七章にエルキドゥは一回も登場しなかった。回想シーンも、台詞の一つもなかった。でも七章を旅して、ウルク王となったギルガメッシュや後継機であるキングゥ、常に傍観者であったシドゥリなどの視線を通して、エルキドゥがどれだけ皆に愛されていたかを示され続けた。「いま不在であること」で「かつて存在したこと」を強く印象付けられた。そして七章のサブタイトルは「天の鎖」。
これまでのセオリーでいけば、一緒に旅するナビゲーター的なサーヴァントを象徴する言葉がくるはず。でもここに、ウルク王ギルガメッシュの「天の楔」ではなく、かつて生きて既に死んだ、一度も登場しないエルキドゥを指す言葉が宛てられた。これは最後、キングゥの献身を指しているのかとも思ったけれど、「エルキドゥの死をもって生まれた」賢王の存在も表しているのかもしれない。
かつて天の鎖がこの地にあって、鎖が砕けて賢王が生まれ、そして再生した鎖が神を縛る、ただしそれは再来ではない、喪われたものが戻ることはない、しかし喪われたものの価値はいつまでも残り続ける、そういう話だったのかもしれないなと 思った。
(2017/04/02)
王様を好きだと思う気持ちは夕日を綺麗だと思う気持ちに似ている。
彼の優しさは過去の友の死が生んだもの、彼のひたむきさは未来の己の死が齎すもの。彼を取り巻く空気には死と終焉の香りが溶けている。
太陽はいつか沈む。じきに夜が来る。王様はそれを知っていて、夕焼けの中で笑っている。彼には時間がない。彼はいつか死ぬ。だから一生懸命駆け抜ける。うつくしい緑のひとは自らの死で、彼に得難い贈り物をした。有限の命。人としての生。
(神の子、裁定者、庭の主として上位存在からデザインされた彼に、命の終わりの概念はなかったのではないだろうか? 実際にかつての彼が不老不死だったのか、それはもはや問題ではない。 彼が自らの消滅を『やがて来る未来』として捉えていたかということ。 神殺しの冒険に耽るふたりの英雄、思うままに世界を駆ける彼らは、真昼の箱庭で遊ぶ永遠の子供たち。 神の子は死を知らず、泥人形に命はない。 箱庭に落日はない、はずだった)
斜陽を浴びて微笑む人に、かつての苛烈さも全能の力ももはや無い。しかし彼は悔やまない。死を知ったから彼は生を愛している。命の限りが見えたことで彼の世界は広がった。有限の王は高らかに笑う。山の端の太陽の、最後に放つ眩い輝き。
絢爛たる終焉は、見る者の心に終わりの感傷を呼び起こす。晩夏の暮れに啼きあがるヒグラシ、大輪の花火は打ち上げられて火の粉と落ちる。衰えた神性と脆くなった肉体は彼が好んで纏った装飾。けれど人はみな彼を慕わずにはいられない。瑕疵あるものを好むのは、瑕疵ある人の性だから。
王様の横顔はいつも黄昏に染まっている。ここからは何も始まらない。やがて底なしの夜が来る。王様は満足げに瞳を閉じて、自らの瑕に口付ける。