左馬刻に渡してくれ、と差し出された紙を理鶯は彼の掌ごと握りしめた。そのまま自分の肩に回し、もう片方の手で腰を支える。銃兎は何か言いたげな顔をしていたが、言葉にするのを諦めたように理鶯に体重を預けた。横浜は雨が降っていて、理鶯は傘を持たなかった。あたりを探せば銃兎の傘は見つかったかもしれないが、どのみち両手で彼を支えて歩く以上、傘を持つことはできなかったろう。



 たったワンコールだけ鳴って、すぐに沈黙した着信音。発信者を確認して理鶯は嫌な予感を無視できなかった。すぐに折り返したが繋がらず、自宅の固定機も留守番電話に切り替わる。
 誤操作による発信も、発信した後で思い直して切断するというのも、銃兎の性格では考えにくい。通話しようとして発信した直後に急用が出来て切らざるを得なくなった、というのが一番ありそうな話だが、銃兎ならきっと非礼を詫びて「後で掛け直す」等のメッセージをLineか何かで寄越すはずだ。
 その日の夜は左馬刻を交えて三人で飲む予定があった。念のため左馬刻に、銃兎から電話があったかどうか確認する。何の連絡も来ていない、という返事は予想の範疇だった。深く息を吐き、理鶯はこれから自分のすべきことを考える。
 理鶯は自分が銃兎から丁寧に扱われているという自覚を持っていた。甘やかされている、などという話ではない。銃兎は彼という多面体のなかの、綺麗な面や誠実な面を殊更に理鶯へ向けようとしている。それは理鶯にとって、気分の悪いものではなかった。ありていに言えば、好かれようとしている、とも取れる行動だ。だからこそ、切れた後で何の音沙汰もない電話が不気味だった。

 理鶯は目立たない服に着替えて横浜署に向かい、若い警察官を捕まえて入間巡査部長の所在を聞いた。どうやら彼は先輩警官の課外活動を知っているらしく、理鶯がフードを脱いで顔を見せた時点で事情を察してくれた。六時に帰宅した、という簡単な情報に加えて激励の言葉を貰い、理鶯は警察署を後にする。
 銃兎からの着信があったのは七時前。彼の性格からして、遅刻前提の予定は立てない。仕事終わりに何か別の用事をこなしてから、集まりに参加するつもりなのだろう。まだ予約の九時には余裕があるものの、理鶯の胸騒ぎは増すばかりだった。
 終業後の用事ということで非合法の活動と当たりを付け、職場と自宅と集合場所の地理関係と制限時間を考え合わせる。この三点が近い距離であることが幸いだった。銃兎のマンションが確かに無人であることを確かめると、理鶯は後ろ暗い会話や取引が出来そうな場所を探しながらゆっくりと夜の街を歩く。そこから先は狩りだった。

 繁華街の場末の飲食店、その裏手のブロック塀に凭れ掛かって座り込んだ銃兎は、一見すると週末の夜にありがちな酔客にしか見えなかった。しかし近寄ってよく見れば、彼の頭を俯かせているものがアルコールではなく暴力の名残りだと分かる。
「銃兎」
 静かに呼び掛けるが反応は無い。…いや、力なくアスファルトに投げ出されていた指先が、僅かに強張ったようだった。理鶯は更に低く声を重ねる。
「銃兎。迎えに来た」
 あなた素敵な声をしていますね、とかつて銃兎に掛けられた言葉を理鶯は思い出していた。銃兎は顔を上げないままで、億劫そうにトレンチコートのポケットを探る。お気に入りの手袋はどこかへやってしまったらしい。珍しい銃兎の掌は雨の夜に浮き上がっているようで…実のところ理鶯は、渡されそうになった紙など眼中に無かったのだった。

 十一月の雨は止まない。官給品の防水コートを着ている自分は良いが、銃兎は寒いのではないだろうかと理鶯は思う。黒々としたアスファルトは水膜を纏い、信号やネオンの色彩をぼんやりと映し出していた。水を跳ねながら歩く理鶯と、僅かに引きずられるように足を動かす銃兎。体の側面の触れ合った部分が熱い。
「渡してくれ、というのは」
 白い息と一緒に理鶯は言葉を吐く。
「その紙だけ受け取ってくれ、自分はここに置いていけ、という意味だったのだろうか」
 考えを纏めながら問い掛けると、声のスピードは自ずとゆるやかになった。銃兎の返事は無い。促すように、自分の首に回させた彼の腕に手を添える。剥き出しの手の甲がどうにも寒そうだ。脇道に逸れた理鶯の思考など分かるはずもなく、銃兎は溜息とともに口を動かす。
「まあ、そうですね。脳震盪くらい、休めばいずれ動けるようになったでしょうし」

「なぜだ」
「理鶯?」
 銃兎が危ない橋を渡っていることは理鶯も既に知っている。警察という組織の中で彼の望む未来を引き寄せるべく、時に正義を、時には悪を。理鶯は、また左馬刻も、彼の行いに対して白黒の評価をすることはない。みな似たり寄ったりだ。この世界が自分のために用意されたもので無い以上、欲しい物を手に入れるためには贅沢を言っていられない。
 理鶯の無言をどう取ったものか、殴られた方が楽なこともあるんですよ、と弁解するように銃兎は言った。楽、というのは気持ちの問題ではないだろうと理鶯は考える。きっと、便利だとか簡単だとか、そういう単語で置き換えるべき言葉だ。反撃する手段も、それだけの力も持っているのに、目的のためなら従順なサンドバッグにでもなれる。銃兎は強い男だ、と理鶯は思う。だから言った。

「どうして、左馬刻のところまで連れて行ってくれ、と言わない。銃兎が小官を信頼してくれているのは分かっている。けれど銃兎は、小官を頼らない」
 銃兎の体に緊張が走った。密着しているので、それは理鶯にも顕著に伝わる。いつの間にか盛り場を抜けて、海岸沿いの倉庫街に至っていた。強い潮風の狭間から潮騒が忍び寄ってくる。
「銃兎は小官に戦場をくれた。望みのためにただ待つのではなく、自ら打って出る機会をくれた。小官はその恩義に報いたい。…いや」
 ひとつ呼吸を整えると、理鶯はその場で足を止めた。まばらな街灯が、白人の血の混じる彼の顔立ちの彫りを強調する。互いの顔の見えないことが、この状況では一種の救いだった。
「このCrewは小官にとって、少人数であれひとつの軍だ。銃兎と左馬刻は同朋だと思っている。たとえ戦地から帰還し、それぞれ別の任地で戦う日が来たとしても…小官らは命を預け合った戦友だ。違うか、銃兎」

 理鶯は銃兎の手の甲を覆うように握り込んだ。案の定、雨に打たれて冷え切っている。銃兎は僅かに驚いたようだったが、次第に落ち着きを取り戻して行くのが肌の感覚で理鶯にも伝わった。長い沈黙だった。二人の呼吸と、寄せては返す潮騒は、同じようなリズムでモノクロームの景色に溶けた。
「ホッカイロを」
「む?」
「ホッカイロをね。ひとつポケットに入れているんです。このところ、寒くなって来たので。それが今日は忘れてしまって。蹴られてる間もずっと、ああ持ってくれば良かったなあと思っていて」
 彼らしくもない囁くような声は、理鶯の耳朶をくすぐるようにして消えていく。
「電話、すぐ切ったつもりだったんですが。折り返しが来て、ああしまったなあって…今日はこんなことばかりだ、なんて。…理鶯」
「なんだ」
「どうして来たんですか」

 冷酷とも受け取られかねないその言葉は、強い海風のように理鶯の心臓を打ち据えた。だから理鶯は殊更はっきりと答えた。
「お前が呼んだからだ、銃兎」
「りお、」
「違ったか? 銃兎、小官はうぬぼれているか?」
 銃兎は今度こそ答えなかった。しかし理鶯はそれでも良かった。否定の言葉の無いことが、何よりも彼の答えだろうと思う。銃兎はすっかり水の染み込んだ革靴の先に目を落とし、理鶯は暗い海を見ていた。
 善悪の狭間でどこにも行けない者たちが、三人集まったところで何になる? そんな内なる声を振り払うには、握り締めた掌の熱だけで十分だ。自分たちはみな一人でも戦える。しかし触れ合った肌の間でしか生まれ得ない物がある。生まれた熱を火薬に変えて、この国の天井にでかい風穴を開けてやる。

 佇む二人を背後から強烈なビームライトが照らし出した。あらかじめ連絡していた理鶯が軽く手を上げるのと、身動きできない銃兎が形容しがたい声を上げるのは同時だった。舎弟に運転させていたのだろう、後部座席から降りて来た左馬刻は、濡れ鼠になった二人を大笑いで車へと迎え入れた。



お題『手をつなぐ』
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