「――その後は君も知っての通りだよ、ってノリアキは笑ってくれた。それで、もう遅いから帰りなさいって。びっくりしたわ、窓を見たら真っ暗なんだもの。面会時間はもう少し過ぎていて、困った顔の看護婦さんが扉の外で待っていた」
「長い一日だっただろうな」
 アナキスが口にできたのはその一言だけだった。それ以上、どんな台詞を言ったところで、ひとりの人の半生に対する感想には到底なり得ないと分かっていたのだった。
「病院に行ったこと、親父さんには言ったのか?」
「勿論、帰ってすぐにね。そしたら次の日の朝にはノリアキが家に居た」
「…は?」
「アナキス、前」
 思わず顔全体で助手席へ向き直った彼へ、アイリンは厳しく注意した。

「昼前に起きて、冷蔵庫を開けようとしたら、ノリアキが居たの。寝起きのあたしはぼんやりしてて、昨日の記憶とごっちゃになって、差し出された牛乳をありがとうって受け取った。それでテーブルに座ってごくごく飲んで…ノリアキ! って」
 その時の様子を身ぶりと表情で再現したアイリンに、堪え切れずにアナキスは大笑いした。
「朝のうちに車を飛ばして病院に行って、手続きするが早いかあっという間に連れ帰って来たみたいなの。ほんと、手が早いんだから」
「行動力があるって言ってあげろよ」
 忌々しげな表情を隠しもせずに言う彼女へ、思わずアナキスが取り成す。
「きっと感動の再会をあたしに邪魔されたくなかったのよ。何さ、ノリアキに会ってきたって言ったときはそうか、あいつは元気にしてたか、なんてしらーっとした顔だったくせに。もうあの時からノリアキを浚いに行くつもりだったんだわ」

 唇を尖らせて言う様子は、まるきりお気に入りの玩具を横取りされて拗ねている女の子だ。アナキスにはその横顔だけで、小さな彼女を取り巻く二人の大人の穏やかな毎日がありありと想像できるようだった。
「でも、嬉しかっただろう?」
「…そりゃ、ね」
 不機嫌のポーズを取ったまま、それでも少しのはにかみを隠しきれない様子で、アイリンは言った。頬杖を突いた腕を、遮られ帯状になった夕暮れの光が、ひと筋オレンジに染めている。
「それで君の家族は元通り、三人揃ってハッピーエンド。言うこと無しだ」
「三人揃うわけないでしょ。あたしは一人暮らししてんだから、休みが終わったら戻らなきゃいけないの!」
「それで拗ねてるのか」
 笑いながら言ったアナキスを、アイリンは力いっぱい睨みつけた。どうやら一面の真理ではあったようだ。
「まあ、もうすぐ俺と暮らすんだからな。淋しくなくなるぜ、ハニー」
「あたしは別に淋しくないし、誰がハニーよ気色悪い!」
 すっかり機嫌を損ねたらしいアイリンに、苦笑しつつもアナキスは動じない。窓から飛び込んで来る潮風が、気付けば触れられそうなほど濃いものになっていた。


 ハイウェイを降りた車は夕暮れの市街地へとゆっくりハンドルを切った。それまでは静かに車窓を見ていたアイリンだったが、見慣れた景色が近付いてくるにつれてシートから背中を起こした。
 あそこが良く食べに行ったアイスクリームスタンド、卒業した小学校、大親友の家…次々に指差しながらアイリンのお喋りはとめどなく、思わずアナキスの顔にも笑みが浮かぶ。愛する人の育った海辺の町は、ただそれだけで彼にとっても特別素晴らしい場所になった。
 小高い丘に拓かれた町らしく、メインストリートの下り坂の先には黄金色に輝く北大西洋が広がっている。アナキスには、この道を自転車で勢いよく下って行く遠い日のアイリンの姿さえ見えるようだった。
「ああ、あそこよ。あの青い屋根の家…あたしの家」
 指差してそう言ったきり急に黙り込んだアイリンを訝しみ、アナキスはちらりと助手席を見た。

「…アイリン、もう泣くなよ。今日だけで俺は君が泣く話を何度聞かされたと思ってるんだ」
「好きで泣いてるんじゃないわ、ほっといてちょうだい」
 ぐずぐずと涙声のままで言い返すと、アイリンはまるで可愛げの無い仕草で鼻をかみ、アナキスを苦笑させた。海岸線のゆるやかな下り坂を曲がるたび、青い屋根は徐々に近づいて来る。
「どうしたんだ。何度も帰ってきてるんだろ?」
「分かんないわよ。でもなんか、嬉しくって、苦しくって…」
 指で拭うには限界だったのだろう、ようやくバッグからハンカチを取り出して、アイリンは言った。

「アナキス、生きてるって辛いわね」
「そう、だな…」
 その問いを肯定してしまって良いものか、瞬間的にアナキスは迷った。普段の彼であれば、冗談めかして否定する場面だったかもしれない。だが、きょう一日かけて聞いた彼らの物語が、アナキスに半端な態度を取らせることを許さなかった。
 しかし何かを考え込むように真剣な面持ちのアナキスへ、アイリンは明るい声で言葉を継いだ。
「それでも生きてくって、凄いよね」
「…そうだな」
 噛み締めるように彼も答えた。そう長く生きて来たわけでも無いし、波乱万丈を乗り越えたわけでも、何か大きな功績を残したわけでもない。それでも今日ここに至るまで歩いてきた道のりは、思いがけず尊いもののように思えて仕様が無かった。

「あたし、あんたに会えて良かった。父さんの子どもで、ノリアキに育てられて、ほんとに良かったって、そう思ったの」
「感極まるのは早いぜ。これから二人に祝福してもらうっていうメインイベントが残ってるんだ」
「…父さんは手強いわよ。多分あんた、気に入られるタイプじゃあないし」
 ハンカチを仕舞い、睫毛の状態を手鏡で確認すると、少し意地悪げにアイリンは笑った。思わずアナキスは肩を竦める。
「そういうこと、なんで今言うかな…」
「ある程度の覚悟は必要かと思って」

 ぱちんと音を立ててコンパクトを閉じる、彼女の指先でラメの星がきらりと光った。一瞬、その光に目を奪われたアナキスへ、アイリンは屈託なく笑い掛けた。
「大丈夫よきっと。なんとかなるって」
 アイリンの笑顔の向こうで、夕日に照らされた海がきらきらと光っていた。通り雨のことなどすっかり忘れたような、澄んだオレンジ色の空と海が広がっている。
 塀に立て掛けられたサーフボードや、二階のベランダに置かれた天体望遠鏡から、青い屋根の家の住人の生活ぶりが垣間見えて来た。アイリンが弾かれたように立ち上がり、助手席の窓から身を乗り出した。風に流れた声はアナキスへは届かなかったが、彼女の声に応えて手を振る人影が窓辺に立っていた。
 窓辺の人影がふたつに増え、そして消える。門扉の開かれる音がした。海辺の町の丘の上でひととき賑やかに弾けた青年たちの声は、ほどなくして青い屋根の家に吸い込まれて消えた。後に残された潮騒は、いつまでも穏やかに、寄せては返す自然の営みを繰り返していくのだろう。








▼エピローグ

「…遅いな」
 朝から何十回目とも付かない言葉を吐きだして、彼はソファに座り直すと口を真一文字に引き結んだ。その様子をうんざりしたように眺めながら、彼は空になったマグカップを引き寄せる。
「遅くなるって連絡があったばかりじゃあないか。何を言ってるんだ君は」
「しかし、昼過ぎに着くという話だったろう。もう日が暮れるぜ」
「ああ、日が長くなったなあ。すっかり春だね」
「そうだな…、そうじゃあない。クソ、あの長髪野郎め事故りやがったりしてねえだろうな」
 今にも貧乏ゆすりを始めそうな彼の手元へ、彼はなみなみとコーヒーを満たしたマグカップを差し出した。それを見てようやく、彼がコーヒーを淹れなおしていたことに気付いた彼は、大人げない自分への恥ずかしさも出て来たのだろう、俯いたままでテーブルの隅をとんとん、と二度叩いた。

 遂に呆れたように、彼は提案した。
「そんなに気になるなら電話してみりゃいいだろ。君もあの子も携帯電話という人類の知恵の結晶を持っている」
「…てめえ、掛けてみろ」
「え? やだよ。どうして僕が恋する二人のラブラブドライブをお邪魔しなきゃならないんだい?」
 低く、重々しく言い返した彼の言葉を、彼はいとも容易く軽やかに切り捨てた。苦虫を噛み締めた表情で彼は呟く。
「その、言い方を、やめろ」

「そうぶすくれるなよ。何も親子の縁が切れるわけじゃなし…」
「なんでよりによってあんなチャラ男なんだって言ってんだ」
 耐えきれず飛び出した本音へ、彼はちくりと牽制する。
「どうせどんな男を連れて来たところで君は嫌なんだろ。アイリンが可哀想だ」
「娘を沈みかけの舟に乗せる親がどこに居る」
「なんだい、君は自分を超豪華客船だとでも言いたいのかい。大した自信だなあ」
 続くはずだった言葉はとうとう飲み込まれた。その隙を突くように彼は言った。

「いいじゃないか、カヤックだろうがイカダだろうが、彼女がそれを選んだのなら」
「無責任じゃあねえのか…親として」
「そうかな? 僕はあの子なら、たとえ身ひとつで海に投げ出されようと自力で岸に辿りつけると信じてるんだが」
「それは関係ねえだろ」
「大アリだね。そんな逞しい彼女が選ぶんだ、この際ビート板だろうと丸太だろうと構わないじゃあないか。まあそうだね、彼女にしがみついて岸まで運んでもらおうとしたり、彼女の泳ぎの足を引っ張ったりする輩は問題外だが。そこはこれから僕も見定めさせてもらおう」

 朝から苛々と募らせていた、彼のまだ見ぬ男への怒りは、彼の言葉を聞いているうちに不思議と薄れて来た。勿論それは怒りが収まったのではなく、意外と自分よりも更に厳しい評価をしそうな者を見て、少し可哀想になっただけだ。
 その時ふと、思いついたように彼が言った。
「ねえ君、アイリンが結婚したら」
 結婚の二文字に、思わず勢いよく振り向いた彼へ、彼は言葉を重ねた。
「アイリンが結婚したら、ちょっと遠出をしてみないか」
「…いいぜ、どこに行きたい」
 彼が願望を口にする事はあまり多くない。思わず読んでいた新聞を畳んで脇へ寄せて身を乗り出した彼に、彼は小さく笑って答えた。

「そうだなあ、オーロラもグランドキャニオンも、ここに住んでる限り結構簡単に見に行けそうだし…ああ僕、ピラミッドが見てみたい。君は行ったことあるかい? エジプトに」
「いいや、無いぜ。…決まりだな」
 にやりと笑って顔を見合わせた後で、彼は興奮を抑えきれぬ風に言った。
「どうせなら海路でどうだ」
「え、僕、シルクロードを走ってみたい」
 いかにその海域で珍しい魚が見れるか、という彼の話の腰を折り、駱駝やジープで大陸を移動するロマンをお返しのように語り出した彼の言葉が、ふと止まった。怪訝そうに彼は視線を投げかける。
「どうした?」
 無言で指差された窓の外を見て、思わず彼も絶句した。彼らがこれまでの人生で見たことが無いほど大きな虹は、家の窓の面積を目一杯使いきるようにして悠然と立ち誇り、まるで天空から彼らを覗きこんでいるようだった。



(2014/05/18, St.Louis Blues, 加村アヤナ)
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