大叔母夫婦が遠方の介護施設に入るので、新幹線のホームまで見送りに行きました。
まだ施設なんて年じゃないでしょーと思ってたんだけど、そこの一人息子はアメリカ在住ウルトラエリートで滅多に帰国もしないし、旦那さんは足が悪くて杖か車いすが無いと移動できない。今は私(大叔母)が介助できてるから生活が成り立ってるけど、いつどうなるか分からないと。
今なら自分の頭もはっきりしてるから、今のうちに家も持ち物も処分して然るべき人に挨拶して、安心できる場所に終の棲家を求めたいと言われたらもう、何も言えない。
この年から手厚いフォローをしてくれる施設…というかマンションというか…に入るには息子さんの多大な出資があったんだとは思いますし、それはきっとこのご時世かなり恵まれたことなんでしょうけど、それでも良く見知った人の、言ってしまえば「死に支度」を間近で見るのはインパクトがありました。
都合がついた親戚たちでホームまで荷物を持って車いすを押して、新幹線の中に荷物を積み込んで(ほんとは切符持ってない人は乗っちゃいけないんだけど)、発車するまでずっと手を振り合ってました。
みんな口には出さないけれど、生きている大叔母夫婦の顔を見るのはこれが最後だと思っている。大叔母たちも承知の上で手を振っている。大抵の場合、訃報というのは突然ですし、長患いの果てであっても最期がいつ来るかは分からないものです。だからこそ、この意図的な生き別れ、どこまでも自覚的な、死に別れに限りなく近い生き別れ、というのは…寂寥感は勿論あるんですが、寂莫な明るさ、のような不思議な気分になりました。
おそらく出家する人を見送る気分はこんなものではないかと思う。