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終わらないスパコミ
スパコミが終わってもうすぐ二週間が経とうとしているのに未だにスパコミ原稿いじくってるのなーんでだ
「自己満足のための趣味」にどのくらい労力を割くかってかなり難しい問題ですよね。
リゾプロ本で慣れないエロを書いたら心が勃起不全になり次の原稿に取りかかれるまでにかなりの時間が無駄になり、結局時間が足りなくなって睡眠時間を削って印刷所に泣きついて数時間の猶予を貰い、最後は寝落ちを防ぐために立ったまま文章を打ってなんとか完成させたギアメロ本なんですが、まー不備とうっかりのオンパレード。
誤字脱字くらいなら「すまん」で済ませるところなんですが、一段落まるまるコピペ忘れがあったり最後に纏めてやろうと思った作業をやり忘れてたり。甚だしいのが、間に合わないと悟って収録を諦めた短編の内容が収録済の他の短編で触れられている、つまり伏線のデッドリンクね。頭を抱えたまま後ろに倒れました。
とはいえ。とはいえですよ。自己満足の趣味なんですよ。正直、「完成度が低いので回収交換します」ってやらない方がいいんじゃないかとも思ったんですよね。
これが印刷所の乱丁とかだったらいいんですよ。不備なので。でもこの、ハチャメチャな内容ってある意味…これがそのときの全力じゃないですか…。内容の整合性が取れないっていうのが乱丁と同じ扱いなら、変な話「文章が下手」っていうのでも不備扱いになっちゃうのでは? これがエスカレートしたらいつか「萌えなかったから金返せ」に対応せざるを得なくなるのでは? と。
あとは万が一、他のサークルさんに「こんなに誤字脱字があって面付けまで失敗してるんだからちゃんとした本を刷って交換しろ! 他のサークルはちゃんとそうしてる!」とかの引き合いに出されたら首を括るしかないよな…とか。
色々…色々考えたんですけど…結局は交換することにしました…。結局は「もしかしたらこの本が、私が出した唯一のギアメロ本になるかもしれないのに、それがこの仕上がりでいいのか?」っていう…結局は自己満足的な部分で…。
結果から言えば、リゾプロ本に時間を食われた結果がこれなので、なんというか…ギアメロ(概念)に申し訳ねえみたいな気持ちが大きいんですよね…。けして君を軽視したつもりはなかった、単に時系列的にリゾプロの方が早い時期を扱ってるから、リゾプロからやった方が頭が混乱せずに済むなっていうそれだけだったんだ…。
もしこれから先、またリゾプロとギアメロを一緒にやることがあれば、今度はギアメロから先にやってリゾプロをメチャクチャにします(メチャクチャになる前提)(多分もうこんなことはしません)
2019/05/17(金)
13:57
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原稿やる気がまったく起きない
萩に行ったとき、気に入って買った萩焼のコップに私は「くじら3号」と名前を付けた。往年のガールズバンド、GO!GO!7188の『とかげ3号』のパクりである。
パクりではあるのだが、そのコップを初めて見たとき、私は「ああこの人はむかし死んで海底に沈んだシロナガスクジラのお腹なのだな」と思い、「くじら3号と呼ぶことにしよう」と購入し、帰宅してからGO!GO!7188のことを思い出したのだ。パクりだろうか。まあどうでもいいけれど。
くじらが好きだ。サメも好き。大抵の海洋生物に親しみを抱いているが、特に広く遠くを泳ぐもの、長く深くへ潜るものに憧れを持っている。
母方の親戚はみな漁師だ。祖父の弟、私から見れば大叔父だが、彼は誰も船を出さないような酷い天候でも必ず漁に出て、大儲けをする人だったらしい。命知らずは漁師にとって誉め言葉だが、あまりに稼ぐので良く思われていなかったようだ。
大叔父は結局、大しけの外洋へ漁に出たとき、船から落ちてヨゴレの群れに喰われて死んだ。浜に流れ着いた体の一部に彼の刺青が残っていて、それで葬式が出せたとか。
会ったこともない人なので、好きも嫌いも無いのだけれど、その死に様はいいなと思った。元々くじら好きだった私がサメも好きになったのは、大叔父の話を聞いてからだと思う。
大叔父を喰ったヨゴレたちはもう生きていないだろうが、ヨゴレという種そのものに大叔父の命が組み込まれたように感じたのだ。大叔父の魂が残るとすれば、流れ着いた背中の皮膚ではなく、生まれ続け死に続けるヨゴレの群れであろうと思った。
大叔父は船から突き落とされたのではないか、という噂は田舎の村のこともあり、未だに残り続けている。しかし嵐の海の前では雑音にしかならないし、ヨゴレにとってもまた無意味だろう。
脂肪を蓄えた鯨が死んで海底に沈むと、無明と低温のなかでゆっくりと分解されながら、その身ひとつで生態系を作り出す。人の体では膨れ上がって浜へ流れ着くのが落ちなので、私は死んだら灰を海に撒いて欲しいと思う。
喰って喰われる海洋生物の環の中に入るうち、いつかこの地球の最も深い海に辿り着けるかもしれない。そこにはきっと大叔父の骨も、大叔父を喰ったヨゴレの骨も、同じ様に積み重なっていると思う。その上に、私も骨を沈めたい。
「くじら3号」でコーヒーを飲むとき私はいつも、音も光もない海の底を思う。
2019/03/16(土)
20:22
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アドヴェント・カレンダー
10月にイギリスを旅行してきた。
ロンドンでは赤井秀一のために高級住宅地を視察し、シャーロックホームズの聖地巡礼をし、ハリーポッター・スタジオへ足を延ばし、リヴァプール~湖水地方でビートルズとピーターラビットと脳内ジョースター家にまみれてきた。ハローマイネームイズオタク。
帰りのヒースロー空港で時間が空いたため、親戚へのバラ撒き土産を買うことにした。
(本当は帰国後にamazonで買うつもりだったのだが。だって国境を越えて荷物運ぶのも管理するのもだるいじゃん。旅先でわざわざ買って手に携えて帰国するのは気合いの入った土産だけと私は心に決めている)
適当にイギリスっぽいお菓子なんかをざかざか籠に詰めていたら、フォートナム&メイソンのコーナーに来ていた。お高い紅茶やお茶菓子を眺めながらブラックラグーンのことなど思い出していると(シスター・ヨランダが好きって言ってなかったっけ。W&Mだっけ)、見つけちまったんだな、それを。
アドヴェント・カレンダー。しかもチョコ入り。
天井がドーム型になった五角柱の形をしていて、レトロなアパートメントみたいな絵が描かれていて、それぞれの部屋の窓に日付が付いていた。どの面も一番下の階がフォートナム&メイソンの店舗入り口になっているので、もしかしたらかつての本店の様子を模しているのだろうか。
チョコレート入りなのはFor Childrenの商品だからで、大人向けには窓を開けると紅茶のパックが出てくるものが売られていた。もちろんもっとシックなデザインで。
私はこのチョコレート・アドヴェント・カレンダーをプレゼントされる、様子の良い子ども(たしか50£しないくらいだった。大人の趣味ならともかく、子どものおやつとして買うには高そう)と、その上品な家庭が古典的なクリスマスを楽しむ様子を想像してニヤついた。
実は私、クリスマスカードの蒐集も好きで、キリスト教圏へ旅行すると買ってくるようにしている。それらのカードで見るオールドファッションなクリスマスには、よくアドヴェント・カレンダーが登場した。
憧れがあったのだ、アドヴェント・カレンダー。12月に入ったら1日いちにち、カウントダウンをするように神の子の生誕を待ち望む文化。一神教の醍醐味だよなあと思う。仏教生まれ仏教育ちには分からない感情の機微だろうと想像したものだ。もちろん、クリスチャンには仏教徒の感性も理解しづらいだろうが。
で、買っちまったんだな、それを。
イングランドのオールド・ファッション・クリスマスを象徴するようなチョコ入りのアドヴェント・カレンダーは、いま極東アジアのクソミドリ地方ド田舎ディビジョン、冴えないアパートの玄関に置かれている。クリスマスカードと一緒に飾ってみたら、そのコーナーだけ明らかに西欧の風が吹いてしまい、隣の博多人形がとても不憫だ。
あまりのオーラのギャップに気圧されて直視できないでいるうちに二十日あまりが経ち、ようやく気付いた。
チョコレートを食べていない。
というか窓を開けていない。
なーーーにが憧れのアドヴェント・カレンダーだ。カウントダウンどころの話ではない。私はもはやその五角柱を置き物としか認識していなかったのだ。キリストの生誕も蜂の頭もありゃしない。隣のクリスマスカードが泣いている。
私は粛々と五角柱の底から箱を開け、注意深く中のチョコレートを取り出した。窓は開けなかった。来年も飾ることを考慮し、見た目の美しさを優先したのだ。For Childrenの商品へ注がれる大人の小細工。
私は線香の匂いが染みついた炬燵へ戻り、番茶と一緒にチョコレートを三日分ボリボリ食べた。めっちゃ美味しかった。さすが高級店。本来は12/1~3に一つずつ味わわれるはずだったチョコレート(ご丁寧に一つずつ形が違う)は、こうしてあえなくこの世から消えた。色即是空、諸行無常。凄く美味しいので一気に食べるのがもったい。おそらくチマチマ一月中まで食べ続けるだろう。
今夜のメニューはおでんと塩辛です。
2018/12/22(土)
07:44
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砂の惑星
日常生活がコチャついている。
私レベルの現実逃避技能を持っていると、二次元の世界とその空想に耽る時間こそが人生であり、現実を過ごすことは人生を支えるための出稼ぎに過ぎない。
つまり日常生活に追われる今は、手段に目的を侵害されているようなもので、甚だ遺憾だ。
世間はネロ祭りももう終わりかけだというのにろくに周回できていない。
静かな自室で空想する時間が十分に取れないと、私は集中力が格段に落ちる。するとFGOが起動するまでの時間で寝落ち、アーラシュが宝具を撃つ待機時間で寝落ち、後衛からマーリンが出てくるまでのタイムラグで寝落ち、などということになる。
スマホゲーですらこの有り様だ、ツイッターも開いたとき目に入ったツイートしか読んでいないし読書などできるわけもなくPCは起動すらできない。つまり今の私は死んでいるのと同じだ。
しかしまあ、よくもこれだけコチャつけるものだと感心するほどコチャついている。
幸いまだメンはヘラっていないが、いっそヘラりまくって往来で無差別に通行人へウンコでも投げつけまくった方が楽になれるのではないか。行先が病院だろうが警察だろうが鉄格子の嵌った静かな部屋に違いは無いだろう。
ちなみに「メンがヘラる」の言い回しはカレー沢薫女史より拝借した。私は女史が個人サイトで乙女ゲーのレビューをしていた頃からのファンだ(乙女ゲーに興味はないのに女史のテキストを読むために通っていた)。
女史がFGOで土方に爆死したと知ったときは「それでこそ女史」と好きさ100倍だったが、その爆死額が二十数万円だと知った途端にガクンとボルテージが下がり、土方を引いた瞬間にブロックした。この時は自分でも冷静に「私はメンがヘラっているな」と思った。
そういえば先日、遂に三田先生が孔明を引いた。実は同じタイミングで私も孔明を引いたのだが、自分のことなどそっちのけで三田先生の努力が報われたことが嬉しかった。
自分には目もくれずよその自分を祝われまくるとは、うちに来た孔明は少し不遇だとも言える。しかしエルキドゥでメンがヘラり尽くした時期に石の在庫を処分していて二枚引きしたマーリンなどは「お前じゃねえよ」と数か月放置されていたので彼に比べれば何億倍もマシだ。
私がロリータだったころ、私の家は大変に貧しかった。いや、成長しても割と貧しかった。貧困エピソードなら一冊新刊が書き下ろせるくらい語れるが、不幸自慢は何も生まないとハチクロで教わったので自重する。
だが、物が無い環境で育ったことで、私は物が無くても割と平気なメンタリティを手に入れた。そしてそれは結構役に立っているようだ。
両親が共働きだったので、一人っ子の私は夜まで独りで過ごした。食費に困窮する家庭に玩具などあるわけがない。テレビは五月蠅くて嫌いだったしそもそも電気代を節約せねばならない。
そんな私が生み出した空前絶後の遊び、それが「石ごっこ」だった。
単純な遊びだ。床に正座し、手で頭を抱えたポーズで額を床に付ける。少し息苦しい状態で目を閉じ、「自分は石だ」と思い込む。
石なので動かない。呼吸もできるだけ静かにする。益々息苦しくなる。耳のあたりの血管がドクドク言う。床に押し付けられた部分が痛い。それでも動かない。石は何も感じない。とにかく余計な事を考えないように努める。だんだん感覚が鋭くなってきて、無音の音(めっちゃ静かな部屋ってキーンみたいな高い音聞こえるよね? 私だけ? 幻聴?)が聞こえてくる。その頃には床に接している足の骨の感覚も、膝に押し付けられた胸や顎の感覚も、本当か嘘か分からなくなってくる。そこですかさず「これは嘘だ」と思い込む。なんとなく重力もぼんやりしてくる。「これも嘘だ」と思い込む。自分がなんでここに居るのか、本当にここに居るのか、そういうことも曖昧になってくる。
気付いた時には平気で二三時間経っている。なんとエコな遊びだろう。
寝入りばなの感覚に似ていると思うが、頭ははっきりしている。石になっている間はとにかく物の見方が客観的になる。足が痛いなあ、息が苦しいなあ、また同じことを思い出しているなあ、心臓がうるさいなあ、私は怒っているなあ、云々
この、自分の心の動きを他人事として捉える、というのはメンがヘラるのを防止するのに有効らしい。エルキドゥで思いっきりヘラった人間が言っても説得力が無いが、それでも嫉妬心のトリガーになりそうなものごとから自分から遠ざかるよう振舞えたのは石ごっこの成果だと思う。「私は他人を妬んでいるなあ」とメチャクチャ客観的に理解できたからだ。そうじゃなければエルキドゥの召喚スクショを載せている人に片っ端から「引けなかった人の気持ちも考えて下さい」系ご意見メッセージをお送りする人になっていたに違いない。
あまりにも二次元及びインターネッツから遠ざかっていたため、私は本当に生きているのか? と不安になったので試しに文章を書いてみた。とりあえずまだ思考力はある。ついでに手持ちの石を投げたらシバの女王が二人来た。やはり私は課金しない方がいい。
バビロニアまでほぼイリヤだけでやって来たような弊カルデアキャスター陣営だが、ここに来て一気に充実した。王様、イリヤ、エレナ、アンデルセン、マーリン、孔明、シバ。そしてコンテナのアヴィケブロン。(実はもう一騎、割と強い奴がいるのだが、うちの芸風には合わないため話に出すつもりはない)
シバが来たことで、王様の取り巻き? ポジションになりそうな人たちも充実した。秘書のシバ、側近の巴さん、護衛の千代女、軍師の孔明、食客の茨木、マーリンのマーリン。いいね、何でもできそう。生き返ったら何か書きます。
2018/10/04(木)
13:41
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怖い夢が見れますように!
諸君、私はハロウィンが好きだ。
以下略。
今まさに物凄く気分がハロウィンめいているので、pixivからジョジョのハロウィンパラレルを引っ張ってきました。ナナナナナ~♪ナナナナナ~♪
私がジョジョで、手放しで容姿を大絶賛できるのってシーザーとプロシュート兄貴なんですよね。いくら褒めても褒めたりない。承太郎さんとか褒めるの苦手なんだけどな。
山羊角と尻尾生やして逆関節に蹄の付いたシーザーとか爆裂格好いいと思います。プロシュート悪魔は似合うことが予め定められた勝利って感じですよね。蜘蛛の巣柄の紫紺スーツって時点で最初からハロウィンチックな人なので、今さら蝙蝠羽が生えたところでどおってことないでしょう。
コスプレには全く興味が無いのですが、化け物の仮装をいつか絶対してみたいなあと思っています。
キモければキモいほど、グロければグロいほど良い。人間の原型を留めたくないです。これも一種の現実逃避でしょうか。
ディズニーランドもここ数年はクリスマスよりハロウィンの方が来場が多いらしいですし、同じような人は多いんじゃないかなと思います。
可愛さや綺麗さって要するに正しさなんですよね。正しさってルールが決まってるし相対評価だから終わりが無くて息苦しい。悪いことの方がラクだし自由で楽しいんですよ。
ロリータのころ、幼稚園の送迎バスのなかで白雪姫やシンデレラや人魚姫のビデオを見て、王子様に見出されるお姫様よりも自在に魔法を使って望みを叶える魔女の方に憧れたものです。
だってそうじゃん、お姫様はこの先も綺麗さや優しさや勇気を維持しなきゃいけないんだよ。魔女ならいくら醜く老けて意地悪で我儘でも大丈夫、魔女だから。
悪役の方が自由っていうのは少年漫画読んでても思いますね。キチガイの犯罪者とかド変態とか、改心()しない限り主人公チームには入れませんもんね。
私が大ッッッ好きな映画(原作も読んだ)アダムスファミリー、何が好きって価値観の狂いっぷり。パパ(低身長の醜男)とママ(死んで何度も蘇る魔女)の夜の挨拶は「おはよう、今日も不幸かい?」「どん底よ!」
夫婦が愛を囁くのは夜中の墓場で、その文句も「君と出会ったのは新しい墓を掘り返した晩…湿った土の香りが芳しく…土気色の顔が最高にセクシーで…」「いや、恥ずかしい…///」とか
観るたびに笑っちゃうのが、長女(不幸の化身)が長男(悪意の化身)を包丁を持って追いかけまわしてたとき、ママが「こら、ウェンズディ(長女)」って呼び留めて包丁を取り上げ「こっちにしときなさい」って手斧を渡すシーン。あまりに自然なんですよ。
アダムスファミリーの好きなシーンは書き始めると終わらない。どうしてももう一個なら、夫婦が主催した一族のパーティ、舞踏会のシーン。
親戚役のキャストの方々が小人症、巨人症、多毛症、シャム双生児等々…フリークス的な目で見るならインパクト絶大なわけですが、さらーっとしか映らないんですよね。画面の中心は個々の特異な形状じゃなくて、あくまでも一族のパーティなんです。もうねーめっちゃ楽しそうなのみんな。掛かってる曲もなんかマイナーコードなのに激しい妙な曲で、それに合わせて踊る踊る踊る。
ロリ村はあの舞踏会を見たとき物凄く心が楽になりました。卑屈で陰気でダサいデブでも、自分を変えないまま歌って踊って笑えるんです。
観たくなってきたな、アダムスファミリー。1が好きですが、2は姉弟がサマーキャンプに参加させられるところが好き。あそこまでディズニーdisれる映画ある???
今までアダムスファミリーが地上波放送しないのはハチャメチャモラルと宗教イジリや身体障害関係だと思ってましたがD社の差し金ってこともあり得ますね、知らんけど。
1のラストシーン、色々あってハッピーエンドなんだけど、パパの弟のゴメスおじさんが子どもたちと全く同じテンションで遊ぶんですよ。何して遊ぶ!?「死体を起こせ」はどう!? そりゃいい!やろう!!→スコップ持って墓場へGO(真夜中)
これ、普通のファミリードラマならかなり異様ですよね。小学生の子どもたちと同レベルではしゃぎまわる中年男。たぶん子供たちを優しく監督するのが大人のあるべき姿です。遊びの内容は言うに及ばず。
だがそんなの知ったこっちゃねえ
こーーーいうところにもねーーー私は無限の自由を感じてねーーーめちゃくちゃ心が安らぐんですよねーーーたぶんこれがハロウィン好きな理由そのまんまなんでしょうねーーー
2018/07/29(日)
14:36
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朝には紅顔ありて
御朱印帳がいっぱいになった。膝丸を見に大覚寺に行って、そのとき買った御朱印帳だ。
お寺によく行くから旅日記代わりにできるかもな、とそれ以前から御朱印帳の購入は検討していたのだが、なんとなく機会が無かった。大覚寺の物販で綺麗な襖絵の表紙を見て、良いな、と思い、ついでにうちの檀家寺も真言宗なので丁度いいかな(?)と購入した。だから1ページ目は大覚寺の御朱印だ。
それにしても色んなお寺に行った。刀剣の絡みも多いが社員旅行だの趣味の旅行だの散歩だの親戚の法事だのにも持って行ったので、確かにちょっとした日記になった。
何度か訪れたお寺でも一回ずつしか御朱印は頂いていないが、例外的に二度以上書いて貰ったお寺が三山ある。マイフェイバリット寺だ。
1. 京都嵐山、常寂光寺
2. 福岡雷山、大悲王院
3. 京都嵐山、化野念仏寺
1と3はそんなに離れていないので、だいたい一緒に行く。2は車無しでは行けない山中だが、親戚が住んでいるエリアなのでだいたい法事のときに行く。
私的にポイントが高いのは勝手に座れる濡れ縁があること、静かなこと、人工と放置のバランスが良い山、建物や植生に色数が少ないこと、人が少ないこと。嵐山で人が少ないとか嘘やろって感じするけど、実際この二山はなぜか行く時は人が少ない。シーズンオフ? 天気が悪いことが多いから? よく分からない。雷山は人より狸の方が多い。
落ち着く順に番号を振ったらこうなったけれど、念仏寺は全然落ち着かない。どんなに静かでも落ち着かない。1≧2>>>略>>>3.けどまた行きたくなる。たぶん私にとってテーマパークに近いんだと思う。死にたい、でも、死ぬのか…、でもなく、私もじきに死ぬな! みたいな事実の再確認ができる。快感だ。
ふと思い出したけれど、私は山に行くと高確率で雨が降る。山の天気は変わり易いから当たり前かもしれないけれど。お陰で山というと自然に濡れた山道を歩く感触が蘇る。
いつ行っても観光地の寺に人気が無いのは、単にそういうことかもしれない。雨に濡れた古刹は美しい。
2018/06/06(水)
23:40
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