春霖



 肌に絡みつくように香気芳しい春の夜だった。宵からの雨は銀細工のように、作りこまれた庭の植栽を湿らせて行く。黒雲の隙間から時折顔の端を覗かせる月が、戯れに濡れた葉先を光らせる。止むともなしに天から降る水滴は、細か過ぎて霧に近いほどのものだった。
 湿り気のある風は香りをよく運ぶ。前庭に植わったものであろうか、沈丁花の香りが忍び入るように鼻先を擽り、小十郎は手にした杯を床へ置いた。耳を澄ませばしとしとと降る雨音に混じり、幾重にか襖を隔てた先の寝間からの、ひそやかな息遣いが聞こえてくる。
 雨の降りかからない廂の瀬戸際、濡れ縁の中央に腰を据えたまま、小十郎はまるで朧月へと話しかけるように言った。
「おい、忍び。そこに居るんだろうが。降りて来い」
 一瞬の間を置いて、濡れ縁の端に人影が生まれた。それはまさしく人の形をした影だった。闇を纏った人影は、低い声に悔しさとも戸惑いともつかぬものを滲ませた。
「…なんで分かったのさ」
「勘だ」
 堂々とそう言い放った小十郎に、佐助は「嘘だろ」と呟いてぶらんと足を投げ出す。足袋の先が濡れるのも構わぬその所作は昼日中に前線を駆けまわる戦忍びのそれよりも、随分と子どもじみて見えた。
 戦場の記憶を辿るうち、小十郎はこの不思議な忍び者と初めて出会った時のことを思い出していた。互いの主同士の一騎打ちに割って入った一陣の風。朝焼けの刻限だったのだろうか、しかとは思い出せないが、燃えるようなその赤髪が、どこか冷めたような態度と似つかわしく無く、強烈な印象を残した。
 全く同じ進言を持って主の背後から進み出た自分を、彼が視界に入れたかどうかは定かでない。ただ、両軍が撤退を始めるころには、あの斑緑の装束も、赤茶けた髪も見当たらなかった。現れた時と同様に、彼は風のように去ってしまったのだろう。何の衒いも無く小十郎はそう思って納得したのだった。

 風向きが変わったようで、武骨な頬に柔らかな雨がそっと触れた。意に介さずにぐっと盃を空けると、佐助が銚子を持って注ごうとする。渋面を作って小十郎は言った。
「白首の真似事させようなんざ思ってねえよ。てめえも飲め」
「いやいや、お仕事中に飲めませんって」
「主は褥でお楽しみ中だってのにか?」
 図ったかのような間合いで、一際大きくすすり泣くような声が夜風に乗って二人の澄まされた耳へ届いた。戦場を焼き尽くす紅蓮の鬼が、閨ではこうも可愛らしい生き物になるのかと小十郎は一瞬考えて、やめた。それは彼の主への大いなる不倫に思えたのだ。

 城主の寝間で初枕を交わす二人の青年と、万が一に備えて控えている二人の従者。麗しくも滑稽な有様に思いを致したのか、佐助は一つ溜息をついて言った。
「…ばかな旦那たち。命を縮めるよ」
 間違いなく自分よりも年下であろうと思っていた佐助の纏う雰囲気は、そのとき驚くほど老けていた。越えた年月には不釣り合いな程に多くの苦労をしたのだろう、と小十郎は察した。
「だがてめえは止めなかった」
「止めたとこでどうなんの。余計に焦れるだけさ」
 蓮っ葉な物言いの中には、隠しきれない主への心配りと忠心が感じられた。小十郎は「確かにな」とだけ呟いて、曇天の月を見上げた。黒い薄衣をちらちらとはためかせた月が、鷹揚に地上を見下ろしている。
「そういうあんたは。いかにも諫言しそうな感じだけど」
 ようやく振り向いた佐助は、初めて小十郎に正面からその顔を見せた。小造りな顔を半ばで横断するような草色の化粧が、嫌が応にも目を引いた。小十郎は身ぶりで近くに来るよう促した。佐助は音も無く濡れ縁を飛び降りると、ひょいひょいと庭の飛び石を渡り、小十郎の傍らに生えた庭木に背を預けた。てっきりそのまま自分の隣へ来るものだと思い込んでいた小十郎は少々面食らった。その反応を知ってか知らずか、佐助は常と変わらぬ顔つきで小十郎の言葉の続きを促す。

「…政宗様が、あんなにひとつのものを欲しがったのは初めてだった」
 しょうがなしに切り出した小十郎へ、佐助はあからさまに嫌そうな顔をした。
「ちょっと、物扱いしないでくんない?あれでも大事な旦那なんだぜ」
「悪ぃ。そういうつもりじゃねえんだ」
 ひらりと厚い手を翻し、小十郎は先を続ける。
「政宗様は昔ッから飽き性でな。何かを欲しがってもすぐ飽きる。ひでえ時には、手に入る前に、欲しがることに飽きる。頭も良いし器用な方だから、すぐに慣れちまうんだろうな。我儘は成長なさると共に御自重を覚えられたが、酷ェ癇性持ちってのはいつまでたっても相変わらずだった」
 問わず語りの徒然に手酌で酒を飲む小十郎は、昔を懐かしむようにしみじみと月を見上げた。幼い頃より影になり日向になり支え続けてきた主の顔が瞼の裏に浮かんで消えた。

「真田と会って政宗様は変わられた」
 語調を改めて小十郎は言った。
「俺はあのお方の家臣だ。早くどこぞの姫御を娶られてご嫡男を設けて頂かねば気が休まらねえ。だが…政宗様のお心を考えれば、俺は真田が居てくれてよかったと思っている」
 自らの中にある臣下の心と、それに相反する政宗個人を思いやる心が、小十郎の言葉に微妙な陰影を作った。しかしそれを聞いた佐助の表情はふと和らいだ。それを見た小十郎は、佐助との距離が確かに縮まったのを感じた。
 気だるげに一つ息を吐いて、佐助は薄い唇を開く。
「竜の旦那は一体全体、ウチの旦那のどこが良かったんだろうねえ。主家を変えながらどうにか生きながらえてきた山ん中の小大名の次男坊。藤原北家の血筋を享けた、生まれながらの王子様のお伽相手にゃちょっと畏れ多いんじゃないかと思うんだけど…旦那はそんなことこれっぽっちも考えちゃいない」
 ちらりと届いた月の光が、佐助の髪を赤鉄色に照らし出す。春雨に湿ったその髪を鉢金の上から掻き揚げる仕草には、年相応の若さが見えて、小十郎は少しほっとした。
「そんな所が良かったんだろうよ。こんな世の中じゃ別に珍しくもねえが、政宗様はだいぶ複雑な育ちをなさってるからな。誠心誠意お仕えしたつもりではいるが、どれだけお傍に在ったところで俺は家臣に過ぎない。誰もかれもを跪かせて生きてきたお方だ、真正面から対等に渡り合える相手がずっと欲しかったんだろう」
「それがどうしてこんなことになっちゃったんだか」
 手の甲で顔を拭ったので、その時の佐助の表情を読むことはできなかった。小十郎は杯に酒を注ぎ足すと舐めるように口に含み、佐助に問いかけた。

「政宗様の文を読んだことがあるだろう?ああ、隠さなくて良い。それがてめえの仕事だ」
 佐助を取り巻く空気がふと冷えたように感じたので、さもありなんと小十郎は言葉を添えた。
 奥州と甲斐の国事に関わる重要な文を運ぶのは佐助の役目だったが、それと同じかそれ以上の頻度で、主である幸村の文を奥州王へと届けては、返書を持ち帰っていた。伊達政宗に異心なし、とここまで来ればさすがの佐助も認めざるを得なかったが、それでも持ち帰る文の中身を改めるのは忍として当然の行いだった。
 政宗に直接問われたならまだしも、小十郎に対して隠しだてするつもりははなから無かったが、こうもあっさりと認められるとは思っていなかったのだろう、佐助は少し驚いたようだった。しかし小十郎はそんな様子を意に介さず、武骨な口元に少しの笑みを載せて話を続けた。
「あの方は普段、もっと上手く恋歌を詠まれる。それが真田相手になると、三十一文字にありったけの気持ちを詰め込んだみたいな、なんとも熱っ苦しい文になる。まるで覚えたての若造みてえだ。…だがな猿飛、きっとそれが、政宗様の本当の心持なんだと俺は思っている」
 政宗様は、心底真田に惚れていらっしゃるのだろう。そう言って小十郎は、雲間の月を眩しそうに見上げた。
 二人が今宵ここに居る理由、それは互いの主にもしものことが無いように。素肌を晒し気を緩ませる瞬間に、物影に潜んだ刺客が飛び出せば。もっと簡単な方法としては、政宗が、もしくは幸村が、異心を持って懐に短刀を隠し持っていれば。主に危険が迫ったならば、彼らは互いに閨に飛び込み「刺客」を葬らねばならない。
 そんな覚悟を持って臨んだはずなのに、彼らの間には奇妙な同族意識が生まれようとしていた。もとより互いの主を疑う気は、二人のもどかしいほどに緩やかな想いのやりとりを傍で見ているうちに、あって無いようなものになっていたのだが(小十郎はまだしも、佐助にとってこれは予想外だった)、事態はそれすらも越えて居た。

 はあ、と溜息をついて佐助は言った。
「よくもまああんなに恥ずかしい言葉ばっかり並べるもんだとは思ってたけどさ、俺様に歌のよしあしなんて分かるわけないでしょ」
「歌を詠まずとも、恋文くらいは書いたこともあるだろう」
「書きませんよ。俺たちゃ跡を残すことはしないの。いちいち消すのは面倒だからね」
 消すというのは文にかかる言葉なのか、小十郎はあえて確かめることをしなかった。その反応に気を良くしたようで、佐助はずいと身を乗り出すと、商売女のように婀娜めいた仕草で慣れなれしく小十郎に話しかけた。
「それよりもさ、俺は右目の旦那の恋歌って奴が気になるよ。ねえあんた、どんなふうに女を口説くの」
 紛々たる色香を振りまくように、佐助はにいっと口角を上げた。月が佐助の髪をあかがね色に照らし出し、反対にその表情をほの暗く隠す。小十郎はごくりと唾を飲み込んだ。
「…てめえ相手じゃあ披露する気にもならねえな」
「あはは、ですよねー」
 先ほどまでの様子がまるで夢だとでもいうように、佐助を取り巻く雰囲気は一瞬にして霧消した。正直、小十郎はほっとした。それと同時に、くるくると入れ変わり立ち現れる武田の忍の様々な表情に、抗えぬ程の興味を掻きたてられていた。

「まさか伊達家の御家老とこんな夜更けに、さしで話すことになるなんて思ってもみなかったよ」
 道化のような身ぶりで肩を竦めながら佐助は言った。こうしていると、お調子者の青年にしか感じられない。体の表面を覆い尽くすように纏われた武装の方が、今は彼から浮いていた。
「あんた、俺様のこと見てただろ。川中島で、旦那たちが一騎打ちをした時さ」
 まるで世間話でもするかのような気易さで佐助は言った。小十郎は一瞬跳ね上がった鼓動を抑えながら、無言で佐助の言葉に耳を傾ける。
「勿論あんたのことは知ってたぜ。竜の右目、片倉小十郎。お仕事の最中に見かけたことだってある。でも正面切って顔を合わせたのはあれが初めてだった」
 そこで佐助は小十郎に体全体で対峙した。真正面から受け止める忍の瞳は冬ざれの枯れ木のように乾いていた。余計な情の感じられない瞳はむしろ直截な感情を小十郎に投げかける。小十郎は知らず身構えて、次に齎される佐助の言葉を待った。
「旦那たちの間に俺様が割って入ったとき、あんた慌てて前に出ようとしただろ。俺の心配、してくれたのかい」
 暗躍や搦め手などの言葉が似合う忍の偶像からはかけ離れた真っ直ぐな視線からは、佐助に他意が無いことが感じ取れて、だからこそ小十郎は答えに窮した。半端な言葉を返すことは佐助の本気に悖ることで、小十郎にはできなかった。しかし問い掛けに対する答えはすぐに出てくるものではなかった。自分がどのように「その時」を過ごしていたのかと言えば、ただ戦場を吹き抜ける赤い風に見入っていただけなのだ。

 さやさやと音を立てて、夜風が植栽の間を通り過ぎて行った。ふわんと香る沈丁花が小十郎に今の状況を正しく伝える。ここは川中島の戦場ではなく、目の前の忍は主に仇為す敵ではない。大きく息を吐いた小十郎につられたように佐助も表情を緩ませた。
「…はは、冗談冗談。卑しい草のお遊びだぜ?そう真に受けなさんな。本当に武骨な御仁だね」
「時と場合を心得やがれ畜生」
 騙された、と言わんばかりに小十郎は吐き捨てたが、本心でそう思っていないことはきっと佐助自身にも知れているだろう。冗談にしなければこの場の収まりは付きそうになかった。
 月を見上げて佐助は言った。
「どうにもね、旦那がいいならそれでいいって割り切っちゃいるんだけどさ…」
 ふう、と息を吐きながら、佐助は濡れ縁の端にちょこんと腰掛けた。彼なりの遠慮の形なのだろうが、年も背格好もそれなりの佐助がするにはどうにも可愛らしすぎる動作だった。
「甲斐と奥州の同盟がある今、旦那たちがどんなふうに仲良しになったって構やしないよ。二国の将来を考えれば喜ばしいことかもしれない。ウチの旦那、あんなだけど一応お館様の信は篤いんだ。いつか武田の総大将になるかもしれないぜ?」
 小十郎は今更お留守になっていた杯に手を伸ばす。ぬるい酒精が喉を焼く。
「でも、真田の旦那が総大将になった時、その槍の穂先にあんたの主が居ないと誰が言い切れる?」
 振り返った佐助は慣れた調子で徳利を取り、小十郎の杯に注ごうとした。小十郎はもう何も言わず、佐助に杯を差し出した。
「ちっとばかし甘やかして育て過ぎたみたいでね、俺様はそこが心配なのさ」
「真田は戦えない、と?」
 酌をしながらするにはとても不穏な会話だったが、二人の心は静かだった。二人とも、主たちが決定的な関係になる以前から、幾度となく考えていた仮定の未来の話だった。
「まさか。その逆だよ。動かない竜の旦那に取り縋って泣く主の姿が、俺様にはちらついて離れないんだ」
 一瞬、風が凪いだ。杯に口を付けたまま、小十郎はひととき動きを止めた。佐助は己の失言を悟り顔色を変える。

「悪いね。想像の話とは言え縁起でもないこと喋っちまった」
「いや…いい。俺も考えていたことではある。政宗様は、戦えないかもしれない、と」
 小十郎の返事は早かった。或いはそういうことも在り得ると、一度ならず考えたことなのだろう。佐助の主よりも格段に多い感情の襞は、情緒の深みは、得る物の少なく喪う物ばかり多かったかの竜の半生が作り上げたものなのだろうが、その不幸は同時に彼の剣馬の才覚をも養ったのだった。佐助は僅かに俯いた。
「…因果な話だね」
 その一言で小十郎は、佐助が己の心の大方の部分を理解しているのだと知った。主たちの事情を知った上で、立場は違えど主に仕える者としての琴線が共鳴したのかもしれない。もはや小十郎の中にこの忍を疑ってかかる心持ちは残っていなかった。佐助の存在は、彼の中の「忍」という枠から抜け出てしまった。まんじりとせずに夜空を見上げて小十郎は言った。
「この同盟、いつまで持つか」
 もう何度目かとも知れぬ溜息を吐いて、佐助は答えた。
「決まってる。互いにとって利益が無くなるまで、さ」
 あのひとたちの心なんてそこには関係ない、と小さく漏らした佐助の声は、小十郎の杯を少し湿して酒の底に沈んだ。

「それにしても俺様たち、主思いの良い従者じゃないの。あ、お武家様と一緒にしちゃあ失礼だけど」
 湿った空気を払拭するように、明るく佐助は振り返った。小十郎は苦笑して言った。
「妙な忍だな。馴れ馴れしい癖に変な遠慮をしやがる」
 そしてようやく、尋ねた。
「名は」
 佐助は忘れてた、とばかりに一瞬目を見開き、にっと笑って答えた。
「猿飛、佐助」
 さるとびさすけ。小十郎は舌に馴染ませるように二三度呟いた。自分に比べて厚い唇が、慣れる様子で忍の名を紡ぐのを、佐助は黙って見ていた。彼が、さ、と発音するたびに空気が僅かに震えるのが分かる。主たちの居る閨は、気付けばしんと静まっていた。
「俺が月影の雲ならば、てめえは火陰の闇か。どちらにしても容易な道行ではねえようだ」
「さっすが学のあるお方は言い方が洒落てるね」
 佐助はとん、と庭に降り立つと、ぐうと両腕を上げて伸びをした。武装の上からも分かる引き絞られた痩身が、縁側に長く影を作った。小十郎は半ば引き留めるように声を掛けた。

「猿飛」
「うん?」
 軽く振り返った佐助へ、思い付くままの言葉を差し出す。
「俺にも文を寄越せ」
 佐助はぽかんと小十郎を見詰めた。呆けた表情の佐助を見詰める小十郎は、あくまでも真面目な面持ちである。すると佐助は、ああそうか、と何事か閃いた様子で言った。
「竜の旦那が嫌がるぜ?俺様みたいにこっそり見ちゃうならまだしも」
 どうやら佐助は、主同士で遣り取りしている文のことだと解釈したらしかった。小十郎は悪相を濃くして言った。
「そうじゃねえ。てめえが俺に文を書けと言っている」
 今度こそ佐助は黙った。ぐうの音も出ない風情の彼を、逃がさないとでも言うかのように小十郎は正視する。二人の髪を撫でるようにして夜風が通る。葉擦れの音の他には何も聞こえない。小十郎と佐助を除いた世界はすっかり眠りについているようだった。
「…なんで?」
「…俺にも良く分からんが、てめえの文が読みたくなった」
 たっぷり時間を使って佐助は一言問い掛けて、同じように小十郎も呟いた。小十郎は自らの背後で錠の降りる音を確かに聞いた。彼の頭の最も野生に近い部分が、もう後戻りはできないと警告を出している。しかし心中に反して彼の視界に広がるのは、暗い庭を細く照らす朧月、そして月下に佇む忍の細い影。運命が決まる瞬間というのはこのように静かなものなのかと、小十郎は半ば諦念のような心境だった。
「…気が向いたら、ということで」
 苦渋の決断とでも言うように、佐助は重々しく答えた。断らなかったのが意外だった。意外といえば、このような世迷言へ手管に長けた忍が逃げ口上の一つも持たず考え込んだこと自体が不思議だ。黙考する小十郎をよそに、佐助は細かな雨をものともせずに夜空を見上げていた。肉の無い頬と草色の化粧が、小十郎の視線に無防備に晒されていた。

 やがて何かを見つけた様子で佐助は向き直ると、いつも通りの飄々とした態度でひらひらと手を振った。
「それじゃね、片倉の旦那」
 小十郎の答えを待たず、佐助は宙に腕を突き出した。何が起こるのかと注視する暇も無かった。夜の闇を更に濃縮したような、大きな影が音も無く佐助に向かって滑り落ちてくる。――鴉だ。そう思ったときにはもう、忍の姿は小十郎の前から掻き消えていた。後に残ったものはただ、沈丁花の香りと朧月、それのみだった。



栗花落



 佐助は泣いたことがない。特段無感情であるとか無慈悲であるとか、そういうわけではないけれども、単にこれまでの人生で泣くほどのことに出会わなかったのだ。泣きたくなるようなことはそれなりにあった気がするが、いつだって泣くより前にしなければならないことが佐助には見えていたので、否応も無く涙がこぼれるという事態には陥らずにここまで来た。
 それを冷静と人は言うのかもしれない。その冷静さ故に佐助は今も、淡々と白くけぶる地面を眺めている。雨が止まないなあ、などと思いながら、もはや動かすこともままならない指先で、顔に垂れ落ちた赤毛を払う。片頬は湿った土に押し付けられて冷えていた。少し休むだけのつもりだったのに、どうやら体はそれを許してくれないようだ。
 俺様がここで死んだら、と佐助はぼんやり考えた。旦那は泣いてくれるかな。それとも凄く怒るかな。どっちもかな、旦那だし。俺様の代わりは見つかるかな。なんせ俺様は有能だからね。大将の命は果たしたからお咎めは無いだろうけど、ここの人に迷惑かけちゃうな。うん、やっぱり死ねない。

 佐助はぐっと両手に力を入れた。途端に焼きごてを押し付けられたような痛みが背中一杯に走り、息が止まる。だがそれだけの話だ。佐助は注意深く息を吐きながら、震える手で土の上に上体を起こそうとした。
「…猿飛?」
 頭上から降ってきた声に、佐助は戦慄した。肘の力が砕けて、顔をしたたかに土へ打ち付ける。間違い無く今一番聞きたくない声だった。思い過ごしと思って去って欲しかったが、崩れ落ちた物音が聞こえたのだろうか、声はますます近くなった。
「てめえそんな所で何を遊んでやがる。来たなら堂々と上がって来い」
 驚き呆れたような小十郎の声は、今の状況とあまりにもちぐはぐで、佐助には遠い世界の物音のように聞こえた。しょうがないので佐助は言った。
「朝になったら、出て行くから」
「…何?」
「片倉の旦那に迷惑は掛けない。だから」
 声の震えを悟られたろうと思うと唇を噛みたい気持ちだった。佐助は指先で土を掻いた。目的を達するためには何でも使うのが忍びの常とは言え、一度親しく言葉を交わしただけの他国の将に助命を請わねばならぬ己の不甲斐なさが何よりも彼を責め立てた。

 小さく嘆息して、小十郎は言った。
「手傷を負ったか」
「大したことないよ。休めばすぐに動けるようになる」
「そうかい。なら自力で縁の下から這い出してみな」
 猫の仔みてえに引っ張り出されたくなきゃあな、と皮肉っぽく笑う小十郎が今、縁の上でしゃがみこんでいることが何となく察せられて、佐助は覚悟を決めた。渾身の力を籠めて上体を起こし、片足を付いて支える。体のどこかを動かすたびに、背中へ炎が巻きつく。船の上のように揺れる地面に必死で均衡を取りながら、佐助はようやく雨の下へ姿を晒した。

 ほら平気だろ、とばかりに笑ってやれば、略装姿の小十郎は呆れたように溜息をついて一言「上がって来い」と命じた。かたじけのうぞんじます、などとおどけて見せながらも、佐助は脳天を揺さぶるような鈍痛に耐えていた。一刻も早く毒を抜かねばならない。しかしそこは年季の入った忍び者、呼吸も顔色も整えて手ずから先導する主に付いて長い板張りの回廊へ歩みを進める。
「すいませんね、廊下が汚れちまった」
「構わん」
 佐助の足跡の形に残った泥水を顧みて謝れば、言い捨てるようないらえが薄暗い回廊に響いた。まだ日が落ちたばかりの刻限だというのに邸内はしんと静まり返っている。
「ご家中の方は」
「てめえを探しに来る時下がらせた」
 押し黙った佐助に小十郎は言った。
「他国の忍に追われたのだろう。政宗様への密書は無事か」
「…他の奴に持たせたよ。俺様は囮さ」
「ならいい」
 すっと障子を引くと、小十郎は目線だけで佐助に入れと命じた。小ぶりな客間だ。
「いま湯と着替えを持ってくる」
「え、そんなこといいよ。屋根のあるところで休めるだけで十分だし」
 片手を振り振り答えると、小十郎は眉間にしわを寄せて答えた。
「そうはいかねえ。主の命を請けた同盟国の使者が御役目の途中で傷ついたってえのにむざむざ見捨てたとあっちゃあ伊達家の沽券に関わる」
「そりゃお武家様の常識じゃそうなんでしょうけどね。俺に気づかいは無用ですよ」
「猿飛」
 障子に手を掛け、低い声で小十郎は言った。
「ならばこう言おう。俺はお前を放っておきたくない。…よくここまで持ち堪えてくれた」
 入ってきたのと同じように静かに障子を閉めると、小十郎は歩き去った。思わぬ言葉に佐助は背中の芯がくたくたと抜けて行くのを感じる。

 あのお人は何を言っているんだろう。そりゃ一度、かなり親しく話もしたが、あれは特殊な状況に置かれた同族意識の為せる業であり…等々負け惜しみのように考えを巡らせてみた佐助だが、ならばなぜ自分はこの屋敷へ逃げ込んだのかと問われれば返す言葉も無いことは良く分かっていた。
 なぜここへ来たと言われた時に応える文句は決めていた。『「不審な男を見つけたので間者かと疑い追っていた」と強弁したところで、片倉の所領へ押し入ればそれは即ち伊達へ弓引くことになる。諸大名入り乱れる東北の地で、軒猿一匹のためにそのような愚を犯す者はいないだろう』と。
 しかし小十郎は問わなかった。恐らく彼は、佐助の心の奥底にある、微かな感情に気付いている。気付いていることを隠そうともしていないのか、或いは本能的に気付いてはいるが、しかと理解はしていないのか。やんなっちゃうね、と佐助は見知らぬ天井を仰いでゆるゆると息を吐いた。ほんの少し体が楽になったのは、暖かさからか安堵感からか。赤の他人から飾り気の無い好意を向けられることに、佐助は慣れていなかった。
 佐助は一つ息をつくと、冷え切った半首を外し、肩に纏った袖無しの上着をのろのろと脱いだ。すっかり雨と泥を含んだそれは、力の無い佐助の手にまとわりついてじっとりと重かった。畳を濡らさぬよう、ゆかしげな違い棚へ畳んで置けば、本来は陶器や花瓶などを飾られるための場所が一気に所帯じみて見えた。
 続けて指先までを覆う籠手を取り、上着の下へ隠した暗器を注意深く棚へ並べる。すっかり濡れてしまっただろうから、錆びる前に手入れをしなければならない。刃に塗った毒も流れてしまったようだった。

「…猿飛?」
 その時戻った小十郎が僅かに驚いたような声を出したので、佐助は表情で何事かと問うた。すぐにずらりと並べた忍の武器のせいかと当たりを付けて、佐助が何か浮ついた冗談でも言おうかと思ったところで、のしのしと大股で近づいてきた小十郎は、乾いた布を何枚も佐助の頭に被せ掛けた。
 予期していなかった展開に佐助は目を白黒させたが、小十郎の視線が肩口から二の腕にかけて大きく引き攣れた傷跡に注がれていると分かると少し安堵する。普段は幾重にも着こんだ衣と装甲で素肌を隠している分、剥き出しの傷跡が生々しかったのだろうと勝手に解釈した。
「さらの着物があるはずなんだが場所が分からん。済まねえが、俺ので勘弁してくれ」
 しまいに簡素な無地の長衣を膝に置かれ、佐助は布の化け物のようになってしまった。何から言えば良いのか佐助が思案している間に、小十郎は廊下に置いていたのであろう盥を注意しいしい部屋へ運び込む。体中に引っかかった布を全て振り払うと、遂に耐えかねて佐助は言った。
「あんたに湯の世話までされちゃあ俺様申し訳なくって涙が出ちまうよ。色々借りといて虫がいいけど後は適当にやっとくからさ、もう俺のことは構いなさんなって」
 ちゃらけた口調ながらも佐助の言葉には真があった。小十郎は何か言いたげな様子だったが、何かあったらすぐに呼べと言いおいて、渋々といった体で部屋を後にした。たん、と音を立てて障子が閉まると、ようやく佐助は安心した。
 調子が狂う、と佐助は思った。たかが一度、四方山話をしただけの相手が、なぜこうまでも自分に尽くしてくれるのか皆目分からなかった。その上相手は侍で自分は忍だ。歯牙にすらかけられるべきではないはずなのに、一体なにがあの男をこうまでも――優しくさせるのか。

 そう考えて佐助はぞっとした。自分の思い浮かべた言葉の甘ったるさ、脆弱さに辟易としたのだ。ゆるゆると頭を振ると、佐助は無言で足下の畳を返した。剥き出しの板に大判の布を敷き、湯の入った盥を引き寄せる。壁に向かって布に座り、絞った手ぬぐいで苦無を丁寧に拭った。終わったところで手ぬぐいを裏返し、強く口にくわえた。
 息を整え苦無を後ろ手に持ち、数秒の躊躇いの後、ぐっと傷口を抉る。途端に大量の脂汗が滲み出る。喉の奥から獣じみた唸りが漏れ出るが、白飛びした意識の中で必死にそれを堪えようとする。ひと思いに切っ先を返せば、肌と肉の裂ける音がぶつりと脳天に響いた。汗に混じって血の流れる感触がする。まだ腐ってはいなかったようだと佐助に残された僅かな理性が感じた。必死で呼吸を整え、背中に回した指先で傷口をきつく絞る。ふうふうと荒い息が噛んだ手ぬぐいの隙間から洩れた。
 野蛮な荒療治であることは承知の上だが、今この状況では他に遣り様がなかった。毒が肉を蝕む前に、侵された場所ごと取り去ってしまわねば。毒が血水と混じって心の臓まで至れば、もう取り返しがつかないだろう。忍は非情な生き物だ。そしてその非情の矛先は、自分に向かっても揺らがない。命の欠片の一粒までも主のために使うと決めたのだ、こんなところでくたばるわけにはいかなかった。
 再び苦無を握り、先ほどよりも深く肌を裂く。心臓が耳の近くまで競り上がってきたかのように、自らの鼓動で脳が震えるほどの振動を感じる。熱にうかされたように狭まった思考回路の中、佐助は再び後ろ手に苦無を振り上げた。しかし脂汗の滲んだ掌は、力の萎えていることもあり、もはや握ることもままならなかった。取り落とした苦無は板間に固い音を響かせる。佐助は追いすがるようにそれを拾い上げ、震える手で再び翳した。

「何してやがる」
 低い声が遠くの山から響くように佐助の耳に入ったが、痛みに朦朧とした彼はそれを現実のものと捉えられなかった。くらくらと明滅する視界に必死で頭をもたげていると、急に体を引き寄せられて佐助は体勢を崩した。頬に糊の効いた布がざらりと触れた。
 その瞬間、急速に周囲の世界が現実味を帯びたものとして佐助に迫ってきた。般若の面のような顔をした小十郎は、佐助の手から苦無を奪った。
「毒を受けたと何故言わなかった!」
 何も言えない佐助をよそに、小十郎はその背に手を這わせた。病的な熱を持った肌は、鋭敏にその感触を脳に伝えた。思わずびくりと佐助は震え、同時にくわえていた手ぬぐいが床に落ちる。ぱさりと床に広がったそれにも血の染みが広がっていて、小十郎は舌打ちをした。
「・・・旦那?なにを」
 紙のように白い顔色のままでぼんやりと呟く佐助に、小十郎は一言で簡潔に答えた。
「吸い出す」
 小十郎がその厚い唇を佐助の背中に這わすのと、佐助が堪らず声を上げるのは、果たしてどちらが先だったか知れない。自らの肉を抉っても呻き声しか洩らさなかった佐助だったが、これは体よりも佐助の心を大きく狂わす行為だった。
 喘ぎに声を上げながら、佐助は己の唇に歯を立てた。そのことに気づいた小十郎は、無理矢理に自分の指を佐助の口にねじ込む。痛みを逃がす場を失った佐助は、小十郎の着物に爪を立てることでせめてもの救いとした。
 小十郎の唇は、佐助の背中を左右に切り分けるような長い傷を、上から下までゆっくり移動していく。じゅっ、と音を立てて毒の混じった佐助の血水を啜ると、手近の布に吐き出し、また肉の無い背に唇を這わせる。その間も絶え間無く、自由な方の手で佐助の腰や腹をなだめるように撫でるので、佐助の思考はどこへ集中してよいものか分からず、ただ千々に乱れるだけだった。
「もう、いい、ん、う」
 無理矢理に指を吐き出し荒い息の下で訴える佐助だったが、小十郎は一顧だにせず、ただ大きな掌で赤毛の頭をくしゃりと撫でた。佐助の抵抗は不思議に止まった。それを好機と小十郎は、もっとも膿の酷い箇所を情け容赦なく吸い上げる。佐助は小さく、ひっ、と声を漏らしてそのまま静かに目を閉じた。


――痛いか
 低い、しかし柔らかな声に促されるように、佐助はゆるりと目を開けた。ほの暗い闇の中に、ぽつりと揺れる光があった。
――いたい、いたい
 聞こえた声に佐助は驚いた。それは間違いなく自分自身の声だった。佐助は光へ目を凝らす。ちらちらと煌めく様は、蝋燭の火を思わせた。
――寒いか
 そういえば寒くないな、と佐助は思った。さっきまで傷口は燃えるように熱く、そのくせ体はぞくぞくとした寒気が覆っていたというのに。
――あったかい
 体全体を包み込むような温もりの中に佐助はあった。特に体の表側、胸や腹などの全体で、鼓動を刻むようなじわりとした生々しい体温を感じていた。
――良かった
 その声は佐助の胸に直接響いた。彼は光に向かって目を凝らした。燭台の灯りの下、延べられた床に小十郎が横になっている。仰向けになった彼の体と掛け布団の間に挟まるものが、うつ伏せになった自分の体であると理解するのに佐助は幾分か時間を要した。
――お前、在所はどこなんだ
――山ん中
 小十郎の声は佐助の耳を押し包むようにしっとりと響く。佐助には自らの腰のあたりをさする大きな掌の感触が、幻のものとは思えなかった。
――親兄弟は
――知らない
 警戒心の抜け切った自分の声は、まるで夢の中に居るかのように茫洋としていた。合わせた胸から小十郎の鼓動が伝わってくる。この人は俺に暖を分けてくれているのだと佐助は突然理解した。
――真田に会う前は何をしていた
――しのびだよ
 この季節では火鉢も炭も仕舞い込んでいるだろう。冷えた手負いの体を横目に武骨な男が思案に暮れる様を思って佐助は頭を抱えたくなった。だって、これでは。この様はまるで相対惚れした男女のようではないか。
――いつから忍をやっている
――うん?
――てめえがその稼業を始めたのは幾つの時だ
――言ってる意味がわかんない
 訥々と言葉を返す自分はまるで無邪気で稚い童のようだったが、自分にそんな過去など無いことは佐助自身が良く知っていた。だからこの後に続ける言葉の予想もついた。
――俺はずっとこうだよ。前のことなんて覚えてないよ

 小十郎が腰を撫でる手が止まった。そのことが分かってようやく佐助は、いまこんな風に二人を俯瞰している自分こそが、小十郎の上で伸びている自分の見ている夢なのだと悟った。朦朧とした意識の中でも振り払えない自制心や自我のようなものが凝ったのかもしれない。
 体がどんな状態であれ、状況を冷静に見下す理性は常に残すというのは、武人たるもの皆一様に持っている矜持のようなものだ。ただ、佐助を含めて忍とは、その心得を骨の髄まで染み付かせているものだ。だから非常時にあって理性のみが切り離された現状は理解できないこともない。
 しかしこれでは理性の残った意味が無いではないかと佐助は内心で自嘲した。小十郎の上で佐助の体は軽く目を閉じている。その顔を小十郎は、物思いに耽るような何とも言えない目つきで眺めている。戦化粧と白い布団があまりに不釣り合いで、いっそ佐助は泣きたいほどだった。これではいけない、早く起きて離れなければと思えば思うほどに、小十郎の暖かな手が、体が、ゆっくりと脈打つ鼓動が、佐助の表面から徐々に中へと忍び入る。
――…真田は、良い主か
――うん
 小十郎は腰に置いた手をそのままに、もう片方の手で佐助の頭を柔らかく撫でた。
――良かったな
 その声は独白のようだった。寝具が傷口を圧迫せぬように小十郎は腰に掌を置いているのだと佐助は今更気付いた。布を巻いて手当はしてある感覚はあったが、何か衣を纏っているかどうかは定かでない。何かを考えようにも、小十郎の掌が頭の上をくしゃりくしゃりと行き来する感覚が佐助をたまらない気持ちにさせていた。
――まだ、傷は痛むか
――傷が痛まなかった時なんてないよ

 佐助はもはや、顔を覆って立ち尽くすような心持ちだった。恥ずかしさ、居たたまれなさ、口惜しさ、そして。全てを挙げることはとうてい叶わぬほどの感情の渦に、心を持たぬ忍は飲みこまれていた。髪に触れていた小十郎の大きな掌が、ゆっくりと項を滑って剥き出しの肩の線をなぞる。露わになった大小様々の古傷を、ひとつひとつ丹念に撫ぜていく。
 小十郎の掌は、冷えて乾いた佐助の肌に、小さな熾火を灯していくようだった。押し殺すようなじわりとした熱が辿るのは、醜く変色し引き攣れた傷跡のはずなのに、小十郎は幼子を慈しむような仕草で、ぼろきれみたいな佐助の肌を愛撫する。
 とうの昔に捨ててきた感覚が、佐助の鼻の奥でツンと主張した。顔を覆ったまま、もうやめてくれ、と佐助は叫んだ。触れられたその箇所から、未知の自分が生まれてくるように感じる。それはきっと、素直で優しくて、むかし忘れてしまったものを、全て持った自分だと思う。
――どうした、猿飛
「優しくしないで」
 耳元で低く囁く小十郎に、掠れた声で佐助は言った。
「これ以上、優しくしないで。つらいよ」
 言い終わって佐助は、ふと目を開いた。いま言葉を紡いだのは、間違いなく自分だった。仰向けに寝た小十郎と、ごく近い位置で視線が絡む。小十郎の厚い胸板、固く締まった腹筋、その上に腹ばいになった自分。布団に落ちた足は、小十郎のそれと絡み合っていた。
 あまりの状況に目を見開くことしかできない佐助に、小十郎は黙って唇の端を上げた。指先に絡ませていた掌をゆるゆると持ち上げ、普段は鉢鉄に隠された白い額をなぞる。
「もういいから、寝ろ」
 そのまま下に降ろされた大きな掌は、片手でも容易に佐助の両目を押し包んだ。佐助はもう何も考えられないままに、小十郎の瞳のような、真っ黒でしかし優しい闇に沈んで行った。


 見知らぬ天井を見上げた佐助は二三度瞬きして、勢いよく掛けられていた布を撥ねあげ布団の上に半身を起こした。どんな事態にも即応できる姿勢を取って身構える佐助をよそに、早朝の雀は軒先でちゅんちゅんと囀っている。北国の朝のしっとりと冷たい空気を嗅いで、猛烈な回転を続けていた佐助の頭は昨夜の出来事を隈なく思い出し繋ぎ合わせることができた。
 瞬間、佐助は部屋の中を見渡して居るはずの人間の姿を探すが、布団の中はもちろん客間のどこにも小十郎の姿は無い。夢かうつつか判然とはしないながらも、肌を晒して寝入ったはずが、今は白い寝間着に身を包んでいる。思わず傷口の上へ几帳面に巻かれた布に手をやったところで、すっと襖が引かれて探していた当人が入ってきた。
「もう大丈夫なのか」
 派手に捲れ上がった上掛けを不思議そうに見遣ってから、小十郎は穏やかな口調で問うた。
「…お陰さまで」
 何となく顔を直視することができず、曖昧に視線をさ迷わせながら佐助は答えた。
「…あまり無茶をするなよ」
 佐助に倣ったわけでもあるまいに、自分の手元を注視しながら呟かれた小十郎の言葉には、命令でも願望でもなく、ただ彼の独り言だったのだろうと思わせるだけの諦めが香っていた。佐助は小さく笑った。役目の前にそんな言葉は無力だと、彼とて分かり切っているのだ。

 小十郎は畳の上を滑らすようにして、佐助の方へひと固まりにした荷物を押して寄越した。鈍色の地味な風呂敷の上には、衣類や携帯食など旅に必要なものが一式が揃えてあった。その中には昨日小十郎から渡された鉄紺の単衣も紛れている。用意された全てがすっきりと簡素で、しかし安物ではない作りの良さを感じさせる物だった。小十郎の趣味なのだろう。
「その傷では夜陰に紛れて獣道を駆けるわけにはいかねえだろう。てめえはうちの出入りの商人の息子だ。甲斐まで商売に行って来い。いいな?」
 割印の押された上等の紙をひらりと見せて小十郎は言った。佐助は目の前に広げられた完璧な「大店の息子の旅支度」をしげしげと眺め、溜息と共に零した。
「…悪いね。すぐに返すから」
「そのくらい、てめえにやる」
「返すから」
 ぎっと小十郎を睨み上げて佐助は重ねた。一種の意地、気迫とも呼べるものを隠そうともしない佐助の瞳に、小十郎は思うところがあったのだろう、あえて無理強いしなかった。そうか、と静かに自ら引いて、小十郎は手形を荷物の一番上に置いた。
「そろそろ家中の奴らが来る頃合いだ。俺ぁもう行くから、好きな時に出て行け。何かあったら表に来い」
「片倉の旦那」
「うん?」
 立ち上がった小十郎を追いかけるようにして、佐助は言った。
「助かった。ありがとう」
 目を背けたままぶっきらぼうに言った佐助には、その時小十郎が自分の髪に手を伸ばしかけたことなど知るよしもなかった。小十郎は宙の半ばで手を止めると、一人で少し苦笑した。
「そんなら早いとこ、寄越してくれよ」
「…は?」
 何のことだかさっぱり分からず呆けた佐助を放って、小十郎は部屋を出て行ってしまった。後に残された佐助は一人、暫く首を捻っていたが、途中で悩むのにも飽きてさっさと荷造りを始める。もっとも、小十郎が用意してくれたものがあるので、後は自分の具足と武具くらいのものだ。昨夜並べておいたものがそのままであることに安堵しつつ手早くそれらを纏め、ようやく自分が夜着のままだと気付く。
 肌触りから生繭と知れる、貸し与えられたそれを恐る恐る脱いでみると、幸いにも血で汚してはいなかった。ほっとしつつ畳んで置いて、荷物の中から着物を探す。やはり鉄紺が目についた。ずるりと引っ張り出して羽織ってみれば、少し長い裄丈が小憎らしい。
 すると、足に何か薄いものが落ちた感覚があった。袷を片手で掴んだまましゃがんで探れば、容易に短冊状の薄様が見つかった。指先で摘んで、光に透かす。墨も黒々と壮麗な文字が、濃淡の付いた紙の上で流れている。

――約束の果たされぬ故につながるる 君との距離をいつくしみをり

「俺様を『君』なんて呼ぶんじゃないよ。ほんとうに、ばかな旦那だね」
 畳にしゃがみこんだまま、短冊を額に押し当てて佐助は呟いた。一回り大きな着物から、一晩で肌に馴染んだ香りがした。夢うつつを行き来した記憶の真偽も、薄様に詠まれた歌の本意も頭の隅に片付けて、佐助は立ち上がり帯を締める。今はただ、一刻も早く甲斐へと戻ることが先決だ。
 しかし、帰ったら紙と筆を探さねばなるまい。
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