銀竹
「猿飛佐助、ただいま戻りました」
すとん、と背後に落ちてきた影に政宗は少し驚いたようだったが、佐助は構わず相対した主へと帰参の口上を述べた。
「御苦労であった。首尾は」
戦場においては常の無邪気さが少し薄れる幸村の、凛とした声へ佐助は平伏して応える。
「は。敵本隊は山上に陣を張り、持久戦をも辞さぬ構え。しかし小山田様率いる騎馬隊が兵站線を寸断したため、補給路は途絶えております。阻止しようと出向いた敵分隊は伊達軍が二方から攻め反攻する間も無く潰走、片倉殿が手勢を連れ掃討されている模様。成実殿は本陣下へと布陣を配され、ご伝言には『あっという間にカタが付いてつまらねえ、刀を抜く暇すらなかったぜどうしてくれる』だそうで」
伊達軍の目を憚り物々しいもの言いをしていた佐助だが、さすがに政宗へ成実の言葉を伝えるときには頬ににやりと笑いを浮かべた。報告を受けた政宗もまんざらでは無いようで、何やら異国の言葉を呟きながら威勢の良い馴染みの従兄弟へ思いを馳せる様子だった。
佐助は青と黒を色合いの基調とする伊達軍の中に、ひとつ灯った炎のような主の赤備えを見ては、外れ者であるはずの主はもちろんそれを違和感無く受け入れている伊達軍の面々に、蒼紅の親交の長さと深さを思い知る。
この二人の好敵手という枠では収まりきらない秘め事に関して、知っているのは自分の他には竜の右目くらいだろうと思う。伊達軍の向こうに陣を張った武田方の兵たちに目をやりながらも、佐助の思考は今もその背に雷光を背負って戦場を駆けているであろうかの人のもとにあった。
両国にとって利益のあるうちは、とあの春雨の日自分は言った。ならばこれは同盟のもたらす利益として実にわかりやすいものだと思う。この戦を見聞した諸国は、甲斐と奥州の同盟がけして口先だけのものではないことを実感するだろう。
伊達に恭順を示していた小国が、敵対する他国へ接近しているという情報を持ってきたのは他ならぬ武田の忍である。奥州と甲斐が同盟して以後、伊達の内情に踏み込むようなことも主を通して報告するようになっていた。その結果起こったこの戦は、二国の狭間に位置する戦場という都合もあり、同盟国甲斐を巻き込んだ連合軍での出陣となった。
武田の総大将は真田幸村。小規模な戦とはいえ、佐助の予測は驚くほど早くに的中したことになる。梅雨の時期を過ぎ、季節は夏へと一気呵成に突き進む折、若武者の率いる武田の援軍は同じく年若い者の多い伊達軍を大いに喜ばせた。
「そんじゃ俺様も見回りしてくるわ」
立ち上がりぐっと腰を伸ばしながら言った佐助に、政宗が「小十郎に適当なとこで帰って来いって伝えろよ」と気安く声を掛ける。俺はあんたの伝書鳩じゃないよと、むっとした雰囲気を隠そうともしない佐助に、幸村が「では佐助、我が方の陣を見回り、片倉殿の許へ行って参れ。その後は忍隊の誰ぞと交代して休むが良い」と改めて命を下した。幸村の命令とあらば逆らう謂れは無い。戦の暇な時期とは言え、主自らが口に出した休息には、堪えてくれという遠まわしな気持ちが見え隠れしていた。
「はいはい。そんじゃーちゃっちゃと行ってきますかね」
苦笑しながら佐助は風の中へと身を隠す。年若い主の内心での焦りを考えて、少し悪いことをしたかなあなどと反省しつつ、気に食わないものはしょうがないと忍らしからぬことを考える。そうしている間にも眼下では目まぐるしく風景が飛び去って行った。敵に追い討ちを掛けている片倉隊は、伊達軍の中でも最前線に居るはずだ。佐助の強靭な脚力を持ってすれば大したことはない距離だったが、たかがあれだけの伝言を持って駆けるには少々癪な距離でもある。行く先が片倉小十郎だと思えば、尚更だ。
あの一夜以来、佐助は小十郎に少々の書きつけを送るようになった。幸村が政宗宛ての文を書いた時、手近にあった紙の切れ端にちょいちょいと取るに足らないことを書き、政宗の許へと赴くついでに城内の小十郎の部屋へ落として行く。
最初は何を書けばよいのか分からなかった。世話になった礼をするため筆を執ったが、感謝の言葉の後は何も続かず、最後は投げやりに「特に何も言うことが無い」としたためて筆を投げた。酷い話だ。
しかし小十郎の返書は佐助を驚かすに足るものだった。文箱にも入れず、花も何がしかの飾りも添えられていない文は、政宗が幸村に宛てるそれより遥かに見劣りするものだったが、佐助にはそれが要らぬ気後れをさせまいという気遣いに思えてならなかった。ただ、透かしの入った薄様の紙から仄かに香るのは、小十郎の衣に染み付いたものと同じ香りで、そのことに気付いてしまった己に佐助は密かに赤面した。
内容は、文に対する謝辞の他に目立った話題もなく、畑の作物の話や最近屋敷を修繕した話や主が我儘で困る話などがつらつらと、無駄に壮麗な筆致でしたためられており、そのくせ佐助の礼に対しては「気にすんな」と一言書かれただけだった。
これを読んでは流石の佐助も力が抜けた。あれだけ苦心惨憺して文字をひねり出そうとしていた自分が阿呆に思えてきて、投げやりな手付きで翌朝の天気の見分け方のコツなど書いて返送した。急に吹く乾いた風に野菜が弱って困ると愚痴が書かれていたので。
もしも佐助が返送しなければ、二人の文のやり取りは「佐助からの礼状とそれに対する返書」のみで終わっていたかもしれない。しかし佐助がぽんと投げ返した切れ端の紙で、未だに二人の文通は続いている。
書面の上では、小十郎は饒舌に、佐助は言葉少なに言葉を紡いだ。常の二人とはまるで逆だったので、それがおかしくもあった。もっとも佐助の文章は少ないというより拙いというべきもので、佐助はしきりにそのことを気にしたが、小十郎はむしろそれこそを喜んだ。
佐助は問題なく読み書きできたが、目的の無い文章を書くのは滅法苦手だった。それならばいっそ、幸村の字の形や言葉の運びをそっくり真似て書く方が、いくら簡単だかしれなかった。忍は感じず語らない。自らを表現する必要もなく、欲求すらも感じずにこれまで生きてきた佐助にとって、「好きなことを書け」というのは酷なことだった。
そのことに気づいた小十郎は、しかし驚きも焦りもしなかった。お前の字で良いのだ、お前の言葉が読みたいのだと、押しつけがましくならない程度に、我慢強く文へしたため続けた。自然、ぶつ切りになってしまう佐助の話題を、小十郎はひとつひとつ丁寧に掬い上げて話を繋いだ。
佐助の努力と小十郎の忍耐に、何かの目的があったわけではない。しかし小十郎は佐助を少しでも多く理解しようとし、佐助はその気持ちに応えようとした。生まれも育ちも立場も異なる二人が、紙一枚のやり取りで繋がろうとした理由は、言葉にできるほど定かなものではなかった。
佐助はあの夜の記憶が夢だったのが現実だったのか、小十郎に聞くことをしなかった。小十郎の方もあえて自分から、あの夜の話題を蒸し返すことをしなかった。二人にとって栗花落の夜の話は、それぞれが胸に秘める物として暗黙の了解のようになっていた。しかしそれでも、二人の距離があの日を境に近づいたのは確かだった。
このとき佐助が無意識に、小十郎の許へ真っ先に走ったことが後にして思えば幸運だった。佐助の目は、両軍が睨みあう緩衝地帯において不自然な動きをする小隊を見つけた。三つ四つと分散して何かを伺うように移動を繰り返すそれらの兵は、掲げた馬印は伊達軍の将のものでありつつ背後の本隊に対しては隠れるようなそぶりを見せる。
佐助は影から影へと音もなく移動して、不穏な隊へと近づいて行った。彼の経験からもたらされる勘は、間違いなく何かがおかしいと警鐘を鳴らしている。
「真田の旦那に報告。片倉隊急襲さる、至急援軍送られたし」
一隊が片倉隊に向けて一斉に駆け出すのと、背後に潜んだ部下の影に向かって佐助が呟いたのは、ちょうど時を同じくしていた。
空を蹴って佐助は駆けた。地上に降り立つまでの数秒の間に、上着の下から取り出した苦無を切れ目無く放つ。予想外の場所からの攻撃に、襲撃隊は下手人を振り仰ぐ暇もなくばたばたと馬から転げ落ちて行った。
ようやく異常を察した片倉隊が背後を省みたときには、既に佐助は一対多数の乱戦のただ中にいた。焦りも恐れもそこには無かった。小十郎を助けたいとか守りたいとか、そんな殊勝な心がけはなかった。ただ、頭が物を考える前に動いていた。
その時、耳元で何かが爆発したように感じた。弾かれたように振り返ると、髪を振り乱した小十郎が、馬上から佐助の背後の敵を差し貫いたところだった。
「馬鹿野郎が!俺なんざの為に命を張って、万が一のことがあったらどうする気だ!真田の為に死ぬのがてめえの役目だろうが!」
言いながら小十郎は佐助の腰を片腕で掬い、そのまま自分の馬に引っ張り上げる。馬首を本陣の方へと向けると、佐助の首を狩り損ねた残党が小十郎の馬の脚を射る。崩れ落ちる馬を好機とばかりに雑兵どもが群がるが、佐助は動じず大手裏剣を地面に沿わすように水平に投げた。
手裏剣の軌跡は死体となって二人の前に現れた。佐助は薄い唇に指を当て、数度高い音を出す。そして小十郎に言った。
「飛ぶよ」
背後から飛来した大鴉の足を掴んで伸び上がる佐助は、もう片方の手でしっかりと小十郎の腕も掴んでいた。突然の展開に言葉も無い小十郎だったが、手裏剣の軌跡をそのまま滑走路のように使って二人が曇天へ舞い上がるころには、自分でも佐助の肩に手をかけて、追いすがるように放たれた矢を脇差しで薙いでみせたりした。
「さすがに重量超過だわ。森を越えたら降りるぜ」
承諾を求めようと言うのではない佐助の口ぶりに小十郎は言葉を返すこともなく、ただ諾々と従った。木立の合間を危うい高さですり抜けて、佐助は鴉から手を離す。先に着地した小十郎は、何の気負いも無い手つきで佐助の着地に手を添えた。しかしそこに言葉は無い。
青草の原で対峙した二人の間を、湿った風が吹き抜けていく。それは、満々と水を湛えた杯が、いつ溢れるかと見守るような、静かな、しかし緊迫した雰囲気だった。
ぽつぽつと頬に落ちてきた先触れの雨に顔をしかめ、遂に佐助は弁解するように言った。
「俺はあんたを放って置きたくなかったんだ」
それがいつぞやの夜に自分が彼にかけた言葉と同じ物だと、小十郎は思い出すまでもなく悟っていた。信じられない気持ちで自分を眺める視線に気づかず、佐助は自問自答する。
「いいや、違う。それは今、言葉にした感情だ。俺は何も考えられなかった。気が付いたら体が動いて、あんたの敵を殺してた」
鉤爪の手甲を付けたままで鼻の頭を擦り髪をかき揚げる佐助の、寄る辺無い童子のような仕草は、小十郎に酷く危なっかしい印象を与えた。小十郎は思わずその手を取った。佐助は逃げなかった。逃げずにごく近い距離から、小十郎の顔を眺め上げた。
「片倉小十郎景綱。伊達家家臣、白石城主、独眼竜の右目。俺の主の情人の腹心。それだけで十分だったのにね」
瞬間、眩いほどの光が二人の視界を焼いた。遅れて響く轟音。嵐を乗せた雨雲は、まだこれから近づいてくるらしい。呟く佐助の顔には不思議なくらい表情が無かった。悔いているかと小十郎は問うた。何のことさと佐助は吐いた。小十郎の真意を彼が図れぬはずがない。しかし、他に答える言葉を持てない佐助の心の有り様を思って小十郎は瞑目した。そんなことができるほどに、今や小十郎は佐助を理解していた。
小十郎は親指の腹でぐいと佐助の戦化粧を擦った。雨にそぼ濡れた草色の染料は、あっけなく雨に溶けて流れてしまう。抵抗しない佐助を良いことに、小十郎は右頬から左頬、鼻梁と化粧を拭い去っていった。雲に遮られたほの暗い世界の中で、相手の瞳だけが燃えるように色づいている。大粒の雨が痛いほど強く二人の素肌に落ちてくる。
佐助は確かに泣いていた。雨に紛れて流されて、佐助の涙はしかと見ることができなかったが、小十郎には彼の戸惑いが手に取るように分かってしまった。化粧を取られた彼の素顔は、武装を解いた裸体のように白くすべらかで無防備だった。薄く開かれた唇は、細やかに震えていた。それが雨に打たれた寒さによるものか、彼の隠され続けた心によるものなのかは知る術が無かったが、互いに押し入った咥内の熱が一切の思考を奪い去った。
雨雲が連れてきた嵐が二人の枷を吹き払ってしまったかのようだった。二人はこれまで保ち続けた距離をいま一息に埋めようとするかのような激しさで互いの熱を求め合った。上背のある小十郎に頭と背を掻き寄せられ、殆ど真上を向いた佐助の口元からは、混じり合った唾液が糸を引いてわだかまり、雨水によって流されて行った。耳を埋め尽くす強烈な雨音の間を縫うように、互いの息遣いが鼓膜を震わせる。
佐助の手は撫でつけられた小十郎の髪を無作為に乱した。それは小十郎を引き離そうとも抱き寄せようともしているようで、小十郎の心を嫌が応にも煽り立てた。小十郎は骨の軋むほどに佐助を抱き締めた。その腕の、苦しい程の力強さに佐助は声ならぬ声を上げて喜んだ。さっきよりも間隔を詰めて雷が鳴る。腹の底に響くような音が、前へ前へと全ての物を押しやっていく。もう後戻りは出来ない。振り向くことすら不可能だった。
いま二人の中には、務めも身分も国も主もありはしなかった。自らの手で施していた様々な戒めを自らの手で解いてしまった以上、篠突く雨に打たれて求め合うのは二つの剥き出しの魂、それだけだった。
青葉時雨
生まれて初めて恋をした。誰にも言えない恋だった。
予感ならしていた。このまま有耶無耶にして終わらせるような性質の人でないことは分かり切っていた。ただ、仕掛けられるのがいつなのかを計っていただけだ。言うなれば佐助は、篠突く雨の夕暮れからずっと俎上に横たわる鯉だったのだ。
だから文とおぼしき紙を手に駆け寄ってくる主を見た時、佐助はゆるやかな覚悟を決め始めていた。
「佐助、珍しい知らせだぞ」
幸村は少年のようにまるい瞳を大きくしばたかせ、驚きと喜びの入り混じった声で告げた。
「片倉小十郎殿が、遠路はるばるお前を訪ねておいでになるそうだ。諸事おこたりなくお迎えするように」
やはり、と佐助は天を仰いだ。梅雨を抜けた初夏の空は雲ひとつなく澄み渡り、木漏れ日が庭土に美しい陰影を添えている。初めて言葉を交わした日から、季節は確かに巡っていたのだ。
それにしても小十郎が佐助ではなく幸村に文を出したのは業腹だ。佐助を逃がすまいと搦め手から攻めたのだろうが、この局面に至って自分が逃げると思われているのが佐助には悔しく、またおかしくもあった。もう逃げるどころかどこに行きようもないのだと、それだけの思いを、錘を、自分たちは背負っているのだと、分からぬ人でもあるまいに。
小十郎の稚気に声を立てず口元だけで笑って、ふっと佐助は掻き消えた。
上田の山城への道は、何度か小十郎も辿ったことがあるはずだ。主である政宗の随伴として木立の中から現れる黒茶色の長衣の影を、佐助は何度も見てきた。しかし門の前で客人を歓待するのは城主たる幸村の役目であり、佐助はいつも木立の葉群の中からその様子を眺め下ろすだけだった。
「…久しぶり」
だから声が固くなるのは、視線がさ迷うのは勘弁してほしいと佐助は思った。外廓の大門の前に立つ自分はこんなにも小さく感じるのだと彼は初めて知った。こんなことなら主に出迎えて貰えば良かったと待つ間に何度も後悔したが、自分を訪ねて山を越えてきた客人に対してそれは礼を欠くにも程があるだろうとそのたびに思い返したのだった。
「ああ」
しかし小十郎の表情も硬かった。常日頃からお世辞にも愛想が良いとは言えない容貌だが、今日はそれに輪を掛けて妙な凄みがある。もはや悪相と言っても差し支えないかもしれない。
小十郎の乗ってきた馬の口を引こうとしたら、奥から出てきた小者がさっさと連れて行ってしまった。どうやら幸村は徹底して今日の佐助に家来としての役目を負わせないつもりらしい。年若い主の張りきった顔が目に見えるようで、佐助は苦笑交じりに嘆息すると、依然客人と目を合わせないままに、先導して城内へと入って行った。
上田城は要塞としての意味合いの強い山城であるからして、城の縄張りの中にも勢いよく生い茂る草木が目に付いた。雨の季節を越えた植物たちは来たるべき夏に向かってその丈をぐんぐんと伸ばしている最中だ。城主の洒落好みを反映してか、精緻に作りこまれた米沢城の植栽を見慣れている小十郎にとっては物珍しかったのだろう、先を行く佐助にも彼が目を見開いているのが感じられた。
「奥まで来たことは無かったのかい」
「ああ。広間と客間ぐれえだな」
「なら驚いただろ。真田の旦那が、あんまり草木に鋏を入れるのを好かないんだ。おかげでここらは山だか庭だか分かりゃしない」
肩を竦めた佐助からは少し緊張が抜けていた。はいどーぞ、と障子を引き振りかえった佐助の視線が初めて小十郎のそれと絡まる。暫しの沈黙の後、小十郎は口の端を僅かに上げると目を伏せて室内へ足を踏み入れた。
こぢんまりとした部屋は、清潔に掃き清められていたが、がらんとしていてどこか寒々しかった。促されるままに座りながら小十郎は思わず呟いた。
「見事に何もねえ部屋だな」
「使わないからね」
こともなげに答えると、佐助は物入れから何かを取り出す。畳紙に包んだそれを一瞬胸に抱くと、佐助は何かを振り棄てるようにして、ぽんと包みを小十郎の膝に置いた。
開けて良いのかと視線で問うた小十郎に細い顎を頷かせると、佐助はぷいと外を向いてしう。戸惑いながら小十郎が畳紙を剥ぐと、中から出てきたのは海松色の単衣だった。
「…てめえが縫ったのか」
「悪いね、下手だろ」
「いいや、上手いもんだ。ただ、ところどころ見かけない縫い筋があるもんで、もしやと思っただけだ」
早口で謝る佐助の言葉に隠しきれない恥ずかしさが見え隠れしていて、小十郎は口元に笑みの浮かぶのを止められなかった。
小十郎に介抱された佐助が甲斐に戻った後、程なくして貸し与えた荷は佐助の文と共に白石へ送り返されて来た。その中に鉄紺の単衣は無く、手紙の中で汚してしまった詫びが綴られていた。それに対して小十郎は全く気にしていなかったが、やはり佐助は良しとしなかったのだろう。それにしても手ずから仕立てるとは思ってもみなかったので、小十郎は頬が緩むのを抑えられなかった。
「小者が着る麻の普段着とお武家様が着る絹の着物じゃあ仕立てに違いも出るでしょうよ。やっぱりお針子に頼むべきだったわ」
「しかし良い布を使ってるじゃねえか。わざわざ買い求めてくれたのか?」
今にも単衣を取り返さんばかりの佐助の手からそれを守りつつ、小十郎はからかうような口ぶりで佐助に問いかける。
「仕立て方の子に自分の一張羅作るからって分けてもらったのさ。そしたらこの色になっちまって。できるだけあんたに借りた奴に近いのがよかったんだけど」
「あの単衣はどうした?」
「まだ取ってるけど?え、でも血とか色々付いたから汚いし」
返せ、という意味に取ったのだろう、少し慌てた佐助の口調に違う違うと断って、小十郎は広げた単衣を丁寧に畳んだ。鉄紺色の自分の着物が佐助の行李に収まっているところを想像して、彼は密やかな喜びに浸る。
「着物を交換したみたいじゃねえか、なあ」
くすんだ緑色は佐助の武装や戦化粧を思わせた。針子の女もそれを思ってこの色の反物を寄越したのだろう。最初から自分のために作られたものと分かっていても、小十郎にはこれが佐助の着物に思えてならなかった。共寝の朝に名残を惜しんで帯や扇を交換する風習は古来からあるが、着物をまるごととは尋常でない。笑いながら言った小十郎に佐助は頬を僅かに染めた。
「返せ!」
しなやかな腕が着物を奪おうとするのを、ひょいと取り上げて小十郎が逃げる。高く掲げられた小十郎の腕に、佐助は縋りつくように手を伸ばす。僅かに二人の肌が触れ合った。
その途端、二人は同時に身を引いた。目を見開いて片膝を立てた佐助に向かって、小十郎は目を伏せたまま一言、済まんと呟いた。
「ただびとみてえなナリをしてるてめえを見て、のぼせちまった」
袖なしの上着に細袴を付けた佐助は単なる武家の小者のようで、戦場の忍の香りなどどこにもさせてはいなかった。それゆえに出過ぎた真似をした、と小十郎は押し殺した声で続けた。しかしそれは佐助も同じだった。
「俺は自分が恐ろしいよ。次にあんたの肌に触れたら、自分が何をしでかすか分からない」
初夏の空には棚引く雲ひとつ見えぬというのに、黙り込んだ二人の周囲にだけ、雨の匂いがしていた。
佐助は小さく息を吐くと、小十郎と相対したままきちんと座りなおして言った。
「文を書いてね、それで終いにしようかと思ってたんだ。でも、できなかった。自分がどうすれば良いのか分からないなんて初めてだった。…いや、今も分からない」
佐助の声が葛藤に震える。
「もし甲斐と奥州が事を構えたり、俺の主とあんたの主が刃を向け合ったりしたなら、俺はあんたを殺すよ。たぶん躊躇うこともない。そんな当たり前のことでこんな気持ちになるなんて」
ひと思いに離れてしまえばいい。多分それが、一番いい。あの春雨の宵も、五月雨の朝も、戦場の夕立も、全てを雨のように流してしまうことができたならば。雨上がりの空のように澄み渡った、全てが起こる以前のまっさらの状態で再びまみえることができるならば、この胸の苦しみはきっと消え失せることだろう。互いに昵懇の仲の主を持った縁で幾度となく顔も合わせるだろうが、それだけのことだ。腹心として影として互いの責務を果たす、厳しくもすっきりと迷いの無い毎日が、今は何より恋しかった。
「あんたに言いたい言葉があるんだ。たったひとつだけ、このひとつが言えたなら、死んでもいいって思える言葉。でもね、俺が俺である以上、それは言えない。俺の命は俺のものじゃないし、それを口に出してしまうような俺を、俺は許せない。それは旦那も同じだろ。独眼竜のために命張って生きてんだろ。こんなこと馬鹿げてる。分かってるんだ」
血を吐くように佐助は言った。小十郎は剥き出しになった、頼りなげな、傷だらけの肩に手を伸ばした。しかし触れることはできなかった。確かに小十郎にとって、全ての価値観の第一に来るのは主のことだった。それは例えこのような状況にあったとしても、覆らない絶対的なものだった。だからこそ佐助の葛藤は小十郎の葛藤だった。主と相手のどちらを取るか、などという陳腐な命題ではない。主のためなら相手を斬れる、そんな自分とのせめぎ合いだった。
つい先ほどの他愛無い触れ合いが、戦場で求め合った記憶が小十郎の脳裏をよぎった。指一本でも触れたなら、二人の間に横たわる細い細い一本の糸は、ふつりと切れてしまう。二人の従者の世界の均衡は、互いの存在ですっかり揺らぎ始めてしまった。自分が正しく自分であるために、いっそ相手は邪魔だった。忌々しい程に、惹かれていた。
「昔あんたを初めて見たときね、ああ、俺のつがいがここに居たって思ったんだ」
眉根を寄せて、囁くように佐助は言った。小十郎はかっと頬が熱くなる思いがした。佐助がこんなに直截な言葉を小十郎に投げかけるのは初めてだったし、それ以上に、自分が佐助をそれと認識した春雨の宵よりもっとずっと前から、佐助が自分を見て居たという事実にはもはや戦くしかなかった。
「でも、それで終わりにするつもりだった。この気持ちが届いてほしくなんてなかった。あんたを見てるだけでよかった。あんたの視界には入りたくなかった。俺はこの気持ちが報われた時のことなんて、これっぽっちも考えちゃいなかったんだ」
佐助の表情はまるで迷子の子どものように頼りなげなものだった。小十郎は膝を崩すと、拳一つの距離まで詰めて佐助を正面から見据えた。
「俺は、知らない幸福よりも知った不幸を選ぶ。知った上で言わせてもらうがな、猿飛佐助」
小十郎は言葉を発することを躊躇わなかった。
「お前に会えてよかった」
静まり返った室内で、佐助が息を飲む音が聞こえた気がした。
「誰もがいつか死ぬように、どんな関係もいつかは途切れる。ただ思いを持ち続けるってことは、もしかすると想いを遂げることよりも幸せなことかもしれねえぞ」
小十郎の声に見栄や虚勢は無かった。この人は心底からそう考えているのだ、と思うと佐助は胸が絞られるように苦しくなった。
「ずっとこうやって、触れもせぬ間合いで相対して?『君との距離を慈しみ』ながら?」
「嫌か」
震える佐助の声に、小十郎は短く問い返す。低く強い語調だった。真っ黒な瞳はただ一心に佐助の瞳を捉えている。佐助は唇を噛んだ。
「嫌か、佐助」
重ねられた声に耐えかねて、佐助は首を大きく振った。小十郎が微かに唇の端を上げる。しかしその表情に喜びは少なかった。例えるならば出陣前夜の若者のような、清々しい切迫感、悲壮感とでも言うべきものが、彼全体を取り巻いていた。
それを見て、この旦那にこんな表情をさせてしまったと佐助は悔いた。優れた血筋に優れた器量、度量、才覚。片倉小十郎は天道のもとで何に恥じることもない生き方をしてきたはずだった。それが得体の知れない乱破と関わったせいで、人には言えない暗部を作ってしまったという事実に佐助はただ打ちのめされていた。
小十郎の歓心を得られるなどと図々しい予想をした訳ではないが、自分が彼に何かしらの影響を与えてしまうことを佐助はずっと恐れていた。佐助が己のつがいと見たのは佐助を知らない小十郎であって、自分が何がしかの干渉をした時点で変質してしまうような気すらしていた。
だから、ただ見ていた。それだけで良かったはずなのに、あの春霖の宵、佐助は一歩踏み出してしまった。小十郎は佐助を見た。佐助を知った。そして今、ここに居る。佐助の他には主くらいしか訪れない、関心すら持たないこの小さな部屋に、わざわざ山を越えて訪れている。
ごめんなさい、と佐助は呟いた。何故謝る、と小十郎は問うた。佐助は答えられなかった。ただ何度も謝った。
ごめんなさい、あんたを変えてしまって
ごめんなさい、あんたに要らぬ苦労をかけて
ごめんなさい、それでも俺は、あんたのことを、
口に出せない数々の言葉をぐっと胸の奥に押し込んで、佐助はようやく小十郎を見た。榛色の切れ長の目がゆらめく。薄い唇をゆっくり開いて、佐助は言った。
――我がおもひ、君に知れらばうつせみの、恋の籬よ越えずともよし
遂に佐助は恋という言葉を口にした。絶句する小十郎の瞳を見つめながら、佐助は悲しげに笑った。
「俺様、学が無いからね。これだけ考えるのに長いことかかっちまったよ」
ごめんね、とまた佐助は口にした。小十郎はもう何も言えず、ゆっくりと首を振って応えた。三十一文字に込められた佐助の覚悟は、小十郎の胸に正しく届いていた。
離れることも触れ合うこともできず、ただ想いのみを持ち続けるのは、選びうる全ての道の中で最も過酷なものであることが二人には分かっていた。しかし、その道しか選べないのもまた事実だった。流れ去った水が天へ引き戻されることのないように、動き出したさだめはもう止められない。ほんの一寸離れた小十郎の体から仄かに感じる熱が佐助の古傷を優しく焼いた。佐助は立てた膝に顔を伏せた。
背中は癒えたが傷は残った。今更痕の一つや二つ増えた所で変わりはしないが、小十郎がその唇を寄せたことでこれは特別な傷になった。これからもこうやって、特別な物が増えて行くのだろう。主以外に守るべき物を持たないことが忍の理であったのに。
「我がおもひ、君に知れらば、か」
小十郎はしみじみと呟いた。
「…良い歌だ」
そう言って小十郎は少し笑った。これまでの男の人生がじわりと滲むような、深みと渋みの匂い立つ笑い方だった。返す言葉に詰まった佐助の頬を、初夏の葉風が撫でて行く。ふと視界を広げれば、畳の部屋へ落ちた木漏れ日が、風に吹かれてさらさらと揺れていた。光の陰影は佐助も畳も小十郎も、分け隔てせず全てのものを彩っている。
ただ、思っていよう。それがどこに辿りつくものでもない、何にも昇華できない想いだとしても。それがきっと、「二番目」の俺たちには似合いの形なのだろう。
「片倉…小十郎、さん」
たどたどしくいつもは呼ばぬ名を呼んで、佐助は小十郎の瞳を見上げた。応えて佐助を見遣る小十郎の瞳もまた、どこまでも優しい。二人は無言で暫くの間、互いの瞳に映った自分の姿へ見入っていた。相手の瞳が自分を映す、それだけの幸せ。他愛無いようで、それでいて叶うことの難しい幸福を、二人は今手にしていた。相手の声が自分の名を呼ぶ。相手が自分を思っている。自分が相手を思うのと、同じだけの大きさと優しさで。
誰にも言えない恋をした。最初で最後の恋だろう。
それでも確かに自分は幸せだったのだと、二人は未来の自分へ向けて、悲しくも傲慢な言い訳をした。濡れ縁に枝を差し伸べて茂る大木の、青々とした若葉から、雨の名残がぽとりと落ちる。過去に流した苦悩の涙か、いつか流す別離の涙か。雨の時期を過ぎたばかりの青葉の季節に、二人はただ寄り添って佇んでいた。
あとがき
佐助の幸せと小十郎さんの幸せと小十佐の幸せはそれぞれに少しずつずれていて、でもそれはけして不幸ではないんだよな、ということを日々妄想しているうちにできたお話です。戦国時代の小十佐には、どうしたって抗いようのない(そして二人とも抗うつもりのない)鎖が二重三重に巻きついていますので、これが精一杯の幸せかなあと思います。
他の人から見たら凄く辛い、悲しい状況でも、本人たちは満足してるんだよ、というのを書きたかったのです。書けたかどうかは謎です。私としてはハッピーエンドなのですが、いかがでしょう。
短歌について。
【約束の果たされぬ故につながれる君との距離をいつくしみをり】
――昭和万葉集秀歌(講談社現代新書)より、辻敦子作。本文中では古語調に「つながるる」と変えて使用しました。
【わがこころ君に知れらばうつせみの恋の籬よ越えずともよし】
――伊藤左千夫歌集(岩波文庫)より、伊藤左千夫作。同じく「こころ」を「おもひ」に変えて使用しました。
最後までお読み頂きありがとうございました。小十佐が好きです。
平成二十三年 春 香村
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