障子を通した朝の光は、ぼんやりとした静けさで部屋の中へと忍び入る。夜明けの気配に目を覚ました青江が瞼を開けると、ごく近い場所に石切丸の顔があって俄かに慌てた。身を寄せ合って朝を迎えるのは今に始まったことではないが、今の状況はまるで共寝のような格好だ。不格好に掛けられた羽織りは石切丸のものだが、当の石切丸は殆どはみ出してしまっている。青江は彼の寝息を乱さぬようにそろそろと這い出すと、ほっと溜息を吐いた。
「…まだ直会までは時間があるよ」
 穏やかに低い声が、否応も無く青江の心を押し留める。振り向けば薄く目を開けて眩しそうな石切丸と目が合った。
「食事の前に湯浴みをしておきたいから」
 言いながら目を逸らし、青江は衣服を整えた。石切丸もその声に促されるように、ひと思いに半身を起こす。夜明けの透明な薄茜色に包まれて、二人は黙々と身支度を始めた。眠りの浅い青江と、寝起きの良い石切丸の朝は、どこか静かで淡々としている。このまま青江は湯殿へ行き、石切丸は祭殿へ向かい、その後朝食で顔を合わせる時にはもう、共に過ごした夜のことなど知らぬ風に振舞うのだ。

「今日は?」
「歌仙と一緒に短刀たちの付き添い」
「毎日よく励んでいるね」
「戦は嫌いじゃないけどね、僕らはこの後ずっと夜の時代に行くだろう?帰還したら本丸も夜になってるじゃないか。朝しか太陽を浴びられないっていうのが少し辛いな」
 長い髪を左肩で纏めて結い、胸の前へ垂らしながら青江は言う。しかし彼の声音は言葉ほどには困っていないようだった。根っから戦が好きなのだ、この刀は。そう思いつつ半端に露わになった首筋に目を留めて、石切丸は名残惜しげに微笑むと、冠を被る。顎の下で紐を結っている間に、青江が立ち上がる気配がした。
「僕、もう行くよ」
「ああ、気を付けておいで」
 石切丸の声に青江が振り向く。寝巻の浴衣の藍色に、手や首や顔の白が異様に映える。肩口で結う髪型は、彼を普段以上の年かさに…そして女性的な印象に見せていた。蝋のようにすべらかな踵と足首、出っ張った骨には本来青少年が持つべきではない色香すら感じられる。しかし己の外見などどこ吹く風に、君もね、という朗らかな青江の答えはもはや日常の一部だった。そこに深い意味はなく、挨拶のような気軽さで交わした言葉に、青江はその後暫く縛られることになる。


「にっかり青江、いる?」
 本丸へ帰還して同じ部隊の面々と共に風呂へ入った後、のんびりと髪など乾かしていた青江の耳に届いたのは聴き慣れぬ大太刀の声だった。脱衣所の戸に手を置いて、首だけ中に突っ込むようにして青江を探す幼い姿に、彼は自分から声を掛ける。
「珍しいね、僕に何か用かい?」
 小さな大太刀、蛍丸に微笑みかけると、予想に反して彼はふいと視線を逸らした。え、と青江が追った視線の先には大きな水桶が二つ、満々と水を湛えて置いてある。
「持ってくるの手伝って。離れに」
 濡れて房に纏まった青江の髪がひと束、先から雫を滴らせてぱらりと落ちる。腹に氷を突き込まれたかのように、否応も無く襲い来る嫌な予感が青江の思考を奪った。
「石切丸が重傷」
 その声は脱衣所の喧騒から離れ、青江の耳に刺さるようだった。

「もう少し、離れて歩いて」
 蛍丸の声は温度を感じさせず、怒っているのか哀しんでいるのかも青江には察することができない。もともと蛍丸は少し感情の機微の読みにくい性質の持ち主だった。しかし言われた言葉に反応して、青江の足捌きは縺れる。急勾配の太鼓橋の上でたたらを踏む青江をよそに、蛍丸は数歩先を歩んで振り返る。
「君が居ると蛍が死んじゃう」
 返す言葉も見つからず、唖然として立ち竦む青江には、振り返った蛍丸の周囲に、一瞬明滅する幽かな光の群れが見えたような気がした。だが次の瞬間には、小さな背中は宵闇に紛れる程に遠くなってしまっていて、慌てて青江は追い掛ける。
水が満杯に入った水桶は、青江にとってはかなり重い代物だ。それを軽々と持ち上げて小さな歩幅でどんどん歩いて行く蛍丸は、やはり幼い見た目をしていても大太刀の付喪神と思い知らされるようだった。近寄るなと言われるまでもなくそれ以上距離を詰められない青江は、大太刀の離れへ着いた時には疲労困憊していた。

 蛍丸の指示に従い一室の前に水桶を置いて、ようやく青江は一息ついた。そのまま障子を開けて室内へ入る蛍丸の方へ無防備に目を遣って息を飲む。開け放たれたままの障子の向こうには、四方の天井から注連縄の張り巡らされた部屋が広がっていた。部屋の中心に据えられた布団には石切丸が眠っており、その向こうには巨躯の大太刀が二口、威儀を正して座っている。
 青江は本能的に恐怖を覚えた。別段、彼らが青江を威嚇したわけでも、殊更に敵愾心を露わにしているわけでもない。しかし太郎太刀を中心に、普段は陽気な次郎太刀、そして飄々とした蛍丸が、ただ黙って青江に視線を注いでいる。それだけで物凄い圧力が青江を押さえつけるようだった。否、これは気のせいでは無い。青江は確かな息苦しさと圧迫感を覚えていた。空気が薄いような、気圧が高いような…。

「…石切丸は随分と禊をしていなかったようですね。ご存じでしたか」
 混乱のあまり、太郎太刀の言葉の最初の部分は青江の耳に届いていなかった。しかし問い返す暇も必要もないと判断した青江は、口も開けず首を横に振る。それは全く青江にとって青天の霹靂だった。石切丸と青江の『逢瀬』は四日か五日に一度のことだったが、それにしても間違いなく逢瀬の翌朝の石切丸は祭殿に行くと言って早くに起き出すのに。
 あ、と青江は唇を震わせる。いつも自分が先に部屋を出るから本当に石切丸が出掛けているかは確かでない。それに禊をするなら行き先は祭殿ではないはずだ。思わず口元に手を当てて考え込む青江に、太郎太刀は言葉を継いだ。
「なぜだかお分かりですか」
 青江は再び首を振る。そこで初めて、太郎太刀の金色の瞳が険しく眇められた。彼はけして陽気なわけではないが、極めて温和、というより茫洋とした性質だ。そんな彼が目に見えて不機嫌の様相を呈したので、青江は益々萎縮する。
「入りますか」
「兄貴」
 太郎太刀の声は僅かに震えていた。思わず、と言った風に傍らの次郎太刀が嗜めるが、彼の気持ちは収まらないようだ。彼は瞳と同じ色に染められた爪を翻して石切丸を指差した。そのまま青江から目を逸らさず、まるで誘うように手を差し向ける。
「あなた、この部屋へ、入れますか」
 低く、しかしはっきりと発せられた太郎太刀の声が、僅かな残響を孕んで消える。回廊と座敷の間には注連縄で区切られた確かな境界があり、それを挟んで異なる世界が対峙しているようだった。しんと静まり返った部屋で、ただ石切丸の荒い呼吸だけが響いている。青江は唇を噛むと、踵を返してその場を後にした。


 夕闇の迫る刻限のこと、後ろから大股で近付いて来る足音と長い影には気付いていたが、青江は歩みを止めなかった。太郎太刀からの直截な問い掛けが頭の中でわんわんと木霊している。どうして、どうしてと自問自答には果てがなく、彼は掌を握りしめるよりほかに無かった。
「青江、ちょっと」
 立ち止まらないと見るや、声の主は強引に青江の肩を引いた。あまりの力に体ごと振り向かされて、青江は彼と対峙する。彼もまた、戦から帰ったばかりなのだろう。豪奢な装束に身を包んだ大太刀の中の一口は、少し背後を気にすると力ずくで青江を建物の影へと引き込んだ。
「兄貴のこと悪く思わないでやっとくれ。あのひとなりに一生懸命なんだ。アンタさえ遠ざければ、石切丸は元に戻ると思ってる。馬鹿だね、惚れた腫れたなんててめえ独りでできるもんじゃァないのにさ」
 声を潜めてまくしたてる次郎太刀の迫力に、思わず青江は一歩後ずさった。恐らく大太刀の中では最も社交的な彼だが、まさか自分を追って来るとは思わず、言いたい事も聞きたいことも沢山あるはずなのに、青江の喉はひからびたようで、中々声が出なかった。何度も口を開いては閉じる頼りない仕草に目を細めると、思いついたように次郎太刀は問いかける。
「アンタ、随分と幼い器に降りたんだねえ。体の年は幾つだい」
「…審神者は確か十と五六、その程度と」
「なんだ、石切丸の幼な好みってわけでもなかったね。あいつ少しばかり薹が立っちゃいるがアッチが役立たずってこたないだろうし。お似合いじゃないか」
 あはは、と場違いな程に明るく笑った次郎だったが、ほどなく低い溜息を吐く。

「…何言ってんだろうね、ほんと」
「有難うございます」
 次郎太刀の気遣いを受け取って、青江は素直に礼を言う。ようやく滑らかに動き出した唇へ問い掛けを乗せると、ようやく青江は本意を口にすることが出来た。
「太郎太刀様の、ご質問ですが」
「ああ…」
「禊をしていなかった、と」
 今度は次郎太刀が口ごもる番だった。首の後ろと腰に手をやって難しい顔で宙空を見上げる仕草はまるきりいなせな男性で、着ているものとの対比が倒錯的だ。
「アタシも一緒に出てたわけじゃないから詳しいことは分かんないけどさ。ホラ最近、いやに強い敵部隊がうろうろしてるって、アンタも聞くだろ」
 青江は一つ頷いた。青江が主戦場とする夜の国ではまだ遭遇したことがないが、随分前に制圧し定期的に状況を見回るような戦場でよく鉢合わせるのだという。こちらの機動を遥かに上回る攻撃は、必ず味方の誰かを刺し貫く必中のもので、短刀などが餌食になれば命取りになりかねないらしい。
 まさか、と問い掛けると次郎太刀は頷き一つで言葉を継いだ。

「あいつ、トロくさいからさあ。槍野郎にブッ刺された上にブッた斬られたらしくって。それでも重傷で済むんだから丈夫だよねえ全く」
 きゃらきゃらと笑う彼の声に、青江は笑顔を作れても同調はできなかった。
「でもさ、確かにいつものあいつならそんなに喰らうわけがないんだ。槍に一突きされようが、刺さったまんまの槍を握って敵を投げ飛ばすのが石切だろう。アタシの部隊が近くに居たからってあいつ運ぶために駆り出されたんだけど、そりゃあ酷いもんだったよ。血の海って奴」
「それが、僕のせいで」
 神域の刀たちは常に神威を得られるように身を清め日々の神事を欠かさない。だからこそ化け物染みた力を発揮できるのだ。石切丸が常の力を発揮できなかったのだというのならそれを怠ったためであり、太郎太刀はどうやらその原因を自分と見定めているらしい。蒼褪めた顔で言う青江に、次郎太刀は顔をしかめる。
「アンタそういうの、良くないよ」
「でも」
「アンタがそうしろって石切丸に言ったのかい?違うだろ?そんなら馬鹿は石切で、アンタは巻き添え喰らって嫌な思いした運の悪い脇差さ」
 慰めるための次郎の言葉はけして青江にとって嬉しいものではなかったが、言葉の中から確かに彼の優しさを掬い取る。
「じゃあ、彼はどうして…」
 首を折って見下げるほど下にある青江のつむじをとっくり眺め、次郎太刀は呟く。

「アンタ、石切丸としっぽりしてて、苦しくはなかったのかい」
 ぱっと顔を上げた青江の表情には、困惑と恥じらいが同居していた。この様子では次の言葉が出るには時間が掛る、彼がそう判断したのかは分からないが、一拍後には青江の腰は次郎太刀の手に掴まれていた。
「ちょいと失礼」
 その一言でひょいっと持ち上げられ、まるで子どもが大人にされるように腕の上に座らされる。胸のあたりにある次郎太刀の顔へ思わず抱き付きそうになるが、青江は何とか堪えて彼の肩に手を付いた。椿油と白粉の匂いがごく近くから香り、緊張する。
 しかし、驚いたのは次郎太刀の方らしかった。無言で青江を地面に降ろすと、何事か考える風に黙り込んだので、青江は不安になり彼の顔色を伺う。
「…何日に一遍か、こっちに泊まってたみたいだけどさ。やましいことは何もしてないんだろう?たぶん、居るだけで精いっぱいだったはずだ」
 青江は無言で頷いた。それを見て次郎は言葉を続ける。
「ここはそういう場所なんだ。アタシらのためだけの場所。さっきもアンタ随分辛そうだったけど、一晩も居れたのは石切のお陰なんだ。…あいつはわざと禊をせずに、戦場の穢れにまみれた体で接することで、アンタが過ごしやすいようにしていた」
 私の部屋へおいで、と言ったのは石切丸の方だった。確かに青江の部屋は刀たちの私室が密集する最中にあり、気が休まらないだろうなと解釈し、青江は一も二も無く快諾していた。そのために石切丸の被る危難のことなど考えたことすらなかった。

「僕が…僕の」
「アンタのせいじゃない」
 ぴしりと次郎が釘を刺す。ドスの効いた声に、青江は思わず肩を震わせた。
「アタシらの場所へ来れば誰だってそうなる。お願いだから気に病まないどくれよ」
「それならさっき、僕を抱えて、何を慌てていたんですか」
「青江…」
 次郎太刀が困り果てたように名を呼ぶ。青江にはもう分かっていた。自分が付喪神として顕現する時、憑けてきてしまったものの存在に。それが彼に及ぼす影響も、それがどれだけ他の刀たちから異質なものかということも。
「…アタシも兄貴も蛍も、アンタが憎いわけじゃないんだ。ほんとだよ。あの石切丸が脇差に懸想なんて、さんざっぱら酒のダシにした後でケツひっぱたいてお幸せに~なんて言ってやりたいんだ」
 でもさ、と次郎太刀の言葉が続く。
「このままじゃァ石切丸、お社に帰れなくなっちまうよ」
 次郎太刀の声に嘘は無い。青江は自分の爪先に向かって、はい、と小さく呟いた。離れへ戻って行く彼の後ろ姿を見送る、青江の影は細く長く伸びている。夕食を控えたこの時間、本丸御殿はそこかしこから賑やかな声が響いているというのに、青江は例えようも無いほどの孤独感にさいなまれていた。
それは彼にとって馴染んだもの、ともすれば感じることすらないような、些細で当たり前の状態だったというのに、石切丸というただ一口の存在と切り離されただけで、どうしてこんなにも心細いのだろう。大勢のものたちと顔を合わせる気にならず、青江は自室へと踵を返すことにした。



 青江はひとり、暗い部屋の隅で蹲ったまま、身じろぎもせずに宵の訪れと対峙していた。静けさが月に染みるようだった。石切丸を見たのはあの日が最後だ。第一部隊の点呼で微かにその名を聞いたり、或いは食事時に誰かの会話でちらりと近況を知る、その程度。十日程が過ぎた今でも青江の中の石切丸は、深い傷を負い苦しげに目を閉じ眠る姿から変化することがない。
 この本丸には、審神者の手により付喪神として顕現するより以前、人に振るわれていた頃から因縁のある刀同士が多くある。ここで生まれて初めて出会い交流を深めて行った、青江と石切丸の心ひとつの関係とは対照的だ。彼らの悲喜こもごものやりとりは、だから青江には無縁のものだった。
 長く人の手にあった青江だ。同じ時、同じ場所に存在していたという刀、同じ主に使われていた刀などは居ないわけでは全く無い。それなのに青江は彼らと殊更に距離を詰めようとは思わなかった。正直、あまり覚えていなかったのだ。青江にとっては己と同じ刀などの器物たちよりも、己を愛し慈しんでくれた主や取り巻く人々の方がよほど大事な思い出だった。

 青江は幸福な刀だった。数多くの戦に出て、数多くの人を斬り、そして主の誉となった。時代と共に身を削られたことさえも、そうまでして自分を求めてくれるのかと青江の魂は喜びに震えた。主のためなら形の無い怨霊さえも討ち果たす青江は、同時に主の形無い感情――それは誇りや矜持や精神の安定と言った――までをも守る刀だった。
 今の時代にもはや刀剣としての働きを求められることが無いのは分かっている。それでも青江は、己の帰る場所はかつての主の一族が治めた土地以外には無いと心得ていた。人のために手を貸すのに否やは無いが、しかし審神者に格別の同情も依存もしない。青江の自我と有り様は、審神者などおらずとも最初からしっかりと形作られていたのだ。
 だからだろうか、青江には長いこと特別に親しい者が居なかった。それに彼自身が不足を感じたことはなかったし、周囲からも何とも思われていなかった。青江は誰とでも一緒に居られたし、独りきりでも違和感のない、一種独特な雰囲気を持っていたのだ。

 そんな彼が初めて「寄る辺の無い不安」を感じたのは、そう、石切丸と出会ったせいだった。彼は戦場では神域を同じくする大太刀たちと同じ原理で動き、本丸で過ごすときは出自を同じくする三条の刀たちに囲まれていた。
 憧れたというのではない。ただ、城の奥座敷で読んだ絵物語を思い出したのだ。三条の刀たちは生まれた頃から変わらぬ時を過ごしているようで、未だ平安の香り漂う部屋でゆかしげな暮らしを営んでいる。王朝時代の姫君はみな、家族と同じ家に住み夜な夜な男君の訪れを待っていた。男君が三夜続けて訪れて、晴れて結ばれた暁には、愛しい男を家族に目通りさせるのだ。その過程を経て姫君の家族に受け容れられた男君は、正式な婿殿として姫君の一族に参入することになる。…けれどこの本丸に未だ青江の係累は無い。
 己の身を姫君に重ねる滑稽さなどは嫌と言うほど分かっている。それでも「群れをはぐれて飛ぶ雁よ」と三日月に綽名されたことが青江の頭を離れない。あの夜、青江はとても楽しかった。いや、楽しかったというのは語弊があるだろう。自分を受け容れてくれる群れに身を置く安らぎを、青江は初めて知ったのだ。彼は膝を強く抱き寄せた。さびしい、と一言ちいさく口にして、それから心底後悔して、青江は膝に額を押し付けた。


「ああ、来たね」
 障子の前に立った途端に部屋の中からそう言われ、思わず青江は硬直する。気を取り直してそろそろと開けると、幾つもの照明に囲まれて座ったままの友人がこちらへ向き直ったところだった。昼間と違わぬ明るさは、いま彼が書き物をしているせいらしい。周囲に散らばった本や書簡は彼の趣味だった。
「どういう意味だい?」
「そのままだよ。…少し痩せたようだ」
 青江の頬の輪郭に目を留めて、歌仙兼定は眉を顰めた。ひたひたと彼にせり上がる不愉快の情を察知して、青江は茶化すように言う。
「僕ら、今日も一緒に出陣しただろう」
「闇夜の戦で同輩の顔色など伺えるわけないさ。座るといい、茶でも点てよう」

 嘘だな、と青江は歌仙の横顔を読んだ。歌仙はむしろ共に戦に出る者たちの様子をよく見ている。それは友愛的な優しさではない。自軍の戦力を確認する、冷徹な目だ。青江にはその目が好ましかった。刀はよく斬れてこそ、武器は強くあってこそ、だ。
 彼は歌仙の嘘の中に意図を――恐らくそれは思いやり、というものだろう――を感じ取って何か言いたかったが、結局口を噤んだ。しかし道具を出して畳に広げ立ち働く歌仙の動きを目で追ううちに、なぜだろう青江は堪え切れなくなって、歌仙の着物の袖へと手を伸ばす。
 歌仙よりも動揺したのは当の青江の方だった。自分は何をしているんだろうと呆然としたが、吸い寄せられたように伸びた手はぴくりとも動かない。歌仙はそれを振り払わなかった。人差し指と親指で僅かに摘まれた袖をそのままに、ゆっくりと動きを止めたまま、青江を振りかえらずに呟く。

「君がここのところ、あまり食が進まず、睡眠も取れていないらしいこと…察しているのは僕だけじゃない」
 紛れもない羞恥で青江の頬が赤く染まる。戦場での不始末を悟られたのみならず、気を遣われていたなんて。歌仙の袖に掛けた指へ独りでに力が入った。だが歌仙は青江の心持など知らぬ風に淡々と言葉を繋ぐ。
「けれど、その理由に思い当っている者は、僕の他には居ないと思う」
 袖に伸ばされた青江の指へ、歌仙の反対側の手が伸びる。指を外されるのかと思って青江は身構えたが、歌仙は逆に握り返してきた。綺麗に整えられているとは言え、刀を振るう男の手だ。小さくも柔らかくもないそれなのに、青江は途方もない安心感を得る。後ろ手に青江と手を繋いだまま、歌仙は小さく息を吐いた。
「…座ろうか」
「うん」
 促されて用意されていた座布団に向かい合って座る、その間にも片手は繋がれたままなので動きにくいことこの上ない。二人とも自分の手を見ないように見ないようにと視線を上ずらせているのでどうにも不自然な光景だった。沈黙に耐えかねたように青江が歌仙の手の甲を指でさする。ヒッと小さく声を上げた歌仙の髪の毛が、一瞬確かに逆立ったのを青江は見た。

「君ねえ、僕が何を思って…」
「ありがとう」
 先手を打って言うと、歌仙の気勢は目に見えて削がれたようだった。すると仕返し半分、諦め半分、というような風情で青江の手を両手で取り、まるで茶壷にするかのようにさらさらと撫で始める。地肌の感触を味わうような触り方はいっそ無防備ですらあった。青江は心地よさに目を細めた。いま自分は無条件で肯定されている、と信じられることは、ここ数日の出来事で疲弊した青江の心に何よりも染みた。
 ふと漂う空気の纏うものに気付き、青江は猫のように目を閉じ鼻を上げる。
「落ちつく匂いがする」
 青江の仕草に苦笑しながら、歌仙は穏やかに応えた。
「…初めて会った時、君の装束から香っていたものに似せてみた。君の主か、城か…収蔵庫かもしれないが、現世の君に近しい人の好みなんだろう。良い趣味だ」
 言いながらも飽かず自分の手を愛で続ける歌仙を見て、一瞬青江は言葉を失った。この部屋の前に立ったとき、まるで待ち受けていたかのような歌仙の声に驚いたが、何のことはない本当に歌仙は青江を待っていたのだ。香を焚き染め、席を用意して。
「歌仙、優しいねえ」
「よしてくれ気色の悪い」
 言う声ばかりはそっけない。思わずうふふ、と青江が笑みを零すと、ぱしんと軽く手を叩かれた。


 この本丸で一番最初に顕現した刀である歌仙と、脇差としては最初に顕現した青江の付き合いは長い。良くも悪くも己の有り様に思い入れの強い二口の刀が、方や雅を尊び風流を愛しながらも戦に理屈も作法も要らぬと言い切る業物であり、方や老若男女の区別も付かぬ妖しげな姿と裏腹に自負と誇りによって形作られた神である、と知り合えば気安くなるのに時間は掛らなかった。
 彼らは互いを信頼していたが、しかし恃みにすることはなかった。彼らは揃って自立心の強い、悪く言えば甘え下手な刀だった。同じ部隊に属する彼らは日夜共に戦場を駆けながらも、互いの心の裡には大して興味を持たない。そのような付き合いを親しいと称するかどうかは人それぞれだろうが、少なくとも青江にとって歌仙は、躊躇いなく部屋を訪れることができる数少ない…ほぼ唯一の相手であることに間違いは無かった。
 いかにも不器用な青江の甘えに、妙な生真面目さで対応する歌仙の様子は、第三者から見れば滑稽極まりない有り様ではあったが、それを見る者も言う者も居なければどうでもよい事柄だ。歌仙の指が、青江の掌に対して少し小さく見える爪をくりくりと撫でる。くすぐったさに青江は目を細めた。まるで幼い女の子が仲良く手遊びするようなあどけない雰囲気の中、青江の指を引っ張ったり曲げたりしながら、世間話のように歌仙が口火を切った。

「君、いつか三条の対へ招かれたと言っていたね」
 来た、と青江は思った。しかし逃げる気はない。うん、としっかり頷いて、歌仙の孔雀緑の瞳を見返すと、予想外に彼の表情には困惑の色が濃かった。
「それがどういう意味か分かっていないのか」
「意味って…」
 青江は小首を傾げる。春の終わりのある日、石切丸に連れて行かれた三条の刀たちの部屋で、青江は歓待を受けた。恐らく気に入られたのだろう、青江もとても楽しかったし、去り際には三日月からまたおいで、と誘って貰えた。石切丸からは、これから彼らを自分の身内のように思って構わないと言われた。
青江は事実をそのまま列挙して歌仙の反応を待つ。恐らく友人が言いたいのはこういうことではないのだろう、という確信だけはあった。
 案の定歌仙は、頭が痛い、とでも言いたげに非難の混じった視線を寄越す。
「君の持ち帰ったあのゆかしげな蝙蝠扇。あれを貰い受けて、何か言われたろう。次からは独りで来いとか…この対をお前の屋と思え、とか」
 確かに、言われた。色違いの目を見開いて素直に驚く青江を見遣って、歌仙は遂にぽいっと青江の手を放り出す。ひどいじゃないか、と青江が口を尖らせるが全く意に介さぬ様子で座り直すと、やや改まった様子で歌仙は言った。

「青江、彼らはね、君が何となく気にし続けていることなんてとうの昔にお見通しなんだ。どうやら君は人に愛され続けてきただけあって、他者からの好意に些か鈍感なきらいがある」
 歌仙に釣られて青江は思わず正座した。懐から取り出した扇子を煽ぐでもなく閉じたまま、片方の手へ物言いたげにぱしんぱしんと打ち付ける様子は武士よりも貴族、むしろ芸術家の匂いがする。彼はもどかしそうに口を開いた。
「雲居の雁、君は彼らの群れに迎えられたんだ。石切丸もそのつもりでいるさ。何も言われなかったのかい」
「そんな、だって僕は、石切丸と何とも…」
 その後を継げない大脇差の純情に、歌仙は一際高く音を立てて扇子を弾き、懐へ仕舞う。しかし反射的に首を竦め叱られる体勢になっている青江を見るや、またも脱力して溜息と共に前髪を掻き上げた。
「ああ、実戦に活かせない経験などクソ喰らえだよ。君の教養は何のために磨かれてきたんだ。雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠のうちに込めたりつるものを…はい」
「『源氏物語』若紫」
「若紫が君だ」
「え」
 間髪入れぬ言葉のやりとりは、上ずった青江の返事で躓いた。歌仙は半眼で青江を睨め付けながら畳みかける。
「彼らにとって君は、石切丸の若紫なんだよ。分からないのか」
「分かるものか」
「分かりたまえ」
 今度こそぐうの音も出ない青江は、自らの膝を穴の開くほど見詰めるほか無かった。

「高貴な血筋に生まれながらも幼く身寄りの無い若紫を妻にするため、光る君は彼女を手元に置いて養育することで、妻より先に己の家族とした。本来ならば男が女のもとへ通って妻の家に入るという、招請婚が通例の王朝時代にあってこれは異例のことだ。婚姻は家と家との契約でもあるし、己の血縁という後ろ盾の大小は女君の一生を左右するだけの重大事だ。それを先に自分の家に入れてしまうことで解決しようとする、ある種、苦肉の策とも言える」
 歌仙の方から伸ばされた指が、俯いたために垂れ下がった青江の横髪を引っ掛けて肩の向こうへと流してやる。そのままついでのように額を弾かれ、思わず青江はそこを押さえた。
「まだ君のもとに通ってもいない石切丸が、君を部屋に連れて来た時点で、彼らは皆気付いているよ。彼らと飲食を共にし饗応を受け、物を贈られ名を付けられた。君はもう三条の家の養い子であり、いずれ石切丸の番いとなる者だ。もっと…自信を持て」
 青江の青白い額に、ぽつりと歌仙の爪の後が赤く残った。間の抜けた様に吹き出す歌仙を恨みがましく睨み上げ、青江は唸るような声で言う。
「君はそんなこと、言わないと思っていた」
「僕だって言いたくないさ」
「なぜ」
 陰のある歌仙の声へ、青江は敏感に反応した。
「分かっているだろうに」
「聞かせてほしい」
 一転して引こうとする歌仙へ、追い縋るように青江は言う。二色の双眸に見据えられ、歌仙はふうと重く息を吐き出した。

「彼らは彼岸だよ、青江。そう、埒外だ」
 歌仙の声は、ぽつんと一滴落ちた雫のように、青江の心の水面を揺らした。
「僕らは人の手によって生まれたが、彼らは人の信仰や伝承から…謂わば、形のないものから生まれた神々だ。僕らの考える世界の外に棲んでいる」
 一際声を低くした歌仙は、囁くように言葉を紡いだ。
「僕は、彼らを付喪神と呼ぶのは適当ではないとすら考える」
「じゃあ何と」
「ただ、神。或いは鬼」

 息苦しいような沈黙が歌仙の部屋を満たしていた。ここに来て青江の来訪の理由を見失った歌仙は、戸惑いがちに問い掛ける。
「石切丸と。三条と何かあったんじゃないのか」
 歌仙の問い掛けに首を振ると、青江は小さく掠れた声で言った。
「石切丸は、綺麗なままじゃ僕と一緒に居られないらしい」
「青江…?」
 常にない青江の弱弱しさには、笑いに転嫁できるような部分が少しもなかった。静かに慌てる歌仙をよそに、青江は更に言い募る。
「僕はいつか彼を折ってしまう」
「そう、石切丸に言われたのか」
「本人からではないけれど」
 大太刀からか、という低い問い掛けに、誤魔化すこともできず青江は頷く。それを聞くと歌仙は、ふん、と不満げに息を吐いて言い放った。

「結構な話じゃないか。僕は常々、君と彼は釣り合わないと思っていたよ」
 それを聞いた青江の驚きが雰囲気で伝わって来たので、歌仙は先んじて釘を刺す。
「勘違いしないでくれ。彼に君は勿体ないと言っているんだ」
 さっきまでの居住まいの良さはどこへやら、歌仙はどっかと胡坐を掻くと攻撃的な口調で言葉を重ねた。
「刀は人のために人を斬る道具だ。君は人に振るわれ沢山の戦働きをした。人の求めに応えて人ならざるモノまで斬った。こんな素晴らしい刀、またとある物ではない。それを何だい、穢らわしいと?笑止千万」
「あの、歌仙」
「神のために打たれた神の刀というならば、まだ話は分かる。住む世界が違うからね、良しとするものも違って当然だ。しかしあの大太刀連中というのはどうだ、ご神刀でございますとお澄まし顔をしておきながらその前半生は血生臭いものだそうじゃないか。勿論、人に振るわれたのも手放されたのも彼らの意思ではないだろう。だからといって、刀の本分を全うした者に対して言うべき言葉がそれなのか?」
「歌仙、そんなに怒らなくても」
「君がきちんと怒るならね。一言でも言い返したのかい?」
 言外の「違うだろう?」という含みに、青江は頷いた。しかし歌仙が口を開く前に弁明する。
「穢らわしいなんて言われてないよ。ただ、僕の存在は石切丸の為にならないと」
「青江ねえ…」
 呆れたような歌仙の声に、青江は小さくごめんと謝った。
「君自身、己の来歴には自負を持っているだろう。それを全て否定されたも同じなのに、少し暢気過ぎやしないか」
「…だって、彼らは石切丸を守りたいだけなんだ」
 怪訝な顔の歌仙にまるで弁明するかのように青江はぼそぼそと喋り出した。

「僕はずっと人間の傍に居たからね、神様に捧げられる気分なんて分からない。それまで人を斬り殺すことが誉だったのに、急に人の手から遠ざけられて、神域の中へ取り残されて祀り上げられる気持ちも分からない。けれど、人に振るわれず過ごす年月が、僕らの過ごした同じ年月より遥かに長いことは分かる」
 歌仙は無言で顎を僅かに上げて、続けろ、という意思を伝えて来る。どうして僕が、と思わないでもなかったが、青江は彼なりの考えを順に言葉にして行った。
「彼らは本当に楽しそうに戦うだろう。そりゃ僕だって楽しいさ、自分の刃を自分で振るうなんて刀なら誰でも興奮すると思うけど…ご神刀様たちは、多分だけど、殆ど忘れてしまったくらい久しぶりに刀として過ごせる時間が嬉しくてしょうがなくて、でも神の持ち物だっていう自我と誇りも確かにあって、そんな気持ちを分かり合えるのはお互いしかいないものだから、必死なんだ。誰も欠きたくないんだ」
 青江の言葉が途切れると、今度こそ部屋には沈黙が満ちた。いつの間にやら目を閉じていた歌仙が、ゆっくりと瞼を開ける。
「そうやって、自分を納得させようとしているのか」
「だって、仕様がないじゃないか…」
 独りで散々喋った後で、飛び出した声は驚くほどに幼かった。青江が唇を噛んで俯く。遠くから切れ切れに聞こえてくる短刀たちの甲高い声が、別世界のようだった。
「それで君が良いなら僕はいいんだ。むしろほっとする。でも…」
 歌仙は実に悩ましげに視線を上げた。
「君、悩んでるから、ここへ来たんだろう」
 こくんと頷いた青江へ耐えかねたように、歌仙はあーあと声を出して溜息を吐いた。今ならただの刀に戻っても構わないとさえ青江は思ったが、その気持ちを歌仙に伝えるのは気が引けて口には出さない。ただ、物として使われ性能を評価されるだけの日々が、とてつもなく恋しかった。
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