕へ、彼は機敏に反応した。
『そんなんじゃあねえ』
僕は僕の言葉が彼を傷つけたのが手に取るように分かった。しかし撤回する気にもならなかった。僕の存在が彼の輝かしい人生を歪めるようなことは、あってはならないのだ。
『それじゃ何? 慈善事業? そもそも君はヘテロだろ。変なとこに足突っ込んでも火傷するだけだぞ』
『試してみるか?』
言葉尻に被せるような短い問い掛けに思わず、え? と意味の無い音を洩らし、続ける台詞を見つけられずに居る僕へ、承太郎はゆったりと言い直した。
『本当に、俺にお前が抱けないか…試してみるか?』
承太郎の瞳に嘘は無かった。偽善も同情も見出すことはできなかった。承太郎が己の心を偽るなど、有り得ないことだと僕にも分かっていたのだ。そして彼は、やると言ったことは必ずやる。彼ができると言ったことが、できなかった例は無い。言葉を失う僕に、承太郎は追い討ちをかけた。
『俺はあの時、心底悩んでた。どうしてこんなに悩むのか自分でも分かんねえってくらいにな。俺が悩んでたのはな、花京院。見合いをするかしねえか、じゃあねえ。独身か結婚か、でも日本かアメリカか、でもなかった。ただ、てめえの手を離して後悔しないのか、それだけを長いこと悩んでたんだ。…どうせてめえは、知らなかっただろうがよ』
告げられた事の重大さを感じて僕は押し黙った。彼の言っていることが本当なのだとしたら、あの日僕が彼に返した答えは、どのように受け止められたのだろう。彼は僕の隣へどすんと腰掛けると、思い切り背凭れに体を預けて言った。
『やっぱりここが一番落ち着く。結婚して、妻と生活してみて分かったが、俺には海の上が性に合っているようでな。自分は人に合わせて生活することができない、一種の社会不適合者なんだろうと割り切っていたが…俺はお前となら楽しく暮らせたんだったなあ』
昔を懐かしむようにしみじみと言う承太郎へ、僕は思わず苦言を呈した。
『あのね承太郎。貧乏学生が寄り集まって楽しくその日暮らしをするのと、結婚して将来を見据えて家庭を築くのではそもそもの重みが…』
言い終る前に承太郎の手が素早く僕の頬へ伸びた。強引に僕の顔を彼の方へと向けさせるやり方は、まったく昔のままだった。
『お前と一緒なら暮らして行けるって言ったんだ、分かんねえのか花京院。俺はお前の気持ちなら受け入れられるし、それ以上の物を返せる。こんだけ長い間うじうじしてて、信じられねえのも分かるが、今まで俺が出来ると言って不可能だったことがあるか』
片手で絡め合った指が熱かった。昔と変わらぬ逞しい彼の掌に、十年の月日がうっすらと積もっていた。彼も年を取ったのだ、という当たり前の事実が、僕にとっては凄く新鮮だった。
『…異動願い、通るかな』
呟いた僕の顔を、承太郎は…自分で切り出した話のくせに…驚いたように素早く伺った。それは昔、日本を離れるか否かの決断を僕に委ねて来た彼の頼りなさに通ずるものがあった。
この人は、全知全能の超越者などではなく、ただ少し人より秀でた人なのだ。そしてどうやら自分はその人に…愛されているらしい。その、いっそいじらしいような事実を、僕は改めて、そして確かに胸に刻んで、少し笑った』
問い掛けたノリアキに、あたしは強く首を振った。正直、あたしには別の世界とかそういうことはピンと来なかったけど、ノリアキが父さんと生きようと思ってくれた、そのことが嬉しかったの。
ノリアキはあたしの顔を見て、本当に嬉しそうに笑った。その時廊下を通り掛った看護婦さんが、あたしたちの声を聞き付けたんだろう、ひょいと覗きこんで少し驚いた顔をした。そのリアクションで、あたしはこの病室を訪れる人は無かったのだろう、と当たり前の事実を再確認した。
神妙な顔をしたあたしをよそに、ノリアキはサイドボードに手を伸ばした。
「覚えてる?」
ちらりとこちらに向けられた写真の中から、昔の自分が笑い掛けてた。
「勿論。その写真を撮って貰ったあと、あたしは迷子になったわ」
「君は昔からおてんばだった」
「二人とも歩くのが遅いだけよ」
冗談めかして言い返すと、ノリアキは快活に笑い声を上げた。元気な様子を見て、あたしはほっとした。そういえばあの日、迷子になったあたしを探し当ててくれたのはノリアキだった。勝手にふらふら歩いて行った挙句ふたりからはぐれて、どうしようもなくなってわんわん泣いてた時だった。あたしをおんぶして、泣きやませようと風船を買ってくれたっけ。
迷子センターで待ってた父さんは物凄く怒ってたけれど、あたしの泣き腫らした顔と握りしめた風船と困り顔のノリアキを順々に眺めて、最後は溜息といっしょに頭を撫でてくれたんだった。
「…ありがとね」
ただそれだけ呟いたあたしに、ノリアキは穏やかな表情のまま、頷くような首を傾げるような、ゆるやかな仕草を返した。あたしもそれ以上は言わなかったし、彼も問い掛けはしなかったけど、それで良かったの。今あたしたちの気持ちが通じてるってことは、あたしたち自身が良く分かってたもの。
だから、チャンスを逃せば一生聞けないかもしれない、とてもヘヴィな質問をするとしたら、今しかないと思った。
「父さんの、子どもを、憎いとは思わなかった?」
ノリアキは、心底驚いた顔をした。
「どうして!」
「だって、ノリアキは…父さんのことが好きだったんでしょう」
「それとこれとは話が別だ、アイリン。むしろ、彼の子どもだからこそ可愛くないわけがないじゃあないか。まあ、彼の子じゃなかったとしても、君がとびきり可愛いお姫様であることに違いは無いけどね」
包み込むような笑顔のままで投げ掛けられる、昔と全く変わらない愛情は、嬉しかったけど苦しくもあった。こんなにあたしを愛してくれる人に、自分が返した仕打ちをどうしても思い出してしまうから。
懐かしい思い出のせいで、今にも五歳児にするようなやり方であたしの頭を撫でそうになっていたノリアキも、口を噤んでしまったあたしを見てふと現実を取り戻したようだった。
「…君の父さんの結婚は、確かに僕にとってショッキングだった。だけど…僕は彼を引き止めなかったし、反対もしなかった。むしろ後押ししたんだよ、アイリン。だから僕が君を疎ましく思うことなんて、あるわけないんだ」
大人の声と喋り方で紡がれた言葉に、あたしは思わず顔を上げた。
「なんで? わけがわからない」
「それは…」
勢いよく問い掛けたあたしのために、複雑な自分の気持ちを言葉に精製してるんだろう、ノリアキは何も無い場所を見つめるような仕草をした。けれど上手くいかないらしい、うーん、と少し悩んだ後で彼は、長い話になるよ、と前置きした。
『――大学生になった僕らは、安アパートでルームシェアを始めた。提案したのは承太郎だ。彼はどうしても一人暮らしをしたかったらしいが、愛情深い彼のお母さんが難色を示したらしい。そこに、花京院と一緒ならどうだ、と交渉した彼も彼だが、ノリアキちゃんと一緒なら安心ね、と許したお母さんもどうかと思う。ともかく、僕が空条家において絶対的な信頼を勝ち得ていたことは間違いない。
僕の気持ちを全く無視して進められた同居計画ではあったが、僕に異存なんて無いことは彼も分かっていたんだろう。一人暮らしをしたいのは僕だって同じだったが、自宅から通える距離の大学へ行くのにわざわざ家を出る必要は無いと却下されていた事情もあった。
承太郎の名前はうちの両親に対しても切り札だった。母はかなり渋っていたが、最終的には父の「社会勉強」という言葉に負けたようだった。そうして僕らは、お互いの大学のちょうど中間あたり、駅から遠くて古い代わりに安くて広いという、貧乏学生御用達の物件を見つけ出すことに成功した。
正直、僕は進学を機に承太郎との縁が途切れることもあり得ると思っていた。孤高の不良で無くなった承太郎は、そのカリスマ性を保ちながらも周囲と良好な関係を築いていた。僕以外の友人だって沢山居たんだ。別々の大学に進学し、お互いそこで新たな人間関係の輪に入り、そのまま自然に…というのは良くある話だろう。けれどそれは、春から始まる共同生活によって杞憂に終わった。
安アパートの生活は、毎日が新鮮で楽しかった。そうめんを茹でたことすらない男二人だ、何をするにもハプニングは付き物で、僕は万華鏡のように現れる承太郎の新たな一面に夢中になるばかりだった。
例えば彼は早寝早起き、だけど何かに没頭すると平気で徹夜したりする。そのくせ次の日に気だるい様子を見せないのは、単に基礎体力が有り余っているせいだろうな。
他には、彼は几帳面。出した物は仕舞うし、汚れた物を放置もしない。ただ、収納には彼独自の拘りがあるようで、何度か共用部分の整理法に関して熱い議論を繰り広げたよ。
あと、彼は甘いものが嫌い。だけど唯一の例外が、カリカリに焼いたトーストに薄く塗る蜂蜜。この蜂蜜にも彼ならではの妙な拘りがあって、僕はそのためだけに少し遠い百貨店へ買い物に行く羽目になった。
けれど、嫌じゃなかった。嫌じゃ無かったんだよアイリン。
僕は昔から一人に慣れていた。むしろ誰かと一緒に居るのは負担だった。自分のペースを乱されるのが苦手だったし、他人のために気遣いをするというのが何より億劫な性質だった。でも彼に関することなら全く話は別だった。
彼が聴いているラジオの音で寝付けなくても僕は満足だった。録り溜めたビデオが摩訶不思議な順序で並び直されていても、目当てを探すのが楽しかった。蜂蜜だってそうだ。一緒に買い出しに行くときは、百貨店を見て回る楽しみが増えた。僕は食べないものだけれど、彼がそれを好きだから、買いに行くのも苦ではなかった。彼のために遠回りして蜂蜜を買って帰る、その行為だけで僕は幸福だった。僕は今、誰よりも彼に近い場所で生きていると。
でもその代わり、僕を新たな不安が襲った。結局高校生のうちに彼がガールフレンドを作ることはなかったけれど、大学になれば分からない。むしろ出来ない方が不自然だった。高校時代でさえ、彼の心を射止めようとする女の子は星の数ほど存在したんだから。
いま、承太郎に一番近い場所に居ることを許されているのは自分だという自信はあった。けれど、それはあくまで親友・相棒としての立ち位置だ。これから先、承太郎の中に恋愛という新たな価値観が生まれたら最後、あっという間に霞んで行ってしまう存在だろう。
僕はまだ見ぬ「彼女」を恐怖した。僕が得た最初で最大…そして唯一の宝物を、いとも容易く軽やかに奪って行くシフォンのスカートを。キャンディピンクの口紅を。春風を纏うばらの香水、自慢げに細く尖ったヒールの曲線を恐怖した。それで僕はどうしたと思う?
承太郎に女の子を紹介したんだよ。つまり僕は、いつか来る終末の想像に耐え切れなかったんだ。承太郎の好みのタイプは知り尽くしていた。それだけ長い時間を僕らは共有していたからね、皮肉なことだが。
実際、僕が紹介した女の子たちを承太郎が無碍に扱うことはなかった。雰囲気の柔らかな、控えめで、理知的で、けれどウィットに富んだ女性。僕の見立てが間違っていたとは思わない。承太郎は人の好き嫌いがとても激しい奴だから、少しでも気に食わなければ僕の紹介とかそういうのは関係なく席を立っていたはずだ。
けれど「彼女」らと承太郎の関係はいつも長続きしなかった。最短三日、最長二カ月ってところだったかな。そしてついに、音を上げるように彼はこう言った。『俺ぁテメーとつるんでる方が楽しいぜ、花京院』ってね。
頭がおかしくなりそうなほど嬉しかった。もしかしたら、僕が一番聞きたい言葉だったかもしれない。でもそれに甘んじるわけにはいかなかった。僕は不安定なこの状況を、喩え暗転でも構わない、打破したかったんだから。
『そりゃどうも。でも君、いつまでも僕にべったりだとホモに間違われるんじゃあないのかい?』
…僕の渾身の捨て身のギャグを、承太郎は意外な言葉でかわした。
『俺のことばっかで、てめえに女が居たためしがねえ』
返事に窮した僕は、理想が高いから、とか何とか言って誤魔化した。そうかよ、と笑う承太郎を直視することなんてできなかった。君より好きになれる子がこの世に居れば考えるさ、って喉まで出掛かった言葉を、目を伏せながら飲み下す。嬉しい、苦しい、楽しい、切ない。激し過ぎる感情の触れ幅に、僕自身付いて行くのがやっとだった。
彼の何気ない一言で震える僕の心臓は、いつでも肋骨の中でめちゃくちゃに跳ね返りまわっているようだった。これが恋というものならば、なんて辛いことなのだろう。自分の意思で辞める事すらできないなんて。
悩み疲れて眠れぬ夜は、いつもあの明け方の夢を思い出そうとした。そのたびに、僕は彼に二度と寂しい思いをさせたくないのだと…喩え彼の孤独を、僕が引き受ける羽目になったとしても、と…ただそれだけのシンプルな答えを見出してしまい、堪らない気持ちになった。
…どうしてこんなにも彼のことが好きなのだろう。その上どうしてこんなにも、彼を求めてしまうのだろう。欲しがってしまうのだろう。
考えても考えてもその答えは出なくて、でもただ只管に彼に会いたくて、喋りたくて、知りたくて、彼のことならどんなことでも、彼と関係する全ての事柄に触れていたくて、できることなら彼を構成するものの一つになってしまいたい。
僕が必要だと、僕でなければダメだと思って欲しくて、彼にとって替えの利かない何か、そして絶対不可欠の何かとしていつまでも彼の心を陣取ってしまいたい。
本当は誰にも、どんな些細なことだって、譲ってやりたくないんだ。それが彼に関することである限り。なんて強欲なんだろう。
彼と知り合えただけで、友人になれただけ、親友になれただけ。「それだけ」で十分だとずっと思ってきて、でもそれは僕の欲望が際限なく広がっているということの証拠に他ならない。
いっそ彼の目に留まらなければ良かった。そうだ僕は、明け方の夢から覚めた時、彼から逃げ出すべきだった。始まったものはいつか終わる。出会いがあれば別れが来る。彼への愛情を悟ったのに、それでも彼の背を抱き返してしまったのが僕の弱さだった。
僕が彼に向ける愛情と、彼が僕に向ける友情が平行線を辿りけして収束しないであろうことは、随分前から分かっていたのに。
彼が誰かと友情を交わし、誰かと愛情を結び生きて行くその様を、僕の居ない世界で彼が幸福に暮らす様子を、ただ遠くから見守っている。それが自分にできる最善の、そして唯一の、彼への愛情を昇華する方法だったはずなのに。
けれどもう遅い。時間を巻き戻すことはできない。僕はこの思いを抱えたまま、押し流されて行くしかないんだ…
…承太郎の寝息の聞こえる部屋で、僕は何度も、何度も、こんな思いを繰り返した。それはまるで、心を絶えずとろ火で焙られるような、甘く苦しい日々だった。
彼の祖父が体調を崩したのはその頃だった。彼が家族と慌ただしくアメリカへ渡り、そして帰って来た時、何かが起こる予感はしていた。
アメリカの大学に編入しようかと思う、と彼は言った。僕は同時に沸き起こった、彼に対する応援の気持ちと、置いて行かれたくないという切実な願いに戸惑って、一瞬、口を開けなかった。
承太郎は大学で海洋生物学の研究をしていた。アメリカの東海岸にはその分野の権威ある研究所があるらしく、そこで研究者として働きたいということだった。そのためにアメリカの大学に編入し、博士号を取る。
理路整然とした彼の言葉には口を挟む余地などどこにもなかった。しかし、なぜ今それを、という僕の疑問は顔に出ていたらしい。承太郎は自分の膝に聞かせるように、俯き目を伏せた。
見合いを勧められたのだという彼の言葉は、まるで不始末を告白する子どものように頼りなげで、僕の心を一層ざわめかせた
体調を崩し気弱になった彼の祖父は、どうしても曾孫が見たいのだと家族に強く訴えたのだそうだ。承太郎に特定の彼女が居ないことなど彼の母親は重々承知していたから、見合いの話はとんとん拍子に進んで行った。お金持ちであることは分かり切っていたけれど、僕は承太郎が所謂上流階級の人間であることをこの時改めて思い知った。
勿論、彼の母親も祖父も無理強いはしていなかった。承太郎が一言「いやだ」と言えば、無かったことになる話だった。しかし承太郎は良いとも悪いとも言わず、口を噤んで帰ってきたらしい。日本へ。僕らの家へ。
ぼそぼそと事の成り行きを説明して、ちらりと僕の顔を見上げた彼は、常にないほど揺らいでいる様子だった。彼は迷っているのだ。日本の気ままで自由な毎日を捨てても良いものか。
それはつまり…自惚れが過ぎるかもしれないが、こうも言いかえられた。まだ顔も知らない妻と、同居するほどの仲の親友、どちらを取るか。
祖父の仕事仲間の娘なのだと、両親も乗り気なのだと言う承太郎の言葉は、「とりあえず会って断る」という妥協案を出そうとした僕の口を噤ませた。本来承太郎はそのような、優柔不断な選択を選ばない性質だった。彼は性に合わない可能性をも模索するほど悩んでいたんだ。
『てめえ、俺によく女を引き合わせただろう。ひとつ忌憚無きご意見てのを聞かせちゃくれねえか』
そう言って承太郎は笑ったが、その横顔は既に疲れ切っているようだった。彼のあの視線は、間違いなく僕に承諾を…否、決断を求めていた。彼自身、悩み抜き考え疲れた後で、僕にこの話をしたに違いない。
彼は生来速度を緩めて誰かと歩調を合わせるとか、自分の欲求を曲げて周囲に協調するとか、そういう「消極的な和」とも言うべき状態に身を置くことができない人だった。己の望みや志、信念、そういう物のためならば、他の全てを投げ打って邁進できる人。それは素晴らしい資質でもあっただろうけれど、それが求められる舞台は非常に限られていた。
だから彼はいつもどこか「浮いて」いた。彼の体格や顔立ち、隠しきれない育ちの良さもまた、彼を一般的な日常から乖離させて見せたけれど、僕は何より彼の魂の在り様が、世間と一線を画していたのだと思っている。それはまるで、泳ぎ続けなければ息もできない回遊魚が、熱帯魚に混じって水槽の中を泳がされているような。誰が悪いわけでもない、ただそう生まれ付いただけなのだけれど。
もちろん彼が自分が周囲に馴染めないことを思い悩むような素振りを見せたことなど一度も無い。けれど、自分が異質であることは承知の上で全ての身の振り方を決めていたような節がある。
そんな彼が生涯の伴侶を…昔の話にしても、まだ若い身空で…得るかどうかという話は、彼のこれまでの人生哲学を根底から覆す話だったはずだ。仮に所帯を持つにしても、彼が身を休める場所を得られるとすれば恋愛結婚以外はあり得ないと僕はずっと思っていたんだ。
けれど彼は愛情深い人だから、祖父や母親の無邪気な期待にもできれば応えてやりたかったのだと思う。幸か不幸か周囲に埋没することのできない彼を見守り続けた両親・祖父母との間には、恐らく世間一般のそれ以上に強固な絆があったように僕には思えた。
なんて酷い男だ、君は。僕の胸の中の理不尽な怒りは、限界を通り越して不思議に濾過され、明るい悲しさとでもいうような、乾いた感情に変わっていた。
この僕に、決断をさせようというのか。君の未来を委ねるというのか。例えば僕がやめろと、結婚なんて君には無理だとそう言ってやめさせて…後に残るのは何だ。自分の欲望のために君の人生を狂わせたという自己嫌悪。後悔の沼に腰まで浸かって続いていく君との日々。
あの日僕は、承太郎のために生きようと決意したんだ。それが、僕に与えられた未来の意味だと。僕の幸福と彼の幸福の行く先が分かれているのなら、僕に悩む余地などない。なぜって、僕は承太郎が好きだから。本当に、承太郎を愛してしまったから。何度も何度も眠れぬ夜に繰り返した自問自答を、僕は冷静に反芻した。
『…いい、お話じゃあないか』
やっとのことでそう言った僕に、承太郎は顔を上げた。
『そう、思うか』
彼の表情に浮かんでいたものが、驚きか安堵か寂しさか…僕に分かるはずもない。僕は膝の上で固く結んだ拳を見ていたから。
もしもあの時、彼の顔を真正面から見返す勇気があったなら、もしかしたら別の道もあったのかもしれないけれど。
今でもよく思い出すよ。承太郎の結婚式、招かれた彼の友人は数多く居た中で、僕は友人代表のスピーチを任された。
白いタキシードを着た承太郎は映画俳優のように格好良かったし、傍らに並ぶ奥さんも…もちろん君のママだよ、アイリン…まるでお姫様みたいに可愛らしかった。それぞれの家族も招待客も皆笑顔で祝福していた。そんな中、僕はスポットライトを浴びながらマイクを手に取った。
『承太郎君とは高校時代からの付き合いで…』
初めて出会ったあの夏の日の強烈な日差しと、コントラストを描く鮮烈な影。目を覚ました承太郎の瞳のエメラルドが瞼の裏に蘇って、僕は一瞬言葉に詰まった。
『…卒業してからは同居人として…』
承太郎と過ごした何気ない日々が堰を切ったように思い出された。僕の思い出は彼の居る風景、彼と見た景色、彼と見た夢…その全てを掻き混ぜ溶け合わせたようなものだった。
たぶん、空を見ても海を見ても僕は彼を思い出すだろう、この先、一生。
そう思うとやりきれなくて、それでもどこか嬉しいような気さえして、僕は注意深く乱れた呼吸を整えた。
『…こんなにキレイなお嫁さんを捕まえるなんて…』
友人たちのテーブルから、はやし立てるような声が上がる。言葉と共に視線を上げると、恥ずかしそうな花嫁のとなりでむっつりと黙った承太郎が、照れ隠しのように髪を掻き上げたところだった
『…ヒトデやイルカを追っかけるのもほどほどにしないと…』
会場から温かな笑い声が上がる。ここに集まった全ての人が、いま彼を祝福している。僕だけが薄暗い場所に立ち尽くしたまま、宴の輪に入れないでいる。こんなにも彼の幸福を願っているのに。こんなにも彼を、愛しているのに。
『…温かい家庭を築いてください…』
心臓がひとつ鼓動を打つたびに、体中を冷えたアルコールが駆け廻るようだった。凍えるような焼けるような、感覚を鈍らせる類いの痛みが胸の内から指先へと広がって行く。自分の決断が間違っていたのではないかと、今まで必死で向き合わないようにしてきた答えの無い問いが強烈な力で僕の理性を締め付けた。
『…おめでとう、承太郎…』
弓弦を引き絞るような、か細い声で言った僕を、皆は感極まって泣いているのだと思ったらしい。邪気の無いからかいと励ましの声が四方から飛んできたせいで、僕は気力を振り絞り、笑顔らしきものを作りだす必要に迫られた。
スポットライトに照らされたまま、笑顔の僕は壇上の承太郎へと目を向ける。視界がぼやけたのは眩しいせいだけではなかった。
『…僕も、とても嬉しいよ』
だってこんなに上手に、君を手放すことができたんだ。こんなに綺麗に、君を見送ってあげられた。ちゃんと祝福もしてあげられたんだ。
会場中から送られた盛大な拍手を受け、自分の席へ戻りながら、僕は強く拳を握った。壇上の二人と客席は、照明の陰陽でくっきりと分けられていた。
僕は、自分が承太郎の人生の舞台から退場したことを悟った。
その決断を下したのは自分だ。誰を恨むつもりもない。ただ、ただ胸が苦しくて、息が出来ないほどに切なくて、唇の震えを止められなかった。その頃にはもう、会場の注目は花嫁が読む家族への手紙に移っていた。
承太郎たちの新婚旅行は北極圏だった。承太郎はずっとイヌイットの村からオーロラが見たいって言ってたからね、きっと彼が行き先を決めたんだろうってすぐ分かったよ。勿論、奥さんがその行き先に何の興味も無いってこともね。
でも彼女は承太郎と一緒だったらどこでもいいの、ってとても幸せそうだった。僕は体の奥をぎゅっと締め付けられるような気分になった。彼と一緒にオーロラを見るのが僕だったら、きっと彼と同じ世界を共有できたのだろうにって。
だって僕は承太郎から冒険の夢を聞くたび、彼の隣に居るのが僕だと信じて疑わなかったんだ。承太郎だってそのつもりで色んな話をするんだろうって。辛い想像はし尽くしたつもりだったけど、それでも僕は心のどこかで、承太郎とずっと一緒に居られると思いたがっていたんだろうな。
空港で二人を見送って、僕は彼の荷物が残された一人きりの家へ帰った。居間のテーブルの上に彼しか食べない蜂蜜が半分以上も残っているのを見て、僕は初めて、声を上げて泣いた』
「…気持ち悪い話をして、ごめんね」
唐突な謝罪を受けて、あたしは思わずきつい目付きでノリアキを見詰めた。驚いたような彼の表情を見て、きっぱりとあたしは口を開いた。
「ノリアキ、あたしはもう大人よ」
「そうだねアイリン。君は本当に綺麗になった」
大人の決まり文句をなんかは無視してあたしは彼に追い縋った。
「だからノリアキ、あたしにもっと大人の話をしてよ。子供だからって遠慮されて、守られて、その気持ちはとても嬉しかったけど、もうあたしはきっと…」
あたしはノリアキの瞳を真正面から見詰めた。彼の髪の毛より少しだけ濃い鳶色。寒い冬の日、あたしのために作ってくれたとびきり甘いココアの色。
「きっとノリアキの友達になれるわ」
堂々と言い放ったあたしを、ノリアキは最初驚いたように見返したけれど、段々その表情にはいつもの彼の優しさと…ほんの少しの疲れのようなものが、混じっていったようだった。
『――承太郎が居なくなっても、僕の生活に別段の変化は無かった。深夜の騒音が無くなった割に睡眠時間は増えなかったし。まあ、百貨店で買い物をすることが無くなったくらいじゃないかな。
僕は淡々と大学を卒業し、淡々と就職した。所謂バブル世代って奴で、相当な高望みさえしなければどこへだって勤められたんだよ。それなりに有名なスクール・ネームと我ながら優秀な成績表で、僕の人生はいとも容易く転がって行った。
本当に、気持ち悪いくらい明るい時代だった。健康的な、昼間の太陽の明るさじゃあない。深夜なのにそこらじゅうで極彩色のネオンがびかびか光っていて、それが眩し過ぎて寝る事も出来ないって感じの明るさだ。
同期の奴らが家を買ったとか車を買ったとか…どんな女性と付き合いデートで幾らのワインを空けどこのホテルのスウィートに泊ったとか…そういう話は僕にとって、ボイジャーが今銀河のどこら辺を飛んでるかって情報と同じくらい遠いものだった。あ、むしろボイジャーの方が近かったかもな、興味がある分だけ。
要するに僕は、時代の狂乱に付いて行けて無かったんだ。大学生とフリーターばかりが済む安アパートに就職しても住み続けるなんて、と笑われたことだってある。でも僕はそこを離れる気がなかった。彼の思い出と暮らすんだ、なんて安易なセンチメンタリズムじゃない。僕は彼と一緒に過ごした時間を切り捨てることができなかっただけだ。
家に居る時だけが僕の落ち付ける時間だった。家の中だけは大学生の頃から変わらない時間が流れていたから。目を閉じて時代遅れのレコードに針を落とせば、今でも隣に同じように膝を抱えて曲に聴き入る承太郎が居るようにさえ感じられた。
僕はあらゆる意味で、完全に立ち止まっていた。立ち止まっていることに、危機感も無ければ悪いことだとも思っていなかった。
…再会は、冬の夜だった。僕は仕事から帰って丁度コートを脱いだ時で、部屋の暖房もまだ効き始めたばかりだった。サッシの隙間から微かに入り込む冬の風に眉を潜め、次の週末にでも何か詰め物を探そうか、なんて考えていた時だった。扉を叩く音が聞こえたんだ。
宅急便とかそういうのじゃあないことは分かった。だってそれならインターホンを押すだろうからね。アパートのチャイム音はまるでブザーのような大きくて品の無い音で、僕は反射的にその音を嫌っていた彼のことを思い出した。彼が鍵を忘れて出かけた時、怒ったように困ったように扉を叩く、そのやり方まで。
僕は急いで立ち上がり、玄関の鍵を開けた。心の中は疑念が五割、恐怖が四割、残り一割は…なんだろう、得体のしれない何かだ。そうだ、恐怖だよ。喜びなんてどこにもなかった。
開け放った扉の向こうには、果たして27歳の空条承太郎が立っていた。僕は慌てて扉を閉めようとした。なぜって、部屋を見られたくなかったからさ。
僕たちの交流は、まるきり絶えていた。もちろん承太郎が寄越す連絡を僕が完全に無視していたからなんだが。そんな、もう君のことなんか忘れましたよ、もう他人ですよ、みたいな素振りを見せていた僕が、あの頃のままの部屋に住んでいるなんて、なんだかもう、なあ。いたたまれないじゃないか。
だがそこは承太郎、無理矢理扉の隙間に足を突っ込み、力任せに扉を開けようとする。僕は両手でドアノブを掴み渾身の力で閉めようとする。まあ、敵うわけはなかったけどね。
部屋を見渡し絶句する承太郎の気配を感じながら、僕はもう死にたい気分だったよ。一言「模様替えするのが面倒で」とか何とか言えばよかったんだろうが、そんなことも思いつかないくらい僕も慌てていたんだろう。
承太郎の目が、ダイニングの蜂蜜に止まった。もう何年も前に賞味期限が切れてる奴だ。彼はそれを手に取って、じっと見て、じっくりと見て…永遠にも思える数秒間だった。ようやくこちらを向いて、承太郎は言ったんだ。アメリカに来いって。
最初、何を言っているのか分からなかった。分からなかったのに、僕は聞いた。奥さんは? ってね。
言った直後に後悔したよ、バカみたいだろ。アメリカに来いって、普通遊びに来いってことだよな。それをどうして僕は配偶者の心配なんかしてるんだ。自分が顔を出したら奥さんが嫉妬するとでも思ったのかな? 狂ってる!この五年で嫌というほど思い知った現実を、承太郎の存在が吹き飛ばしてしまったようだった。
しかし驚いたことに承太郎は、僕の言葉を聞いて首も傾げず笑いもせずにこう言った。昨日、離婚が成立したってね。僕はぽかんと口を開けて固まった。その間に、娘は俺が引き取っただの、マイアミに転居しただの言っていたようだったが、僕には目の前の現実が信じられなかった。
僕が頭の片隅で何度も何度も考えた童話のような夢物語が今まさに目の前で展開されようとしていた。夢は夢でも悪夢かな、目が覚めたら自己嫌悪に陥って一日気分が冴えない感じの奴だ。
だが承太郎は蜂蜜をテーブルに置くと、ゆっくり僕に近づいてきて、がっしり僕の肩を掴み…その、キスを。大丈夫? アイリン。そう、ごめんね、ここだけだから。
そりゃ僕は怒ったさ。数年ぶりの回し蹴りだったよ。脇腹のあたりが不穏な感じに引きつって、多少年を感じたな。承太郎は僕の足を余裕しゃくしゃくで受け止めると、そのまま僕をかつぎ上げてソファに落っことした。二人でバイト代を割り勘して買った、安いソファだった。
てめえ、ずっと俺に惚れてたな、と承太郎は言った。僕は落とされた体勢のまま、芋虫みたいに縮こまって、はいそうですと言った。言うしかないだろ、この部屋を見られた今では、何を言ってもしらじらしい嘘にしかならない。
そうですよ、花京院典明は空条承太郎に片思いしてました。春も夏も秋も冬も好きで好きで君のことが、君に告白できる女の子が羨ましくて、君が少しでも誰かに優しくするとあの子が彼女になるんじゃないかってやきもきして、そんな自分が大嫌いで苦しくて、だから自分から君に女の子を紹介したりして、君への恋心に振り回されるのが辛すぎてもう諦めたくて、でも君はいつでも僕のところに帰ってくるしお前と一緒に居るのが気が楽だなんて言ってくれて、勘違いしそうになる自分を一生懸命叱りつけてどうにかこうにか君と楽しくやってましたよ、君も楽しかったと思ってくれてたらもう僕は何も言うことないです、僕と一緒に居てくれて、僕のことをを友達って思ってくれて、君の特別な人になれたんだから、もう僕は十分です満足ですだから離婚なんてバカな考えやめて今すぐ奥さんに土下座のひとつやふたつお見舞いしてきてください娘さんが可哀想じゃあないですか!
…いいかいアイリン、こういうのをヤケクソっていうんだ。とにかくもうあのときの僕はやぶれかぶれで、もうどうにでもなれ! って気分だったな。
だが承太郎は僕の懺悔というか恨み節というかそんなものを仏頂面で聞き終えると、一言「なんでもっと早く言わなかった」とのたまった。
寝転がったまま、はあ? と聞き返す僕の襟首を掴んで無理矢理ソファに座らせると、承太郎はずいっと顔を近づけてきた。
五年ぶりにまじまじと見る彼はすっかり大人になって、やっぱり格好よかった。忘れたつもりになっていた僕の中の若い部分がぞくっとしたよ。
『俺が見合いを受けるかどうか迷った時、お前は行くべきだと言ったな。俺に惚れてたなら行かせるなよ。むしろ告白しろよ』
承太郎は少し、けれど本気で、怒っているようだった。僕は自分が間違ったことをしたなんて全く思っていなかったけれど、彼から向けられる珍しい怒気に怯んで、何とか口を開いて言い返した。
『無茶言うな!僕は君の幸せを思ってだなあ…君だって相手を気に入って結婚できて子供まで生まれたんだ、万々歳じゃないか!』
承太郎は怒っているのではなく悔やんでいるのかもしれないと、喋りながら僕は察した。何にしても彼は、感情表現の不器用な人なんだ。
『何が万々歳だ! てめえ一人が割食ってるだろうが!』
『それは…気にするな!』
返す言葉もネタ切れした僕へ、あからさまに大きな溜息を吐いてみせてから、承太郎は言った。
『てめえのそういう面倒くせえところは大方把握してると思っていたぜ』
少々失礼なことを言われた気がしなくもないが、続く言葉に僕はそれどころではなくなってしまった。
『アメリカに来い、花京院。俺もお前が好きだ』
何も言えないままじっと見つめる僕の視線に、耐えかねたように承太郎は視線を逸らした。帽子の鍔に指を掛け、ぐっと下唇を噛む仕草はまるきりティーンの頃の彼と同じで、僕はなんだか悲しくなってしまった。
『…憐れみは要らないよ、承太郎』
呟いた僕へ、彼は機敏に反応した。
『そんなんじゃあねえ』
僕は僕の言葉が彼を傷つけたのが手に取るように分かった。しかし撤回する気にもならなかった。僕の存在が彼の輝かしい人生を歪めるようなことは、あってはならないのだ。
『それじゃ何? 慈善事業? そもそも君はヘテロだろ。変なとこに足突っ込んでも火傷するだけだぞ』
『試してみるか?』
言葉尻に被せるような短い問い掛けに思わず、え? と意味の無い音を洩らし、続ける台詞を見つけられずに居る僕へ、承太郎はゆったりと言い直した。
『本当に、俺にお前が抱けないか…試してみるか?』
承太郎の瞳に嘘は無かった。偽善も同情も見出すことはできなかった。承太郎が己の心を偽るなど、有り得ないことだと僕にも分かっていたのだ。そして彼は、やると言ったことは必ずやる。彼ができると言ったことが、できなかった例は無い。言葉を失う僕に、承太郎は追い討ちをかけた。
『俺はあの時、心底悩んでた。どうしてこんなに悩むのか自分でも分かんねえってくらいにな。俺が悩んでたのはな、花京院。見合いをするかしねえか、じゃあねえ。独身か結婚か、でも日本かアメリカか、でもなかった。ただ、てめえの手を離して後悔しないのか、それだけを長いこと悩んでたんだ。…どうせてめえは、知らなかっただろうがよ』
告げられた事の重大さを感じて僕は押し黙った。彼の言っていることが本当なのだとしたら、あの日僕が彼に返した答えは、どのように受け止められたのだろう。彼は僕の隣へどすんと腰掛けると、思い切り背凭れに体を預けて言った。
『やっぱりここが一番落ち着く。結婚して、妻と生活してみて分かったが、俺には海の上が性に合っているようでな。自分は人に合わせて生活することができない、一種の社会不適合者なんだろうと割り切っていたが…俺はお前となら楽しく暮らせたんだったなあ』
昔を懐かしむようにしみじみと言う承太郎へ、僕は思わず苦言を呈した。
『あのね承太郎。貧乏学生が寄り集まって楽しくその日暮らしをするのと、結婚して将来を見据えて家庭を築くのではそもそもの重みが…』
言い終る前に承太郎の手が素早く僕の頬へ伸びた。強引に僕の顔を彼の方へと向けさせるやり方は、まったく昔のままだった。
『お前と一緒なら暮らして行けるって言ったんだ、分かんねえのか花京院。俺はお前の気持ちなら受け入れられるし、それ以上の物を返せる。こんだけ長い間うじうじしてて、信じられねえのも分かるが、今まで俺が出来ると言って不可能だったことがあるか』
片手で絡め合った指が熱かった。昔と変わらぬ逞しい彼の掌に、十年の月日がうっすらと積もっていた。彼も年を取ったのだ、という当たり前の事実が、僕にとっては凄く新鮮だった。
『…異動願い、通るかな』
呟いた僕の顔を、承太郎は…自分で切り出した話のくせに…驚いたように素早く伺った。それは昔、日本を離れるか否かの決断を僕に委ねて来た彼の頼りなさに通ずるものがあった。
この人は、全知全能の超越者などではなく、ただ少し人より秀でた人なのだ。そしてどうやら自分はその人に…愛されているらしい。その、いっそいじらしいような事実を、僕は改めて、そして確かに胸に刻んで、少し笑った』
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